喫茶『マヨイガ』
たとえば、仕事を終えて我が家に帰り着き、ガチャリとドアを開いた先に広がる光景が、レトロモダンな喫茶店のものだったなら。
それはあなたが喫茶『マヨイガ』に招かれたということなので、まずは席に着いてほしい。きっと自然とここだと思える席があることだろう。
そうして席に着き、メニュー表はないのかなどと周囲を見回してからテーブルに目を戻せば、そこには何らかの飲食物が置いてあることだろう。とても不可思議なことだが、不気味がらないでほしい。喫茶『マヨイガ』はそういうものだから。
その飲食物はきっと、あなたの思い出の品だったり、そのとき心から欲しているものだったりと様々だと思う。
喫茶『マヨイガ』で飲み食いをしても異界から帰れなくなる、なんて特典はついていないので、安心して口にしてほしい。それはあなたのために用意されたものだから。
喫茶『マヨイガ』にはどれだけいたっていいし、おかわりを望めばいくらでもあなたのための飲食物が出てくる。
けれど忘れないで。ここはかりそめに羽を休めるための場所。居着くことはできない。
きっとあなたは、また自然と喫茶『マヨイガ』を出たいと思うことだろう。
そのとき何かを持って帰りたいと思ったならば、その心に従うといい。机や椅子は備え付けだけれど、それ以外ならばあなたは何でも持ち帰っていい。思い出の料理を食べ終わったあとのお皿なんかだって。
そうして喫茶『マヨイガ』から出ていくとき、見送る声が聞こえるかもしれない。これも不気味がらないでいい。
喫茶『マヨイガ』から出ていく人を見送り声をかける――それが私の……喫茶『マヨイガ』のかりそめのオーナーの、唯一の仕事だから。
* * *
ガチャリとドアノブを回して開いたドアの先が、レトロモダンな喫茶店のものだったので、「ああ、今日はお客様が来るのか」と独りごちた。
この喫茶『マヨイガ』の仮オーナーになった日から、こんな不思議現象はしょっちゅう起こる。
中に立ち入れば、喫茶『マヨイガ』が何を望んでいるかもなんとなくわかる。
今日は窓を綺麗にしておいてほしいらしい。外の景色なんて映らない、淡い光が漏れるだけの窓を。
仮オーナーに否やはないので、いつの間にか足下に出現していた掃除道具で、せっせと窓を磨く。大きな窓ではないので、まあなんとかなった。
そうして掃除道具と共に奥に引っ込むと、掃除道具は消え、店内の明かりが少し暗くなった。今日はそういう雰囲気で行くらしい。
カウンターの奥で頬杖をついて、ぼんやり待つこと数分。
カランカランと音を立てて、喫茶『マヨイガ』の表口が開いた。
「いらっしゃいませ」は言わない。喫茶『マヨイガ』はそういうものだから。
入ってきた人物は、背が高くて、帽子を被っていて、さらにはサングラスにマスクまでした完全防備だった。
『お客様』からカウンター奥が見えないのをいいことに、じっくりと『不審』の一言に尽きるその風貌を眺める。
そのお客様は、戸惑うようにきょろきょろと店内を見回していたけれど、何かに導かれるように窓際の席に座った。
またきょろきょろと周囲を見回して、誰もいないことを確認してから、帽子とサングラスとマスクを取る。
そうしてさっき私がせっせと綺麗にした窓に映り込んだのは、私でも知っているような有名な俳優の顔だった。人気急上昇中の実力派若手俳優で、確か、つい先日真偽の不明なスキャンダルがすっぱ抜かれていた気がする。
なるほど、疲れた顔はそのせいかな、と思いながら眺めていると、いつの間にか机の上に出現していたマグカップに気付いて、お客様は肩をそびやかした。安心してほしい、これが喫茶『マヨイガ』の通常運転だ。
お客様は何度も何度も周りを見回して、やっぱり人がいないと確認してから、忽然と現れたマグカップに恐る恐る触れた。
ふわふわと湯気を立てるその中身は、ホットミルクらしい。なるほど、その目の下のクマを見るに眠れてなさそうなので、喫茶『マヨイガ』がそういうチョイスをしたのかもしれない。
一口、こくりとホットミルクを飲んだお客様は、ぽつりと呟いた。
「……母さんが作ってくれたやつに、似てる……。もう、ちゃんと思い出せないけど……」
ほほう、思い出の品でもあったわけか。
喫茶『マヨイガ』ではそういうことは珍しくない。
人の数だけ思い出があり、人の数だけ心を慰める品がある。そういうものを喫茶『マヨイガ』は提供するのだから。
お客様は大事そうに一口一口ホットミルクを飲んで、飲み終わった後少し眠そうに椅子にもたれかかり、そのまま目を閉じてしまった。
これもまた、喫茶『マヨイガ』ではありがちなことなので、私はのんびり、自宅にあるはずが突然手元に現れた本を読み始めた。今更これくらいで驚きはしない。
喫茶『マヨイガ』はオーナーの存在によって確立する。オーナーが不在であればお客様をお迎えできない。
私を仮オーナーに任命した人はそう言っていた。なので、お客様が喫茶『マヨイガ』を出て行かない限り、私も喫茶『マヨイガ』を出られない。
まあ、別にそれは支障がない。喫茶『マヨイガ』に入った瞬間から現世の時間は止まっていて、喫茶『マヨイガ』から出ない限り、それは動かないのだから。
お客様は小一時間ほど眠っていたけれど、ハッと目を覚まして、ここはどこだろうとでもいうようにまたきょろきょろと周囲を見回して、そうしてやっと、眠る前のことを思い出したようだった。
マグカップを両手で抱えて、「これのおかげかな……。頭、スッキリしてる」と呟く。
多分そのとおりですよ、お客様。喫茶『マヨイガ』で供される飲食物は、その人に活力を取り戻させることが多いので。
……という解説をすることもなく、お客様は空になったマグカップを大事そうに持っていた鞄に入れると、席を立った。
帽子もサングラスもマスクもせず、来たときよりも幾分かスッキリした表情で、軽やかに喫茶『マヨイガ』を出ていく。
私はその背に、「ありがとうございました。運がよければ、またのご来店を」と声をかける。
お客様は驚いて振り返ろうとしたけれど、その前に喫茶『マヨイガ』の扉は閉まった。
喫茶『マヨイガ』がもういいよと言うので、私も裏口から出て行くことにする。
その前に、お客様が飲んでいたものと同じホットミルクが供される。
マグカップを手に取って、一口。
やさしい甘みと、これはブランデーだろうか? わずかだがお酒が入っているような気がする。
ともかく、おいしい。やさしさが染み渡るような心地がする。
今夜はよく眠れそうだ、と思いながら飲み干して、流しへとマグカップを置く。
瞬く間に消えたマグカップを不思議に思うことなく、私は戸口へと足を向けた。
仮オーナーになって半年。不思議現象に慣れる程度には、この喫茶『マヨイガ』でお客様を迎えてきた。
しかししょせん私は仮オーナー。喫茶『マヨイガ』を十全に回せているとは言いがたい。
早くちゃんとしたオーナーが見つかるといいのにな、と思いながら扉を開けた先は、見慣れた我が家の玄関だった。
お読みいただきありがとうございました。
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