第9話 固く誓った
ある日、父不在のダイニングルームで兄妹揃って朝食を食べて終えた頃、それぞれに手紙が配られた。
俺宛ての手紙はリューテシアからのものだった。
いつもよりも宛名の字が汚い。
汚いというよりも、拙いというか、手が震えているような文字だった。
その理由は中身を開いてすぐに分かった。
俺は手紙を最後まで読み終えずに握りしめ、部屋を飛び出した。
「セバス! 僕の馬は走れる状態か!?」
「外出であれば、馬車を用意させます」
「そんな時間はない! 緊急事態なんだ! 今日は戻れないかもしれない。僕はファンドミーユ子爵家に向かう!」
転生して以来、こんなに声を荒げたのは初めてだ。
執事長のセバスチャンもこれは只事ではないと察したのか、すぐに道を開けてくれた。
馬小屋の管理をしてくれている使用人には退いてもらい、自分で愛馬の出発準備を整える。
すぐに相棒にまたがり、全速力でリューテシアの元へ急いだ。
ファンドミーユ子爵邸までは数時間かかる。
ここまで急いだのも初めてだ。
慣れてしまえば文明の利器がなくても生活に支障はないと思っていたが、今回ばかりは車か電車が欲しくなった。
1分でも1秒でも速く彼女の元にたどり着くために必死で鞭を打ち、振り落とされないように手綱を握った。
「失礼! ブルブラック伯爵家のウィルフリッドである! リューテシア殿に会わせていただきたい!」
馬から飛び降りた俺はファンドミーユ子爵の屋敷の玄関を叩き、声の限り叫んだ。
すぐに扉が開かれ、フットマンが顔を覗かせた。
「ウィルフリッド様!? お約束は聞いておりません。それにお嬢様は、今は……」
「突然の来訪は詫びる。ひと目でいいから、リューテシアに会いたい。彼女に僕が来たと伝えてください」
渋々と言った様子でフットマンが屋敷の奥に消え、しばらくして戻ってきた。
どうやら、ファンドミーユ子爵の許可を得てくれたらしい。
子爵への挨拶も早々に、案内された俺は息を切らしながら廊下を歩いた。
本当は立ち止まって深呼吸したい気分だ。でも、そんな時間すらも惜しい。
リューテシアの私室の扉をノックして、「僕だ」と声をかければ、すぐに開けてくれた。
部屋の灯りは灯っておらず、お香も焚かれていない。
まるで彼女の心を表しているようだった。
「突然、ごめん。でも、いてもたってもいられなくて」
俺はぐしゃぐしゃになった手紙を隠しもせずに、彼女の前で肩を弾ませた。
「そんなに慌てなくてもよろしいのに。息を整えてください」
「ちゃんと泣いたのか?」
「……手紙は濡れていなかったはずです」
「代わりにペン先は震えていた。泣きたい時は泣くべきだ。それだけを伝えに来た。お邪魔して悪かった」
アポなしで女性の部屋に長居するのは好ましくない。
退室しようとドアノブに手をかけた直後、背後からふわりと優しい匂いが香ってきた。
「……リ、リュシー?」
「泣いても構わないのですよね」
彼女の声は震えていた。
静まり返った部屋に聞こえるのは、彼女のすすり泣く声だけだ。
俺は意を決してリューテシアの方に体を向けた。
「僕の頼りない胸でよければ」
リューテシアは俺の腰に手を回し、胸に顔を押しつけて声を押し殺しながら涙を流した。
「ぅうっ。どうして、死んでしまったの……っ」
彼女を抱き締めるべきか悩んだ。
強く抱き締めれば、壊れてしまいそうな華奢な体が小刻みに震えている。
今の俺はできる限り力を込めずに、リューテシアの背中に手を回すだけで精一杯だった。
自分から泣けと言ったのに、なんて情けないんだ。
どれだけ剣術や魔術を習おうが、薬草の知識を身につけようが、泣いている婚約者に掛ける言葉の一つも見つけられない。
俺は無力だ。
「みっともない姿をお見せしてしまいました」
「そんなことはないよ。不謹慎だけど、リュシーは泣き顔も綺麗だ」
しばらく抱き合ってからそっと離れ、彼女の涙を拭って、部屋をあとにした。
「ウィルフリッド君」
玄関まで見送りに来てくれたリューテシアを部屋に帰したファンドミーユ子爵が俺を見下ろす。
俺は叱られるのだと思い、密かに歯を食いしばった。
「来てくれてありがとう。私たちでは、あの子の心の傷までは癒せない。あの吹っ切れた顔を見れて安心した」
「いえ、僕はなにも。彼女は自分の力で気持ちに折り合いをつけました」
「それでも、きっかけを与えてくれたのはきみだ。感謝してもしきれない」
そんな風に言われるとは思っていなかった。
俺は失礼を承知で行動を起こしたから、このことは父の耳にも入り、大目玉を食らうことを覚悟していた。
しかし、ファンドミーユ子爵は不問にするどころか、父にも良いように伝えてくれたらしく、お咎めはなかった。
あれからリューテシアの泣き顔が頭から離れない。
こんな何もできない俺の胸で泣いてくれる人を離したくない。
あの子を置いて破滅なんてしてたまるか。
たとえ破滅する未来が待っていたとしても、リューテシアとだけは絶対に離れない。この日、俺はそう心に誓った。