泣くものですか、復讐を果たすまでは。
夫が病に倒れた。
働き盛りの夫は持病もなく、青天のへきれきとも言うべきものだった。
ほうぼう手を尽くしたものの、夫の病状はゆるゆると悪化するばかり。侯爵家お抱えのお医者さまも今ではすっかり匙を投げてしまった。青白い顔でほとんど眠ってばかりいる夫に、厳めしい貴婦人と可愛らしいご令嬢がすがりついている。
「ああ、可愛い子。どうか目をあけてちょうだい」
「お兄さま、お願い、あたしを置いていかないで」
「お義母さま、落ち着いてください。せっかくお薬が効いているのですから、少しでも身体を休ませませんと」
「あなたに何がわかるというの!」
「そうよ、余所者は黙っていてちょうだい!」
姑いわく、自分たちが話しかけることで夫の意識を取り戻したいということらしいが、そもそも夫は落馬などで意識を失ったわけではない。病に侵され、生きる力そのものが失われている状態なのだ。それなのに耳元で大騒ぎされても、やかましくて疲れるばかりなのではないだろうか。
一応注意はしてみたが、私が何を言ったところで彼女たちは聞く耳を持たないだろうこともわかっている。もともと他領から嫁いできた私のことは最初から気に喰わなかったようだが、ここに来て明らかな嫁いびりが始まってしまった。まあ、夫が病に倒れていなかったところで、彼が姑たちから私を庇ってくれることもなかったに違いない。
「なんて冷血な女なのかしら。自分の夫が明日をも知れぬ身だというのに、涙ひとつ流さないなんて。こんな女だとわかっていれば、嫁になど迎え入れなかったものを」
「あたしなら、お兄さまが助かるなら自分の命だって差し出せるわ。自分勝手なあなたと違ってね。どうしてあたしがただの幼馴染で、こんな女が妻を名乗っているの。絶対に許せない!」
「……さようでございますか」
義母が不愉快さを隠そうともせずに扇を打ち鳴らせば、隣のご令嬢も親の仇のような顔で私をにらんでくる。お兄さまと呼んではいるものの、彼女は夫の実妹ではない。妹のように可愛がっていた、幼馴染だ。夫だけではなく、姑とも大層仲が良いらしい。まったくもって、迷惑な話だ。
それならばいっそ彼女が夫と結婚すればよかっただろうにというのが、私の嘘偽りない本音である。けれど、そのことを一度ぽろりとこぼしたところ、姑に酷く叱責されてしまった。それ以降すっかり懲りた私はこの話題を出したことはない。
***
これ以上こちらに矛先が向く前に、薬の準備をしてしまおう。お医者さまが気休めとして処方してくれている薬湯は、抽出に手間がかかる。魔法を使わずに煮詰めねばならず、気を抜くとひどいえぐみで飲めたものではなくなってしまうのだ。
使用人に任せてみたことはあるが、むせるばかりで夫が飲むことのできるものは仕上がらなかった。仕方なく、私が用意しているのだが、そのこともまた姑たちにしてみれば、使用人風情と同じ仕事をしているということで物笑いの種らしい。
自分たちの大切なひとを生かすための薬を作ってくれる相手を貶める。私にはできない発想にいっそ感心してしまう。命を差し出すほど大切な相手のためなら、煎じる際に生じる煤や臭気にだって耐えてみせればよいのに。そういった気概は見せてもらえないのが残念でならない。
一仕事終えて夫の寝室に戻ってくれば、怒り心頭の姑たちと目があった。彼女たちが握りしめているものを見て得心する。なるほど、勝手に私の部屋に入り込みいろいろと漁ってきたらしい。鬼の首をとったような幼馴染の表情に、思わず嫌悪感を覚えた。こうなることくらい予想していたとはいえ、それでもやはり他人に私物を荒らされるのは気分が悪い。使用人に言いつけて、掃除をさせておこう。
「これは一体何かしら」
「何と聞かれましても、見たままのものでございます。嫁入りの際に喪服を仕立ててもらうことは、何もおかしくはないことでしょう」
浮気の証拠でも押さえたかのように、高々とドレスを持ち上げられて頭が痛くなった。どこから説明をするべきなのか。いや、彼女たちに説明をしたところで聞き入れられないだろう。今ここに必要なのは、理由ではなく、彼女たちに話を聞かせるための権威、あるいは権力なのだ。
「なんて縁起が悪いのかしら! 結婚してすぐ喪服が必要になると知っていたみたいね」
「言いがかりでございます」
「それにこの喪服、クローゼットから出されていたわ。まるで今すぐにでも着ることができるようにみたい。やっぱりお兄さまのご病気も、この女が呪いをかけたに違いないわ!」
「まあ、なんてことなの。あなた、恥を知りなさい!」
いくら私のことが嫌いだからと言って、ここまで責め立てられるいわれはない。この調子では、万が一夫が亡くなった際に喪主でも務めようものなら闇討ちされてしまうかもしれない。何かあれば、葬儀は全部舅と姑に任せた方がよさそうだ。
「なんとか言ったらどうなの!」
その直後頬が熱を持ったのは、姑に強く打たれたからなのだろう。それは私にとって、合図のようなものだった。窓の外では、ちょうどタイミングよく馬車が止まる音が聞こえる。さあ、戦いの始まりだ。
***
使用人がゆっくりと扉を開けた。遠方の視察に出かけていた舅が、ようやく屋敷に戻ってきたのだ。姑たちの意識がそちらに向いた瞬間、私は叫んだ。これ見よがしに頬を押さえてみせる。
「酷い、どうしてそんなことをおっしゃるのです。私が旦那さまのことを呪うはずがないではありませんか!」
日頃私は、どれだけ酷く罵られようとも淡々と過ごしている。喜怒哀楽をできるだけ顔に出さないようにしていれば、彼らは躍起になって私の感情を揺さぶろうとしてきた。だから、義母は普通の女性ならば耐えられないほどの力で私の頬を叩いたのだろう。魔術付与された状態で攻撃されたのだ、ぼんやりしていれば骨にひびが入っていたかもしれない。
「頬が赤く腫れている……。素手の男に殴られたよりも酷い。見損なったぞ」
「だってこの子が、喪服なんてものを用意しているのです。まったく縁起でもない。悲しむ素振りも見せないなんて、そもそもこの結婚は財産目当てではないの?」
「そうよ、そうよ」
今度は姑の頬が赤く腫れていた。舅による鉄拳制裁が入ったのだ。目を白黒させる姑に、私は言い募った。
「こちらでは珍しいことかもしれませんが、私の実家付近では、大切なひとが亡くなりそうになったら、あえて喪服をすぐ使えるように準備しておくのです。厄除けの一種ですわ」
「そんな風習、聞いたこともないわ」
「そもそもこちらの家に望まれて嫁いできたというのに、こんな仕打ちはあんまりではありませんか! 私は、夫の死など望みません! まだ死ぬには早すぎます!」
あなた方の望みのために、婚約解消までしたのにという言外の叫びは、舅にはしっかり届いたようだった。顔を覆ったまま叫ぶ私の背中を、舅が震える手でそっとさすってくれた。
***
そもそも私には、夫ではない婚約者がいた。幼い頃からの婚約だったが、私たちは相思相愛だったと自信を持って言える。それにもかかわらず、婚礼を半年後に控えたある日、私と彼との婚約は急遽解消された。今の夫との縁談が持ち上がったためだ。
夫には別に婚約者がいたが、あちらこちらに愛人を作ったせいで愛想を尽かされてしまったらしい。同じ家格のご令嬢相手に、正妻の内向きの仕事は全部任せるが、茶会や夜会は自分が選んだ妾に任せると言われて、唯々諾々と従うはずがないということになぜ気が付かないのか。まったく理解ができない。
年齢的にも周囲は婚約者がいるものか、既婚者ばかり。業を煮やした彼らは、とんでもない暴挙に出た。分家の嫡男の婚約者を召し上げることにしたのである。その気の毒な分家の嫡男こそが、私のかつての婚約者だった。
元婚約者の実家は、夫たちの要求をはねのけることができなかった。何せ夫たちは本家筋の人間なのだ。どんなに理不尽な要求であっても、本家の血筋を途絶えさせないためだと言われれば無理が通ってしまう。
夫の祖父母は、私の祖父母とも顔見知りであったらしく、そちらの方面からも拒絶することは難しかった。その上、さらに悪いことは続く。彼は私と結婚した上で家を継ぐ予定にしていたのだったが、婚約が解消となったせいで、仕事を探さねばならなくなった。当主となるどころか、弟に継承権を譲り、家を出なければならなくなったのだ。ようやっと見つかった雇用先を聞いた時、怒りで目の前が赤く染まったことを今でもよく覚えている。
元婚約者には魔力がなかった。どんなに容姿端麗で、賢く、人柄が良くても、魔力がなければ貴族としては半人前。よほど特別な事情がなければ、家を継ぐことはかなわない。私の魔力があまりに多く、魔力なしの彼でなければ中和できなかったからこそ、私たちの結婚は祝福されたというのに。
「奥さま、どうぞこれを」
「助かるわ。わざわざ井戸の水で冷やしてくれたのね」
使用人が、冷たいハンカチを差し出してきた。手がすっかり赤くなっている。彼は魔法を使えない。この屋敷の水道は魔力を通さねば使えないため、彼のような魔力なしのために汲み置きの水も用意されている。けれど、それらの水なら室温なのだ。わたしのために、この寒い中井戸の水を汲みに行ってくれたのだろう。そのことが何より嬉しい。
貴婦人は、使用人にみだりに礼など言わない。「ありがとう」という言葉さえ、今はあなたに届けられない。
指先が触れることさえ許されないまま、ハンカチを受け取る。頬を冷やしながら下を向いた。前なんて向いていられない。泣いてはいけない。涙を流すにはまだ早い。私はぐっと唇を噛みしめた。
***
とうとう夫は、目を覚まさなくなった。それでも私は、毎日の日課として薬湯を作る。その日も朝から薬湯を煎じ、部屋に戻ると模様替えが行われていた。何が楽しいのか、夫の幼馴染が高笑いをしている。
「これは、一体?」
「ふふふ、あたしにはあなたにできないことができるのよ。あなたのおまじないよりも、あたしのおまじないのほうがずっと強力だってことを証明してみせるわ」
「何を言っているのです?」
夫の寝台は、なぜか今までの位置とは逆さまに設置されていた。つまり、枕側に足、足側に枕が置かれているのだ。不自然なことこの上ない。こんなことをして、彼女は一体何を望んでいるのだろう。
「どうせ模様替えをするのであれば、全体を整えた方がよかったのでは。寝台の向きだけ変えても、違和感しかありませんよ」
「大事なのは、寝台の向きだからこれでいいのよ。ふん、あなたは何も知らないんだから」
「まあ確かに私はもの知らずかもしれませんが……」
「待っていなさい。あたしの愛の力で、お兄さまを目覚めさせてみせるわ。そして真実の愛で結ばれたあたしとお兄さまは、今度こそ正式な夫婦になるのよ!」
よくわからないことを叫びながら、彼女は上機嫌で外に出ていった。このまま街へ買い物に出かけるらしい。死にかけている病人を放って、ドレスなどを買いに行くなんて正気なのだろうか。
だが、彼女の思考回路は私に理解できないものであることは確かなのだ。放っておくことにする。ちらりと視界の端で何か黒い影が横切ったような気がしたが、たぶん目が疲れているのだろう。
溜まっていた書類仕事を片付けていると、どうにも部屋の外が騒がしいのに気が付いた。屋敷の使用人たちの様子がおかしい。目についた彼を呼び止めて話を聞くと、何やら大通りで事故が起きたのだと言う。
「大通りで事故があったそうなのです。警邏ややじうまがつめかけていて、そこら中にひとが溢れているのだとか」
「まあ、大通りで事故だなんて。怖いわ。暴れ馬でもいたのかしら」
「突然、大通りに若い女性が飛び出してきたのだそうです。ちょうど貴族用の馬車が横断している最中で、はねられてそのまま……」
「そう。お気の毒なことだわ。それにしても一体どうしたのでしょうね。馬車にはよくよく気を付けるように、日頃からみんな言われていると思うのだけれど」
「それが何かに追いかけられているような様子だったと。助けてと言いながら飛び出して行ったそうなので、警邏が事件性も視野に捜索をしているようです。奥さま、どうぞしばらくは外出をお控えください」
「まあ怖い。わかったわ。屋敷の中で、おとなしくしているわね」
その時、お医者さまが私の元へ駆け寄ってきた。
「奇跡だ!」
舅と姑が互いに抱き合っている。なんと夫の意識が戻ったらしい。まったく、悪運の強い男だ。小さく口角を上げれば、一瞬、身体が凍りつきそうなほどの冷たい風が私の首筋を通り過ぎていく。ごろごろという音が聞こえた気がした。
***
「本日はいつ頃お戻りになる予定でしょうか」
「遅くなりそうだから、先に休んでいてくれ。食事も外で済ませてくるよ」
「旦那さま。御無事だったとはいえ、病に倒れられたのは事実でございます。無理はしないでくださいまし。旦那さまに何かあったら、私、泣いてしまいます」
「わかっているよ。じゃあ、出かけてくるよ」
「どうぞ気を付けていってらっしゃいませ」
使用人とともに頭を下げて、出仕する夫を見送る。夫の足取りははつらつとしていて、お医者さまも匙を投げたほどの病に侵されていた人間にはとても見えない。寂しさや悲しさを感じさせる様子だって微塵もなく、幼馴染の彼女など最初から存在していなかったのように賑やかな毎日をお過ごしのようだ。
おかわいそうな幼馴染さん。自分の命を差し出してまで、旦那さまのことを助けたというのに、元気になった旦那さまは、彼女の献身など知りもしないまま、別の女たちに甘い言葉をささやくのね。
幼馴染の彼女が行ったのもまた、私と同じような呪いの一種だ。弱っている病人や怪我人の元には、死神がやってくるのだという。枕元にいれば諦めるより他に方法はないが、足元にいれば追い払うことができるのだとか。
だからこそ彼女は使用人に命じてベッドの位置を変えさせたのだ。頭と足の位置を入れ替えることができたなら、伝承通り足元にいる形になる死神を追い払うことができるのだと信じて。
それにしても、どうして彼女はあの呪いを知っていたのかしら。あの呪いはもともと、こちらの領地ではなく、私の実家付近のほうでよく知られているものなのに。まあ私の実家辺りでは、決してやってはいけない呪いであり、教訓めいたお伽噺として広く浸透しているものなのだけれど。
あの呪いを知っていたのに、彼女は自分がどんな未来を辿るかなんてまるで知らないみたいだった。あの呪いの効果だけ知っていて、恐ろしい呪いの部分を知らないなんてことあり得るのかしら。ああ、でも彼女は、彼のためなら命を差し出せるのだと言い切っていたからやっぱりあれでよかったのかもしれないわね。
幼馴染の彼女が行った呪いは私の地元では有名だけれど、実際に試みようとするひとはそう多くはない。だって、死神はそこまで愚かではないのだ。騙された振りをして一度は引いてくれるけれど、代わりに自分を騙そうとした人間の魂をもらっていく。死にかけた大切なひとの代わりに、術者は死んでしまうのだから。
「あら、黒猫さん。今日はそこにいたの。旦那さまの周りをうかつにうろうろしていると、踏んづけられてしまうわよ。あの方、酷い粗忽者なのだから」
にゃうと声を上げて、黒猫が私の足に身体をこすりつけていた。ブラッシングが大好きでつやつやのピカピカなせいか、この子はしょっちゅうお屋敷のどこにいるのかわからなくなる。ふと気が付くと、金色の双眸だけが浮かんでいて驚くばかりだ。誰が拾ってきたのか、いつの間にか住み着いたのか。
黙認されているらしく、誰もこの子のことは口に出さない。もしかしたら、大奥さまが猫嫌いなのかもしれない。あり得ない話ではないだろう。
そういえば黒猫は死神の化身だなんて言われることもあるけれど、本当なのかしら。時々、何もないのに宙を見上げている黒猫のことが少しだけ気になった。
「ねえ、黒猫さん。もしもあなたが死神の化身だったとしても、私はちっともかまわないけれど。幼馴染さんや旦那さま、お義母さまの魂なんて食べてはダメよ。お腹の中が真っ黒になって、腹黒とお馬鹿さんがうつってしまうわ」
なう。私の話などどこ吹く風で、たたたっと黒猫が走り出した。門から脱走しようとしたところで、タイミングよく通りかかった使用人に捕まえられる。黒猫を優しく抱っこする彼の指先が、私の手にそっと触れた。それだけで、私は満足だ。
「もう、黒猫さんったら。急に走り出してはダメじゃない。捕まえてくれて助かったわ」
「とんでもないことでございます」
「それにしても、今日はどうしてこんなところに?」
「大旦那さまから、最近は馬車の事故が多いのでよくよく注意するように言われていたのです。ネジが緩んでいたり、車軸に亀裂が入っていたりすることがあるかもしれないから、奥さまが馬車に乗る前にはしっかり点検するように言われておりました」
彼の言葉に、私はうなずいた。なるほど、お義父さまもとうとうお決めになったのだろう。
今朝、旦那さまはいつもよりも少しだけ遅く家を出た。出発直前に、私が旦那さまの上着のほつれを見つけてしまったからだ。外出前の慌ただしい時間であり、上着を着たまま繕わせてもらったのだが……。これを知れば、きっと姑は泣き叫ぶのだろう。出かける直前の針仕事うんぬんで旦那さまが殺せるのなら、とっくの昔に彼は死んでいるだろうに。
遅刻ぎりぎりになるけれど、前々から約束していた愛人に会うためにとあるお屋敷によるはずだ。薔薇の植え込みが美しい大通りにほど近いお屋敷。無理をして急がせた馬車にはきっと大きな負荷がかかることだろう。
そういえばあの辺りは、幼馴染さんが亡くなった事故現場にほど近い。彼女が亡くなってから怖いくらいに事故が起きるのは、見通しの悪さが原因のはず。旦那さまの馬車はしっかり者の御者がついているし、大丈夫だろう。突然、車輪が外れたりしなければ、そこで血まみれの女性の幽霊を見たと御者が騒いでいるのを聞いて、慌てて馬車から飛び降りたりしなければ、まったく問題はないはずなのだ。
ねえ、旦那さまにお義母さま。今度はちゃんと私、綺麗に泣いてみせますわ。とるものもとりあえず、旦那さまの元に駆けつけるから心配しないでくださいまし。気が動転して何も持たないまま屋敷を飛び出してしまい、遅くなるかもしれませんが。お金どころか身分を証明するものも持っていないせいで、病院で治療してもらうこともできないかもしれませんが、仕方ありませんわよね?
「奥さま、お身体が冷えますよ」
「大丈夫。もう少しだけ、ここにいさせて」
「ですが」
「お願い」
先日、お義父さまにお話を伺った。元婚約者は、旦那さまの異母弟なのだそうだ。それを隠すために、こっそりと分家に養子として出したらしい。これは姑も知らないことなのだという。
けれど、旦那さまが病を得て、後継を作ることが難しくなってしまったことが判明した。このことは姑も知っているが、断固として認めようとはしないらしい。
そのため、元婚約者を後継ぎとして迎え入れる準備を始めたのだそうだ。そして、未亡人になる私には申し訳ないが、再び元婚約者に嫁いでもらいたいという打診を受けた。ああ、良かった。旦那さまが早死にしないように、たくさんの根回しを頑張って本当に良かった。
使用人たちは困惑することだろう。今まで同僚だった人間が、急に自分たちの主人になるのだ。魔力なしだと彼を見下していたお義母さまや使用人たちがどんな反応をするのか。今から本当に楽しみだ。
身体の中に渦巻く腹黒さは見ないふりをして、ただ愛しいひとのそばにいられる喜びに身を委ねた。
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