58話 本当に結婚しても良いのかな
朝。
昨夜に降った雨は過ぎ去り、朝日が眩しい。リボン付きの麦わら帽子を被ってきて正解だった。シュシュで髪を纏めたお陰で首元に風が吹き抜けている。
自宅からパン屋まで少しだけ歩く道路のあちこちで、朝日を反射する水溜まりを、私は敢えてジャンプして飛び越える。今日はスカートではなく動きやすいデニムパンツで、上は肌触りの良いリネンシャツだからだろう。いつもより体が軽く、心が躍っていて、何でもない所でも遊びたくなる。
今日は、檜並さんとのデートの日。
「あっ! 天羽さーん!」
「檜並さん!」
パン屋の前で待ち合わせの約束をしていた。早めに出た私よりも、檜並さんは先に着いていたようだ。ピカピカに磨かれた車の前で、檜並さんは手を振って、今日もお日様のように爽やかに笑う。
服装は、上が白色のビッグシルエットTシャツで、肩幅がゆったりと大きめ。でも、胸板や腕から筋肉の厚さは変わらず見える。
下は、黒色のスキニーパンツ。細く引き絞られたシルエットで、いつもより足が長く見える。
……もう少しじっくり見ていたいけど、デートが始まらないから、後でいっぱいチラ見しよう。
「遅くなりました」
「いえ、自分が早すぎました。朝からスッキリ起きれたので」
「ふふ、そんなに楽しみなんですね」
「はいっ! とっても!」
恥ずかしさもありながら、隠さず正直に豪快に言ってくれる。つられて私も笑顔になった。
◇◆◇◆◇
それから私は檜並さんの車に乗せてもらい、高速道路で1時間くらいの所にある、巨大なプールへ。学生だと行くのが困難な所でも、すんなりと来れる。デートの範囲が広がり、大人ってすごいんだなぁと改めて実感した。
それでも、やっぱり、水着に着替え終えて更衣室を出ると、童心が湧き上がる。
目の前に広がる大勢の楽しそうな歓声、海と見間違える波打つプール、巨大なバケツが上からひっくり返って滝のように水を落として水しぶきで真っ白に染める所も歓声が一際聞こえる。
人混みが想像以上で、いくら背が高くても檜並さんを見つけられそうにない。
「天羽さん!」
檜並さんの声が後ろから聞こえた。振り向くと───
「っ!」
思わず呼吸を忘れて見入ってしまった。
肌は小麦色に焼け、肩や胸の筋肉が盛り上がっている。腕は血管が浮き上がっていて、影になっている。腹筋は前も横も割れていて厚みがある。水着はシンプルにツヤのある純黒の海パン。足の方も……太い。
「天羽さん、似合ってます!」
「えっ、あ、あり、がとうございます」
筋肉美に見入っていた私は、檜並さんが白い歯で笑って褒めてくれた事に、少し遅れて反応してしまった。
そう、水着は、ビキニにした。白地に桃色のストライプ。胸下部分に大きなリボンとフリルが付いているデザイン。髪は後ろでお団子にしてある。
可愛い水着を選んだし、見て貰えた。でも……嫌らしい視線は感じない。むしろ私の方がジロジロ見過ぎている。これでは檜並さんに失礼だ。
「あれ、行きたいです!」
「良いですね! 勇気がありますね!」
私は、檜並さんの筋肉美に敢えてコメントしないで上の方を指差し、檜並さんの手を引いた。
勇気がありますね、という檜並さんの言葉に疑問に思いながらそこへ向かい、遅れて気付く。指差した所にあったのは、垂直に落ちるウォータースライダーだった。そして、誰かが滑り、「嫌だあああ」と、悲鳴のような叫びをあげ、滑るというより落ちていくのを見てしまった。
◇◆◇◆◇
そうして、人混みを掻い潜り、ウォータースライダーへと続く階段に到着してしまった。
「うおおおワクワクしてきたあああ!」
檜並さんは、たまたま楽しみにしてくれているけれど、もしそうじゃなかったら引かれていた。初デートで大失態をする所だった。
それと、私としては、ちょっと心の準備がしたい。久しぶりのプールで水に慣れてないし。でも、言い出したのは私だし、檜並さんがこんなに楽しみにしてるから、今更引き返せない。
「さぁ! 次の方どうぞ!」
なんて考えていると、ウォータースライダーの順番待ちが進み、乗り口が見えてくる。係員の人が説明をしてくれていた。
それによると、ここは60度の傾斜度で急降下するウォータースライダー。最高速度約60キロ。23mの高さから一気に滑りきる直線コース。身体がふわりと浮く……らしい。
「さぁ! 引き返すなら今です!」
「天羽さん、怖い?」
もちろん怖い。でも、いざ目の前にしても、体は震えていないし、心臓も普段通りのリズムで、引き返すほどの怖さではないと感じる。
……何となく、分かった。私は、もっともっと、死と隣り合わせの経験をしてきたからだ。信号機が倒れてきたり、ナイフを持った通り魔に首を狙われた時と比べたら、これくらいの怖さは平気なんだ。
ならば、このスリルを楽しもう。そう思って、私は檜並さんに微笑んだ。
「これくらい、平気です」
「なっ! そ、そんな笑顔で……あの、良かったら自分、先に滑っていいでしょうか!?」
慌てたように、檜並さんが提案してきた。
「構いませんけど、どうかしたんですか?」
「自分、先に下に行って、天羽さんが楽しそうにしている所を、この目で見たくなりました!」
「……ふふ、ふふふふ。そうなんですね」
檜並さんが可愛いと思えて、笑ってしまう。この人は、私と過ごす時間の一瞬一瞬を大切にしてくれるんだ。
……そんな檜並さんの楽しむ表情も、私は見たくなった。
「じゃあ、今回は檜並さんに譲ります。次は、私から先に滑りたいです」
「えっ!?」
「私も、見たいので」
「っ……は、はい! また滑りましょう!」
互いに微笑み合い、檜並さんは係員の誘導で、ウォータースライダーを躊躇なく滑っていく。
「ふぉおおおおおおお!」
檜並さんらしい、気分爽快な大声が聞こえた。
次は、私。
檜並さんが、下で待っている。
私も、止まる事なく、座ってすぐ落ちていった。
「ああああっわああああっはははははははは!」
───ザパアアアアアアアア
無重力な感じと、水と一緒に落ちる感覚。一瞬のうちにスライダーの下のプールへと着水。派手に水を弾け飛ばし、私は目に掛かった水を手で拭う。
目を開けると、檜並さんが、目の前に来て───
「天羽さんっ!」
私を、抱き締めた。
「え、あの」
「すみません、こうするしかないので」
「どういう」
「水着が取れてます」
「えっ!?」
言われてみれば、確かに、右手の辺りにビキニの紐が長く垂れている。という事は、檜並さんが抱き締めて隠してくれなかったら、私は大勢の人たちに裸を晒す事になっていたんだ。
恥ずかしい。顔が火照っているのが容易に感じるほどに。縮こまって固まってしまう。
「大丈夫です。もう少しで、人目につかない場所がありますんで」
でも、檜並さんはそう言って、抱き締めたままプールを歩いていく。
温かい。体もだけど、心も。包み込んで、守ってくれている。不安な気持ちがどんどん消えていって。
檜並さんの存在感が、私の中で大きくなっていった。
◇◆◇◆◇
その後、プールを楽しんだ私たち2人は、すぐ近くの花畑に行った。日が沈みかけ、風が涼しくなり、疲れもあって、その一角にある足湯を見つけた私たちは2人で浸かる。
「温まりますね」
「はい」
檜並さんから肩を寄せてきて、腕が触れ合う。私も、檜並さんの腕にもっと触れ合えるよう、ほんの少しの隙間を埋める。
足も、腕も、心も。温かい。
檜並さんと出会ってから、笑顔を忘れていた私は、自分らしく笑えるようになってきていると感じる。こんなに優しくて頼りがいがあって、一緒にいて安心感をくれる檜並さんに、もらってばかりだ。この温かさの、ありがとうの気持ちを伝えていきたい。私からも支えてあげたい。……そうして互いが互いにありがとうを伝え合っていって、いつかきっと、彼のように、かけがえの無い存在になっていくのだろう。
そう思っていると。
「天羽さん。俺と……」
寄り添い合ったまま、目と目が合う。真剣に、頬を染めて───
「結婚を前提に、付き合って下さい」
檜並さんから。先に言われた。
プロポーズ。
未来を支え合い、笑い合い、共に過ごしていく、唯一で特別な関係性。
……結婚、するんだ、私は。
ああ、やっぱりなんだ。ここから、彼が教えてくれた幸せな未来が始まろうとしているんだ。彼の言っていた通りに、私は幸せに……。
……幸せに。
「あの……少し、心の準備で、時間が欲しいです」
「えっ……だ、駄目でしょうか」
「そうじゃないです。すごく、嬉しいです」
「っ! じゃあ、でも、何で……」
「その……結婚について報告したい人がいるんです。その後で、お返事を」
私の目を見て、檜並さんは頷き。
「分かりました。いつでも、待ちます!」
前向きな検討というのが伝わったようで。檜並さんは笑ってくれた。
◇◆◇◆◇
後日。私は一人歩く。
本当なら、すぐにでも、宜しくお願いしますと言いたかったし、その後ももう少し一緒にいられる所でデートの続きもしたかった。
でも、脳裏に浮かんだのが、彼。別れてから、今でも、ずっと話したいと思っていた。この先の私たち2人の未来が決まるこのタイミングが、最後の最後に話せるチャンス。
ねぇ、駆馬くん。
私は、あなたじゃない他の人を……檜並さんを好きになって、本当に結婚しても良いのかな。
駆馬くんは、今、幸せなのかな。私じゃない他の人を好きになっているのかな。
止まない疑問の嵐を抱えながら、ふと見上げる。
当時と変わらない駆馬くんの家に、私は到着した。
呼吸を整え、呼び鈴を押す。すると、駆馬くんのママさんが出てきてくれた。
「あら、花恵ちゃん? 久しぶり! 大きくなったわね!」
「はい、お久しぶりです。突然すみません、実は、駆馬くんにお話があって……」
私が言うと。ママさんの笑顔が暗くなる。
「ごめんね、ちょっとそれは出来なくて。伝言があれば伝えとくけど、いつ返事が出来るかも分からないわ」
「どういう……事ですか?」
「………………」
ママさんが、言葉に詰まっている。
あまり積極的に会えそうにないようだ。受け入れよう。別れたのだから、これが普通だ。
「ごめんなさい。急に。別れたのに勝手を言ってるのは承知しています。でも、1回だけでいいんです。会わせて下さい」
そう言って頭を下げる。すると……。
「違うの。会わせてあげたいけど、出来ないのよ」
「……え?」
「駆馬はね、入院してるの」
「えっ!? ど、どこかケガとか病気を?」
「ううん、そういうのは無いの。そうじゃないけどね……信じられないと思うけど、びっくりしないで聞いて」
「……はい」
ママさんは、小さく、言った。
「駆馬ね、原因不明で、もう2ヶ月は眠ったままなの」




