5話 アップルパイ
ややあって。
お母さんに手を振って見送られ、車が発進した。発進して、すぐに思考停止してしまった。どうしよう。超至近距離で、天羽さんからラベンダーっぽいシャンプーの香りが、僕の鼻を優しく包む。普段の学校では、ここまで至近距離で香りを独り占めするのは不可能だった。良くて、すれ違いざまに一瞬だけ。しかし今は、嗅ぎ放題。まさに最高級レストランのビュッフェさながらの極上のおもてなし。なるほど、お礼がしたいというのは、この香りの事なんだね、天羽さん。
「あ、あのね」
「ありがとう。最高です」
「え?」
「…え」
しまったぁぁ! つい心の声がこぼれたぁぁ! 香りをありがとうとか普通にキモいだろうがぁぁ! それに、言葉を遮っちゃったぁぁ! 天羽さんを困らせちゃったぁぁ! 何とか会話を繋げないと!
「その……学校まで送ってくれて、ありがとう。乗り心地、最高です、はい」
「ふふっ。ふふふふっ」
何故でしょう。クスクス笑ってらっしゃる。
「お礼、先に言われちゃった」
「あっ...」
「いいよ。どういたしまして。車はね、パパが提案したの。昨日のあの交差点が工事してるから、他の安全そうな道を確かめる事も兼ねて、ね。でね、石上くんも一緒に行くのはどうかな、って、私思ったんだ」
「...マ?」
「あ、石上くんの都合とかあれば、そっちを優先してもらっても…」
「大丈夫です! お父様、ありがとうございます!」
「はっはっは! 任せたまえ!」
っしゃああああ! 何たる幸せ! お父様グッジョブ!
…と、叫ぶのは心の中だけで、あくまでも冷静になれ、僕よ。
「良かった。これで......ゆっくりお話出来る」
と。天羽さんがより一層落ち着いた声になる。ふと見ると、僕と天羽の視線が重なった。黒い真珠のような瞳で、綺麗だな…なんて思っていると。天羽さんは目尻を細めて僕に微笑んでくれた。
「石上くん。昨日は、本当に本当にありがとう。私を守ってくれて。安全な所に運んでくれて。大丈夫って言ってくれて。さすってくれて。すっごく元気をくれて。もう、何回言っても足りないくらい、ありがとうって思ってるよ」
ゆっくり。一言一言。思っている事を頑張って言葉にしてくれているのは、容易に分かった。それほどに、心で感じている事を言葉にして僕に伝えたかったのだろう。
だからこそ、言い切った後の今の方が、天羽さんの笑顔が増して、白い前歯がチラリと見えている。
…。
微妙な刹那。耳に掛かっていた栗色の長い髪がサラリと垂れる。お互い何も言わず目を合わせる。今は、僕が返事する番。この笑顔に笑顔で応えるべき。そんな事は分かっている。なのに、僕は目を下に逸らしてしまう。
ちっとも誇る気になれない。
天羽さんのお父様に感謝された時もそんな感じだった。
お母さんに褒められた時も同じ感覚だった。
今思えば、左手薬指の爪を見てから、ずっと気分が重い。
…ああ、そういう事か。
まだ終わってないんだ。
「あっ、あとね、お礼に、これも。あれからお菓子を作ったんだけど、どうかな? あ、あのね、学校で渡すと皆に見られるから、ちょっと恥ずかしくて...ね...」
天羽さんが、鞄から正方形の桐箱を取り出す。両手の上に乗るような小ささだ。
受け取り、蓋を開けると、こんがりと焼き目の付いたパンが9個入っていた。縦3個、横3個で可愛く整列している。そのどれも1口サイズに小さい円形で、表面は光沢感のある艶がある。ほんのりとリンゴの甘い香りが鼻をくすぐる。これ、もしかして…
「アップルパイ?」
「正解! よく分かったね!」
「香りで分かったよ。すごい美味しそう。でも、本当に僕が食べていいの?」
「うん。石上くんに食べて欲しい」
「っ!?」
僕に食べて欲しい。
そう聞いた瞬間、僕はほろりと笑みが出る。天羽さんが、僕の為に手作りしてくれた。やばい。嬉しすぎて、もうこのまま走り出して車より先に学校まで行けそうな気分だ。お父様、車を出して下さったのに、すみません。
「えへへ、嬉しそうで良かった! 食べて食べて!」
「うん。じゃ、お言葉に甘えて、一口頂きます」
「どうぞ!」
いざ実食。
潰れないよう、優しく摘み、口に入れる。…瞬間、サクッと生地が崩れ、リンゴとシナモン、遅れてアーモンドの風味が口いっぱいに広がる。この1口サイズで全て完結している。なるほど、車の中で食べやすい事も考えて、この小ささなのか。天羽さん、なんて優しくて料理上手なんだ。将来はスゴいパン職人になるぞ。オープン初日から毎日行かねば。
「これ、むっっちゃ美味しいよ」
「良かった! ふふふ! まだあるからね! ゆっくり味わってね! ふふふふっ!」
僕の反応に天羽さんが笑う。その笑顔を見て、ふと思い出す。
あなたの笑顔、守りたい。
「…」
1口アップルパイをもう一つ取り、眺めつつ、そのまま視界に入る左手薬指の爪に視点を移す。そこに書いてあるのは…
8d
つまり、8 day。8日後、天羽さんに再び危機が訪れる。
勿論、そんな事させない。16歳で人生が終わるなんて……あまりにも早すぎる。
でも、天羽さんに言えるだろうか。8日後に死ぬから気を付けて……って? そんな悲しい未来を言って、信じるか? 信じたとしても、学校に行ったり友達と遊んだりするのを普段通りに出来るか? いや、出来る訳がない。家に閉じ篭もるし、笑顔が暗くなる。
……嫌だ。僕は、天羽さんの純粋無垢な笑顔が見たい。だから、正直に全部言うのは違う気がする。
じゃあ、何て言えばいいんだろう。何を伝えればいいんだろう。まだ僕は、肝心の8日後に何が起こるのかを知らない。白黒の世界を見る方法が分からない。もしかしたら直前にしか見えない可能性もある。だとすれば昨日のように僕だって危ない事をするかもしれない。お母さんに、もっと心配させるかもしれない。
つまり、今、僕の取るべき最善策は…。
「石上くん?」
言われて気付く。僕は俯いていたようだ。
「元気ない顔してた」
「そんなに?」
「うん。何か難しい事を考えてるかな、って感じた。違ってたらごめんね」
「……………ううん、合ってる。色々考えてた。でも、もう解決したよ」
「そう? なら良かった」
「うん。……ねぇ、天羽さん」
「何?」
言おう。そう思った時。
天羽さんと、再び目が合う。小首を傾げると、栗色の長い髪が横に垂れ、耳が隠れる。その所作に見蕩れる自分に、改めて思う。
天羽さんは美しい。見るたび心が満たされる。つい昨日までは、天羽さんの正面から顔を見たいと思ってた。名前を呼ばれたいとか、髪を撫でてみたいなんて思ってた。けれど、昨日の時点でその願いはどれも叶っている。こんな幸せを、終わらせたくない。明日も、明後日も、8日後も、もっともっと先も、僕は続けていきたい。だから……。
「また……一緒に……帰ろ?」
ああ。
あああ。
言えた。目を合わせてしっかり伝えられた。
頭から湯気が出てるんじゃないかと思うくらい、熱い。
それでも、僕は目を合わせ続ける。恥ずかしいけど、ずっと伝えたかった事だから。
「石上くん」
天羽さんの白い歯が、見えた。
「うんっ!」
そう言った天羽さんが、眩しく微笑む。髪が朝日に照らされる。その後光は、まるで、迷える子羊を抱きしめる聖母のよう。
ああ、やっぱり美しい。
1枚の絵を、僕1人だけが堪能できる。
今までは遠くから眺める事しか出来なかった。でも、それは昨日まで。これからはもっと近くで見れる。僕を、見てくれる。
昨日の僕から、進むんだ。
…天羽さん。
僕は、死神の決めた運命にだって、何度でも立ち向かう。天羽さんの笑顔のためなら、何度でも。
◆◇◆◇◆
「あっ!? 石上くん、そろそろ学校に着くよ」
「っ!? やばい。持ってったら皆に見られる。特に片桐は、すぐ気付くし茶化してくる!」
「そうなんだ! 片桐くんには気を付けないと!」
「そう! だからもう急いで食べちゃうね! ……くうぅぅおいひい!」
「ふふっ、石上くん、ほっぺがカピバラざえもんみたい。ふふふふっ」