44話 いいや、死なせない
全てがスローモーションのようだ。
夢で何度も見た、帽子とマスクで顔を隠したその人物が、何を考えているか分からない目つきで、ナイフを持ってこちらに迫り来る。
花恵さんは、僕の右腕に抱き着いていて、苺谷さんの通話で携帯を落とした僕に心配の目線を向けている。通り魔が来ている事には全く気付いていない。今から説明する時間も無いし、逃げようにも人混みがあって逃げられない。
僕は、恐怖で全身が凍り付いているし、そのせいか舌がピリピリ痛い。スローモーションの感覚とはいえ、体が速く動かせる訳ではなく、むしろ固まっている。夢で一度腹に刺されて殺されているから当然だ。
……それでも。
僕は止まらない。どれだけ怖くて凍り付いても。最善を考える事を諦めないこの目と心だけは、絶対に屈しない。
この場で、この一瞬で、何とかするしかない。現時点で、何とか出来る護身術も無いし、都合のいい超能力なんて目覚める訳が無い。今持てる全ての選択肢で、花恵さんが死なず、僕も死なず、このナイフを食い止める方法は───
「おおおぉぉ!」
僕は恐怖を吹き飛ばすように、吐き切った肺から絞り出して渇いた叫びで全身を奮い立たせた。そして、ポケットから厚めの長財布を出し、突き出されるナイフを挟むようにして、左手で受ける。
「きゃあ!?」
「ぅぐっ!」
まずい。通り魔の勢いで、僕の右腕に抱き着いていた花恵さんが離れてよろめいた。
そして僕の方も。財布を少し貫通して、激しく痛みが走ってきた。同時に、通り魔が驚き、振り払おうとしてきた。もう左手は使えない。しかしこれだけは何としても放す訳にいかない。僕は右手で、その通り魔の右手ごと、全力で押さえつけた。
「ひゃああああ!?」
すると、その攻防に驚いた誰か知らない女性の叫び声が聞こえた。次第に周りから人が逃げていく。
僕は、通り魔の顔を見る。その目には、僕への怒りが滲んでいる。正直怖い。見たくない。けど、引く訳にはいかない。
「頼む……止めてくれ」
僕の訴えは……拒絶。通り魔は眼光鋭く、何かの憎しみをぶつけるように暴れてきた。反対の手で僕の右手、そして顔面を何度も引っ掻かれる。目が開かなくなり、更に不利に。ここで僕がナイフを放したら、花恵さんは死ぬ───いいや、死なせない。その一心で抑える! 守る!
「止めろ!」
そこへ、大人の男性の声が聞こえた。通り魔を後ろへ取り押さえたのか、僕に押し寄せていた力がフッと無くなった。
───カチャ
「確保! 無駄な抵抗はするな!」
手錠の掛かるような金属音がした。そこから、通り魔は観念したようで、じたばた暴れる音も無くなった。
その一連を聞いて、僕は気付けば息が上がっている事にようやく気付いた。どっと力が抜け、いつの間にか持っていたナイフと長財布が手から落ちる。
「石上くん! 遅れてすまなかった!」
「あ、あなたは?」
「文実ちゃんから聞いたよね? その探偵と、その助手だ!」
僕は、左目だけ薄くだけど開ける事が出来た。見ると、そこには細身のスーツ姿の男性の、探偵さんが立っていた。その奥には、腕っぷしの太い大柄のスーツ姿の男性の助手さんが、通り魔を地面に伏せさせて押さえていて、歯を見せて笑顔を僕に向けていた。この人達が、今日まで長い間ずっと僕らの幸せを守ってくれていたのか。
「ありがとうございます」
「礼はよしてくれ。ひとまず救助を呼ぶ。君は、あの辺りで待っていなさい」
「分かりました。お願いします」
そうして、探偵さんが屋台の裏の街路樹を指差し、人混みを掻き分けるように歩いていった。それに続くように、腕っぷしの太い人が通り魔の男を連行していった。
僕は、人通りの無いその街路樹に背中を預けて座り込む。
改めて痛みを確かめる。右の耳から顔にかけて引っ掻き傷。右目のまぶたが特にジンジン痛い。それと、左手の平はナイフが財布を貫通してヂクヂク痛い。右手の甲にも、引っ掻かれている。
……それでも。僕は、悔いは無い。
花恵さんに傷一つ付けず、守れたから。
「駆馬くん……」
ふと気付くと……花恵さんが、すぐ目の前で泣いていた。
「ごめんね、今、これしか無くて。屋台の人に貰った物だけど」
小さな絆創膏を、痛む所のあちこちに、何枚も貼る。傷が大きくとも、重ねて何度も。剥がれ落ちても、何度も。
「心配したよ。すごく…心配したんだよぉ…」
「心配かけてごめん」
「ううん…ごめんだなんて…謝らないで…ごめんね…つらいのは駆馬くんなのに…ごめ……無事で………」
花恵さんが、涙を拭う事なく、処置を続けながら、顔をくしゃくしゃにして泣く。
これ以上見てられない。
「花恵さん」
僕は、まだ痛くない方の右手で、花恵さんを包むように抱き寄せる。隙間をゼロにして密着させる。
「僕は大丈夫。花恵さんを守る為なら、どんなに怖い運命も、つらくない。乗り越えられる」
花恵さんが静まり、すんすんとすすり泣く。言葉を出せそうにないが、何か言いたげなのは何となく分かった。花恵さんが落ち着くまで、包んで、背中を撫でて、待ってていよう。
「なん…で?」
どうにか声を出せたようだ。
「なんで……まもる…の?」
その問い掛けは……前にも似たような時があったっけ。相合傘をした日。僕が代わりにずぶ濡れになって、それでも笑っていた時に聞かれた事だ。あの時は、僕自身が上手く気持ちを言葉にしきれなかったから、話がそこで終わったと思う。
でも、今なら言える。……いや、本当は、最初から。花恵さんを一目見た時からずっと、心の奥底に答えはあった。
「あのね。花恵さんが笑うとね、胸の奥が温かくなって、つられて笑えるんだ。どれだけ見ても足りないくらい見ていられる。その、一瞬一瞬をずっと見ていたい。だから、何があっても守りたい。初めて会った時から、今でも。僕は、そんな花恵さんの事が 」
───ヒュー ドンドン!
そこまで言ったタイミングで、花火がどんどん連続で打ち上がり、頑張って出せた心の声を掻き消された。花恵さんにも、言った僕自身の耳にも、聞こえないくらいに、うるさく鳴り響く。いつもなら心に響いて心地良いのに、今だけは心に響いて来ないで頂きたいと自分勝手に思いながら、空を見上げる。
すると、花恵さんが、僕の背中にそっと触れて抱きついてきて、僕の肩に顔を埋める。この距離でもう一度聞き取ろうと? そう思ったけど、横顔を見て分かった。嬉しくて笑っていて、恥ずかしくて顔を隠している。
「 ん。 も だよ」
ぽつりと、この距離でも聞き取れない一言を言って、そして花恵さんは、柔らかい手で優しく擦ってくれた。
……多分、僕の名前を呼んで、さっきの僕の聞き取れた分の言葉に嬉しく思ってくれていて、それを体に触れて僕に伝えているんだと思う。肩に埋める乗せ具合や撫で方で、充分伝わってきた。
「 さん」
僕も、花恵さんの背中を擦る。浴衣の帯を崩さないよう、丁寧に丁寧に。
───ヒュー ドドン! ドドドン!
花火が鳴り響く中、僕らに言葉のやり取りは無い。でも、確かに伝わっている。お互いの、一緒にいたいという想いを。これほど幸せで欲張りな事をしていいのかと遠慮が頭をよぎるが、その気持ちを少しだけ残しつつ、僕はこの女の子を優しく独り占めしたいと思って。もう少し、もう少し近く。そんな思いに忠実に、僕は抱き締めた。




