32話 はい頂きます
……静かだ。ただ聞こえるのは、掛け時計の秒針の音と、パズルを合わせようとしてテーブルの上で擦れる音と、たまにパチッとはまる音と……僕と天羽さんの深い呼吸の音だけ。
この部屋から香るのは、ラベンダーのシャンプーの香りでも、パンの香りでもない、何に例えたらいいか分からないけど自己主張の少ない控えめな香り。この部屋全体が、僕をここに居て良いのだと包み込んでくれているような、心地良い香り。……このジグソーパズルが終わるまでの特別な時間だ。今のうちにたっぷり堪能……待て、何を考えているんだ。そんな事はないんだ。また次も、仲良くなってここに入っていけば……待て待て、それこそ何を考えているんだ。敢えてここで遊ぶ必要は無い。ここは人を招くためには使われていない。たまたま今日は綺麗だっただけですぐに入る事が出来たけど、そんなに何度も入ろうものなら、天羽さんはどこに下着を脱ぎ散らかせばいいのだ…………待て待て待て。さらに酷くなっている。れれれ冷静になれ。
「石上くん?」
「はいっ!」
「っ! ど、どうしたの? 何だか、息が荒いから、疲れちゃったのかなって」
「大丈夫だよ! むしろ元気!」
「そ、そう? ならいいけど」
「……天羽さんは、パンをたくさん作ったし、疲れてない?」
「う〜ん……疲れてないと言ったら嘘になるよ。でも、何だろ……変なテンションになってる」
「ど、どうして?」
「……」
天羽さんが無言になる。
ふと見ると、天羽さんも僕を見ていたが、すぐに視線を外して、前髪で見えないようにして……
「……2人で、誰にも見つからないように、隠れてるのが、ね」
最後の方はギリギリ聞こえるくらいに声が小さくなったけど、音の無い密室だから僕は聞き取れた。しかし、そんな細々とした声そのものが僕の心臓を高鳴らせる。
2人きり。密室。お父様に見つからないように隠れる。決して悪い事をしていない。むしろ善い事をしている。なのに、悪い事をしているような変な気分になる。
……まだ僕らは、付き合っていないのに。
「ごめんね。やっぱり休憩。お茶持ってくるよ」
「え? ああ、そうだね」
何故だか早足で、天羽さんは部屋を出て、トタトタと階段を降りていく。
……一人になり。パズルを組み立てる。
掛け時計の秒針の音を聞いて。目はパズルのピースを探すために動き続ける。……いや、敢えてピースだけを見るようにしている。視界の外にある、部屋のクローゼットには、絶対に視線すら合わせないように。それが、僕の出来うる限りの、天羽さんへの誠意だから。
───ガチャッ バタン
っ。今、扉の鍵が開いて、誰かが入ってきた音がかすかに聞こえた。お父様が帰ってくる時間までまだ余裕があるけど、早く仕事が終わったのだろう。
まずい。僕のバイトの時間はとっくに過ぎているし。娘の部屋で何をしているのか問い詰められる。……パズルが落ちたと正直に言っても事態は収束しないであろう。どうする、窓から出るか?
「石上くん」
天羽さんが、トレイを持ってお茶を持ってきてくれた。
「天羽さん。大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。パパ帰ってきたけど、それより前にね、お茶を取りに行った時にね、石上くんの靴を隠しておいたの! 傘立ての裏にあるからね。これでバレないよ!」
何故だろうか。天羽さんが、褒めてほしいと言わんばかりに元気に微笑む。その気付きはすごいけど、何だか、もっと深刻になっていそうな気がするのだが。
「あ。ごめんだけど、パパが帰ったから、もう晩ご飯作らなくちゃいけないの」
「え? 天羽さんが作ってるんだね」
「うん! 任されてるの! でも、そうなると石上くん一人でパズルやるし……帰りが遅くなるよ。さすがにそろそろ帰る?」
そろそろ帰らないとまずい。お父様に何て説明したらいいか分からなくなるくらい、まずい。分かっている。なのに。
「そろそろ……だけど、本当にあと少しで出来るんだ。たぶんご飯作ってる途中で終わる。天羽さん達がご飯食べてる時にこっそり帰る。それでどうかな?」
「それなら……うん。分かったよ。パパの為に、本当にありがとうね。無理しないでね」
「うん」
そうして、天羽さんと僕は手を振り合う。
そしてまた一人。すぐに集中。もう時間は無い。でも、パズルが組み上がるほど、ピースが減って正解率も上がるから、終わるまでの予測は出来る。あと、15分くらいだ。
「……うん?」
すると、部屋に卵の焼ける香りが。天羽さんが作っている夕食の香りだろう。
ああ、お父様、羨ましいな。いつも天羽さんの手料理を食べられて。まぁ、それが普通なんだろうけれど。羨ましいと思えてしまう。
ふと思う。僕が、天羽さんの手料理を食べられるような関係性は……と。
そう考えたら、妄想が広がってしまった。
……書斎のある部屋で、パソコン作業をしてるスーツ姿の僕に、エプロン姿の天羽さんがオムライスにハートを書いて持ってきてくれる。無理しないでね。ああ。とか言って微笑み合って………ああああああああああああああ幸せすぎるうううう!!
「これくらい大丈夫さ! 君の笑顔で、いくらでも力が湧いてくるから! とか言ったりして! とりゃあああああ!」
小声で、そんなアホな事を言いながらも、パズルを動かす手は止まらない。むしろ速くなっている。何故なら、もうピースは残りわずか。ピースの集合体を合わせていき、そして、最後の一つをはめ込む。
「出来た……」
白いアザレア畑の景色が美しい、ジグソーパズルが全て組み上がった。
それを額縁に入れて。あとは、吊るす紐が切れていてどうするのか。元の位置に戻すのは誰がやるか。そういった諸々は、天羽さんがやっていくはず。僕のやれる事はここまでだ。
さて、こっそり帰るか……と、立ち上がった時、誰かが階段をトタトタと上がってくる音が聞こえた。天羽さんだと分かる。夕食を作っている最中にどうしたのだろうか。
「石上くん。あ、もう出来たんだね! ありがとう! お疲れ様!」
「う、うん。それより、天羽さん、それは?」
部屋に入ってきた天羽は、ジグソーパズルを見て喜ぶ。対する僕は、天羽さんの持つオムライスを見て困惑。まさかとは思うが……
「良かったら食べる?」
「はい頂きます」
光の速さで姿勢良く座った。




