3話 交差点
それから。僕と片桐は天羽さんと歩いていく。コミュ力の高い片桐が天羽さんと雑談に花を咲かせる。
しかし、とある交差点で、ついに訪れる。
「じゃ、俺こっちだから」
「そっか! またね!」
左へ行く片桐。そう、片桐と僕はここで家路が分かれる。僕は直進。天羽さんは…
「石上くんも、こっち?」
「あ、う、うん」
「奇遇だね!」
「そう、だね、うん」
そう、同じ方向。前々から知っていて、予測できる状況だった。なのに、会話の準備が思い浮かばない。さっきから頭が真っ白になっている。会話を繋げなきゃ。
「片桐くんってさ、優しいよね」
「…え?」
「ほら、石上くんにノートよく見せてるし」
「あー、うん。本当に助かってる。お陰で安心して居眠り出来るよ」
「ふふふ、よく寝るね」
「うん。昼ご飯の後は、最高に良く寝れるよ」
「分かる! 私も眠気がスゴいよ」
「そうなの? 寝てる所見た事無い」
「でしょ。実は私、頭の体操をしてるんだ。カピバラざえもんを素数で数えるの。カピバラざえもんが2匹、3匹、5匹、7匹…ってね」
「なんか、羊数えて眠るってやつだよね。逆に眠くならないんだ……今度やってみるよ」
「うん! やってみて」
良い事を聞いたぞ。確かに、素数なら増えるほど難しくて頭が働く。
試してみよう。カピバラざえもんが、7匹来て……11匹来て……13匹来て……17……19……23……。
「天羽さん……僕、逆に寝ちゃいそう」
「ええ? 何で?」
「カピバラざえもんが何十匹も集まったら、めっちゃよく寝れそうなベッドになりそうだなって」
「あはっ! 何それ! ははははっ!」
天羽さんがお腹を抱えて笑った。そんなに面白い事を言うつもりは無かったけど。でも、いいか。天羽さんって、こんな風に笑うんだ。笑い声がすごく綺麗だ。耳が幸せ。ずっと聞いていたい。
…そう思った、刹那。
その交差点で
足が
止まった。
───パァ…ポォ…パァ…ポォ…
救急車が、僕に何かを告げるように通り過ぎ、その風圧でじわりと寒気を感じた。毎日通っているはずの道なのに。夢と同じ交差点に、今いる。あの信号機は、今はまだ倒れてこない。
今は、まだ。
じゃあ、いつ?
…。
じわりじわり。寒気が止まらない。
まさかと思い、左手薬指の爪を見る。
16s
「ふぅー! 笑った笑った! 石上くん、急に笑かさないでよ! ふっふふふ」
15s
14s
数字が1秒ごとに減ってる。
sは、second。秒。
僕にしか見えない時間。
それがゼロになるタイミングで、夢に出てきた交差点に到着した。つまり…。
「あ。青だね」
全ての車が止まり、静かに。
「行こ?」
天羽さんが、一歩踏み出す。
「まっ」
声が小さい。
「まっ、て」
叫べ、早く!
「まっ……っ!?」
僕は、それを見て凍り付く。
ミシ…と音が僅かに聞こえた。
信号機が、曲がってくる。
───バキッ
凄まじい金属音。僕は目を見開く。音の方を見ると、信号機が根元から倒れていく。その先には…
「天羽さんっ!」
天羽さんが、迫り来る信号機に気付いたが、ただ立つ事しか出来ずにいた。
知っている。この先の未来も。
だから動け。僕が守るんだ。
恐怖を踏み潰すように、力いっぱい地面を蹴ろ! 跳べ! 動け!
───ゴォォォォォン
轟音が空気を切り裂く。重く、鈍く、金属音が爆ぜる。アスファルトの地面が揺れる。耳鳴りがスゴい。
何とか薄目を開ける。信号機は原型を留めない程ぐしゃぐしゃに潰れていた。さっきまで綺麗だったアスファルトの地面が割れている。人なんか絶対に耐えられない。下手すれば…そう思うと心臓がバクバクうるさい。だけど、心臓が動いてるという事は、とりあえず生きているようだ。
「…っ、天羽さん!」
腕の中を見る。天羽さんが、縮こまって震えて、僕にしがみついていた。
そう。僕は寸前で飛びかかり抱きしめ、天羽さんと一緒に転がる事が出来た。信号機の直撃を避け、天羽さんの未来を守れた。
でも。
「はっ…はっ…」
天羽さんの呼吸は乱れ、まるで極寒の山に遭難したかのように身を震わせている。
どうする。ここから先は、どうすればいい。僕に何が出来る?
「…大丈夫。もう大丈夫」
僕は、天羽さんの頭を撫でる。どうか落ち着いてほしい。そう願っているのに、天羽さんは震え続けている。恐怖と戦っているのだろう。ぎゅうっと、僕を抱き締めてくる。
ああそうか。ここにいる限り安心出来ないんだ。
「天羽さん。立てる?」
僕は天羽さんに肩を貸して支える。しかし、上手く力が入らないようだ。ならば、一刻も早く移動するには…。
「天羽さん。抱っこしてくよ。しっかり掴まって」
そう一言添えて、僕は天羽さんの背中と膝裏を持って、いわゆるお姫様抱っこで持ち上げた。天羽さんも、より強くぎゅううっと僕を抱き締めてくれて、より安定感が上がった。そのお陰で持ち上がる事に成功したけど、天羽さん、僕より身長が小さいのに意外と……おっと何を考えているんだ僕は。心で思うのも失礼だ。気のせい気のせい。余計な事を考える余力があるなら大丈夫だろう。
そうして、すぐ近くの柿の木のある民家にお邪魔させてもらう。ここなら安全そうだ。
「天羽さん。大丈夫だよ。頑張ったね」
僕はしゃがんで天羽さんの腰を降ろす。もう手を離していいよ、という意味合いで僕は天羽さんを支える手の力を緩める。
だが、そこで想定外が起きた。
天羽さんが、更に強くぎゅうううっと僕を抱き締めてくる。
………ぎゅうううっと。
…ああ。
…あああ。
それどころじゃなかったから、感じてはいたけど意識が向いてなかったと思う。
すっっっっっごく、すごい。
これは何なのか。気になって仕方なくなってきた。
よし、状況整理だ。
僕は天羽さんを抱き締めている。天羽さんも僕を抱き締めている。つまり抱き合っている。重要なのでもう一度言おう。抱き合っている。
しかし僕はもっと受け入れねばならない現実がある。それは僕と天羽さんの間にある柔らかいもちもちだ。このもちもちが僕の呼吸と天羽さんの呼吸の二つを認識できる程の穴埋めをするように接点を生じさせている。この絶妙な弾力は断じて制服が生み出す芸術ではない。そして天羽さんも僕も太っていないから贅肉でもない。
…否。ある。出ている所はある。今まで僕は直視しないように気をつけていた。そこは制服の上からでも大まかにラインが浮き出ている。最も顕現するのは体操着を着てバドミントンのラケットを振りかぶる瞬間。慣性の法則に従って体の動きに遅れて付いてくる。小さな動きでゆらゆら。大きな動きでばいんばいん。僕の記憶の秘蔵ファイルに眠ってるから忘れる訳がない。あれは推定E。
状況整理終了。このすっっっっっごくすごいのは……天羽さんの…………
「っーーーーーー!!」
ジュワーッと湯気を出てもいいくらい、頭が熱を帯び、僕の意識は溶けた。