17話 インパクト
あれから、1ヶ月。
迷いやすい天羽さんの代わりにパンの配達を引き受けた僕は、今日もデリバリーバッグを背負って自転車を漕ぐ。
天羽さんよりも土地勘がある僕が迷わずに熱々を届ける事で、お客さんの全員が焼きたてを食べられて喜んでいるようで。それもあってか、お祖母様の友達ネットワークで広まり、注文する数が5件だった時の3倍くらいに増えている。配達の回数が増えたけど、僕は苦に感じない。なぜなら……
「〜〜♪〜〜〜♪♪」
インターホンを押さずに玄関を開けると、天羽さんの鼻歌が聞こえた。僕からしたら3倍の忙しさでパンを作っているように見えるのに、天羽さんは楽しさ3倍で元気に作っているようで。そんな天羽さんのいるキッチンへの扉を開けて、僕らはこう言う。
「ただいま」
「ふふっ、おかえり!」
ああ……幸せである。このやり取りをする度に、僕らは新婚夫婦なのかと思えてしまう。
ああ、良き。
◆◇◆◇◆
さて、今日も僕は、天羽さんのパン作りの手伝いをする。配達が無い時間は、おもに洗い物と、たまに来る電話番くらい。他にも手伝えないか聞いても、大丈夫との事。パン生地を捏ねる作業でも、何やらコツがいるらしくて。焼き加減を見極めるのも、レシピ通りではなくその日の気温によって微妙に変えているらしくて。……まぁ、何と言うか、無邪気に遊んでる子どもから玩具を取り上げるような気がして、僕は椅子に座って気ままに天羽さんを眺めている。
パンの焼ける香り。生地を捏ねる音。
1週間に1度。2人だけの約束。
こんな幸せな時間、少し前なら想像もしなかった。教室では手を振り合ってはいたけど、どこか距離があったと思う。でも今は、手を振り合う事はしなくなって、代わりに目が合って微笑むだけのやり取りが数え切れないくらい増えている。以前の僕なら数えていた。その一瞬一瞬を大切に思い出に残そうとしていた。過去のアルバムに入れて、思い出して、心を温めていた。
けれど、今は違う。未来のアルバムにどんな思い出が入っていくのかが楽しみで仕方ない。これから先も、いろんな笑顔の天羽さんが見れる。僕だけが見られる、尊くて特別な笑顔を。
「石上くん。どうぞ」
ぼんやりとパン窯を見ていると、天羽さんがココアとクッキーを出してくれた。
「え、良いの?」
「うん。いつものお礼だよ」
微笑む。ああもう、それだけで充分なのに。
「いただきます」
「どうぞ〜」
「……はぁ。やっぱり美味しい」
「ふふ、良かった」
僕がココアを堪能していると、天羽さんも腰掛け、自分のココアを一口すする。
そして、僕を見て、目元が緩み……
「……落ち着く」
ぽつりと一言。目を閉じる。またココアを一口。
…………天羽さん。今の、間違いなく僕に対しての言葉だよね。目が合っていたし。言ってからココア飲んでたし。
それに、相合傘をしてた時に天羽さん言ってたけど、僕と居ると落ち着くって。やっぱり、僕の勘違いじゃないんだよね。
そんな微笑んでぽつりと言ってくれるとさ……もう、凄すぎるんだよ、天羽さん。
インパクトが、凄く、凄いです。
そんなさりげなーく僕の心を鷲掴みにされるとさ、突然すぎて返事が出てこないんだよ?
───プルルル
「あ。出るね!」
そんな時、電話が鳴る。
天羽さんに先を越されてしまった。インパクトが強過ぎて立つ力が出なかった。かっこ悪いぞ僕。
「良いですよ! 今から行きますね! はーい!」
「天羽さん?」
「石上くん。あのねあのね、梅次さん知ってるでしょ?」
「知ってるよ」
梅次さん。僕が働く前からの常連さん。毎週食パンを注文していている20代の女性。
「ちょっと、私に嬉しい報告がしたいって。今から来てほしいみたいでさ。たまには私が届けに行ってくるよ!」
何と、天羽さんご指名で注文が入った。
「天羽さんが良いなら、それでいいけど……迷わない?」
「大丈夫! きっと! おそらく! たぶん!」
「全然大丈夫じゃないね、うん」
自信満々な声色と目力があるけど、この1ヶ月で僕の知る限りで、一度も大丈夫な日は無かった。一緒に買い物に行った時も、店を出てすぐ真逆に行ってたし。しかも堂々と。その自信どこから湧くのかな……。
「天羽さん。僕も行って送り迎えするよ」
「えっ、いいの? でも、いつも頑張ってくれてるもん。たまにはゆっくりしててほしいな」
「その気持ちは嬉しいよ。ありがとう。僕は全然疲れてないから、行けるよ」
「ううん! いいんだよ! 今日は私一人で行かせて! もしかしたら奇跡が起きるかもしれないじゃん? 可能性が少しでもあるなら、私は自分自身に負けたくない!」
「カッコいい事言っててちょっと揺らいだけど、それ、もう10回くらい聞いてるからね?」
「ううっ……、ダメかな?」
「ダメ」
「……はぁい」
天羽さんが渋々納得して、一緒に梅次さんの家に行く事になった。
やれやれ。こうして拗ねる所もまた可愛いんだけど、それ以上に、駄々をこねる子どもをどうにか鎮まらせた感じで気疲れしたけど、表情に出さないでおこう。