九話 呼びかける形は
これから一か月、また島でどうにか暮らす事になって、私はちょっとだけ困っている事がある。
それは牛頭の怪物の呼びかけ方だ。
牛頭の怪物は、彼を知っている人々から、人喰いミノタウロスと言われているらしいけれども、私はその名前で呼びたくなかった。
何故かというと、この牛頭の怪物は、人食いでも何でもないし、狂暴でもない気がするからだ。
肉より魚より卵より、根菜と穀物と、後食べられる野草が好きで、私の事を触ってみたり掴んでみたりするけれど、痛いとか、嫌だとか、そういう意思表示をちゃんとすると、きちんとくみ取ってくれて、手加減しようとしてくるのだから、これは狂暴とはいいがたいと思うのだ。
狂暴って言われるんだったら、そんなの関係なしに、乱暴な事をして来るものじゃないだろうか。
私は少なくともそう思うから、彼を、凶悪で狂暴で、人喰いなのだという形で呼びたくなかった。
それでも、この牛頭の怪物を、きちんと呼びかける方法が何もないので、さてどうするか、と思ってしまう。
「あなた」も「きみ」も「あんた」も固有名詞って奴ではないのだから。
いっそ私が呼びかける名前を勝手につけていいのだろうか、と思う事も有るけれども、名前というものは大事なものだから、そう簡単に、私が気安くつけていい物じゃない気がして仕方がない。
まして、海神の力が働いているのだろう場所で、下手な名前を呼ぶのは危険な気がする。
海神は三大神と呼ばれている強力な力を持っている神の一柱で、その力は天上の大神や、冥界の大神に並ぶとされている。
それだけの力を持っている神の力が働く島に、封印されていたらしい牛頭の怪物に、何か呼び名を作った事で、予測しない大変な事が起きたら、と思うと二の足を踏む事だった。
「君、本当に私の手元を見るのが好きだね」
私は、そう言いながら根菜の皮をむくのをやめないし、牛頭の怪物は、その手つきをじっと見ている。
牛頭の怪物は、あのアリアドーレ嬢が言うには、迷宮アヴィスに閉じ込められていたそうだから、誰かが料理をしたり何かをしたりする、っていうの、見た事がなかったんだと思う。
一人孤独に封印されていたという事も有るようだし、その間のご飯はどうしていたんだろうって思う事も有るけれど、そこは深く考えない事にしている。封印の中にいたら、お腹空かないかもしれないし。
そしてじっと見つめて、時々私の手元から、根菜の皮をさらっていって、もっしゃもっしゃと食べたりする。根菜の皮だから、泥を洗ったとはいえ、あんまり美味しくなさそうだけど、気にしていない様子だ。
もしかしたら、料理をしている間に、おこぼれをもらうっていうのが、いいのかもしれない。
私もそんな時代はあった。お父様が生きていた頃の厨房に遊びに行って、燻製肉の端っことか、パンを焼いた後のまだ熱い竈で焼く灰のお菓子とか、そういう、本当は使用人や料理人が食べるものを、分けてもらった時に、わあ、美味しいって思ったものだ。
お父様曰く、あんまり彼等のお楽しみを奪っちゃだめだよ、って事だったから、大きくなっていくにつれて、そんな事はしなくなったけれど、あの頃のまだ、楽しくて優しい記憶は、私の口元を柔らかくする。
それに似た、柔らかくて一生心のどこかに残る、そんな思い出を、この牛頭の怪物も、作っている最中なのかもしれなかった。
「こら、それは一緒に煮るんだから食べちゃだめ」
私はそう言って、根菜の葉っぱの部分を、それきた、と言わんばかりに咀嚼しようと手を伸ばす、その牛頭の怪物の手をぺしっと軽く叩いた。
何でだよ、と言いたげな視線に、私は言う。
「この茎も煮ると、いい匂いがしてこれがもっと美味しくなるんだから、だめ」
そんな物なのか、と言いたそうな顔をしていたけれど、私が茎を細かく刻んでお粥の中に入れた事で、つまみ食いは諦めたらしい。
その代わり、ふすふすと私の頭の匂いを嗅いで、髪の毛を齧ってくるものだから、勘弁してほしい。
「髪の毛を齧っちゃいや! 何でそんな事するの!」
噛みちぎられたりしないけれど、頭をわしゃわしゃとやられるのは手元が狂って危ないから、文句を言うと、これもだめなのか、という調子になったものの、私が
「あっちで待ってて!」
そういって炉の方を指させば、仕方ない、妥協してやるっていう感じでそちらに行き、炉の炎をかき回して、炎の加減を調整しようとしてくれるので、どうにか意識はそらせた様子だ。
ちなみに、この炉の炎は、この前の大雨で灰が再起不能な程びちゃびちゃになったため、晴れてから全部取り出して捨てて、新しく色々やる羽目になった。
そういう風に炉の灰を全部捨てた後、私が知ったのは、このあばら家は元々は相当にしっかりした家だったという事だ。
炉がっちりと作り込まれており、封印の魔女という人がいなくなってあっという間に荒れた事が伝わってきたのだ。
「もっと雨漏りしない家が欲しい」
私は根菜と穀物を鉄鍋に入れて、炉の炎にかけながら、今もしっかり空いている大穴を見上げて言った。
何を言い出すんだ、という顔をした牛頭の怪物に、私はお粥が煮えるの待つ間に、説明した。
説明が通じるかわからなかったけれど、話すのは自由だろう。
「これだけ大きな穴が開いていると、雨が降った時に炉の炎が消えちゃって大変なの。火を熾すのって結構労力を使うし、薪もしけちゃったらろくな火にならないし。煙ばっかりもくもくでて、家じゅう煤まみれになるし」
そこまで言った時、牛頭の怪物は、何か考えているような顔をして、大穴を指さした。
「そうそう、その穴から雨が入ってくるのが大変なの」
ちょっとは言葉が通じてるかな、と思いつつ反応を返すと、牛頭の怪物はふうん、と言いたげにそれ以上の事をしなかった。
そして煮込まれたお粥を食べて、満足そうに鼻を鳴らした牛頭の怪物は、またどこかの塒に……帰ろうとしなかった。
それどころか、色々なものを片付けようとした私の手を掴み、夜の森を歩き始めようとしたのだ。
「待ってよ、夜の森は私何にも見えないの、だから歩きたくない」
え、そうなの? という反応だった。まさか人間の夜目の利き方が、牛頭の彼よりも相当に悪いとは思わなかったらしい。
しぶしぶ、と言った調子で手を離した牛頭の怪物は、何を思ったのか私があばら家の中に戻ると、一緒に入ってきて、狭い室内だというのに、適当な床に寝転がった。
「今日はここで寝るの? 寝相で壁を壊さないでよ」
牛頭の怪物はこの島で一番強いから、どこで寝ても敵はいない。返り討ちにあうだけだから。
それゆえの無防備さなのか、ごろりと寝転がると、あっという間に寝入ってしまった様子だった。
私はそれを横目で見ながら、子供の相手をしているみたいな気がしつつ、使った物を片付けて、あの雨の後未だしけっている室内の中で、かろうじて乾いている床に、同じように寝転がった。
寝心地のいい葉っぱとかを集めて、寝床を作っていたけれど、それらもこの前の満月の前日に降った大雨で、全部濡れてだめになってしまったのだ。労力が全部無駄になった……と遠い目になったけれども、私は今度こそ、いい寝床を作ろうと決めている。
板敷の寝床もすっかり慣れてしまっていて、まだ多少体が痛くなるけれど、全く寝られないってわけじゃない。眼を閉じて次に開いたら朝になっている。
朝だと思って起き上がると、牛頭の怪物は気配で起きたらしくて、身を起こしてこっちを見ていた。
「おはよう、朝はこう言うんだよ」
この牛頭の彼に、そんな事を言うのも初めてで、牛頭の怪物は私の言葉をなぞるような鼻の鳴らし方をした。
そしていつも通り朝の畑仕事をして、水を汲みに行こうとすると、いつの間にか水瓶にはきれいな水がたくさん入っていて、牛頭の怪物はいなくなっていた。
「水を汲んでくれたなら、お礼を言いたかったのに」
重労働を手伝ってくれたなら、誰だってお礼を言うだろう。ちゃんとお礼を言いたかったのに、なんて思ってあばら家の中に戻って、穀物を煮て食べて、魚を釣りに行くか、とナイフのおかげで作れたお手製の釣竿を片手に立ち上がった時だった。
「あれ、来たの? 来ないと思ってご飯の余分はないよ」
牛頭の怪物が、やっぱり開け方を間違っていそうな雑さで扉を開けて、入ってきたのだ。
体内時計によれば、この牛頭の怪物が来る時間じゃない。そのため何も作ってない、と慌てると、牛頭の怪物は今度こそ、という調子で私の手を掴んで、歩き出したのだった。
「大きな建物……あなたに乗せられて見たきらきらは、これだったんだ……」
歩き出してしばらく、どこに連れて行かれるのか全く分からないながらも、船着き場があった岩場ではなく、島の中心部に近いのだろう小高い丘なのか岩山なのか、そう言った場所を、牛頭の怪物の手を借りながらよじ登っていくと、それの終点に建っていたのは、あまりにも大きな建物だった。
人が出入りできるような窓は少なくて、明り取りの窓もかなり小さく作られたそれは、島の面積を考えるとあり得ないほど大きな建物だった。
その建物には、出入り口も最低限であるらしく、牛頭の怪物に連れられて見せられた、立派過ぎる門構えの出入り口以外、見当たらない。
「……もしかしてこれが、アリアドーレ嬢の言っていた迷宮アヴィス……?」
他にそれらしき建物は見つからない、という事はここが、牛頭の怪物が封印されていたという場所なのだろう。
「ここに連れて来てどうするの? ……まさか私にもここに住めって言いたいの?」
牛頭の怪物は、どうだ、これなら雨にも困らない、と言いたそうな顔をしていたけど、私は首を横に振った。
「ごめんね、私ひとりじゃこの岩の道を登れないから、ここでは暮らせないかな。でも気持ちはすごくうれしいよ、ありがとう」
確かに雨風はしのげるだろうけれど、ここに来るまでの道は一人ではとても歩けない険しさだったから、暮らすにはあまりにも不具合があって、私は牛頭の怪物なりの優しさだけを受け取って、あばら家に戻る事にしたのだった。
だから戻るべく踵を返そうとすると、牛頭の怪物はぐいぐいと手を引っ張ってきて、建物の中に連れて行こうとする。かなりの強い力なので、そのまま引きずられていくと、本当に建物の中は複雑なようで、どこをどう歩いたのかわからなくなりそうだった。
この迷宮の具合もまた、この牛頭の怪物が外に出ないようにするために、作られた複雑怪奇さなのだろう。
道を覚えないと帰れないぞ、と思っても、どうにも道を覚えられないまま、進んでいくと、一つの部屋にたどり着いた。
そこの扉を開けて中を見ると、そこは……どう考えても、怪物を封印する部屋ではなかった。
「……あり得ない豪華さにしか見えない……」
私の口から出てきた言葉がまさに正しくて、室内は王様の暮らすような豪華な造りをしていて、どういう仕組みなのか、奥まった部屋だったはずなのに、日の光としか思えない明るさで、天井を見上げると、どういう事なのか空が見えた。
「嘘、こんな硝子張りの天井なんて、技術が高すぎる……」
大きな室内の天井の半分がガラス張りなのか空が見えていて、それだけでも開放感がすごい。
そして調度品なども、化け物を閉じ込めておく道具とは思えない贅沢品ばかりだ。
「……あなたの塒がここなのも納得だわ……すごくきれい」
そう言っている時に、ずいっと牛頭の怪物が、一つの物を差し出してきた。それは……櫛だった。私が必要に迫られて、手櫛はいい加減髪の毛が荒れ放題だから、ナイフで作らなきゃな、と思って、失敗続きの櫛である。櫛の歯を作るのは、素人にはとてもじゃないけれど出来ない芸当だったのだ。
「これ、どうしたの?」
そんな事を言いつつ、櫛を受け取ってみると、そこには何かが刻まれていた。漆塗りの綺麗な櫛は飾りなども何もない実用的な物で、でも実用の美というものがある、これも一級品の物だった。
それに刻まれていた文字を、私は読み上げた。
「ウィロンへ贈る」
そう読んだ時に、牛頭の怪物が頷いたのだ。そこで私は、まさかと思って問いかけた。
「ねえ、あなたの名前は、ウィロンっていうの?」
多分そう、という調子で牛頭の怪物……ウィロンが頷いた。
「そっか、ウィロンか。ありがとう、名前を教えてくれて。私が考えたら、モーちゃんとかそんな名前にしかならなかった」
モーちゃんでもいいのに、と言いたそうな顔だったけれど、
「ウィロンの方が似合いそうだよ」
そういうと、それならいいか、という調子でウィロンが頷いた。