七話 担がれた先では
島を一周してからというもの、私の日課の一つに、近くを船が通らないか調べる、というものが出来た。
船の残骸が流れ着いているという事は、ここに来る潮の流れがあるはずで、船の中にはそう言った流れに沿って、魚を追いかけるものもあるに違いない、と思ったからだ。
そのため、朝早く起きて、畑仕事をして、牛頭の怪物が来ないかどうかを確認して、来ないようだったら一人でご飯を食べて、来たら一緒にご飯を食べて、私は遠くまでよく見渡せる岩場で釣り糸を垂らして、あまり変わり映えのしない海面を睨む、という事を繰り返した。
牛頭の怪物は、私がよっぽどの魚好きだと思っているんだろう。岩場に向かう私を見ても、何も言わない。
そして、牛頭の怪物の匂いが染みついているのか、渡された短刀とか、ナイフとかを懐に忍ばせていれば、ありがたい事に私では太刀打ちできない獣達が、近付いて来る事もなかったのだ。
「……今日も来ないか……」
夕暮れまで粘って、私は今日も見つけられる場所に船が来なかった事にため息をつき、夕方になって釣れた魚を何匹かお手製のバケツに入れて、少し落ち込んで帰路についた。
このあたりはなかなか魚もたくさんいる様子だし、いい漁場になっていると思うのだけれど、どうして誰もやってこないのだろう。まだ誰も知らない穴場とかそんな感じなのだろうか。
せめて穀物が尽きる前に、誰かに来てほしい物だと心底思う。穀物を育てる技術は、哀しい事に私にはないのだ。
穀物を育てるには、種もみや道具、そして色々な技術とか、知識と経験が必要とされている。
それらはどれもこれも、町で暮らし、働きづめだった名ばかりの貴族令嬢だった私には持ち得ないものなのだ。
バケツを片手に、私は獣除けに歌いながらあばら家という形の我が家に戻る。歌を歌えば獣も多少は警戒して近付かなくなるのだ。物音を立てるというのは大事な事の一つでもある。
そして戻ってきた私が見たのは、あばら家の屋根に大穴が開いているという現実だった。
これも最初から分かっていた事だけれど、ここは古すぎるのか、使っていた人が誰も手入れをしなかったのか、屋根に大穴が開いているのだ。
なんとか雨が降る前に直したいと思うけれど、どうやって直せばいいのか見当がつかない。
それに、仮に直し方がわかっても、これだけぼろぼろの家の屋根によじ登ったら、途端に崩れてぺしゃんこになりそうで、それを考えると恐ろしくて余計な事は出来ないのだ。
ぐらぐらとした、足場の不安定な高い所に登った事のある人なら、この心もとなさや怖さが伝わるだろう。簡単な脚立に登っても、そういう怖い思いをする事だってあるので、もっと不安定であろうこのあばら家に、よじ登れるほど大胆にはなれない。
「ただいまー」
誰もいない家の中に声をかける。一人でいるとそんな事もしてしまうのは、きっと寂しいからだろう。
なにせ牛頭の怪物は、一言も喋らないのだ。あれで会話ができればもうちょっと気が楽になるだけれど、言葉を喋るために器官がきっとなのだろう。
魚を台所の代わりにしている所に置いて、船の残骸から拾ってきて、ナイフで形をある程度整えてまな板風にした板切れを引き寄せる。ざっと水をかけて、魚の頭とか、硬くて食べられない所を取り除いて、塩を振っておく。香辛料とか酢とか、味付けに使うような物が一切ないから、私の料理技能ではこれ位しかできない。自宅では指示を出しても、料理自体にはかかわらなかった事を、私はこの生活で後悔している。もうちょっと関わって、色々な知識とか経験とかを詰めばよかったというものだ。
それでも、とにかく死ぬような食べ物は作っていない。当たると後が怖い貝とかは食べないし、得体のしれない色をした魚や、明らかに危なそうな軟体動物とかは食べない。
色鮮やかすぎて、危険しか感じない軟体動物も、これをどこかのお金持ちの家の水槽で見たら、きっと綺麗だと純粋に思えただろう。
でも、残念ながら私は毎日の食べ物のために一生懸命生きているので、そんな心の余裕はないのだ。
……まあ、安全に眠れるところがあって、食べる物に致命的に困っているわけでもないのだから、こんな漂流生活でも、きっと恵まれているんだろう。
穀物を潰して粉にする、石臼とかそういった類の道具があれば、他にも作れるものは増えるのに、そう言った道具もここにはない。そして石臼になりそうな石は重すぎて、私のまだやせ細っている腕では持ち上げられないのだ。
塩を振って少し置いた魚に、塩味が少しはしみている事を期待しつつ、私は炉の火に魚をかける。じわじわと魚の脂が火の中に落ちて、ぱっと燃え上がって、香ばしい匂いと言うべき、脂の焼ける匂いが家の中に煙と供広がっていく。
……甘いものが食べたいな、と私は思った。とてつもない贅沢品だ。ここにきてそんな事を思うとは、と思うけれども、家でたまに、カトリーヌのあまりとして食べられた甘い物を、恋しいと思うのは、仕方のない事だろう。あれは文明の味だった。
にしても、今日は牛頭の怪物がやってこない。もしかしたら昼に来て、私がいなかったからどこかに去っていったのだろうか。
そういう日もたまにはあるし、すれ違いがあるのはありふれた話だ。焼けた魚を齧りつつ、私は炉の炎を眺めた。
「船が来ればいいのに」
そう独り言をつぶやき、穴の開いた屋根から空を見上げると、空には煌々とした月が登っていて、明日あたりには満月になっている事を教えてくれる。
「……一か月くらいかな」
私の結婚式は、満月が登る日だった。月明かりに照らされた甲板で、夜に、披露宴をして、盛り上がろう、とバートン様は言ったのだ。
最高の結婚式と披露宴ではないか、と。
そして、町のお金持ちのご令嬢たちがこぞって買い求めるという、結婚情報誌という流行物の中で、月夜の結婚式は情緒があってとても素敵で、一生の思い出になる素晴らしい物と銘打っていた。
そして、披露宴を豪華客船で行い、月明かりの下、愛を誓った男女が、手を取り合い踊る、という、乙女らしい人なら好みそうな場面をとりわけ強く推していて、確かにこんな事が出来たらとてつもなく思い出になるし、夫婦でいつまでも話題にできるし、素敵、と結婚式の段取りを決めている時は思っていた。
……しかしながら、私の結婚式はそんな夢もぶち壊しになる、中断からのスケジュール破壊、果てはドレスの代わりを探していた私という花嫁が、誰かに海に投げ落とされて、船は嵐に襲われて港に戻る、という色々台無しなものに終わっただろう。
あの時見た、私の靴をそろえて裏甲板の手すりの近くに置くという事は、まるで私が身投げしたようにとらえられるだろう事も、この一か月近い期間の中で理解できるようになった。
私を海に投げ落とした何者かの正体は全く分からないけども、その誰かが、私が発作的に見投げをしたのだと思わせたい事も、なんとなく理解できるようになった。行動の理由は全く理解できないけれども、客観的に見ればそういう事なのだ。
「……一か月も生き延びれた私が、意外とすごいのかもしれない」
魚を全部平らげて、ちまちまと集めてきた柔らかい物を集めた寝床に丸まって、私は天井の穴から月を眺めて……そしていつの間にか眠りについていた。
どれくらい眠っていたのかの体感はわからない。でもそれなりに寝ていた事は確かだ、と言えるくらいには眠っていただろう。
私が目を覚ましたのは、顔に冷たいしずくがぽたぽたと落ちてきたからで、それに気付いた瞬間に、私の頭は一気に動き出して、私は寝床から跳ね起きた。
「炉の火がなくなっちゃう!!」
そう。せっかく一生懸命に守ってきた炉の火が、この水で消えてしまうのだ。
つける時だって、木の枝をこすり続けて、手の皮がむけて血だらけになりそうになったのに、また同じ事をしたくない。
跳ね起きた私は、急いで炉の中でまだくすぶっていた赤い炎を、入れる場所がないから、本当は穀物を煮る時に使っている鉄鍋に、小さめの板切れを使って入れて、雨を避けられる位置に置いた。
それから、雨に打たれたら痛んでしまう穀物を、がむしゃらに雨が避けられる場所に移動させる。
元々穀物の袋は、雨に打たれにくい場所にあったけれども、用心に越した事はないのだ。
そんな事をしている間に、ぽたぽたと天井から垂れていたしずく程度だった水滴は、なかなかの量の雨になり、炉の上の天井にも空いていた穴からも、炉の灰がびしゃびしゃになる位の雨まで激しくなっていったのだった。
私はあばら家の中でも、どうにか雨をしのげる隅っこに座り込んで、これじゃ炉はまた灰を全部かきだして乾かして、色々一からやり直しだ、とその苦労を考えて絶望的な気分になった。
灰をかきだすのは、町にいた頃も働き先でやっていた。道具があっても大変だったというのに、必要な道具が何もないこの状態で、それを行ったら、丸一日かかるだろう……やっぱり一か八かで、屋根に上り、穴を覆えばよかったんだろうか。でも登った瞬間に、このあばら家、崩れていきそうに思えたんだけれども……
そんな事を考えながら、雨が早くやんでほしいと切に願ってしばらく待っていたけれども、すぐに止んでくれるという都合のいい事は怒らず、空がうっすら明るくなるまで、雨は止んでくれなかったのだった。
すっかりあばら家の中は水浸しで、いろいろ工夫をして、暮らしやすいようにしていた室内は、ずぶずぶになっていて、大きくため息をつきたくなるものだった。
私も結構濡れている。寒い季節ではない事に感謝しながら立ち上がった時だ。
こんな時間に来るはずのない来客……牛頭の怪物が、すごい勢いで室内に入ってきて、私を一瞬のためらいもなく担ぎ上げて、あばら家から出たのだ。
「今度は何!?」
担いでまで何をするつもりなのだ、私はやるべきことが山積みなのだ、と言おうとして、私はがっくんがっくん担がれて揺らされているから、その気持ち悪さで何も言えなかった。
しばらく歩いていた牛頭の怪物が、やっと止まった時、私の気持ち悪さは限界に達しそうになっていて、べしゃっとかなり乱雑に地面に落とされた時も、文句を言う元気なんてなくて、うずくまってしまった。
そしてようやく気持ち悪さが落ち着いてきて、一体どこに運ばれたのだと周囲を見回して、私は言葉を失った。
何故か? そこが、この島に存在しない筈の、船着き場で、とても丁寧に手入れされた、なかなか立派な物だったからである。