五話 あるはずもない道具
「……まだ死んでない……」
怒涛の漂流一日目が過ぎ、私は硬い板の上で目を覚ました。昨日の色々な出来事は、どうやら夢でも何でもない、私の現実だったみたいだ。
体を起こすと、手近な場所に、牛頭の怪物の気配はなく、やっぱりあの根菜がゆを食べた後に、いなくなってからはここにやってきていない事が分かった。
「にしても……色んな危ない生き物が、近寄ってこないのはどうしてだろう……」
私は町で暮らしていた。だから町や村で、何故危険な生物がやってこないのかを知っている。
危険な生物というものは、結構な割合で火を嫌うのだ。だから寄ってこない。煙の匂いにも危機意識を持っている種はとても多い。
だから、獣除けに火を焚くって事は多いし、町や村の入り口の火を絶やさないように、門番がいる事も知っている。
でも、このあばら家はそんな場所じゃない。それに一日火をたいたけれども、かなり消えてしまっていて、熾火の状態だ。
いかにも食べやすそうな獲物がそこで寝転がっていたら、隙を見て襲ってきそうだというのに、それがないのだから、果てしなく運がいいとしか言いようがないのかもしれない。
起き上がった私は、この島の気温が温暖で、上掛けを被らなくてもぎりぎり風邪をひかなさそうな事をありがたいと思った。
風邪をひく気温だったら、何もないこの状況は致命的なのだ。
私の暮らしていた国では、温暖な春だったけれど、ここもそうなのだろうか。
昨日食べた根菜がゆは、皆食べてしまったから鍋は空で洗ってある。
また作らなくちゃな、と思いながらも、備蓄用の穀物は、ここで育てた物ではなく、どこかから買い求めた物である印に、それ専用の麻袋に入っていた事を考えて、この島にはたまに行商人が来るのかもしれないと推測した。
その時に事情を話して、下働きを申し出て、頼み込んだりして、この島から脱出できるかもしれなかった。
とにかくその時までは、生き延びなければ。
……でも、生き延びて国に戻って、あの絶望的にひどい事ばかり言う婚約者と結婚式をやり直さなければならないと思うと、それは気分が一気に沈む事に違いなかった。
「……今それを考えてどうするんだ、今は生きるって事を考えなくちゃ」
私はぶんぶんと頭を振って、その絶望的な未来を頭の中から追い払い、立ち上がった。
とにかくまずは火を熾し直して、薪とかを手に入れて……ここで生活するならやる事はたくさんある。このあばら家を色々調べ回った昨日、備蓄食料の中でも、船旅には向かない物は色々残されているという事実と、調理器具とか、家具と言われるものはほとんど残されておらず、残されているのは問題のある物だという事もわかっていたから、とにかく、何かを探さなければならなかった。
特にほしいのは、ナイフや短刀と言われる、道具を作るための道具と言われる物たちだ。
これがあるとないとでは、効率なども決定的に違ってくる。
いざとなったら、石を打ち付けて、簡便的な物を作らなくちゃいけない。……お父様は、娯楽の一つとしてそんな物の作り方を教えてくれたけれど、あれって娯楽じゃなくて、お父様の冒険の中で鍛え上げられた生き残るための技術だったんだろうな、と今なら思えた。お父様ってすごかったんだ。
そう思いつつ立ち上がり、朝だし根菜を叩き潰せる牛頭の怪物はいないし、穀物を煮込むだけにしよう、と思って鍋に水を入れるべく、あばら家の外に作られていた井戸に行こうとして……扉を開けた瞬間に、五メートル先で、近づけないという顔をして、去っていく獣を見る羽目になった。
びっくりしすぎて、体が反射的にあばら家の中に戻ったけれど、獣は私を追いかけて、あばら家の中に入ってこようとはしなかった。
……何で?
ばくばくと早鐘を打つ心臓、ここは森の中、一歩間違えれば即死の未来が待っている、という現実を改めて認識して、私はあばら家の窓から、そっと外を見た。
「……またいなくなってく……」
そうなのだ。獣が何匹か来たけれど、その全てが、これ以上先には近付いちゃいけない、という顔や雰囲気をまとって、踵を返して去っていくのだ。
これがどういう事なのか、私には全く分からなかった。
でも、水をくむなら今のうちなのかもしれない。
襲われかけたらすぐに家の中に飛び込もう、多分それでたすかる、と色々考えた結果判断し、私は大急ぎで、あばら家の中に残されていた大きな水瓶というか大鍋に水を満たして、それだけで息が切れて、あばら家の中で座り込んでしまった。
下町とかあらゆる所で働いていた私だけれども、水瓶に水を汲んでいっぱいにする、という事は未知の世界で、水の重さを改めて実感した気がした。
それでもとにかく、生きるためにやらなくちゃいけない事をしなくちゃ。とにかく……食べなきゃ。
そう思って私は、穀物を煮込み始めて……がりがりがり!! ばりばりばり!! という普通の町の生活では聞く事なんてない音が扉から響いたので、獣が扉を壊そうとしているんだと思って、とっさに、昨日見つけた棒を掴んだ。顔に一発入れられれば、ひるませる時間くらいは稼げるかもしれないって思ったのだ。
しかし、音が響いた後は何も聞こえてこない。何だったんだ……? と思いながら扉を薄く開けると、そこには……牛頭の怪物がのっそりと立っていた。
目が合う。私は反射的に速やかに扉を閉めようとしたけれど、牛頭の怪物は我が物顔で扉を開けて、中に入ってきた。
その時に目に入ってきたのは、牛頭の怪物の、伸びてとがった爪に、木の欠片がこびりついているという事だった。
さっきの音は、この牛頭の怪物のやった事なの……? 何のために……?
また訳が分からなくなったものの、開けるほかなかった扉に刻まれた爪痕は、見事な物で、お父様が昔に話してくれた、強い獣の縄張りの印の様だった。
縄張りにされちゃったんだろうか……と思いつつ、私はまた、昨日と同じ椅子にちまっと座った牛頭の怪物に、こう言うしかなかった。
「煮込み始めたから、まだ時間かかるよ」
昨日もたっぷり待った事からか、牛頭の怪物は怒る様子も見せなかった。
でも、私が鍋をかき混ぜ始めたのを見て、何か思い出した様子で、ぼろ布に包まれた細長い物を突き出してきた。
「何?」
ぼろぼろの布だ、経年劣化もすごい事になっている。二十年は経過していそうなぼろ布だった。
それにかろうじて包まれた細長い物を見て、私は目を剥いてしまった。
「ナイフ!? 短刀!? え!? 何でこんな物もってるの!?」
牛頭の怪物は、一言も答えない。私の方をじっと見ているけれども。
細長い物は二つあって、一つはぼろぼろの皮の鞘に入れられたナイフだった。その鞘から柄を握って引き抜くと、普通の金属ではありえない虹色の輝きの刃が現れる。
私は刃物に精通しているわけじゃない。でも、虹色の輝きを放つ金属が何かくらいは、教養として知っていた。
呆気にとられてから、はっとして短刀の方も木製の鞘から引き抜くと、これの方がすごかった。
短剣の根元の方には、海のような青色の澄んだ石が埋め込まれていて、その刃もまた、虹色に輝いていたのだから。
「これは金剛銀!? 王族の使う武器の中でも、上位の立場でなければ、用意できないほど扱いが難しい金属じゃない!? こんな物をどこで手に入れたの!? こんな物があるって事は、ここは意外と町に近いの!?」
そう。虹色の輝きを放つ銀色の金属は、魔法銀の中でも最上位の、永久に錆びないし刃こぼれもしないと言われる最高峰の技術でなければ加工できないと言われる、金剛銀と言われる物だったのだ。
偽物も多く出回るものだけれど、ぼろぼろの皮の鞘に入れられていた事実を考えると、本物の可能性がとても高かった。
私はその二つを受け取って、短剣は船乗りの服にひっかけられる場所があったから、そこにひっかけて、ナイフの方は懐にとりあえずしまって、牛頭の怪物に問いかけた。
「ねえ、この近くに町があるの? あなたはそこを知っているの? もしかして強奪してきたとかそんなんじゃないよね?」
「……」
牛頭は答えない。町があるならすぐにでもそこに行きたい、とじれったく思いつつもう一度私は問いかけた。
「ねえ、町に行きたいの、連れてってくれたりしない? ほら、ご飯作ってあげたでしょ」
椅子にちんまりと座っていた牛頭の怪物は、鉄鍋を示した。なるほど、これを食べるまでは動かないつもりなのだろう。朝という事も有る。
私は頷いた。
「食べてからね、分かった」