四話 牛頭の怪物
頭の中が真っ白になるってこう言う事なんだな、と思ったのはこの出来事から二日目の事で、現在進行形で目の前に、一度も見た事がなければ聞いた事もない怪物がいる状態っていうのは、言葉も出ないし体も震えたりできないし、逃げ出すなんてもってのほかなくらい、体は動かなかった。
目の前で、物陰にうずくまって寝ていた私の目の前にいるのは、頭が牛だった。
そう、牧場とかでよく見られる牛という生き物である。偶蹄類だったっけ? そうそう、そんな感じの生き物で、胃袋が四つあって、反芻してしっかりと食べた草を消化する良くできた体をしていて……なんて事も、その時には全く思いつかなかった。
頭は真っ白、体は硬直、おまけに目の前の牛頭の……体は男の人らしき姿という、化け物としか言いようのない相手は、ふうふうと牛の呼吸を私に吹き付けて来る。草しか食べてないみたいな、肉臭さのない呼吸だった。
じいっと見つめて来る、真っ黒な瞳に敵意は……あるのかどうかも読み取れない。私に牛の感情を読み取る特異能力はないのだ。
まともに息をするのが精一杯って位引きつっている私を見て、その牛頭の怪物は、だしぬけに手を伸ばしてきた。
「っ、いっ!!」
がっちりと、馬鹿力なのか何なのか、ものすごい力で握られた肩から、かすかにめきりと骨が軋む音がして、まるで獲物を逃がさないかのような掴みかかり方だった。
しんじゃう、とこの時、海に落とされた時以上に頭の中にその可能性がよぎった。さっき虎に追いかけられた時よりも、死んじゃう、死んじゃう!! という言葉が頭の中をぐるぐるよぎるのに、この牛頭の怪物に、どう抵抗しても勝ち目なんてないくらい、力では負けているし、このあばら家に武器はないみたいだし、私の力で酒瓶とかで殴れば結構なものだけど、そんな物もなさそうで、このまま骨を折られて……食べられちゃうんじゃ、という事しか思いつかなかった。
でも。
私が、痛みに悲鳴を上げた時、その牛の怪物はびっくりしたように手を離して、自分の手を見てから、また手を伸ばして掴みかかってきた。
今度は、私の膨れた胸元……つまりおっぱいで、そこも無遠慮に掴まれて、やっぱりとてつもなく痛かった。
「いぎっ!!」
可愛らしい悲鳴なんて上げられるわけもない。痛いし怖いし死にそうだし、物陰にしっかり隠れていたせいで、逃げられる隙間も見つけられない。
でも、肩を掴まれていた時よりも、私は相手を押しのけようとする抵抗は出来るかもしれなくて、おっぱいを掴まれて痛いから、私は相手の牛頭を押しのけようとした。
「いたい!!」
思い切り叫んだ。叫んだら殺されるとか、うるさいから喉を潰されるとか、そんな事も一瞬頭をよぎったけれど、何もできないで殺されるよりも、体が動くようになったんだから、意地でも抵抗して、そして死んでやる! ただで死んでたまるものか!! せっかくあの嵐の海から生還したんだから!! という謎の高揚感に似たものに支配されて、私は相手の角を掴んで、力いっぱい押しのけて、その耳元で喚いた。
「痛いって言ってるじゃん!! 殺すなら一思いに殺せ!! もてあそぶんじゃない!!」
牛頭は私の声が余程聴きなれていないうるささだったのか、嫌そうな顔をして、牛の顔でも嫌そうだとかわかるものなんだな、という謎の発見を私に見せて、手を離して体を遠ざけた。
あ、助かるかも、と思った私はそれでも甘くて、その隙に立ち上がって、扉の方に身をひるがえした私を待っていたのは、一体どんな俊敏な獣がこれに勝るのだろう、と思うほどの速さで、その牛頭の怪物が、私の服の背中を容赦なくつかんで、あばら家の中に引きずり戻して、木箱の中に叩き込むという未来だった。
本当に容赦がなくて、私は思い切り木箱の中に体を打ち付けて、声も出ないくらいの痛みに変な呼吸音しか出せず、しばらく身動きも取れなかった。
何、獲物を逃がすつもりがないって事?
いよいよ本当に私は、この牛の怪物に食べられてしまうのかもしれない……と思っていた時だ。
牛の怪物は、あばら家の扉を雑に開いて、外に出て行ってしまったのだ。
「……?」
殺される数秒前、と思っていた私にとっては想定外の事で、牛頭の怪物が出て行った後に、何か明らかに大型の獣か魔物があげるだろう、大きくて迫力のある断末魔が聞こえてきて、数拍遅れて静かになった。
そして……体が痛いからまるで動けないで、じっとしていた私の視線の先で、あばら家の扉がまた、乱暴な、開け方を学習しないいたずら小僧のような開け方で開き、牛頭の怪物が、水浸しで現れたのだ。
まるで……返り血とかを洗い流してきたような態度だ。
いったい何が目的で、何を考えているのかさっぱりわからない。
びちょびちょの姿で、牛頭はまた私に近付いてくる。
この牛頭は、すごい戦闘能力を持っている、と私は直感的に悟るほかなかった。
近付いてきた牛頭の怪物が、私の前に投げつけてきたのは、たった今引きちぎったとしか思えない、虎の牙らしきものだったのだから。
まさか、今の獣の悲鳴は、牙を引っこ抜かれたからなの……?
そしてこの怪物は、それを無傷でやってしまえるわけ……?
でも何でそれを私に渡すの……?
混乱した頭は正解らしきものなんて導き出せない。
でも、牛頭の怪物は、私の伸ばされて、ひとまとめにされている髪の毛をひっつかみ、私を木箱の中から強引に立ち上がらせた。
この怪物、ものすごく雑!! と頭の中でだけ文句を言った時だ。
ずいと牛頭の怪物が近付いて、口が軽く開いたから、あ、食べられてしまう!!? という事がまた頭の中を走り回り、私は大声を上げた。
「待って!! 私よりもおいしい物を食べさせてあげるから!!」
これは一か八かの賭けだった。この牛頭の怪物が、人語を理解しているかはわからなかったから、本当に大博打だった。
言葉が通じなかったら、きっとこのまま喉かどこかを食いちぎられて死ぬ、という未来が頭にあったわけだ。
でも、この言葉は……牛頭の怪物に、通じた様子だった。
ふがふがという呼吸音を立てて、牛頭の怪物の手が、私の髪の毛から離れたのだ。
そしてやっと自由になった私は、じりじりと相手から距離をとりつつ、真顔で牛頭の怪物にこう言った。
「今からこの家の中を探し回って、食べられる物とか、味付けができるものとか見つけるから。そうしたら火を熾して、食べておいしい物を作ってあげるから、そこに座って待ってて」
牛頭の怪物は、その言葉の意味が分かったのか、理解できる知性があった事に感動したけれど、大柄な体と牛の頭には見合わぬ可愛らしい動きで、椅子に、ちょもっと座ったのだった。
「……ここは最近まで使われていたみたいだ」
私が一生懸命にあばら家の中を探し回った結果、実にいろいろなものが見つかった。
例えば保存性の高い穀物とか、このあたりがどんな環境かわからないけれど、私の住んでいた地域でも十分に高級な香辛料とか、塊の岩塩とか。さらには、牛頭にじっとりとした目を向けられながら、外に出て見つけた、根菜の育ったのとか、香草とか。
本当に、すごく最近までここは誰かに使われていたんですって主張するものが色々残されていて、私はそれだというのに道具系はほとんど残されていなかったから、どうにか残されていた、明らかに耐久年数を過ぎていそうな鉄の鍋を使って、室内の中央にある炉に火を熾して……お父様に習っていた庶民的火の熾し方がこんなに役に立つとは、とお父様に心から感謝しつつ、……水と穀物、それから根菜を板とその辺に置かれていた棒で叩いて砕いたものを煮込み、岩塩をおろし金ですりおろして、ことこと煮込んだ根菜がゆを作ったのだ。
牛頭の怪物は、その間大人しく座ってくれなかった。
私が色々作業をする脇にしゃがみ込んだり、火を熾すのを見て火に手を突っ込み、熱くてびっくりしたのか手を引っ込めたり、私では歯が立たなかった根菜を砕くっていう荒業を、見様見真似でやってあっという間に砕いたりしたのだ。
「ナイフとかあると簡単なんだけど」
鍋の中身をかき混ぜて、味を見て、よし、薄味で結構、と思って、これもあばら家の中に残されていた、真っ黒に変色した金属のスプーンを水洗いしたものを牛頭の怪物に差し出す。
使い方わかるだろうか、と思って、私も鉄鍋に、やっぱり探し回って見つけた似たようなスプーンを突っ込んで一匙すくって、ふうふう息を吹きかけて根菜がゆを食べると、食べ方が分かったらしい。
牛頭の怪物は、見様見真似で、根菜がゆを食べて、そこで私は、牛の目でも、美味しくてきらきらするんだなって事を知った。
おいしいって、牛の顔中に広がっていたのだ。
でも熱かったみたいで、なかなか食べ進められないでいる。
器とかがあったら、取り分けて、どうにかもっと冷まして食べられるんだけどな、と思っている私とは違って、じれったそうに牛頭の怪物は、ふうふう、ふうふう、と一匙ずつ冷まして、根菜がゆを半分食べた。
「もう食べないの?」
こんなに大柄な体なのだから、相当大食いだと思ったのに、その牛の頭の怪物は、不思議そうに私にスプーンを突き出す。
まるでこの仕草は……
「私にも食べろって言いたいの?」
この牛頭の怪物は相当文明的なのかもしれない。野性の獣にも魔物にも、食べ物を誰かと分け合うという精神は群れでの経験がなければ存在しない。
そして、初めて食べたのかもしれない美味しい物を、独り占めしないっていう時点で、相当文明的だ。
……いや、これを作れる私に逃げ出されないように、食べ物を分け与えるっていう選択肢かもしれないぞ、と思いながらも、私は、こんな状況下で食べ物を分けてもらったら、お礼を言う事しか正解は存在しないから、友好的に笑って、答えた。
「ありがとう。でも、私はあんまりお腹空いていないから、もう少し食べていいよ」
もう少しの概念が分からなかったのか、牛頭の怪物は、その後二口だけ食べて、残りを全部私に食べさせてくれた。
こんな状況での優しさに似たものに、私はちょっと涙ぐんだ。