第89話:夏の入り口
「ほらアリス、早く。レミィたち待ってるよ」
「……眠い。もう少しだけ」
歯を磨きながら、未だ布団の中で丸まっているアリスに声を掛ける。彼女は相変わらず朝が苦手なようで、この流れはもうお約束と言っても良い。
「全くもう」
洗面所に置かれたコップに水を注ぎ、口を濯ぐとそのコップに歯ブラシを入れる。これは以前から欲しくて買う機会を伺っていたのだが、先日、レミィが普段の洗濯のお礼にと言って譲ってくれたものだ。木片よりも断然使い勝手が良く、気に入っている。
鏡を見ながらバレッタを着ければ、私の身支度は完了する。あとはねぼすけのアリスをベッドから引き摺り出して、身支度をさせて部屋を出るだけだ。
(この生活にも慣れたなぁ)
そんなことを思いながら、洗面所を出てアリスの元へ向かう。机の上に置かれた時計を見て、まだ時間に余裕があることを確認する。
マウロとの決闘から既に三ヶ月が過ぎ、季節が春から夏へと変わり始めた七月。
変化は多少ありつつ、学園生活自体は順風満帆と言っても良いだろう。私はこの生活を謳歌している。
あれからのことを、少しではあるが思い返してみる。
まずは決闘直後の話だ。
マウロと別れたあの日、全ての授業が終わった後に再び掲示板にて学園側から報せがあった。その内容は、マウロの取り巻き二人の退学処分と、序列戦の勝敗を反映した私の順位だ。
取り巻き二人に関しては、決闘前日の襲撃に関与したことが理由となったのは明らかだ。正直、何故マウロの後なんだと思い、対応が遅い学園に対して少しだけ疑念はあった。
ただこれに関しては、デカルトから何も言われなかったし、聞いても答えてくれなかったのでそれ以上何も知ることはできなかった。
処分したのでこの話は終わり、という感じだ。
デカルト自身も自分のホームルームからそう言った生徒を出したことで、何かしらの処罰が与えられたそうだが、これについても何も知らされていない。知ったところで、何かできるわけでも無いが。
私に直接関係があるのは、もちろん序列戦における順位だ。
序列は全生徒を対象としており、今年の生徒数は約六〇〇人。その中で私はマウロ戦の直後は三〇〇位、そして現在は二百三十八位に位置している。半分より上ということで、数字的には良さそうに見える。
ただ、全生徒が対象と言っても、全員が全員序列戦を行うわけではない。毎年、大体全生徒の半数ほどが積極的になるそうだ。
オルのような、そもそも戦闘面に向いていない生徒もいるので当然と言えば当然だろう。なので序列戦に積極的な生徒からすれば、私の順位は下の方になる。
ではなぜ、マウロ戦の後から順位が上がっているのという話だ。
これはもちろん、序列戦に勝ったから上がっている。というのもマウロ戦の後、他の生徒が私に序列戦を申し込んでくるようになったのだ。どうやら私が序列を上げる、つまり序列戦に積極的な生徒だという風に捉えられているようで、この三ヶ月の間に六回、序列戦を行っている。
(今のところ、全勝。運が良かったのもあるけど、中々の戦績だよね。自分で言うのもなんだけど)
六回の序列戦を経て、マウロがどれだけ強かったのかを改めて実感した。なぜなら、六回全てを“陽炎の剣”を使わずに勝利しているからだ。手を抜いたわけでは無いが、使わなくてもなんとかできる程度だった。
あのマウロとの死闘で、私自身が成長したのもあるだろうし、そもそもこれまでの努力が無駄では無かったのだと核心した。
才能が無くても喰らいつける。
そういう自信がついたのもあって私は今、序列戦に結構前向きな姿勢だ。自分から挑むことはあまり考えていないが、申し込まれれば断ることはしないだろう。
(まあでも序列戦をすると、授業一つに出れないのが面倒。免除って形にはしてくれるけど)
序列戦となれば参加する二人の予定をすり合わせ、授業一つ分を潰して行われる。学園の制度ということでそうなった場合、授業は免除される。
しかし、その分の補填は学園側からは何も無いので、自力で遅れた分を取り戻したり、授業内容を友達から教えてもらわなければならない。
それもあって前向きと言いつつも、できれば一ヶ月に一、二回で十分だ。授業は嫌いじゃないし、できれば参加したい。
私のことは一旦これで終わりだ。
アリスやレミィ、オル、ピネットについては追々で良いだろう。
「フィリア」
そんなことを思いながらベッドに腰掛けていると、目の前にアリスが現れた。ハッとして時計を見れば、いつも部屋を出る時間よりほんの数分遅いぐらいだ。
思い耽っている間に、大分経っていたらしい。アリスは着替え終わり、制服である上着も羽織っている。
いつも通りの無表情で私を見るアリスは、不思議そうに首を傾げていた。
「考えごと?」
「あー、うん。少しね」
「そう。悩みなら教えて」
悩みじゃないよ、と言いながら私はベッドから立ち上がる。身長差がある彼女を上から見れば、後ろ髪が乱れたままだ。
「後ろ向いて」
アリスは私がそう言うと頷き、素直に振り向いて背中を向ける。仰向けで寝ているからか、後ろ髪だけ寝癖がついている。
私は机の引き出しから櫛を取り出し、その綺麗な銀髪に櫛を通していく。柔らかく細い彼女の髪を触るのは、結構好きだ。身嗜みに無頓着なところは依然変わらないので、こうして私がすることが多いが、割と役得なのではないかと思うようになった。
「今度、私もフィリアの髪梳かしてみたい」
「じゃあ私より早く起きなきゃね」
「……フィリアが遅く起きれば良い」
それは無理かなぁ、と話をしていると、アリスの乱れた髪はあっという間に綺麗になる。
櫛を引き出しに戻し、時計を再び見れば少し急がなければならない時間になっていた。
「少し急ごう。レミィたち、先に行ってるだろうし」
「ん」
こくりと頷いたアリスの手を取り、部屋を出る。
既に食堂に向かったであろうレミィたちに、遅れたことをなんて謝ろうか、と思いながら廊下を走らない程度に急ぐ。
私たちの一日が、今日も始まる。
お読みいただきありがとうございます。
次話は明日17時の更新を予定しております。




