第68話:震える手を包み込む
私とアリスが朝食を食べ終わる頃、デカルトの下へ行っていたレミィが息を切らせながら食堂へと入って来る。どうやら寮と校舎を走って往復していたようだ。
彼女は朝食を急いで食べながら、デカルトに今回の件を伝え、実家に報告して貰えるよう取り計らって貰ったことを話してくれた。
『今日中にはお父様も動いてくれると思う。フィリアは何も気にせず、目の前の決闘に集中して』
そう語るレミィの姿は、いつも以上に頼りになると感じた。
だがその直後、急いで食べていたのが祟ってか、パンを喉に詰まらせ葡萄酒を飲みながら、アリスに心配されていた。
私とアリスはレミィより先に朝食を食べ終えたが、もちろん置いて行くなんてことはせず、彼女が朝食を済ませるまで待つことにした。時間に多少余裕があったので、決闘の開始に遅れるなどの問題は発生しない。
―――☆☆☆―――
朝食を済ませたレミィと三人で寮の玄関に来ると、溢れかえるほどでは無いにしろ、生徒の姿がいつもより多かった。
「皆、フィリアの決闘を見に行くんだよ」
隣のレミィがそう言い、私は頷いた。この人たちを楽しませる、なんて殊勝な心は持ち合わせていない。
せいぜい勝手に見てくれ、という感じだ。
玄関を出て、いつもとは違う方向に歩き出す。向かう先は校舎ではない。第三運動場だ。
並木道には玄関同様、普段よりも生徒の姿が多く賑わっている。
「人、多い」
私の左手を握りながら歩いているアリスが、眉間に皺を寄せながら生徒たちを見ていた。
私はなんとなく彼女の手を引き、自分の体により近付けくっつける。特に何か思惑があるわけじゃなく、そうしたかった。
するとアリスは、歩きながら私な顔を見上げる。私が横目で視線を送ると、眉間の皺を消しながら再び前を向いた。
どこか機嫌が良くなった気がする。
「緊張してる?」
右隣を歩くレミィが、私にそう話し掛ける。
その声色は優しげではあるものの、震えているように感じた。
私はレミィを見た。彼女もまた私を見ており、その表情は不安そうで、でも変に微笑んでいるように映った。
「……私より、レミィが緊張してるんじゃない?」
「だ、だって……!」
反論しようとしたレミィはそれだけ言って、萎んでいくようにそのまま黙ってしまう。
レミィとオルには、決闘の勝敗によっては私が学園を出なければいけないことは話している。
負ければ去る。
それを知っているから、レミィはこんな様子なのだろう。
「緊張……なのかな。玄関出てから右手の震えが、ね」
私はそう言って、右手をレミィに見せる。
小さく、細かく震える私の手を彼女は見つめていた。
なぜ震えだしたのかわからない。
今、私の気持ち的には、特に緊張もせず昂揚もしていない。いつも通りと言っても良いだろう。
だが、それなのに私の右手は落ち着く気配が無い。
――私が冷静になろうと、冷静であると取り繕っているだけなのかもしれない。
自分はこれから、自分の夢を壊すかもしれない戦いに挑むのだ。壊すまでにならずとも、少なくとも辿り着くまでに長い時間を要するようになる。
そんな戦いだ。
私の心がきっとおかしいんだ。レミィのようにいることの方が、自然に見える。
だがそんな私の体は、ちゃんと正しい反応を示しているのだろう。
震える右手に、そっと熱が灯った。
その熱はレミィからもたらされるものであり、彼女は自身の両手で私の右手を覆い隠したのだ。同時に彼女は足を止め、私を見詰める。
彼女の歩みが止まることで、私たちも一度立ち止まった。
レミィの体温と、彼女の両手が小刻みに震えていることも感じる。
「フィリアがいなくなるの、嫌だよ……」
そう言ってレミィは私の右手を持ち上げ、自分の額に押し当てる。祈るように顔を伏せ、ぎゅっと握りしめてくる。
「まだ一週間も経ってない。経ってないけど大事なお友達なのは変わらないし、経ってないからもっとお話してたいよ」
入学初日を含めて、学園で過ごし始めてから今日で五日目。それは、レミィたちと出会ってから経過した日数とも言える。
レミィの言う通り、まだそれだけしか経っていない。
彼女は私に良くしてくれる。一緒にご飯を食べ、授業を受け、色々なことを話し、お風呂にも入った。
そんな彼女のことを、私も友達だと思っている。大切な、教会の外でできた初めての友達だ。
そして友達だという思いはレミィだけじゃない。きっとオルやピネットも、持ってくれているだろう。
そこで私は気付く。
この決闘で負ければ、レミィたちすら傷付けることになるのだと。
もはや私だけのものじゃない。私たちのこれからに深く関わるものなのだ。
自然と、私の右手から震えは消えていた。
「ありがとう、レミィ」
そう告げるとレミィは顔を上げ、私と視線が重なり合う。どこか泣き出してしまいそうな彼女の綺麗な碧眼は、初めて会った時のことを思い出させる。
あの時、私の目には気弱な女の子に映った。しかし、実際の彼女は、気高さと上に立つ者としての心を持った貴族らしさ、どんな者にも優しく分け隔て無く接する可愛らしい普通の少女だった。
「緊張してたけど、もう大丈夫」
だから、
「勝って、またレミィの所に行くよ」
私の言葉を聞いたレミィは、頬を赤らめ私から視線を外す。それから何かぶつぶつと呟くと、彼女はゆっくり視線を私に戻し、どこか恥ずかしげに笑った。
「うん……待ってる、で良いのかな……?」
私は彼女の問いに対し頷いた。
そして私たちは再び歩き出し、第三運動場へと向かう。
何やらアリスの握る力が強くなり、若干の痛みを感じるのは気のせいだろうか。そしてどこか、不満そうな顔を彼女が浮かべているのも、勘違いだろうか。
よくわからないが、アリスは運動場に着くまで不機嫌だった。




