第66話:黒い刃
遅くなり申し訳ございません。
決闘の前日。
授業と夕食を終えた私は、いつも通り日課のために中庭へ出ていた。
アリスはレミィから本を借りており、私の近くに座ってそれを読んでいる。
その本についてレミィは瞳を輝かせながら、世界の果てを目指して旅に出た男を、故郷でずっと待ち続ける女の話だと、私とアリスに語った。
私も興味はあったが、それ以上にアリスが食いついた。普段興奮も感動もしなさそうに見える彼女だが、レミィの語ったあらすじには大変興味を示して、結果レミィから貸し出してもらうことになった。
中庭に来る時も、その本を脇に抱えて私の手を、早く行こう、と言わんばかりに引いていた。
そんな楽しげなアリスにとって、悲しい知らせが一つだけあった。
「……読みにくい」
今日の夜の天候についてだ。
昨日までは雲の無い夜の空であり、そのおかげで月が何者にも遮られず、その光を十二分に降り注いでいた。
しかし今日は雲の多い天候となっており、月光はその役割を果たし切れていない。
つまり、夜はアリスの視界を黒く染めてしまい、本が読み辛いのだ。
「……む」
そんなアリスは、あと少しで鼻先が本のページにぶつかってしまいそうなぐらい、顔を近付けてなんとか読もうと苦労していた。
私としては、部屋に戻ってから読めば良いと思うのだが、日課に付き合ってもらって連れ出している以上、口を挟むことはできないと思い何も言わない。
あと純粋に楽しみにしていたようだし、それを邪魔するのも無粋だろう。
「むぬ……」
私の振るう木剣が風切り音を立て、その合間にアリスの苦悩する声が聞こえる。
中庭にあるのは、それだけだった。
それだけのはずだった。
私の木剣が振り下ろされた瞬間、体に軽い衝撃と金属同士が衝突する、鋭く甲高い金属音が鳴り響いた。
「頭、下げて」
状況を理解する間もなく、アリスのその言葉が聞こえ、私は言われた通り姿勢をわざと崩すことによって地面へと腹這いになる。
何が起きたのか、それを確認するために周囲を見回す。
本を左脇に抱えたアリスは、既に白銀の剣を抜いている。這いつくばるように倒れ込んだ私の前に立ち、その銀色の瞳を絶え間なく動かしている。
暗闇の中、アリスを挟んで私の正面の地面に何やら黒く光るものが落ちている。目を細めてじっと見つめていると、それが何やら細長いもので、地面に落ちているのではなく突き刺さっているものだと気付いた。
――ナイフだ。
しかもただのナイフではない。鍔と反りの無いそれは、柄から切先まで一直線の形をしており、なおかつ棒のように細長く飾りっ気の無いものだ。
投擲用のナイフ。それが地面に突き刺さっている物の正体だった。
体に感じた軽い衝撃は、アリスとナイフの位置関係によって理解できる。
私に向け投げられたその凶器を、アリスが間に入って妨害した。その過程で彼女の体が私にぶつかったのだ。
私は背筋に冷たいものが這い回る感覚を得て、体を動かしたことによる汗では無いものが頬を伝うのを感じた。
「気配を感じない。撤退した」
アリスはそう言いながら白銀の剣を魔力に変換し、自身の周りにその残光を残しながら私へと振り返る。
警戒はしているが、一旦落ち着いたのだとその姿を見て察し、私はゆっくりと立ち上がる。
アリスは私から離れると、地面に残されたナイフを引き抜きそれを眺め、刃の部分に鼻を近付ける。
「毒は無い」
そう言って私の方へと放り投げ、私はそれを空中で受け取る。毒は付けられていないとアリスが言っていたので、刃の部分を指先でなぞると指先が黒く染まった。同時になぞられた部分から銀色が見える。
柄頭から切先まで、塗料によって漆黒に染められていることがわかる。
そしてそれは、暗器としての役割をこのナイフが持っている証明にもなった。
ここにある情報、その全てから、暗殺者の存在が露わになる。
そしてその者に狙われたのは、私だ。
ぞくり、とした悪寒が走る。
「警戒を怠った。それに逃した」
立ち尽くす私に、アリスがそう言葉を掛けた。
普段は無表情で今も変わらないが、どこか申し訳無さそうな、落ち込んだ雰囲気を感じる。
「ごめんなさい、フィリア」
すると彼女はそう言って、顔を伏せた。
私はアリスのその言葉に一瞬思考が固まる。何でアリスが謝っているのだろう、という疑問が私の中で渦巻いた。
自分が狙われたわけじゃない。私を守ってくれたのに、何故謝る必要があるのか。
そう。守ってくれたのだ。
初めて会った時に言っていた、私を守るというその言葉を、彼女は十分に果たしてくれた。私が願ったわけでも!頼んだわけでもないことをだ。
「ありがとう」
だから私はアリスの言葉に、謝る必要は無いだなんて言わずに、ただありがとうと伝えようと思った。
そしてその思いは自然と口を出て、アリスへと体は近付いていく。
「守ってくれた。それだけで十分なんだよ」
近寄ったアリスは、やはり小さい。私よりも幼く、私よりも小さいのだ。その存在に、私は守られた。
私はそっとアリスを抱き寄せ、彼女の頭を優しく撫でる。
アリスは何も言わず、私の腰に腕を回す。服の上から感じるその細腕は、どこか震えているように感じた。
アリスのこの姿は、私がそうさせたのだ。
暗殺者。
このタイミングで仕掛けて来るとすれば、その目的は容易に想像がつく。
明日に控えた決闘、その相手。彼の手の者であることは、ほぼ間違いないだろう。
――マウロ・ロドリゴス。
私は彼に勝たなければならないのだと、改めてこの襲撃によって実感した。




