第51話:四限目の始まり
「お師匠様……」
絞り出した声は自分でも驚くほど震えていた。
口の中が乾き、意識しなければ息をすることを忘れてしまいそうなほどの重圧の中、“剣帝”ジアッテは不敵に笑っていた。
「思ったよりも早い再開になったの、フィリア」
ジアは私の目の前まで歩み寄ってくると、貯えた髭を撫でながら私を見上げそう言った。
思ったよりもどころの話じゃない。つい一昨日会ったばかりで、休みの日にしか会えないような別れ方をしたはずだった。
しかし彼は、ジアは私のすぐ目の前にいる。しかも稽古の時と同じ殺気を常に出しながら、私の前に立っている。
いつ木剣が振るわれてもおかしくない。
私はそう思い、彼の一挙手一投足を凝視する。今のところ動く気配は無いが、次瞬きをしたら視界一杯に木剣が広がっているかもしれない。
私は腰に差した木剣の柄に、ゆっくりと手を伸ばす。そしていつでも対応できるよう、私は彼を見据え続けた。
「……ふむ。新しい環境に浮かれているかと思えば、大丈夫そうじゃな」
そう言ってジアは警戒する私に背を向けると、それと同時に殺気を収めた。体中に重く圧し掛かっていたジアの気配は消え失せ、彼の周囲を覆っていた歪みもまた見えなくなる。
瞬間的に全身から汗が噴き出した。強張った全身の筋肉はいまだ緊張したままで、手の震えも収まっていない。
そのため体を思い通りに動かすことができず、柄を握った手を離そうと意識しても離れてくれない。
彼のこんな強烈な殺気に当てられたのは、ジアのためにとミリ姉が昼食を作って、それを私が食べてしまった以来だ。さらにその後の仕置きは思い出したくもない強烈な記憶であり、私が彼に尊敬以上の畏怖を覚えた原因でもある。
アリスを見る。彼女はいつも通りの無表情でそこに立っており、私と違って落ち着いている。しかし視線はずっとジアを捉えている。
ピネットの方へと視線を移すと、逆立っていた彼女の髪は落ち着きを見せている。だがその表情はいまだ緊張を見せており、まるで敵を見るような視線でジアを追い続けている。
ジアは誰一人喋らない静かな生徒の集団の中を通って、一目で見渡せる位置まで移動すると、集団の方へと向き直り木剣を地面に突き刺す。老人ながらも堂々とした姿に、生徒の視線が集まる。
彼は生徒たちの顔を右から左へと見ると、少し前まで緊張した雰囲気からは考えられないほどの笑顔を浮かべながら話し出す。
「君たちの面倒を見ることとなった、ジアッテじゃ。よろしく頼もう」
頭の隅にあった、もしかしたら本人ではないんじゃないか、という小さな淡い希望はその名乗りによって粉々に砕かれた。
―――☆☆☆―――
「ほれ、気合い入れんか!」
ジアの声が響く。
剣術の授業が始まった第三運動場には、不思議な光景が広がっていた。
そこにいる生徒全員が同じ動きをしているからだ。多少乱れはあるものの、皆一様に木剣を振っている。頭上まで振り上げた木剣を、地面に平行になるように両腕をまっすぐ伸ばして振り下ろす。それをひたすら繰り返している。
「得物がどうあれ、剣を振るのであれば素振りは必然。必死に振れぃ!」
集団の前に立つジアは、木剣を振るう私たちを眺めながら檄を飛ばす。
私は木剣を振りながら、ふと周囲の生徒たちを見た。その様子は様々で、苦労なく涼しい顔をしながら木剣を振る者がいれば、それとは真逆に息が上がっていたり、腕が上がらないのか緩慢な動きで振るう者もいる。
右隣のピネットを見てみると、彼女も特に苦しそうな表情の代わりに苦虫を潰したような表情を浮かべている。そして木剣の振り方が、少しおかしいのにも気付く。真っ直ぐ頭上から木剣を振り下ろすべきなのだが、若干ずれているように見える。
振り下ろす度に髪が彼女の顔の前に飛び出し、それを頭を振って後ろに戻す仕草をしていることから量の多い自分の髪が鬱陶しいのだろう。
短剣の方が馴染むのは、その様子も理由の一つなのだろう。
アリスはと言えば、私のすぐ隣で気怠そうに木剣を振っていた。練習用の木剣は彼女の身長ほどの長さがあり、彼女が扱うには非常に不便そうにも見える。
気怠そうなのはそれが理由かと考えたが、彼女の振り方を見ているとそうでないことがわかる。
力の入っていない緩慢な動きではあるが、自分の正中線を正しくなぞったように振り上げと振り下ろしをしているのだ。加えて、木剣の重量によって体勢が崩れてしまいそうに思えるが、彼女の体はその場からピクリとも動かず、まるでその場に根を張った木のように立っていた。
剣の扱い方を熟知し、それをミスなくこなしているのは、彼女が高い技術を持っていることの証左でしかない。
私はと言えば、まあ普段通りだ。一応日頃から素振りは欠かしていないし、剣を制御できるだけの筋力と体の使い方は習得している。
勿論、今の私が完璧だとは思わない。気を抜けば剣の軌道はブレるし、実際稽古中にジアから振り方が悪いと指摘されることもある。
ジアからは止めの声が掛かるまでは、ひたすら振るように私たち生徒は言われている。無心で振るのも問題ないと思うが、折角なら学べるものは学んでおきたい。ゆえに私は隣のアリスの姿を見て、その振り方を真似することにした。
「フィリア、あの人と知り合いなの?」
木剣を振っていると横のピネットが、少し息が上がった状態で声を掛けてきた。あの人、と言っていることからもしかしたらピネットはジアのことを知らないのかもしれない。
私はジアがこちらを見ていないのを見計らって、ピネットにだけ聞こえるような声量で答える。
「うん。剣の師匠」
「あー、だからかぁ」
私の答えにピネットは、何かに納得したのか頷きながらそう言った。
だからか、というのはどういう意味だろう。私はその疑問を、そのままピネットへとぶつける。
「どういうこと?」
「あの人からフィリアと、同じ匂いがしたんだ」
「匂い?」
「雰囲気って言った方がわかりやすいかも」
冒険者学が終わってからここに来るまでの移動中、ピネットから獣人についてある話を聞いた。
それは獣人の特性である、動物と同じ能力や特徴を持つという話だ。
例えばその話をしたピネットは、三角のピンとした耳に、細長い尻尾、縦長の瞳孔を持つことから猫が特徴として現れている。それは猫の能力も持っていると言えるようで、彼女の場合は体が柔らかいことや暗闇でもよく見えることなどがあるらしい。
つまりピネットの言った匂いというのは、人間である私が近くできない何かを感じ取ったということであり、それを人間的に表現するなら気配や雰囲気なのだろう。決して衣服の匂いや体臭が、という訳ではないはずだ。
匂いによって私よりも早く、ジアが運動場に現れたことに気付いていたのだとしたら、先ほどの威嚇する姿に繋がる。
そして匂いによって私とジアが知り合い、もしくはそれに準ずる間柄であることを会話以外から察したのだ。
「あんな怖い人が師匠なんて、大丈夫だったの?」
「……うーん」
大丈夫かどうかで言えば、大丈夫だった。怒らせなければ、という条件が付くが。
先ほどジアが見せた姿は決して普段のものではなく、それこそ怒らせない限りあんな殺気は出ない。
一応自分の師匠であるし、大きな恩義もある。そんな彼が怖い人、と評価されるのもなんとなく嫌だなぁと思う。私が言い淀んだのは、どう伝えれば良い印象をピネットに与えられるだろうか、と悩んでいたためである。
ミリ姉の手料理が好き、と言ってもミリ姉とは誰だとなって伝わるわけがない。
普段は優しく穏やかなお爺ちゃんで、稽古となれば人が変わったように……なんて言えば火に油か。そうでなくても印象が変わらないような気がする。
「うーん……」
私はピネットへの答えに悩みながら、木剣を振り続ける。




