第3話:炎の世界と、生きる災厄
「――ィ――!」
誰かの声が聞こえる。何を言っているかわからないが、とにかく眠い。私は声を気にすることなく、微睡む。
「――ィ――ァ!」
この声は母だろうか。もう起きる時間が来てしまったのか。でもまだこのまま寝ていたい。布団が心地良い。
「――フィリアッ!!」
そんなことを考えながらベッドの中で寝返りを打った時、一際大きな声が聞こえ、私は一気に目を覚ました。
重たい瞼を手で擦りながら声の主へと視線を向けると、そこには母がいた。月明かりのせいか、窓からの光によって逆光となり、母の表情はわからない。
朝かと思えばまだ夜のようだ。それにしては明るい。月にしては赤みかかっている光のように思える。
「お母さん……? まだ夜だよ……」
私は上半身を起こしながら母にそう言った。すると母は瞼を擦る私の手を取り、力任せにグイッと自分へと引き寄せた。それが痛くて、私は顔をしかめた。
「い、痛いよ、おかあ――」
「逃げるよ! 急いで!!」
私の言葉を遮り、母はそう言った。暗さに目が慣れたのか、逆光の差し方が変わったのか、母の表情が見えるようになった。
私はその母の姿を見たことがなかった。鬼気迫る表情で額に汗をかき、片手に大きめのカゴをぶら下げていた。中には服や食べ物など、色んなものが入っていた。声音も普段の優しさが一片も見えず、焦りに満ちていた。
ぞくり、と私は身震いした。何かがあったというのはわかる。だがそれが何なのかわからず、私の頭の中はぐちゃぐちゃになった。
固まった私を見て母は、急いで私を抱えた。
そして抱えられた私は母の肩越しに、窓の外を見ることができた。
一面が、炎に染まっていた。
月明かりだと思っていたのは燃え盛る炎の赤であり、明らかな異常事態であることを混乱する頭でも理解した。
怖かった。何もかもが。普段と違う母の様子も、母が力一杯私を抱き抱えていることも、窓の外の炎にも。
全てのことが幼い私にとって、恐怖でしかなかった。
自然と私は泣き出した。恐怖以外、何を思っていたかはわからない。というより、思う余地すらなかったのだと思う。
母は泣き喚く私を抱き抱えたまま、一目散に家の外へと駆け出した。
外に出た瞬間、熱を感じた。周囲で轟々と音を立てる炎たちが、空気を過剰に熱していた。同時に黒煙が立ち込めている。
「苦しいでしょうけど、我慢して」
母はそう言ってカゴから一枚の布巾を取り出すと、私の頭と口を覆った。
バチバチと木々が燃える音が聞こえる。それに共鳴するように、人々の悲鳴が聞こえる。聞いたことのある声で、助けてと叫んでいる。
悲鳴が聞こえ続ける。離れたところで、燃えた家が崩れ落ちていくのが見えた。
母は再び走り出した。目的地はわからないが、向かっている方向は森だった。
普段、森は危険だから女子供が立ち入ってはいけないと、父からよく聞かされていた。それなのに母が向かっているということから、私はより混乱し、泣き続けた。
炎よって照らされた森は、なおも暗い。植物たちが葉を落とした秋とはいえ、進むのはかなり難しかったはずだ。だが母は走り続けた。その体が木々の枝や微かに残った植物たちによって傷付いたとしても、一心不乱に走り続けていた。
母は何も言わない。ただ走っていた。
しばらく進むと、私たちは開けた場所へと出た。木がなく、円形の空間だ。そしてそこに一人の男が立っていた。
「フィリア!」
その男が私を名前を呼ぶ。それがすぐに父だということがわかった。
父は私たちのもとへと駆け寄る。右手に手入れをしていた剣を持ち、空いた左手で私の頬を撫でた。父の頬には煤がこびり付き、険しい表情をしている。
「村のみんなは!?」
母がそう尋ねると父は首を横に振った。私はそれが何を意味するのかわからない。
「……ここはもう駄目だ。フィリアを連れて西へ行け」
父はそう言いながら私たちを抱きしめた。錆びた鉄の匂いがする。嗅ぎ慣れない、嫌な匂いだ。
「私たちだけでは無理よ! あなたも一緒に……!」
「俺は残る。“アレ”の足止めをしなければ」
会話が聞こえる。母の嗚咽が聞こえ始め、父が離れると私の頭を撫でた。そして優しい表情で私を見つめ、言った。
「フィリア。お母さんの言うことをよく聞き、他人を守る優しさと力を持ちなさい」
普段、父から私に何かを言うことはない。何かを教えることはない。だからその言葉は初めてのものだった。
父は言う。
「フィリア、忘れるな。俺はお前を愛し、いつだってお前を想っている」
母の泣きじゃくる声が聞こえる。何が何やらわからない。でも父の言葉は、とても大切なことだと思った。
「フィリア。強く、賢く、健やかに。そして、誰よりも幸せになれ」
そう言って父は私の頭から手を離すと、母の方を向き頷く。そして私たちが来た道、村の方へと走り出した。
「……フィー、もう少し我慢しててね」
嗚咽混じりに母はそう言うと、母もまた走り出す。父とは逆方向へと。
遠ざかる父の背中を見る。無意識に、父へと私は手を伸ばした。届くはずもないその手は、虚空を掴む。
枯れた木々の生い茂る森の中へと消えていくその姿が、私が最後に見た父の姿だった。
どれほど進んだのだろうか。苦しそうな母の息遣いと、 葉が擦れる音だけが聞こえる。どこに向かっているかわからないが、母が指差す。
「あと少しで、森を抜けるからね」
その先を見れば、木々が途絶えた所が見える。森の先に何があるか知らない私にとって、そこが何なのかはわからないが目的地なのだろう。
「お母さん、何が起き――」
落ち着き始めた私が母に尋ねようとした瞬間だった。
大きな音と共に、一瞬意識が途切れた。
気がつくと、私は地面に転がっていた。チカチカする視界、悲鳴と痛みが響く体。私は動けず、瞳を動かすことで周囲を見た。
先程まで所狭しと並んでいた木々が、まるで松明かのように炎上している。昼のように明るく、瞳を焦がされたかのように錯覚するほどだ。
近くに人が私と同じように転がっている。それが母であることはすぐにわかった。
「お、かあ……さ……」
声が出ない。全身を走る激痛、呼吸さえままならない。
母は一切動かない。気を失っているのだろうか。
「おか、あ……さん……」
絞り出した声は自分でもわかるほどか細いものだったが、それでも母を呼ぶ。母は動かない。
よく見れば、母の周りに黒い池のようなものが広がっていた。そして先ほど父から感じた錆びた鉄の匂いが、母の方からすることに気づく。
チカチカした視界が晴れ、母の様子がよく見えた。母の周りに広がっていた黒い池は色を変え、真っ赤に染まる。
いや、それは違う。真っ赤に染まったのではなく、元から赤かったものが明滅する視界によって黒く見えていたのだ。
それは、血だった。
そしてその血が、母から流れ出ているのだと気付くのに時間は必要なかった。
「おかあ、さん……!」
痛みは引かないが、声は出るようになった。呼吸も整ってきている。体も多少動く。
私は這いずって、母へと近付く。
「……フィー……?」
母の声が聞こえた。あまりにも小さいその声は、燃える炎の音によりかき消されてしまいそうなほどで、だが確かに私を呼んだ。
私は少しずつ母へと近付く。
「ご、めんね。お母さん……よく、見えな、くて……」
どこにいるの、と母が言い、母が片手を私の方へと伸ばす。音を頼りにしているのか、その手はふらふらと方向を定めない。
私は必死に腕を伸ばす。母の手を取りたい。その一心で。
「ああ……そこに、いたのね……」
指先が触れると、母は安心したように優しくそう言った。指を絡め、確かめるように手を繋ぐ。
「フィー……わたし、の……愛する……」
私の手からするりと母の手は地面へと落ちた。血と土が混じった地面が、べちゃりと音を立てた。
「おかあ、さん……!」
母を叫ぶように呼ぶ、呼び続ける。吸い込む空気は炎によって熱を帯びている。だがそれでも、呼ぶしかできなかった。
しかし母はそれに答えることはない。
「おかあさん!」
母は死んだ。
幼い私でもそれを理解できたが、理解と納得は違う。母の死を認めることができず、いずれ呼ぶ声が届き、いつものように優しく微笑みながら私の頭を撫でてくれるだろうとその時の私は思っていた。
思うしかなかった。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
私はただひたすら母を呼び続けた。静かになった母は変わらずそこにおり、炎の燃える音と木々が燃え尽き倒れる音、そして私の声だけがそこにあった。
私はふと、空へと視線を移した。その行動に意味はない。ただ、見ただけだ。
だがそれは、まるでタイミングを見計らったかのように私の視界へと現れた。
月を背に、そこにそれはいた。
巨大なその体躯を、二つの翼によって空に浮かせ、金色の双眸で私たちを見下ろしていた。
ゆっくりと私たちの近くに降り立つその姿を、私は知っている。見るのは初めてだし、実際に存在するなんて夢にも思わなかった。
母から聞かされたいくつもの物語で、それは数多く登場した世界で最も恐れられる生物。
巨大な鱗に覆われ、その四肢は太く、力強い。長い首の先にはギラギラと光る白い歯がいくつも見える。長い尾をくねらせ、地面へと叩きつければ地を揺らす。二つの翼は暴風を生み出し、風に打たれるものを薙ぎ倒しかねない。
私の見たことのある建物よりも圧倒的な大きさを持ち、月明かりと炎によって照らし出されるその体は真っ赤に輝いていた。
“生きる災い”、“罪の化身”。
様々な呼び名を持つそれを人は、
「――“ドラゴン”」
そう呼んだ。
ドラゴンが天に向かって咆哮を上げる。
それだけで私の耳は麻痺し、頭が揺れる。同時に逆らいようもない恐怖を心に叩きつけ、拒絶反応を示すように私はドラゴンから遠ざかるよう必死に藻搔いた。
溢れた涙はとめどなく、下半身には生暖かい感触を覚えた。
大きな、風を切る音が聞こえた。遅れて、体を薙ぎ払うかのような暴風が巻き起こり、私の体は飛ばされた。
木に叩きつけられた私は口の中一杯に溢れ出す血を吐き出し、ドラゴンを見る。先程まで私がいた場所は三本の深い溝が生まれており、ドラゴンはその前肢を振り下ろす格好をしていた。溝はドラゴンの爪によって抉られた地面のことであり、私はその力の余波で吹き飛ばされていたのだ。
「い……っ……たい、よ……」
肩から背中、脇腹までに熱い痛みを感じる。よろよろと手の動きで脇腹を触ってみると、少しの粘性を持った血がベッタリと付き、土と煤の混じった泥へと変わった。
(私、死ぬんだ)
声が出ないまま心の中で漏らしたのは、諦めと事実だ。涙ももう出ない。死ぬことへの恐怖もない。
地鳴りと共にゆっくりとこちらへ近寄るドラゴンを見る。死が近寄る感覚というのはこんな感じなのだろうか。
(お父さん、お母さん)
ゆっくりと目を閉じる。
昨日までの日常が、光のように瞼の裏で過ぎて行く。
(明日の収穫、楽しみだったな)
死が吠え、空気がビリビリと振動する。
大好きな父と母の姿が、見えた。
音が止んだ。
地鳴りも聞こえない。
私は目を開き、ドラゴンの方を見る。そこに先程まで威風堂々と聳え立っていたドラゴンはいなかった。
その巨躯は地に伏せていた。そしてそのドラゴンの前には、人影が見えた。
鎧が白い光を反射し、赤と黒で支配されたこの空間で一際異質に輝いていた。
手に持った両刃剣は血が滴っている。
「――すまない」
少し低めの女性の声がその鎧から聞こえた時、私は意識を手放した。