真相
その声は、先ほどまでの年老いた老婆の声とはまるで違うもの。性別転館で何度も聞いてきた、鬼灯梓の声で間違いなかった。
一体何が起きているのか。いやそれ以上に、やはり私の正体がばれている。
厨房に向かおうと僅かに腰を上げた私の耳に、梓さんの穏やかな制止の声が届く。
「安心してください水仙さん。私はあなたの敵ではありません。あるご提案をしたくて来ただけですので」
「……提案」
「はい。ですから落ち着いてください。それに、天地がひっくり返っても、あなたでは私は殺せませんよ」
「………」
見た目は依然老婆のままではあるが、声も雰囲気も先ほどまでとは桁違いの威圧感を放っている。もしかしたらそれは私が勝手に感じているだけかもしれないけれど、それでも確かに、彼女を殺せるビジョンはまるで湧かなかった。
私は包丁を取りに行くことを諦め、素直に席に座り直した。
「……まず、私の方から質問してもいいですか」
「ええ、どうぞ」
老婆の顔のまま、穏やかな笑みで先を譲ってくれる。
私はまじまじとその顔を見つつ、以前読んだある記事を思い出していた。
「それじゃあ早速聞きたいんですけど、本当に梓さんですか? もしそうだとしたら、その姿は一体……。それに、私の記憶違いでなければ鬼灯梓は、既に死んでいるはずなんですけど」
あれは私が自殺したのとほぼ同時期のこと。あの死体に不信感を持たれていないかと、びくびくしながら何度もネットを彷徨っていた時に偶然発見した記事。そこには、鬼灯梓なる、性別転館で話していた彼(彼女)と同姓同名の人物が死んだことが記されていた。
その記事には一部気になる点があったが、それでも鬼灯梓という名前を検索したところ、館で見た梓さんの写真が出てきた。そしてまた、死んだのが彼女であることも間違いないようだった。
だからこの世界にはもう、鬼灯梓という人物は存在していないことになる。それにも関わらず、彼女の名を騙る目の前の人物は――
梓さん(?)は、「私が亡くなった記事、読まれていたのですね。では、こちらの準備も無駄ではなかったようです」と言い、両手で頭を覆うように掴んだ。そして何度か左右に力を込めて揺らすと、あっさり彼女の銀髪の鬘が脱げ、美しい長い黒髪が舞い降りた。
さらに彼女は「失礼します」と言うと、ハンドバックからクレンジングシートを取り出し、自身の顔をそっと拭い始めた。
見る見るうちに彼女を老婆たらしめていた皺や弛みが消えていき、美しい、深窓の令嬢とでも呼ぶべき女性姿の梓さんへと変身した。
目の前にいるのは間違いなく、性別転館で幾度となく話しをした鬼灯梓の顔。そして私がネットで死亡を確認した鬼灯梓だった。
実在しないはずの死者の登場にいよいよ頭がエラーを起こす。それと同時に、とある仮説が思い浮かび、私ははっと顔を起こした。
「まさか、梓さんも……!」
「いえ、違いますよ」
私の言いたいことを察したのか、先回りして否定の言葉が投げかけられる。それで言葉に詰まってしまった私に対し、彼女は悠然とした笑みを浮かべ、先ほどの名刺をつんつんと指で突いた。
「ここにあるように、私もTP機構のメンバーだったんです。だから、一柳さんが推理していたように、目的は性転換でなく館とアンさんに関する情報収集だったんですよ」
「は、はあ。だとして、今生きている理由には――」
「でも中々私の番は回ってきそうになかったので、奪っちゃうことにしたんです。私の体型に似た当選者を殺すことでね」
「奪う……」
鬼灯梓の死亡記事で気になった点。その一つは、性別が女性として記されていたこと。もう一つは、彼女が殺されたとされる日時が、私たちが性別転館を訪れた日になっていたことだ。
女性と表記されていた件に関しては、家族からの要請や、まだ正式に男として処理されていなかったなど何か理由があるんだろうと考えていた。死亡した日時に関しても死体の置いてあった場所や状況によって変動するものだし、何かのミスなんじゃないかと思っていた。
だけどそれらは勘違いだった、いや、根本から間違っていたらしい。
そもそも私が性別転館で話していた梓さんは本物の鬼灯梓ではなく、私が記事で死亡を確認した梓さんが、今目の前にいる梓さんに殺された、本物の鬼灯梓だったというわけだ。
「いや、意味不明だわ……」
頭の中でそう答えが出るものの、あまりに荒唐無稽な真実に頭を抱える。
ここでも入れ替わり。あの時、あの館は、一体どれだけの欺瞞で満ちていたのか。
そう苦悩する私の耳に、梓さんの朗らかな声が響いた。
「かなりチープな表現になりますが、私は所謂変装の達人でして。その能力ゆえに、TP機構でも高位の地位をいただいているんです。普段は皆さんの変装の手伝いや助言といった安全な仕事ばかりなのですが、あの時は珍しく危険な仕事でしたね。何せ偽物であるとわかればアンさんに殺されても不思議ではありませんでしたから。結果として、無事に生き残れたのは運が良かったです」
「変装のスペシャリスト……。じゃあ男性の姿も性転換したわけじゃなくて、男に変装していただけだったんですか」
「そうですよ。だからもし全員の身体検査をやろうなんてことになってたら危なかったですね」
「……まさかとは思いますけど、私が性別転館で見た杖を突いた老人って」
「はい、私ですよ」
誰にも信じてもらえなかった、見間違えだと言われた老人の正体は梓さんだった。
驚きを感じると共に、なぜ変装と言う可能性を考えなかったのだろうかと悔やむ。まあ悔やむも何も、性別転館に来た人物の中に性転換せず老人の変装をする者がいるなんて、そんなとんでも発想に誰が至れるというのか。いや、至れるはずがない。
ただ変装している人物がいると仮定した場合、二階の談話室にいた梓さんにはチャンスがあったと言える。加えてあの時二階にいたのは、彼女と同じくTP機構メンバーであるミスター・ヒエンもとい毒田御神だった。口裏を合わせ私を欺くなんてわけなかったはずだ。
「一応言っておきますが、老人の変装をしたのは趣味ではなく仕事の一環ですよ。突然参加者以外の、それも性転換をしたわけでもない人物が目の前に現れた時、アンさんがどんな反応をするのか。変装に気付くのか、それとも攻撃対象になるのか。こちらもかなり命がけの挑戦でしたね。結果としては、あっさりばれてしまいましたが」
「……梓さんが、なんで生きているのかは分かりました。それで、それで――」
どうして私――水仙葵と馬酔木乃香の入れ替わりに気付いたのか。
そう尋ねようとするも、口から言葉が出てこない。
目の前に梓さんがいて、既に私の名前も呼ばれている。この状況で入れ替わりに気付いていないなんてことあるわけないのは分かっている。だけどどうしても、それを自白する覚悟が決め切れなかった。
そんな私の内心を察したのか、梓さんは私の言葉の続きを待たず、「次は、なぜ私があなたに辿りつけたかお話ししましょうか」と言ってきた。
「まず初めに、あなたが馬酔さんを殺害した件は知っていました。それは推理の結果とかではなく、純粋に、見ていたからです。あなたが性転換室から動かなくなった馬酔さんを運び出し、その首をアンさんに切り取らせていたところを」
「……」
先の発言に勝るとも劣らない衝撃的な告白。
だけど私自身意外にも、あっさりと彼女の言葉を受け入れられた。
また梓さんも、私が驚かないことを想定していたようで、数度小さく頷くだけだった。
「やはりその可能性は考慮していたのですね。まあ、死体の状態も大きく変わり、その隣に書いた覚えのないTP機構のマークまで付けられ、さらに性転換室の予約表にも知らない予約が書き込まれているとなれば、自身の犯行が見られていたのではと疑うのも当然でしょうしね」
「……あれも、梓さんがやったんですね」
「ええ。わざわざ第一の事件と同一の犯人であると偽装するため、死体の首を切り落としていたようですが、TP機構のマークは残していただけなかったので。せっかくですし手柄を横取りしてしまおうと、あのような偽装工作を行いました」
「手柄の横取りは、TP機構らしくなくないですか?」
「そうですね。私は純粋なメンバーと言うわけではありませんので」
蠱惑的に、くすくすと笑う。
状況が状況ならときめいてしまいそうだが、今は恐怖の方が強い。
私は蛙だ。蛇に睨まれた蛙。
ただひたすらに、彼女の話を黙って聞くことしかできない。
「そうそう。一柳さんに聞きましたが、水仙さんは馬酔さんの死体を見た時でなく、予約表を見た際に倒れかけたそうですね。今回に関してはそもそも犯行現場を見られていたので関係ありませんが、もし偽装した人物があなたが犯人だと知らなかった場合、かなりのヒントを与えることになっていたと思いますよ。倒れるなら、死体を見た時にしませんと」
「……そんな後のことを考える余裕、あったと思います?」
「ふふふ、そうですね。意地悪な事を言ってしまって申し訳ありません」
これまでの人生で一番と言っても過言でないほど沈んでいる私と対照的に、梓さんのテンションはこれまでで一番高い。こっちが彼女の素なのだろうか。いやそもそも、この姿だって彼女本来の姿ではない。男性なのか女性なのかすら、私には分かっていないのだ。
そんな化け物の気持ちを量ろうなんて、やろうとするだけ時間の無駄だ。
一見楽しげな梓さんは、高いテンションを維持したまま、「でも、一つ分からないことがあったんです」と言ってきた。
「犯行現場こそ性転換部屋の中でしたから詳細は分かりませんが、殺害方法は一柳さんが語っていたように性転換装置の連続使用による副反応でしょう。馬酔さんは死体を見て怯え切っていましたし、TP機構がいることを仄めかせば、性転換した姿であることに危機感を持たせることは容易だったでしょうから。そう考えると二回目の性転換の意味も、性欲のためだけでなく、自身がTP機構でないことを証明し信頼を勝ち取るために行ったのかもしれませんね」
私の返答を聞くためか、一度言葉を止めこちらをじっと見てくる。
私が言葉を発さずにこくりと頷くと、彼女は再び続きを話し出した。
「さて、誰が・いつ・どうやって馬酔さんを殺したのかまで分かってきましたが、一つ、非常に大事な点がどうしてもわかりませんでした。言うまでもないことですが、それは動機です。なぜ、TP機構でもない水仙さんは、初対面である馬酔さんを殺害したのか」
「……」
「これが非常に難問で、結局館を出るまでには答えに思い至りませんでした。ただ人を殺したいだけの狂人だったのか、実は過去に因縁があり復讐目的で殺したのか――しかし館でのあなた方を見ていた限りでは、このどちらの可能性も当たっているようには思えず、完全にお手上げ状態でした。しかしそんな私の耳に、とある首だけ死体のニュースが流れ込んできた時、見えていなかった真実にスポットライトが当てられました!」
「…………」
諦めから、私は瞼を閉じ、強く拳を握り締める。
しかしこれは悪手だった。視覚を封じたことでより鋭敏になった聴覚は、私がずっと隠してきた、絶対にばれてはいけない、二人の関係性に関する告発を、一際鮮明に受け取ることになってしまった。
「水仙さんと馬酔さん。あなた方は奇跡的にも顔から体型まで、全てが同一な存在だった。そこであなたは自らの環境を変えるための選択として、性転換ではなく入れ替わりを望み、馬酔さんを殺すことにしたんですよね」




