変わるということ
「うーん、流石になんか食べたほうがいいかな」
私は自室のベッドの上で、ぐっと背伸びをした。
時刻は午後九時。
ヒエンの助手の座を一柳に譲ってからというもの、特にやることもなくなり、何だったらあんまりでしゃばると危険なんじゃという思考にようやく至り、ずっと部屋の中でごろごろしていた。
けれどいつまでも部屋の中でごろごろしているわけにもいかない。人は食べなきゃ死ぬのである。緊張ゆえに全く食欲を感じていなかったが、よく考えれば今日はまだ何も食べていなかった。
朝は起こされて早々、首なし死体を見ることになり、当然朝食を食べる暇などなく。その後部屋に戻ってからは色々と怖くなってしまい、昼飯を食べる気にならなかった。
ぶっちゃけ今もあまりお腹が空いていないのだが、それでも流石に一日飯抜きというのはよくない。肝心なところで力が出ず倒れてしまったら困るし。
「はあ、行きますか」
どっこいしょと呟いてから立ち上がり、部屋を出る。食堂に向かって歩を進めるが、途中、訓練室がどうなっているのか気になり中を覗いてみた。
片付けられたとはいえ首なし死体があった部屋、まさか人などいないだろうと思っていたが、中には以外にも人――小田巻さんの姿があった。
まだあまり見慣れていない、もやしを彷彿とさせる細身長身の男性モードの小田巻さん。
トレーニングをしている風ではなく、ただぼんやりと、死体があった場所に突っ立っている。
彼がこちらに気付いていないことをいいことに、こっそりと背後へ忍び寄る。
一体何をしているのか。そっと顔を覗き込むと、
「笑ってる……?」
斜め後ろから覗いただけだから確信は持てないが、口角が僅かに上がっており、薄ら笑いを浮かべているように見えた。
人が死んだ場所に立っているだけでもそれなりに奇怪なのに、そこで笑っている。ヒエンとはまた違った猟奇性を感じ、私は一歩後ずさる。すると気配を感じ取られてしまったのか、小田巻さんがぐるりとこちらを向いた。
「あ、その、どうも」
「ああ、いえ、こちらこそ」
先ほどまでの猟奇性はすっかり掻き消え、いつも通りの小市民感あふれる低姿勢の彼が戻ってくる。
さっきのは見間違えだったのかと、そんな考えが頭をよぎるも、私は思い切って尋ねてみた。
「ええと、あの、見間違じゃなければ今、笑ってましたよね?」
彼は驚いたように目を見開くと、すぐさまは疲れたような笑みを浮かべ、「見られてましたか」と呟いた。
「これは不快なものを見せてしまいましたね。申し訳ない」
「不快とか、そんなことはないですけど……何で笑ってたのかは気になります」
「そんな深い理由はないんですけど……」
困ったように頭を掻きつつ、小田巻さんはとつとつと語りだした。
「そのですね、ここで人が亡くなられたんだなと思うと、少し感慨深い気持ちになったんです」
「感慨深い?」
「ええ。僕はそもそも、性転換をすることで、今までの自分を殺そうと、そんなつもりでいたんです。でも、実際に性転換してみた後の姿は、正直、元の姿を殺してまでなりたいと思うほど、魅力的ではなかった。だから、こうしてまた、僕は僕に戻ったわけなのですが」
どこかうっとりとした目で、小田巻さんは、死体が置かれていた場所を見つめた。
「実際に、初めて、死というものを見て、ああ、考えが甘かったなと。僕が殺したかったのは、この僕の形をした人間じゃなくて、そう考えている自分自身だったんだって。それで何というか……たはは、言葉にしようとすると難しいですね」
「……無駄だと思いますよ」
「え?」
自分の意思に反し、ぼそりと言葉が漏れる。
相手は私よりも人生経験が豊富で、おそらく私よりもたくさんの苦労を重ねている。だからこんな事を言うのはあまりにおこがましいのだろうけれど――それでも、小田巻さんを見ていると我慢できなかった。
「私も性転換を行うことで、新しい自分になろうとしていました。そこにはきっと、小田巻さんと同じで、今の自分を殺そうという思いがあったかもしれません。でも、別に、こうして考えて、話している私自身を殺そうという気はさらさらないんですよ。あくまで、凝り固まってしまった自分の居場所を、見られ方を、大きく変えたいってだけ。新しい舞台に立つことで、まっさらな人の目の中、改めて自分の力を試していきたいっていう、そう言う思いで、性転換を決意したんです」
自分の今の体を見下ろす。女だった頃と全く同じ姿。
馬酔さんは私が全く同じ姿をしていることを、いいことだと言った。これまでの人間関係をそのままに、これからは女ではなく男として新しい人生を過ごせるのだからと。
でも、違うのだ。私は、そうした人間関係をまっさらにし、これまで私に向けられてきた視線を変えるために性転換を決意したのだ。だから、私にとってこの結果は、失敗で、最悪以外の何ものでもない。
だからこそ――
「小田巻さんがもし、肉体を除いた、魂とも呼ぶべき自分自身を好きでないのなら。仮に性転換が成功して美女になっていたとしても、何なら死んで富豪の家に転生したとしても、結果は何も変わらなかったと思います。環境によって人は大きく変われる。それは働く場所もそうだし、当然見た目もそう。でも本当に大事なのは、環境が変われば自分は変われるはずだっていう、根拠のない――もちろん根拠があれば一番ですけど――自信だと思うんです。でも聞いてる感じ、小田巻さんにはそれがない。きっとどんな美女になっても、金持ちになっても、僕は僕だからと自分を卑下して、せっかくの環境を台無しにしてしまう。だからもし、本気で何かを変えたいと思っているなら。その卑屈さは、今すぐにでも捨てるべきだと思います」
一息にそう告げると、私はふぅっと息を吐いた。
それからふと我に返り、何を唐突に熱弁しているのかと、急に恥ずかしくなった。
目の前の小田巻さんもぽかんとした表情をしており、完全に勢い余った場違い野郎になってしまった。
恥ずかしさからその場で蹲る。
早く顔の熱よ冷めろとパタパタ手で扇ぐ一方で、この体勢ってもし小田巻さんが殺人犯だったりしたらかなり危険なんじゃないかなんて考えもよぎる。だけどそれも、まあ小田巻さんであれば大丈夫だろうという気持ちに打ち消された。
実際、突然の凶刃が振ってくることもなく、代わりに「君は強いね」という称賛の言葉が降ってきた。
「自分を卑下してたら、どれだけ環境が変わっても、僕が感じている虚無を埋められないのは理解してるんだ。でも、これまでの経験が、どうしても自分に対して自信を抱かせてくれなくてね」
「だけど――」
「分かってる。結局は、そこからなんだよね。死にたいんじゃなくて、変わりたいっていう気持ち。有難う、ちょっとだけ気分が晴れたよ。って、こんな場所で言うことでもないか」
たははと乾いた笑い声を上げる小田巻さんは、あまり気分が晴れたように見えなかったけれど、流石にそれ以上話を広げるのはやめておいた。
しばらく気まずい沈黙が流れた後、「じゃ、じゃあ僕はそろそろ部屋に戻ろうかな。若い人の真摯な考えを聞けて良かったよ。まだ殺人犯がうろついてるんだから、水仙さんも気をつけてね」と、早口で言い、小田巻さんは訓練室を後にした。




