2
その日、朝の天気予報は大いに外れた。下校時、今にも雨を降らせそうな薄暗い雲が頭上を覆う。途中、雨宿りができそうもない所で小雨が降り始めた。晴れ予報だったので傘なんて持っていない。
これくらいだったら走って帰れば、大丈夫か?
そう思ってダッシュしたが、渡瀬家まであと数十メートルというところで、土砂降りになった。
家についた頃には着ている服は全てぐっしょりと濡れていた。このまま上がるのは申し訳ないと思い、泉さんがいないか玄関先で呼びかけたが返事がない。
「泉さん、いないのか」
うーん……タオルがあるのは脱衣所だし……仕方がない、服を絞って上がるしかないか。濡らした所は後で拭こう。
上着は搾れるだけ絞ったが、ズボンは脱ぐわけにもいかず、濡れた衣類を持って、素早く脱衣所まで行くことにした。
――しかし、俺はこの時、重大なことを見落としていた。
できるだけ、水滴を落とさないように急いで廊下を走る。脱衣所にかかっている『掛札』を確認するのはもう癖づいていた。『掛札』は裏返し、誰もいないことを示している。
よし、誰も入ってない。
俺は勢いよく脱衣所の引き戸を開けた。
「「え?」」
そこには、頭に乗せたタオル以外、何も身に纏っていない葉月が髪を拭きながら立っていた。お風呂から出たばかりなのか、体が火照っていて、全身に水滴がついている。
その瞬間、思考が停止した。まさか人がいるとは思っていなかったので固まってしまった。さっきまでうるさいと思っていた激しい雨音が耳に入ってこない。体についている水滴が伝っているのも感じない。
葉月は静かに後ろを向き、しゃがみ込んだ。
混乱して頭がうまく回らない。謝らなきゃいけないと思っていても、言葉が出てこない。
「あっと、ごめ……え? 『札』あれ?」
数秒間の沈黙。その間、俺は葉月の背中を見入っていた。
「と、とりあえず出てって!」
その葉月の言葉にはっとして、「ごめん」と言って急いで引き戸を閉めた。
やばい! やばいやばいやばいやばいやばい!! み……見てしまった。完全に見てしまった!
俺は焦って、思いきり背中を壁に打ち付けた。痛さなんて感じない。それより、心臓の鼓動が爆音を立てる。
え? あれ? なんで? 俺『掛札』確認したよな。
少しずつ落ち着きを取り戻し、もう一度脱衣所にかかっている『掛札』を確認した。
やっぱり、裏返し……え? じゃあ。
その時、葉月が部屋着を着て出てきた。髪の毛は乾かしていない状態で、急いで着替えたのか、所々濡れている。俺は透かさず謝った。
「あ……ご」
「「ごめん」」
え?
俺が謝るのと同時に葉月も頭を下げた。怒っている様子はない。むしろ申し訳なさそうにしている。
「ごめん。今回は私が悪い……『札』裏返しのままだったね」
「え? ああ……でも、俺もちゃんと確認してれば……」
「ううん、ごめんね。というか、忘れて! これは事故だったんだし……うん。ほら! 昊も早くあったまらないと風邪ひいちゃう! さっきお風呂沸かしたばかりだから、すぐ入れるよ」
葉月は火照った顔を隠すようにタオルを握り締め、平気そうにしているが目を合わせようとしない。
「あ、葉月……あの俺」
「じゃあ……私、行くね」
そう言って、葉月は目を逸らしたまま、自分の部屋の方へ行ってしまった。
うん、事故だ、事故! そうだ、忘れよう! でも、葉月って……大神が言ってたけど、意外と胸あるんだな……はっ! 無心だ! 無心! 意識したらいかん!
お昼に大神とこの話題になったばかりで、こんなことが起こるとは夢にも思わなかった。今まで何も気にしていなかったが、葉月が入ったお風呂の後だと思うと、何となく落ち着かず、シャワーを浴びてすぐに出てしまった。
その後、水滴が落ちた個所を拭きながら玄関に行くと、少し濡れている葉月の靴が隅に置いてあった。このことに気付けなかった自分と、何で風の魔法をかけて玄関で服を乾かさなかったのかと、少し後悔した。