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怒りで頭が真っ白になった。息をするのもやっと。噛み締めた奥歯から、ギギギと嫌な音がする。拳はこれ以上、握り締められないくらい固くなった。
「ソール。なぜオレを睨む? まさか自分を殺した人間に育てられて情が移った、とか……言わないよな?」
無邪気に笑いながら、俺を見るバアル顔を思いっきり、殴り飛ばしてやりたい。だが、実力の差がありすぎる。バアルは挑発して俺を怒らせるのが目的。『冷静になれ』と何度も呪文のように頭の中で唱えた。
しかし、怒りは自分の思っていたことと、違う行動をさせる。いつの間にか、俺は右の拳でバアルの左頬を殴っていた。
自分でもわかるくらい、頭に血が上っている。何かが込み上げてきていた。殴ったところで、気が収まらない。俺は、聞かなければならなかった。
「なぜ……両親を殺した?」
バアルは口の中に溜まった血を地面に吐くと、ニヤリと笑って見せる。
「あいつら、お前にとっても邪魔だろ?」
「邪魔? 俺にとって?」
「お前は、魔物じゃないか」
「何を言って……今の俺は人間だ!」
「その眼、以前お前が持っていたものだ。他の眼とは違う」
「そうだ! これは魔物の眼だが人間の俺にも使えている」
「違う……お前は辛うじて使えているだけだ」
「何?」
「その人間の血筋が魔物の力に耐えられる体だったから、使えているだけ。もし、他の人間がその眼を手に入れたなら、浸食されて死ぬか、魔物化してたはず」
そんな……この眼が人間の姿で使えているのは偶然?
「それに、お前、もうすでに何度か魔物の姿になっているだろう?」
「何で……それを?」
「お前はいずれ、人間の姿を捨てて魔物になる。だから、人間からの愛情なんて、いらないんだよ」
「そんな馬鹿な!」
「だから殺してやった。お前が人間なんて、捨てやすいように」
「ふざけるな!」
「ふざけてなどいない。事実を言っている。お前はその姿を捨てて、俺の元に来ればいい」
バアルはいつの間にか俺の目の前に立ち、みぞおちに拳をくらうと、かなりの距離を吹っ飛ばされた。
俺は痛みで足に力が入らず、腹を抑え蹲ってしまう。腹に拳をくらったせいもあって、その場で嘔吐した。
「……弱いな」
バアルは、ぼそりと呟いた。蹲っている俺の上体を起こすと、突き飛ばされ、仰向けにさせられた。
「うっ……バアル」
「お前、本当にあのソールか?」
そう言い、バアルは俺の左足を踏みつけた。足の骨が、折られる音が鳴り響く。
「うぁぁぁぁぁぁぁ!」
「このくらい以前のお前だったら、すぐに治せただろ?」
右足も踏みつけられ、足はあらぬ方向に向いていた。
「ソール……そのひ弱な体は捨てろ。覚えているだろ? 魔物になった時の感覚を!」
「うう……俺は、あの頃に戻りたいとは思はない!」
「ふーん……残念だよ。ソール」
バアルの左手は、ごつごつとした大きな手に変化していた。
俺は痛みのせいで力が入らず、抵抗することもできなかった。バアルに顔から鷲掴みにされ、宙吊りにされた。少しずつバアルが手に力を入れ始め、頭蓋骨の軋むような音が聞こえる。
やはり、歯が立たない。
その時だった。
「っ……昊くん?」
聞き覚えのある声。掴まれた指の間から、その声の主が、かろうじて見えた。
「い……泉……さん?」
泉さんは息を切らし、手には長い布袋を持っている。袋の中には、刀の様なものが入っていそうだ。
「はぁ、はぁ、っ……何か……この辺りで、昊くんが攻撃を受けたのを感じてね」
泉さんは息を整えると、バアルをにこやかな表情で見つめる。
「ふぅ、樹さんより早く着いたようね」
正直、泉さんが一番早く来るとは思っていなかった。泉さんがどこまで戦えるのか、俺は知らない。
「んー……あなたは、昊くんの、お友達? じゃあ、なさそうね?」
「ハハッ! コイツはずいぶん弱そうなやつが来たな」
「そのコを離してくれない? じゃないと、あなたにお仕置きしないと、いけなくなっちゃう」
「へぇー……それは、楽しみだな」
バアルは、宙吊りになった俺の腹のあたりに右手をかざした。その手に魔力がどんどん集まっているのがわかる。
これは、やばい! 人間の体じゃ、風穴があく!
バアルの手から、その魔力の塊が放たれれば確実に死ぬ。避けるには難しい距離だった。
まさか……バアルに殺されるのか。
俺は諦めていた。だが、泉さんはバアルに近づき、とっさに魔力の溜まっている手を自分の方へ引き寄せ、軌道を逸らそうとした。しかし、それと同時に魔力は放たれ、俺の左腕をかすめた。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「くっ! 昊くん!」
泉さんはすかさず布袋を逆手に持ち、柄の先であろう部分でバアルの顎を小突く。相当痛かったのか、俺を持っていた手が緩み、逃れることができた。
腹に風穴があくのを免れたが、左腕の肉が抉れ、骨まで見えていた。俺は逃れようと試みたが、激痛ですぐに立つのは無理そうだった。
「昊くん! ごめんね! もう少し早く気付いてれば……」
「い……泉さん! う……逃げてください!」
「チッ! 人間! 邪魔しやがって!」
バアルは泉さん目がけ、魔物の手を振り下ろそうとしている。
「昊くん。わたしの肩に掴まって!」
泉さんはそう言いながら、俺の右側から肩を組むと、一瞬でバアルから遠ざかった。
「昊くん。あなたにはここから逃げてほしいのだけれど……この状態じゃ、ちょっと無理かしら?」
「俺のことは……いいですから! この傷だって、その内治る! だから……泉さん!」
「大丈夫よ! わたしも無理はしないわ。皆が来るまで我慢できる?」
「い……泉さん?」
「ごめんね。わたしこれから、あのコ、お仕置きしなくちゃならないの」
泉さんは、いつもの落ち着いた口調で笑っている。そのまま、すっと立ちバアルの前に立つ。
「ここからはわたしがお相手いたしますね。魔王バアル……さん?」