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五年前。
この悪魔の召喚には『中川テオ』の血が使われていた。自分を生贄にし、悪魔を呼び出していたのだ。もちろん対価を払われた分、悪魔は願いを叶えなければならない。
だが、その時すでに『中川テオ』には生気が全く感じられなかったそうだ。聞けば、本当なら「妻が生きているときに病気を治してほしくて召喚したかったが、間に合わなかった」らしい。愛する者がこの世にいなくなってしまい、生きる気力を失くしてしまっていたのだ。ところが、最愛の人が事切れる前に『その健康な体は奇跡、どうか、自分で体を傷つけるようなことはしないで……人生を全うしてほしい』と言われたという。
しかし、『中川テオ』はこの先、愛する者のいない世界で生きていくことは耐えられない。「どうか、僕の代わりに人生を全うしてほしい。僕と代わってくれるなら何をしてもかまわない」そう言われ、悪魔は『中川テオ』の魂を喰い、代行しているという。
「でも、それじゃあ……テオさん奥様の願いを無視してるんじゃ……魂が喰われるということは、転生もできなくなるでしょう?」
「テオはもうこの世に転生もしたくなかったんだよ。転生して記憶があれば別だがそんなの稀だ」
「そんな……だからって」
「ボクも説得はした。だが、ボクが魂を喰えば融合すると言ったら、テオは『それなら、妻の遺言は叶えられるかな?』っと笑ったんだ」
「それから、お前は人間の魔力を奪い取って自分の生気にしてたのか」
「ボクは悪魔だ。魔力を糧にしなければ生きていけない」
「それで、母さんや弥生たちの魔力を?」
「君たち親子は良い魔力を持っていたからね」
「道理で! オレあんたのこと好きになれないと思った!」
「まさか、ソラ君がボクの術を解除できるとは思わなかった。おかげで魔力を取り損ねてしまいましたよ」
「この悪魔め……母さんがどれだけ苦しんだか! 一体何人苦しめてきたんだよ!」
弥生は怒りを露わにし、すぐにでも飛びかかりそうだった。
「ボクも、人として生きていくにはどうしても必要だった。二人の願いを叶える方法はこれしかなかった」
二人の言葉は、俺にとっては耳が痛かった。前世の俺も生きるために人間を食べていた。だから、中川の気持ちもわかる。だが、今は人間で奪われた側の気持ちも理解できる。
でも、どうにかこの二人の溝を埋めたかった。その時、ふと、気になったことがあった。
「なぁ、中川。お前、人間の食べ物を食べたことあるか?」
「「「……へ?」」」
三人が同時に目を丸くした。
「昊……いくら何でも食べてるんじゃない? じゃなきゃ……死んじゃうでしょ?」
「んー……中川はもしかして、自分は悪魔だから魔力じゃなきゃいけないって思ってないか?」
「そうだ! ボクは悪魔だ! そうしなければ生きられない! 人の食べ物など……」
「やっぱりか……今のお前の体は人間だ。それなら、ちゃんと人が食べる物を食ってみろよ」
「このボクが人の……食べ物を?」
「お前、食べたことないんだろ?」
中川は憂い顔をしていた。
しばらくすると、樹さんと特殊警察が来て二つの事件の事情聴取を受けた。中川は証拠隠滅、隠蔽、逃亡はないと判断され、体調不良も考慮し、後日詳しく聴取をすることとなった。
オークションはメチャクチャになったが、幸い怪我人もなく、会場の損害だけで済んだ。中川の集めた運営スタッフは皆優秀で、会場の片付けも難なくこなしていく。
「中川って悪魔の癖に意外とまじめだな」
「ソラ君……人間社会は信用第一ですよ」
そう言いながら、中川の顔がどんどん真っ青になっていく。それでも、会場の片付けとすべてのチェックを行いフラフラになりながら運営スタッフを見送った。
「葉月……中川、渡瀬家に連れていけないかな?」
「え? うーん……できなくはないけど……なんで?」
「あいつに何か食べさせてみようと思って……」
葉月は大きくため息を吐きながら、頷いてくれた。横にいる弥生は、中川に見向きもしない。
事情を知った樹さんが身元引受人になり、一旦中川の身柄は渡瀬家で預かることになった。
中川をとりあえず、空いている部屋で休ませ、俺は台所へ向かった。
「昊、何を作るの?」
渡瀬家に来て一番磨かれていったのは料理の腕の様な気がする。泉さんに教わりながら、ある程度の料理は作れるようになった。
「んー……」
できるだけ消化の良いもので、栄養が摂れる物……甘味があるほうがいいか? 今ある材料は卵、牛乳……と食パン。
「『フレンチトースト』かな」
「ええー? いいなぁ! 私も食べたーい!」
「とりあえず先に腹、空かせてる奴からな」
中川のいる部屋に行くと、うなされているような声が聞こえてきた。静かに入って行くと気配を察知してか目を開けた。
「あ……ソラ君」
「大丈夫か? 中川……うなされてたみたいだけど」
「ああ……ちょっと、テオの最後のときを思い出して……でも、大丈夫」
中川はそれ以上何も言わなかったし、俺も聞けなかった。
「……とりあえずコレ、『フレンチトースト』作ってみたんだ。食べてみるか?」
「あ……ああ」
「これは大まかに、小麦粉、鶏の卵、牛の乳、砂糖でできてる」
「へー……」
中川は、目の前の口にしたことのない食べ物を不審そうに見ている。喉が渇いているだろうからと水を飲ませ、フレンチトーストを一口大に切り分け口に運んでやった。中川はパクリと口の中に入れると、目を見開いたまま動かなくなった。
「……おいしくなかった……か?」
「……何だこの感覚は! もっと食べる!」
「ゆっくり食べないと腹壊すぞ?」
中川は、人の助言は聞こえていないようで皿ごと俺から奪い、慣れないフォークでトーストを一気に口の中に運んだ。
「……なんだ? 口の中に広がるじゅわっとする感触、舌の上に乗せた時の……この感覚はなんて言ったらいいんだ? そして、体の中に溶けていく……」
「あー……たぶん、味覚? 『甘味』を感じてると思うんだけど……」
「甘味?」
「おいしいと感じる感覚の一つだよ。甘いと感じると満たされて、リラックスする」
「まさにそれだな! 他の食べ物もこんな味なのか?」
「味覚は『甘い』だけじゃない。他に『しょっぱい』、『酸っぱい』、『苦い』、『うま味』とか」
「何という事だ。ボクはこんな心地の良い感覚を味わっていなかったのか……」
すると、中川のお腹から、「ぐぅぅぅっ」と大きな音がした。
「……何だ? このお腹が、かき回されて締め付けられるような感覚は!」
「体は正直だな。ずっと食べ物を待ってたんじゃないか?」
「これが……食べる」
「お前は今は人間だ。主の願いを叶えたいなら、しっかり飯を食べるんだな」
「食べ物というのが、こんなにおいしいと感じるとは……」
まだ残りの材料があったので、もう一枚焼き持っていくと、中川は食べながら涙を浮かべ笑顔を見せていた。
「お前……随分、損していたな」
「そうか……ボクは固定観念を持ちすぎていたんだな。早く君に会えていれば、魔力を吸い取ったりしなくてすんだのか……」
中川は、すべて食べ終わると、ふぅっと満足そうにしていた。