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神頼みなんてしない

作者: きよら


 「気持ち悪い」と言う言葉は、私の中でおぞましい程呪いを持つ。自分を全否定され、受け入れてもらえる余地は無く、相手に不快感を与えているという感覚。

 あれは呪いだ。

 何年経ってもこの呪いは消えない。時々思い出しては、声を出してうずくまってしまいそうになる。

 この言葉は嫌いだ。そして、呪いだ。

 もう一つ嫌いな言葉がある。

 「何でできないの?」

 何故出来ないのか自分でもわからなくて混乱しているのに、この質問は、もはや質問ではなくただの責めの言葉だ。出来ないことが理解できない、もしくは理解しようとしない者から発せられる。絞り出した出来ない理由や原因を答えたところで、その者は納得するだろうか。そもそも理由や原因を聞きたいのだろうか。私には、出来ない相手に対して苛ついている言葉にしか聞こえない。これも、言われた側は、相手を不快にして申し訳ない気持ちを呼び起こされる。また、自分の出来なさ加減や情けなさを感じ、辛くなる。

 

 初めて「気持ち悪い」と言われたのは同じ団地に住む一つ上の女の子からだった。耳が出るくらい髪を短くして、背が高くてスラリとしたお姉さんみたいな人だった。あまり運動が得意ではない私に対しても丁寧にボールの使い方や鉄棒のやり方を教えてくれた。

 私が年長になった時、その子は小学生になり、祖父母が買ってくれたというランドセルを背負って学校に行っていた。私と一つしか歳は変わらないのに、その姿はとても大人に見えて、憧れた。いつもその子が学校から帰ってくる時間帯に団地の階段で数を数えながら姿が見えるのを待った。姿が見えると名前を呼び、手を振る。その子も笑顔で手を振り返してくれる。そしてそのまま団地近くの公園で遊ぶのがとても楽しかった。

 ある雨の日、私はいつも通りに階段で彼女の帰りを待った。私は赤い雨合羽を着て、黄色い長靴を履いていた。帰ってきた彼女はピンクの傘を持っていたが、差さずに濡れたまま帰ってきた。どうしたのか尋ねると彼女は、傘を持たずに自宅を出たはずなのに気がついたら帰りに自分で自分の傘を持っていたと言う。それは前にもあった、と。不思議そうに話す彼女にそんなの簡単だと私は言った。

 「私が雨の日を教えてくれる人に頼んだんだよ、忘れてる傘を持って行ってあげてって」

 その時、いつも優しい彼女が目を見開いて、やっぱりという顔をした。

 「前から思っていたんだけど、『雨の日を教えてくれる人』とか、『公園の砂場にいる土の人』とか…なに?ねぇ。チズちゃん、気持ち悪いよ」

 その時初めて、自分が視えているものがみんなにも視えているわけではないのだと理解した。

 それと共に絶望感でいっぱいになった。ずっと優しく接してくれていたお姉さんのような人から、急に「気持ち悪い」と言われた。私は幼かったが、それが良くない言葉だと十分理解出来ていた。

 彼女は、「もうこういうのはやめて」とピンクの傘を私に押し付け、走って行った。濡れた短い髪がきらきらと光っていた。そして彼女は私と二度と一緒に遊んではくれなかった。

 私は、大好きな人に嫌われたのだ。

 

 物心ついた時から、私には何かが視えた。見た目は普通の人間のようだが、人間では無い特別なチカラもった存在であることを何となく感じていた。

 顔や手先などは全く人間と同じで、着ている服も似ているような物が多かったが、古い着物や羽織、西洋の服を着ている者も中にはいた。

 それが何なのか説明出来ない私は視えている彼らを『雨を教えてくれる人』『砂場を守ってくれてる土の人』など勝手に呼び、時々コミュニケーションも取っていた。それが自分にとっては普通であり、みんなそうなのだと思っていた。皆がサンタクロースを信じるような、そんな感覚でいたのだ。

 そうでは無いと教えてくれた彼女には感謝している。ただ、『気持ち悪い』という言葉は私の呪い始まりとなった。

 後から、私が見えていたのは様々な『神』であり、『雨を教えてくれる人』は雨の神、『砂場を守ってくれてる土の人』は土の神だと知った。幽霊やお化けなのでは無いと、何となく感じいたのは不気味な怖さが無く、普通の人間に見えたからかもしれない。

 神だと教えてくれたのは図書館で出会った書物の神だった。

 一緒に遊んでくれる人がいなくなった私は団地から歩いて数分の図書館に入り浸るようになり、受付から一番遠い辞書が並ぶ棚に、いつも背の低い老人がいるのを知ったが、話しかける事はしなかった。その老人がみんなには視えない『何か』だとは気がついていたが、また誰かに「気持ち悪い」と言われるのは嫌だったからだ。しかし、自分に視えているものが何なのか知りたくて、児童本の棚をひと通りを見た後は必ず辞書のある棚に行き、まだひらがなしか読めないくせに、辞書を読んでいるふりをしながらちらちら老人を見ていた。

 老人はこちらを一度も見ず、ずっと辞書のある棚を、上から下へなぞるように見ていた。

 私が小学生に上がるひとつき前「君は視えるんだね」と老人から声をかけてくれた。最初は話しかけられても無視をした。誰かに見られて、また「気持ち悪い」と言われたくなかった。

 それでも老人は気にせず話しかけきて、私が視えている『何か』は『神』だと小声で教えてくれた。

 「神…様なの?」

 周りで見ている人や聞いている人がいないか気になったが、私は好奇心に勝てなかった。

 「様、をつけたくなる気持ちはわかる。そう表現される事が殆どだからね。でも、私のように様を付けられる事を嫌がる者の方が多い。まぁ、たまに、様をつけろっていう傲慢な神もおるがね」

 老人は自分は書物の神であり、今年で八百四十一歳、この図書館には五十四年いると話した。

 私が視えていたものは神だったのだと言う事実よりも、雨の神も土の神もあまり話しをする神では無かったから、こんなに話す神もいるのだと驚いた。

 「これだけ長く存在していると、自分は本当に神なのかよくわからなくなる事がある。すると話し相手が欲しくなるものなんだ」

 書物の神と話すようになったある日、彼はいつものように辞書を眺めながら言った。

 「書物の神なら、わからない事は本を読んで調べるんじゃないの?」

 私が書物の神の顔を覗き込むと、彼は優しく微笑んだ。

 「私たちは、神と呼ばれているが、ただしっくりとくる概念がそれだっただけで、神でも何でも無いかもしれない」

 「どういうこと?」

 「本当は、妖精とか妖怪、精霊なんかかもしれない。見方や概念なんて、その時々で変わるからね」

 「ふぅん」

 幼い私には、その話しは難しかったが、長い事存在していると色々と悩むものなのかもしれないと漠然と思った。

 書物の神は他にも色々な話しをしたが、毎回必ずする話しがあった。

 「良いかい、神に『組んでほしい』と言われても、簡単に決めてはいけないよ。一度くっついたら、なかなか離れられない。くっつく事は簡単でも、離れる事は想像以上に大変なんだ」

 組む、とはどういう事なのか毎回聞いたが、書物の神は難しい漢字が読めるようになったら教える、としか答えなかった。

 小学校に上がり、漢字を覚え始めた頃に私は図書館へ行けなくなった。

 図書館の司書が、私がほぼ毎日辞書のある棚で独り言を言っていると母へ連絡が入ったのだ。おそらく私の図書カードの情報から、自宅へ電話したのだろう。

 母は、しっかり者だが世間体をとてもとても気にする厳格な人だった。

 「図書館では静かにしなさい」

 最初はその注意だけだったが、書物の神と話す事が楽しかった私は小声で話す事を続けてしまった。

 再び図書館から母へ連絡がいくと、母は私を連れて図書館へ謝りに行った。どんな話しをしていたかわからないが、母は司書に向かって何度も頭を下げていた。

 自宅に戻ると母は大層怒った。

 「どうして静かに出来ないの。おままごとしたいなら家でやりなさい」

 叱る母に対し、話せば母ならわかってくれるかもしれないと私は期待した。

 「お母さん、おままごとじゃないよ。書物の神とお話ししてたの」

 私の言葉に母は目を見開き、そしてすぐ私を睨んだ。

 「はい? なに? 神? 神様ってこと?」

 「うん。でも、様ってつけられるのは嫌なんだって、書物の神が言ってた」

 「でたらめ言わないで」

 「でたらめなんかじゃないよ、雨を教えてくれる人は雨の神で、砂場の…」

 「もう、良い加減にして!」

 母は奇声のような声で遮り、私はビクッと驚く。母はそのまま早口で続けた。

 「なんで、普通にできないの? なんで? 余計なもの見える子とか言われたくない。なんで私の子は普通じゃないの? 変なこと言い出すの? あんたが産まれてからこの団地で変な噂ばかり立てられる…」

 母は怖い目をしたまま私の両肩を掴んだ。

 「ねぇ、ねぇチズなんで? なんで普通にできないの? お母さん困らせたい? お願いだから、普通に、良い子にして。気持ち悪い…」

 母は真っ青な顔で最後は消えいるように私に言った。

 どうして話してしまったのだろう。私が『何か』見えている事に母は何となく気がついているだろうから、話せばわかってくれると期待したのに。母にまで、気持ち悪いと言われてしまった。

 どうしたら良いのか自分でもわからない。みんなには視えないものが視える私が悪いのだろうか。どうして視えてしまうのだろうか。わからなくて、わかってもらえなくて、苦しい。

 あまり記憶が無いけれど、その時は母も私も泣いていて、外は大雨だった。

 それから、図書館に行く事は出来なくなり、書物の神にも会えなくなった。

 そしてその日「気持ち悪い」という呪いがまた強くなり「何でできないの?」という言葉の呪いが、私の中で生まれた。

 

 図書館の一件があってから、私は神が視えても、視えていないふりを心がけるようになった。話しかけられても極力無視し、何かが起きても何でもないふりをする。無視されて怒る神もいたが、大抵の神は特に気にしていないようであった。神であっても、誰かを無視することは心苦しかったが、もう「気持ち悪い」と言われたくない気持ちでいっぱいだった。そして母に叱られたくない、嫌われたくない、絶望されたくないと必死だった。

 しかし噂というものは、広まるのが早い。そして、人々が感じる小さな違和感は、真実なのか嘘なのかわからない情報をまとい、大きな違和感へと変わっていく。

 『あの池野チズって子、霊感あるみたいだよ、近付きたくない』

 『たまに独りで話してて気持ち悪いよね』

 同級生に言われる。

 『あの子、時々何かをじっと見つめているんですよ、気味が悪いっていうか…教室にいるだけで空気が重いんです』

 『はぁ。奇妙な事起きる時は、いつもあなたがいますね』

 先生達のぼやく声が聞こえる。

 『最近、変な事起きてるのってあの池野さんちの子のせいじゃない?』

 『池野さんちのチズちゃん、妄想?病気?何にせよ、気持ち悪くて落ち着かない』

 団地ではずっと噂されている。

 私が神を無視しても、神の行動が視えない人々にとって奇妙にうつる事があった。それは確かに私の周りで起こる事が多く、まるで神たちが「私たちの存在を無視するな」と言っているようだった。

 噂や陰口が増え続け、最初におかしくなったのは母だった。

 食欲が無くなり、痩せて、眠れなくなり、仕事を休みがちになった。完璧主義者で世間体を気にする母は、表では素敵な「お母さん」を演じていた。余計に自宅では疲弊し、ぐったりしている事が多くなった。 母は時々、怖いような呆れたような表情で、私を睨んだ。その目が鋭く、私の存在を否定するには十分だった。

 「ねぇチズ、なんで普通に出来ないの? また言わせるの? 毎回毎回、またかまたかって思わせないで。もう限界なんだけど。なんでできないの?」

 そう聞かれても、「ごめんなさい」と謝る事しか出来なかった。出来ない理由もわからない。やる気がないわけでもない、出来ない自分が一番苦しい。気をつけても、気をつけても、裏目に出る。

 

 「お友達を助けてあげたくて、鉄の神が教えてくれたから遊具を…」と最初は母に説明してみた事もあった。

 「いやだから、それが『普通』じゃないってどうして気がつかないの? そのお友達が頼んだの?」

 母は私の意見など聞かず、詰め寄った。

 「チズ、あなたが勝手にやったことでしょう? 結局遊具は壊れなかったでしょう。本当、勝手なことばかりして」

 点検が疎かにされた鉄の遊具の故障を防いだのは、その時いた鉄の神だ。そんな事を言っても信じてもらえない。神にお礼を言った私に、助かった子は「きもい」と言った。

 『普通』に出来ない私が悪い。神が見える私が悪い。生きているだけで、母に迷惑をかけている。一生懸命産んで育ててくれた母に、私は何も出来ていない。

 次におかしくなったのは私だった。

 母の言う『普通』になりたい。でもなれない。神を視えないふりをしても、急に話しかけられたら反応してしまう。

 私が悪いんだ。

 神が教えてくれた情報を頼りに同級生や先生を助けようとすると「気持ち悪い」と言われる。

 私が悪いんだ。

 どうして余計な事をしてしまうんだろう。どうして私には神が視えるんだろう。視える自分を受け入れるなんて事は、私の選択肢には無い。母が選ぶものが全て。母の言う『普通』になることが一番の正解。私はいつも間違える。

 私が悪いんだ。

 私が悪いんだ。

 私が悪いんだ。

 あぁ。『普通』にもなれない私なんて、要らないんじゃないだろうか。何をしても間違える。あぁ。うん。

 要らない。

 要らない。

 

 小学校六年生の冬、私は自身を要らないものと判断した。要らないものは消えるしかないと思い、凍死しようと思った。

 もう、限界だった。

 普通になれない私は要らない。お母さんごめんね。ごめんね。

 北の町であるこの地域は、冬は日中でもマイナス気温になる。

 夜、母が睡眠薬を飲み、二時間唸りながらもやっと寝たのを確認した私はこっそりと起き上がり、布団から抜け出した。

 風呂場で服を着たまま身体を濡らし、拭かずにそのまま真冬の外に出る。寒い。痛いくらい寒い。ブルブルと身体が震える。それでも誰もいないのを確認し、走って団地から遠ざかる。何故か気分は高揚していた。

 やっと死ねる。終わりに出来る。もう悩まなくて良い。解放される。

 途中で雪の神とすれ違う。何か言われた気がするが、無視をして、走った。もう濡れた身体と髪の毛は凍っている。手足はビリビリして感覚がなくなってきた。

 図書館まで来ると、もう身体中の震えが止まらなくなっていた。歯がカチカチと音を立てる。図書館の裏には高いスギの木が沢山あり、暗い。死ぬ場所を考えた時、図書館の窓から見えたこの木々達を思い出したのだ。ここなら人目につかない。誰かに見られるのは嫌だった。

 降り積もった雪を少しのぼり、腰かける。

 寒い。冷たいという感覚はもうほとんどない。

 うまく動かない手でポケットから母の睡眠薬を取り出す。たくさん持ってきた。ひとつひとつ飲み込む。睡眠薬が無くても寒さで眠れたかもしれない。そんな事をぼんやり思いながら、私は黒い木に囲まれ横になった。

 月と星空が見える。今日は月が明るいから、星は少ししか見えない。

 あぁ。死んだらもう悩まなくて良いんだ。そう思った。

 同級生や先生、近所の人、何より母の悲しくて怖い声を、もう聞かなくて良い。悲しくなることも、苦しくなることも、もう疲れた。『普通』に出来ない私がいなくなっても、厄介者がいなくなってみんな楽になるだろう。いなくて良いんだ。神だって、視えても助けてなんかくれない。誰かの悪口から守ってなんかくれない。もう良いんだ。だんだん眠たくなってきた。身体の感覚はもう殆ど無い。眠れそうだ。この寒さなら死ねるだろう。この暗さなら朝まで見つからないだろう。もしかしたら雪が溶けるまで見つからないかもしれない。死んでからの事は、もういいや。そこまで考えたくない。

 あぁ、もう眠い。あぁ。

 さようなら。

 _______

 _______

 ________

 

 

 私は死ねなかったのだと、自宅の天井を見ながら思った。

 私は普通にパジャマを着て、母の横で布団の中にいる。

 身体は凍えてもいないし、濡れてもいない。布団の中も、身体も温かい。

 自殺する夢だったのか。

 あの解放感から、一気に絶望した気持ちになる。

 母の方をを見る。まだ眠っているが、顔色が悪い。ここ最近では毎日そうだ。あぁ、また同じ日がやってきてしまったのか。カーテンの隙間から漏れ出る朝陽を見ながら、もう一眠りしてまた自殺の夢でも見ようかと思った。

 しかし、その日はいつもと同じ日では無かった。

 母とは反対側のすぐ側に、神がいる。家の中で見たのは初めてだった。

 私は驚き、声を出しそうになるのをぐっと抑えた。

 その神は上品な紳士服を着て、丸い眼鏡をかけている。形の良い帽子をかぶり、一昔前の西洋の紳士のようであった。男性だが、綺麗な顔立ちで正座をしながら私を見つめている。そして、私にしか聞こえない声で彼は言った。

 「チズ。私は君の守り神だ」

 

 ●出会い

 母は自分が通っている精神科医の勧めで私を児童相談所へ連れて行った。

 その時行った児童相談所で初めて、私は自分と同じ『視える人』に出会った。

 「黒井です」

 母より年上の少し小太りな黒井というおばさんは、母から話しを聞いた後、私と二人きりで話したいと言い、児童プレイルームという所へ案内してくれた。

 母が待合室で待っている間、私はゆっくりと案内された場所に入る。そこにはおもちゃや古いパソコン、可愛い椅子やテーブルがあったが、人は誰もいなかった。ただ、神が一人だけ座っていた。私はハッとしたが、すぐに下を向いて視えていないふりをした。

 「ここでは、視えることを隠さなくても大丈夫」

 黒井というおばさんはそう言うと、その神の近くへ行き

 「私も視えるんだ」

 と言った。

 一瞬だった。私の心の中で、緊張の糸が切れるような感覚がした。わかってくれる人がいることへの安心感を、その時初めて感じた。

 「私の事は、黒井でも、ロイでも、好きに呼んでね。ロイっていうのはこの、土の神がつけてくれたあだ名だよ」

 プレイルームの椅子に座っていたのは、土の神で、とても綺麗なお姉さんだった。スラリとした体型でブロンドのロングヘアがさらさらと揺れる。ロングワンピースに白くてフリルのついた長いエプロンをつけている。

 「ロイと組んでいる土の神、シユと申します」

 シユは椅子から立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。

 初めて視える人に出会った事で混乱し、私は自分の名も名乗らずにただぺこりとお辞儀を返した。

 それでもシユは嫌な顔ひとつせず、にこりと笑った。そして、ロイは私に椅子に座るよう促した。

 「えっと…池野チズさん、ここに来たのはお母さんの勧めみたいだけど…」

 「あ、母は私を普通にしたいんです。母は私がおかしいと思って、ここに連れてきたんだと思います。私はいつも間違うから」

 母からどこまで聞いているのかわからず、黒井の言葉を遮って私は早口で言う。

 それでも黒井は嫌な顔ひとつしなかった。

 「チズさんのお母さんから全部事情は聞いたよ。確かにお母さんは、チズさんに『普通の子になってもらいたい』って言っていたけど…」

 黒井はカルテのような物を見た後、それを置いて続ける。

 「でも、チズさん。私は貴女の話しが聞きたい。聞いたことはチズさんの許可無く誰かに話す事はしない」

 心にある黒い塊に優しいお湯が流れて綺麗になっていくような優しさで黒井は話す。

 「お母さんにも、私が視える事は話していないし、チズさんの心のカウンセリングをしたいとしか伝えていない。だから安心して良い」

 黒井が優しい言葉に安心し、嬉しさも感じたが、何を話せば良いのかわからなかった。私は思わず、隣を見る。それを見た黒井は、シユに何かを尋ねた。

 土の神であるシユは、私の隣を見てから、

 「はい、ロイ、池野チズさんの横には、守り神がおります」

 シユが黒井に答えた。

 私の隣には守り神、メドアスがいる。私が死のうとしたあの日、突然現れた神だ。

 メドアスは黒井の方をじっと見つめているが、何も話さない。

 「なるほど」

 黒井が目頭を抑える。

 「神が…視えるのではないのですか」

 私は不思議に思って聞く。

 「チズさん。神が視える者は、チズさんのようにすぐ視えない者が殆どなんだ。私も、すぐ視える方じゃない」

 黒井が嘘を言っているようには思えなかったが、私は視える者とまた違う部分がある事に少し落胆した。

 「訓練によっては、より早く見て感じられる。ごめんね、私にはまだチズさんの守り神が視えない。あと一時間くらいすれば視えるかな。神同士はすぐ視えるから良いよね」

 黒井はシユを見ながら笑う。

 「どうして、私は、すぐ、視えるんですか」

 どうしてこうも、私は人と違うんだろう。『普通』ではないのだろう。

 「チズさん、どんどん疑問が沸いてくるだろう。何故すぐ視えるのか。そもそも何故視えるのか。視える人はどれくらいいるのか。気になるだろう」

 私の質問が嬉しいのか、黒井はにやりと笑った。笑うと目尻のシワがきゅっと寄る。

 私の知りたいという感情が、あの図書館で書物の神に出会った時以来に湧き上がる。

 知りたい。

 私は、何者なのか。神とは、何者なのか。

 その日はあまり時間がかかると母が心配すると黒井は説明し、それ以上何かを知る事は出来なかった。ただ、黒井からある提案を母にするから、母から話しがあったらどうしたいか考え、正直に答えるよう言われた。

 

 二週間後に、また黒井の元へやってきた。母は黒井をよく思っているようで、私が『普通の子』になるようお願いしていた。

 児童プレイルーム内には黒井と、土の神であるシユが座っており、シユは誰かが作ったであろう粘土の作品を見ていた。少し形がいびつな人型の粘土作品だ。

 「池野チズさん、こんにちは」

 黒井がさわやかに挨拶する。

 「こんにちは…」

 少し緊張しながらも、ホッとする。

 「そして、守り神、こんにちは」

 黒井は私の隣にいるメドアスに身体をぐっと向け、一歩前に出て言った。

 「今日は視えるの?って顔をしてるね」

 黒井が身体をメドアスに向けたまま、私を見てにやっと笑う。

 「今日は前回より感覚を研ぎ澄ませてきたんだ。思ったよりイケメンな神だな。チズさんを私の元へ連れてくるよう仕向けたのは君だね」

 私はメドアスがやった事とは知らず、驚く。

 「チズを守るためだ」

 メドアスは短く答える。姿勢が良く、キリッと立ちながら。

 「うむ、良い判断だね」

 黒井は満足気にそう言うと、土の神シユが座っている椅子の斜め前にチズを座らせ、自分はチズの隣の席に座った。メドアスは立ったままだったが、誰も何も言わなかった。

 「チズさん、前回話した事は覚えているかな」

 黒井は横から身を少し乗り出して、私の 顔をじっと見る。

 「はい、黒井さんが母へ提案した事って、中学校の事だったんですね」

 黒井は、私がもうすぐ小学校を卒業するため、黒井が勧める中学校へ進学させてみないかと母に提案していた。その中学校は生徒へ配慮のある学校で、私に向いていると母に話したらしい。

 黒井は、母が私へこの話しをした際、私自身がどうしたいか正直に決めるよう言っていたが、母はもう

 「もちろん行くでしょう? チズに合ってる、普通の子になれるね」

 と嬉しそうであった。

 その言葉が無くても、私は黒井の勧める中学校へ行きたいと思った。なぜなら、その学校は今住んでいる場所から三百キロほど離れている。私は同じ小学校や団地の人達から離れられる事が嬉しかった。

 「私、勧めてくれた中学校にいきたいです」

 黒井にはっきりと告げる。

 黒井は、嬉しそうでも、悲しそうでもない複雑な顔をした。

 「チズさん、私が勧めた理由は、二つある。一つ目は、今住んでいる所から離れた方が良いと思ったこと、二つ目はチズさんと同じ視える子達と交流をとって友達を作ってほしいと思ったこと」

 「視える子達?」

 「そう。チズさん以外にも視える子は国中にいる、中にはチズさんと同じように苦しんでいる子もいる。そういう子達を集めて教育しているちょっと特別な学校なんだ」

 そんな学校があるなんて思わなかった。私以外の視える子達…。会ってみたい、交流してみたいという気持ちと共に、友達になれるのかという不安が湧く。視える事で気持ち悪く思われる心配は無さそうだが、そもそも私の性格に問題があったらどうしよう。また違う理由で気持ち悪がられたら?誰とも打ち解けられなかったら?

 「チズ、心配いらない。チズは良い子だ。それに、私が側にいる」

 メドアスが、私の心配を読んだように横で言う。

 そうだ、今は一人じゃない。メドアスが、守り神がいつも側にいる。自分が良い子かどうかはわからないけれど。

 「チズさん、もしその中学へ行くなら、お母さんとも、離れ離れになる事は聞いているかい?」

 聞いていなかった。

 しかし、勘づいていた。母は今休業中の仕事を辞めるとは思えないし、転職なんて絶対しないだろう。積み重ねてきたキャリアがある。今は復帰することしか考えていないだろうし、私が居なくなる事で、団地での生活もしやすくなる。一緒に引っ越しをするとは思えなかった。

 「はい、聞いています。それでも良いです」

 「そうか」

 聞いていると嘘をついている事を、きっと黒井は気が付いている。しかし黒井は真偽を確かめず、私を見つめた。

 「暮らす場所はこれから決めよう、お母さんには、『普通の子』達がたくさん通っている学校ですって再度伝えておくよ」

 黒井は母をよく理解している。

 

 ●新しい生活

 新しい事を始める時は、大抵不安や緊張が付き纏う。他には、興奮、期待。あと何かあるだろうか。私は、不安も、緊張も、興奮も感じるが、恐怖も感じていた。

 黒井の勧めてくれた中学校に無事入学したが、最初の二ヶ月は手足の震えや、声の震えを止めるのがやっとだった。三ヶ月程経って、震えは少なくなり恐怖よりも興奮と期待が少しずつ大きくなってきた。本当に少しずつだが。

 その中学校は、ほぼ、普通の学校と同じだった。

 一つの学年に三クラス。各クラス二十名。私の在籍している三組だけが、「視える子」の集まりだった。

 入学時の最初のホームルームで、担任が説明してくれた。

 視える者を視覚者と呼び、この三組は視覚者だけの集まりだ。他のクラスは視えない無視覚者。この世界は無視覚が殆どだが、その中で社会生活を行なっていく為に、私たちは今から訓練が必要なのだ。その為にこういった体制になっている。視覚者は視覚内容を無視覚者へ話してはいけない。なぜなら混乱を招くからだ。

 「よく理解しておくように」

 と担任は淡々と説明し、三組は静まり返った。

 それからは時間があっという間に過ぎた。まず学ぶことが多く忙しい。三組は、無視覚者と同じように一般社会で困らないよう普通の中学課程の科目も勉強するが、それ以外に神についての勉強や歴史、成り立ち、関わり方なども学ばなければならない。また、神とかかわる訓練などもある。他のクラスからは三組は進学クラスと思われおり、神についての授業は、受験対策授業と呼ばれ、無視覚者に勘づかれないよう工夫されていた。

 緊張と不安と忙しさで、私は最初は体調を崩したが学校ではサクラがささえてくれた。

 サクラは、団地で私に初めて「気持ち悪い」と言った女の子以来の友人と呼べる人物だ。

 彼女は明るく陽気な子で、自分にこんな明るい友人ができるなんて、最初は何か騙されているのでは無いかと不信になってしまう自分がいた。しかし、一緒にいればいるほど、サクラは嘘を着くことが苦手で正直すぎるくらい正直者だとわかった。嫌なものは周りのみんなが良いと言っても自分の意見を貫き、変なお世辞を言うことも無い。ただ、相手が傷つくような事は言わないよう努力している点が、サクラのさらに良いところだ。彼女はよく、

 「私、思った事をすぐ言っちゃうことがあるから」

 と言った。

 すぐ誰にでも何でも言ってしまい、後悔した事も多かったと聞く。

 私にも、最初

 「自信無さそうな顔しているね」

 と言ってきたものだから、驚いて縮こまってしまいそうだったが、すぐにサクラは

 「あっ。いや、ちがう。悪いんじゃないの。その、不安そうだったから。あの、えっと、えぇぇと…その、大丈夫?」

 と言葉を選び直して聞いてくれた。

 彼女は発してしまった言葉に後悔しているような顔をしていたが、不安と震えでいっぱいいっぱいになっている私を救ってくれたのだ。

 今でも、サクラは私の事をすごく気にかけてくれて、勉強も一緒にしてくれる。

 

 「チズ、私、三ヶ月経ってやっとチズと組んでる神が視えるよ」

 暑くなってきたある日の帰り道、私の下宿先が見えてきたところでサクラは嬉しそうに白い歯を見せて言った。

 「本当に?」

 私も嬉しくなって笑う。神の話しを、こんなに笑いながら出来るなんて、今だに信じられない。

 メドアスは毎日必ず、下宿先の玄関で私の帰りを待っている。神は、たとえ組んでいても学校まではついて行ってはいけない決まりになっている。

 私はメドアスに駆け寄り、声をかける。

 「メドアス、ただいま。ねぇ、サクラに、紹介したいんだ」

 「あぁ」

 メドアスはサクラを見て理解したように少し頷いた。

 サクラは少し緊張しているようで、私もなんだかドキドキした。

 「守り神、メドアスだ。チズがいつも世話になっている」

 メドアスがサクラに近づいて挨拶すると、サクラはやっと視えたメドアスを視つめ、興奮と緊張が混ざった顔をする。

 「サクラです、やっと視えた、チズと組んでいる守り神。イケメンだ」

 「感覚が研ぎ澄まされたというよりは、視たいという気持ちが大きかったようだな」

 メドアスがそう言うと、サクラは明らかにがっかりした。

 「あぁぁ。やっぱり、私、訓練が足りないみたい。チズみたいにすぐ視えたらな」

 サクラはクラスの中でも、視えるのに時間がかかる方だ。学校では授業で感覚を研ぎ澄ます訓練を積んでいる。

 視覚者は神を視る感覚があるだけで、最初から視えるものではない。感覚を研ぎ澄まし、視えるべき者を視る感覚が必要だ。好奇心だけ視えた場合、関心が無くなった場合に視えなくなることがある。その為感覚を研ぎ澄ました状態で視る方が望ましいと、訓練授業で学んだ。

 私は最初からどんな神でも視えるため、訓練中は見学している事が多い。クラスですぐ視える子は私ともう一人の男の子だけで、注目された。学校で学んだのは、すぐ視える事はこの世界では羨ましがられる才能であり、遺伝なのか特異体質なのか原因はわかっていないということ。視える事が早ければ、その能力をより早く正確に活かせる。能力を活かす…とはどういうことか、今はまだ学んでいる最中だ。

 「チズは、すぐ視えるし、覚醒者だし。しかも優しい。こんな良い子と組めてメドアスはラッキーだね」

 サクラはにっこりと笑って言い、メドアスは口元を緩めたが、少し切なそうな顔をしたのを私は見逃さなかった。

 私をさらにクラスで注目させたのは、「覚醒者」という事だった。この、神が視える世界では視覚者の子の親も視覚を持っている事が殆どで、この視覚はほぼ遺伝だと言われている。親族が無視覚者だらけの中で急に視覚者が産まれる事は滅多にない。しかしまれに無視覚者同士から視覚者が産まれることがある。それが覚醒者なのだ。

 神がすぐ視える覚醒者…珍しい者は環境が変わっても注目される。それを実感する事があった。

 神を視る訓練授業の時、サクラに質問をされた。

 「すぐ神が視える感覚って、どんな感じ?」

 サクラは産まれてから数回しか神を視た事がなく、なんとなくいる事はわかるがぼんやりと視えるか、全く視えない事もあると話した。

 私は、どんな感覚で視えるのか、今まで考えた事が無かった。むしろ、視えるなくなるためには、感じなくなるためにはどうしら良いのか考えてきた。母の言う「普通」になるために。

 「ごめん…その…どんな感覚か、私もよくわからなくて…普通の人間と同じようにその場にいるように視えて、なんとなく神だってわかる感じ」

 参考にならない、と思いつつ正直にサクラに言う。

 「普通の人間と同じようにその場に視えるっていうのが、かっこいい!」

 サクラは大きな声を出して反応する。

 意外な反応に私はびっくりして、少し後ろにのけぞってしまった。身体が誰かに軽く当たる。

 振り返ってとっさに謝ると、私と同じですぐ視えるコトという男の子がいた。

 背が高いトコは、私をじっと見下ろす。彼はとても頭が良く、成績も良い。直接話した事は無いが授業で当てられた際にいつも正解を低い声で答えている印象があった。

 「お前、自分だけが特別だとでも思ってんの?」

 トコが、思っているよりももっと低い声でいきなりチズに聞く。

 先ほどのサクラとの会話を聞いていたのだろうが、なぜ急にそんな事を言われるのかわからなかった。私が自慢しているように聞こえたのだろうか。

 戸惑って黙っていると、トコは少し苛ついたように続けた。

 「すぐ視えて、しかも覚醒者の奴なんて、お前が想像するよりずっと多いよ。出会っていないだけで」

 ものすごく低い声。

 私は自分を特別だとは思っていないが、「普通」になろうとしていた事は自分を特別だと思っていた事になるかもしれない。そんな事をぐるぐる考えながらまた黙り込んでしまう。

 何か言わなきゃ。でも、何も言い返せない。

 「特別だろうがそうじゃなかろうが、チズはチズでしょ」

 サクラが横からトコに向かって言う。

 トコは少し驚いた顔をしたが、すぐに唇をむっとさせた。

 「サクラは思わなかったのか、こいつが才能を自慢しているって。きっと、すぐに神が視えるもんだかから、視えない奴の感覚も、努力も知らないんだ。おまけに覚醒者。特別感丸出し」

 明らかに悪意のある言い方だった。

 トコも神がすぐ視えるが、それはかなり努力した成果だった。彼の両親も視覚者で、視えるのは早く優秀だった。トコは幼少期から両親に視る訓練をされ、感覚を研ぎ澄ましてきた。体調によって視えない時もあったが両親の厳しい指導で発熱の時もすぐ視えるようになったと聞く。

 これはサクラから聞いた話で、サクラとトコは幼馴染らしい。

 努力もせずに視える私は、コトからしたら腹が立つだろう。それを思うと、悪意のある言い方をされても、私は何も言い返せない。

 しかしサクラは違った。

 「トコ、それ嫌な言い方。私はチズは自慢してるようには聞こえなかった。あんたが勝手にむかついて、言い返せないチズをいじめているように見える」

 はっきりと言うサクラに、トコはバツが悪そうな顔をして、その場を去って行った。

 言い返せない、私を…か…。

 周りが騒つき、私は身体が震えるのを感じた。トコが離れたところに行くと、サクラ以外の子たちも、

 「トコ、嫌な言い方だったね、チズちゃん大丈夫?」

 「気にしなくていいよ、あんなの」

 「チズが自慢しているようには、私も見えない」

 と庇ってくれた。

 私は霞むように「ありがとう」と言うのが精一杯で、自分の意見や考えは何も言えなかった。せっかく、怯えずに視える自分と向き合えそうな環境にきたのに、私はまた人と違う事に嫌気がさしている。なんで、すぐ視えちゃうんだろう。どうして、覚醒者なんだろう。

 

 「チズ、顔色が良くない、家に入って休もう」

 考え事をしていた私に気が付いたメドアスが言う。

 「本当だ。大丈夫?今日体育あったからかな。ゆっくり休んで。じゃ、チズ、また明日ね」

 サクラはチズの顔を覗き込んで言った後、手を振って帰って行った。

 サクラが見えなくなるまでメドアスと見送り、私は下宿先である家の扉を開けた。

 玄関で靴を脱いでいると、キッチンのある部屋からスリッパをパタパタと音を立ててと走ってくる人物がいた。

 黒井だ。深緑のエプロンをつけている。

 「ただいま、黒井さん」

 私はなるべく明るい声で言う。

 「おかえり。チズ。もう、ロイで良いって何回も言っているのに。まぁ良いや、それよりキッチンに来て。見て欲しいものがあるんだ」

 走ってきた理由がキッチンに入った途端に香りで気がつく。焼き立てのスコーンの匂いだ。柔らかくて温かい香り。なんだか涙が出そうになる。

 黒井は可愛らしいモコモコのモスグリーンのミトンをして、オーブンからスコーンが並んだ鉄板を取り出し、チズに見せる。

 良く焼けた少しいびつな形のスコーンが、さらに香りを充満させる。

 「丁度良いタイミングだよ、一緒に食べよう」

 黒井は満足そうに笑う。笑うと出来る目尻のシワが、私はとても好きだ。

 「うん、先に手を洗ってくるね」

 また泣きそうになって、私はすぐに洗面所に行く。

 私の住んでいた所で児童相談員として働いていた黒井は、私が引っ越す時にそこを辞めた。そして、私と一緒に住もうと提案してくれた。表向きは、下宿という形だが、黒井は完全に私と一緒の生活をしてくれている。

 元々辞めて転職するつもりだったと、彼女は言ったが真相はわからない。母は大賛成だったし、黒井は保護者として責任を持つと言ってくれたおかげて学校でも何も言われない。黒井は今、学校カウンセラーとして地域の学校を何校かかけもちしながらカウンセリングを行なっている。黒井は私の母からの送金にほとんど手をつけず、毎月ほぼ全額、私の口座に振り込んでいる。一度抗議した事があるが、

 「貯金しとくこと」

 と言い取り合ってはもらえなかった。本当に、頭が上がらない存在だ。簡単に、ロイなんて呼べないし、恵まれすぎて怖くなるくらいだ。

 手を洗ってキッチンに戻ると、土の神シユが紅茶を淹れてくれていた。シユも勿論一緒に住んでいる。彼女が淹れる紅茶は本当に美味しい。

 ブロンドのロングヘアが、夕陽に当たって艶やかに光る。ほんわかと、土の良い香りがする。シユの匂いだ。私はそれをめいいっぱい吸い込む。するといつも、騒つく心が落ち着いた。

 「チズ、運ぶのを手伝っていただけますか」

 「もちろん」

 シユの淹れた紅茶のカップと、ソーサーをお盆に乗せる。四人分あった。

 「シユと、メドアスも飲むの?」

 「…はい。ロイがそうするように、と」

 シユは少し困った顔をしていたが、なんだか嬉しそうにも視える。 

 神は基本、食事を摂らない。神にとってのエネルギーは、人々の信仰や願いだと授業で習ったが、根本的にはまだよくわかっていないらしい。メドアスとシユにお腹は減らないのか聞いた時、二人とも空腹がどういう感覚かよくわからないと答えていた。人間と同じ様に食事をする事は可能だが、それが栄養となるわけではないようだ。

 ただ、シユは喉が渇くという感覚はなんとなくわかるとその時付け足した。土の神らしい感覚だと私は思う。

 そして二人とも、自分の神としての役割を全うしたいという欲求は、人間が食事をしたいという欲求と似ているかもしれないと話していた。

 

 ダイニングテーブルでは、メドアスが皿とナプキンを用意し、黒井はカルテッドクリームと、色々な種類のジャムの瓶を並べた。苺、ブルーベリー、ラズベリー、マーマレード…たくさんある。

 「夕食前だけど、まぁ、おやつとしていただこう」

 黒井はワクワクしたような表情だ。私もなんだか嬉しくなって、急ぎつつも丁寧に紅茶を置く。シユが淹れてくれた紅茶を絶対にこぼしたくない。

 四人が席に着くと、黒井は

 「よし、早速、いただきます」

 の、早速と言っている時点で手が伸び、スコーンを取って半分に割っていた。

 黒井と暮らしてわかった事だが、彼女は食事とおやつへの愛情が強い。食欲旺盛や、食べ物に執着しているという言葉は合わない。ただ愛情深いと感じるのだ。食材に感謝し、丁寧に調理し、大事に頂く。食事の際は美味しく楽しく食べるという事を、彼女は心底大切にし、愛している。

 私の母は効率重視だったため、食事の時間はいつもあっという間だった。黒井と食事をするたび、焦らず食べて良いと思えて、なんだか落ち着いた。

 焼き立てのスコーンを手に取って割ると、ほんのり湯気がたった。バターと、ミルクのような甘い香り。なんだろう、赤ちゃんのような匂いがすると初めて食べた時は思った。今もそう思う。

 まずは、何もつけずに一口頬張る。さっくり、しっとり、ほろほろ。柔らかい香りが口いっぱいに広がる。次はカルテッドクリームと、ジャムをたっぷりつける。黒井が用意してくれた数種類のジャムの中から、私はラズベリーを選んだ。溢れそうなくらいクリームとジャムののったスコーンを頬張ると、今度は口の中で甘酸っぱさが広がる。決して酸っぱすぎない。クリームの甘味とジャムの酸味。

 「美味しい」

 心から出た言葉だった。

 黒井は唇の端にクリームを少し付けたまま、にっこりと笑った。彼女の愛している食事の席に、私も混ぜてもらえているなんて。幸せで、温かい。

 

 「それで、チズ、何かあったのかな」

 スコーンを二、三個食べた後、シユの淹れてくれた紅茶を飲みながら黒井は私に聞いた。

 「え?」

 幸せで満たされた気分の中、いきなり風を吹きかけられたような感覚になる。

 「学校に慣れてきたな、と思ったら最近少しまた表情が暗い時がある。今日も帰ってきて、何か考え事をして疲れたような、そんな顔をしてたよ」

 黒井は何処かで見ていたのではないかと思うくらいお見通しだ。私は顔に出していないつもりでいたが、隠しきれていなかったようだ。

 「ただ、ちょっと、疲れているだけです。スコーン、ご馳走様でした。夕食まで、宿題します」

 黒井が話しを聞いてくれそうで嬉しかったが、私はどう話して良いのかわからず、彼女の顔を見ないまま誤魔化して席を離れた。

 黒井がどんな表情をしていたのかはわからないが、

 「うん、わかったよ」

 と返事が聞こえた。

 自室に入ると、メドアスの気配がした。私が二階にある自室へ階段を上っている間、先に部屋に入っていたようだ。

 「階段使わなくていいの、時々羨ましいよ」

 神は人間のように歩いて移動する事もあれば、幽霊のように飛んで壁を擦り抜ける事もできる。これは、神に共通するチカラらしい。

 「チズ、何故、黒井に話さなかった」

 椅子にもたれるように座る私に、メドアスが聞く。

 「メドアスは話した方が良いと思ったの?」

 私は椅子にもたれたまま立っているメドアスを見上げた。

 「黒井に話せば、アドバイスがもらえる可能性が高い。チズがより元気になる」

 「守り神として、私の健康を守ろうとしてくれてるのは有難いけど」

 メドアスから目線を外す。

 どうして、せっかく話しを聞いてくれようとした黒井に話せなかったのか。正直私自身、よくわからない。聞いてくれようとしてくれた事は嬉しかった。それなのに。

 メドアスは私から視線を外し、部屋の窓を少し開ける。初夏の風が入り込み、レースカーテンが少し揺れる。外は夕陽が落ちかけていて、綺麗だ。

 メドアスも、夕陽を見て目を細めている。

 「チズ、君の気持ちを考えていなくてすまない。話したくないと感じているのか」

 話したくない?

 私は、あんなに私の事を考えてくれている人に話して相談したくないのだろうか。わからない。自分自身の事なのに、どうしてこんなにもわからないのか。

 「話したくない…のかな。黒井さんが嫌なわけじゃない。ただ、今はまだ、なんだか自分自身で整理が出来ていなくて、うまく話せる気がしない」

 やっと出てきた考えを言う。

 「うまく話せなくても構わないから、私には話してくれないか。何があった。今日帰ってきた時、何か思い出して考え込んでいただろう」

 メドアスが窓辺から離れて、私に近付く。しゃがんで私を見上げる。優しい声だ。

 私はひとつひとつ、言葉を探しながら、トコとの出来事を話す。

 嫌だった出来事を話すのは、苦痛だった。でも、メドアスの優しさに応えたいし、本当は聞いてほしい。

 一通り話し終えると、メドアスはそっと私の手を握った。

 「うまく話せているよ、よくわかった、話してくれてありがとう」

 本当だろうか。めちゃくちゃな話し方では無かっただろうか。でも、話すという勇気を認めてもらえた気がして、涙が出そうだ。

 そして、話す事で少し整理できている自分もいる。

 「トコという少年に、言い返す事はしなかったのかい」

 「言い返すなんて、できないよ」

 メドアスの言葉に私は少し強く返す。

 「だって、メドアス、私は最初から神が視えちゃうんだよ? 視えない人の苦労がわからないんだよ? そんな奴が、視るための努力と苦労をしてきた人に何を言い返せるの?」

 「チズ。君だって努力と苦労をしてきただろう」

 メドアスは嘘の無い目ではっきりと言う。

 「何言ってるの」

 「チズは、最初から視えてしまうが故に、苦労してきた。視えない者達の中で、視えてしまう自分が暮らすために努力をしてきた。努力の種類が違うだけだ。それなのに、トコという少年はチズの事を理解しようとせずに努力を知らないと決めつけた。彼だって、覚醒者が最初から神が視える状態で平穏に暮らすために、どれだけの努力を強いられたか知らないだろう」

 それは、そうだが。

 「チズ、怒って良いし、悲しんで良いんだ」

 メドアスにそう言われて、私は胸がずん、と鳴る。

 そうか、私は怒っているし、悲しんでもいるのか。本当は、悲しくて、怒って、言い返したかったのか。

 私の何を知ってるの。私の事を知ろうともしないで、傷付く事を言わないで。そう言いたかった。それなのに、言えなくて。悔しくて。怒っているのだ。

 「そう怒ってる。トコに、自分に。メドアス、私は、思っている事をすぐに言葉に出来なかった。トコもサクラも、思っている事を伝えているのに。私は黙ったままだった。伝えようともしなかった。悔しいけど、出来なかった」

 「あぁ、そうだね」

 メドアスは優しく否定しない。

 「メドアス、私…考えちゃうんだ。何も出来てないって。今の環境だって、黒井さんが用意してくれた。母も、お金は送ってくれる。世間体を気にしてだろうけど。トコは自分の努力を自覚してる。サクラは自分の考えを相手にきちんと伝えられる」

 それなのに、と私は続ける。

 「私は…用意された場所で、ただ色々なものに怯えながら、話しを聞いてくれようとする人に対してさえ相談も出来ずにいる。何も、出来ていない」

 ここ数日ずっと考え込んで、蓋をしていた気持ちを言葉にすると、どんどん溢れ出して止まらない。

 自分に自信が無い。怖い。情けない。悔しい。

 「メドアス、私もっと強くなりたいよ」

 やっと視える自分を受け止められそうな場所に来れたのに、どんどん自分が嫌になる。なりたい自分がどんどん遠ざかる。

 メドアスは、そんな私をわかってくれようとしてくれている。

 「すぐに何かが出来るようにならなくて良い。弱くても良い。人と比べることもしなくて良い。今は、怖くて、情けなくて、自信の持てない自分を、まず認めてあげよう」

 彼はそう言って私の手をぎゅっと優しく握った。

 

 ●夏休み

 「ロイおばさん、シユのチカラをちょっと視ていたいんだけど、良いかな」

 夏の暑い日、麦わら帽子を被り少し日焼けをしたロイおばさんが、畑仕事をしている。私はツバの広い薄緑の帽子をかぶり、背中に汗を感じながら声をかけた。

 庭に作った畑はとても立派で、シユのおかげもあって土も元気だ。最近は採れたての野菜を沢山食べる事が出来ている。

 「あぁ、勿論。私は構わないよ、シユ、良いかい?」

 シユはとても広いツバがついた白い帽子を被りながら、畑仕事をしている。その白い帽子は、シユのブロンドの髪によく似合っている。

 「えぇ。構いません、メドアスでは無く私で宜しいのですか」

 「うん。もちろん。メドアスじゃ駄目なの。組んでいる神以外のチカラを視て、レポートを書かなきゃいけないんだ、夏休みの課題として」

 中学生が書くとは思えない質と量のレポートや研究の課題を、たんまり出されている。

 視覚者は学ぶことが多く、課題も多い。より良い視覚者になるために勉強は欠かせない。

 シユは土の神なので、土に関するチカラを使う。大変そうなロイおばさんとシユを見ると、畑仕事を手伝いたい気持ちが湧いて止まらないが、畑仕事の時こそシユが一番チカラを使うため、今は観察する。

 シユは側に置いてあった水筒を口に運び、一口だけ水を飲む。飲食物は神のエネルギーとはならないが、シユは土に神だからか喉が渇く感覚があるため、時々水を飲む。

 ごくん、とシユの喉が動く。水筒を置くとシユは息を吸って袖を捲り、両手を横に大きく広げた。畑の土が微かに揺れると一気に土の匂いが広がり、畑から不要な雑草が抜けていく。そしてそのままシユが右手をぐっと握り、拳を作ると土はまた僅かに振動する。よくわからないが、土が空気を吸って喜んでいるように感じる。シユのチカラをきちんと視たのはこれが初めてだ。ものすごいエネルギーを感じる。

 この数ヶ月で、私は色々な事に怯えて震える事が少なくなった。知識をつけると少しだけ自分に自信がついてくる。そして、知識を付ければ付ける程、自分の知らない事の多さに驚く。

 「畑を耕すところから、シユのチカラをもっと視ておけば良かった」

 こんなにすごいチカラをもった神がすぐ側にいたのに。メドアスとはまた違う。

 「チズが学校に行っている間に耕しちゃったからね」

 ロイおばさんは慣れたように手元をを動かしている。

 「チズ、シユはこの一ヶ月程でチカラが増している」

 チズの隣に立っているメドアスが言う。彼は長袖の燕尾服を着ているが汗ひとつかいていない。

 「わかるの?」

 「あぁ。畑に送るエネルギー増幅と、範囲の拡大。なぜチカラが増したか、わかるか?」

 「えっと…神のチカラの源は…信仰と願い…。人間の信じるチカラと、大事にするチカラと比例する。だから…パートナーであるロイおばさんのおかげなのかな」

 私は学んだ事とレポートに書くことを考えながら答える。

 「間違っていないけど、足りないね」

 服に着いた土をほろいながらロイおばさんが近づいてくる。

 私は近くにあった水筒を手渡す。

 「確かに、組んでいる者の信頼と愛情は大きなチカラになります」

 シユが袖を元に戻しながら言う。

 「それ以外にもチカラが増した理由があるの?」

 「はい。考えてみてください。良いレポートが書けますように」

 

 その日の夜も暑く、シユについてのレポートがなかなか進まない私はメドアスと一緒に外へ出た。家の裏に行き、夜の畑を見渡す。夏の虫の声が響き、昼間よりは涼しいけれど生暖かい風が吹いている。土の良い匂いが、夏の匂いと混ざっている。

 「メドアス、ヒント、無いかな」

 「チズ、それではレポート課題の意味が無くなる。たとえはっきりとした答えが導けなくても、考察をする事が大事だ」

 「先生みたい…」

 私はため息をついて、畑のすぐ横にあるベンチに座る。鉄のベンチは、少しだけひんやりしとしている。メドアスは立ったままだった。

 シユのチカラは、凄かった。土と会話をして必要な手助けをするような、エネルギーのあるチカラ。決してやりすぎてはいない。この畑の土自身が元々持っている力を信じて、必要な分だけシユは手助けしていた。空気まで動くようなあのチカラ。それはたった一ヶ月で増幅し、範囲も広がっている。パートナーの信頼と愛情以外で、チカラが増える理由…。神のチカラが増幅するには…。

 「そうか、メドアス、シンプルな答えだ」

 立っているメドアスを見上げて私が言う。

 「チズの考察による答えを聞きたいですね」

 メドアスが口を開く前にシユが現れて言った。

 「ごめん、うるさかった?」

 「いいえ、ロイはぐっすり眠っていますし、私も特に物音や話し声は気になりませんでした。ただ、チズの事が少々気になりまして」

 シユは畑の様子を見てしゃがみ、土を触る。その仕草がなんだか愛おしそうで私は胸が熱くなった。私は立ち上がり、シユの隣にしゃがんで、同じように土を触る。昼間の陽の温かさが残っていて、少し温かい。

 「シユ、神のチカラが増幅するのは人間の信仰と願い、そして信頼と愛情。シユと近い存在なのは、ロイおばさんだけじゃなかった。私の信頼と、愛情もシユのチカラの増幅に繋がっているんだね」

 シユはここまで聞くと少し嬉しそうに、にこりと笑った。

 「ロイ以外の視覚者とも交流はありますが、ここまで深い繋がりを持ったのはロイ以外でチズだけです」

 「なんだろう、なんだか嬉しい」

 私もにこりと笑ってシユを視る。

 私の存在が、思いが、誰かのチカラになる。神以外にも人間にもそれは出来るかもしれない。

 私にも出来るかもしれないと思うと、私自身も力が湧いてくる。

 「シユ、ありがとう。良いレポートが書けそう」

 「良い評価を期待しています」

 お互い笑いあったその日の夜の星は、本当に綺麗だった。

 

 夏休みがあと一週間程で終わる頃、サクラがやってきた。

 「レポート、書けない!」

 可愛いカンカン帽子を被り、ピンクと赤の細かなチェックの入った膝丈ワンピースを着て、サクラは玄関先で嘆いた。

 「全然、神に会えない、いや、視えてないだけかもしれないけど」

 神のチカラに関するレポートは、そもそも神に出会い、かつ視えていないといけない。視る事がまだ苦手なサクラにとっては厳しい課題である。

 「チズ、お願い、メドアスの、守り神のチカラ視せて」

 一度視えた神は、ほとんどの場合また視る事が出来る。サクラは最終手段としてうちに来たのだろう。

 「私は、構わないんだけど…メドアスに聞いてみるね」

 キッチンでロイおばさんを手伝っていたメドアスを呼び、玄関先にいるサクラと共に説明したが、メドアスは難しい顔をした。

 「サクラ、わかっているだろうが私はチズの守り神だ。私のチカラがより発揮されるのはチズを守らねばならない時」

 「う、うん、チズを危険な目に遭わせるわけにはいかないんだけどさ…」

 サクラはメドアスの威厳のある言い方に、珍しくもぞもぞと返す。

 「そんな、すごいチカラじゃなくて良いんだ、簡単な、ほら、何かあるでしょ」

 それでも思っている事を素直に話すサクラに、チズはくすくす笑ってしまう。

 「笑ごとじゃないよ、チズ。私の夏休みの課題がかかってるんだから」

 サクラは真剣に言う。

 メドアスは小さな溜息をついて、私とサクラに庭へ移動して待っているよう言った。

 庭に行く途中、シユとすれ違ったが、サクラには視えていないようだった。シユもそれをわかって声はかけなかったが、歓迎しているのはわかった。

 この家も敷地もシユのチカラで守られている。家も地面にも土が使われ、シユが招かない者は敷地へ足を踏み入られない。

 庭は夏に陽射しでキラキラと輝いていた。二人で木陰に腰掛ける。

 「チズ、聞きたい事があるんだけど」

 両足を伸ばして、ワンピースが風で広がらないように両手で押さえながらサクラが言う。

 「うん」

 私は両足を抱え込むように座り頷く。

 「前にトコが、チズにひどいこと言ったでしょ。視えない奴の努力も知らない特別感丸出しって」

 振り返されると胸が苦しい感じがしたが、サクラに悪気は無いとわかっているため私は黙って聞いた。

 「あの時、どうしてトコに反論しなかったの?チズ、怒ってたでしょ」

 サクラは本当に不思議に思っているような顔をする。

 「うん、怒ってたし悲しかった。本当は、言い返したかった、でも出来なかった」

 正直に聞いてくれたサクラに、私も正直に返す。これはメドアスのおかげで整理出来た正直な気持ちだ。

 「なんで出来なかったの?」

 サクラのこの一言が、悪意のあるもので無かったとしても、最近感じなくなっていた言葉の呪いを思い出させるには十分な一言だった。暑い夏のはずなのに、寒気がした。

 なんで出来ないのか、サクラに聞かれるなんて。

 私だって、わからない。責めないで。いや、サクラは責めてるわけじゃない。純粋に不思議なだけ。でも。苛ついてるかもしれない。言えない私を本当に理解出来ないのだから。怖い。怖い。聞かないで、わかって、言わなきゃ、何か言わなきゃ。次は気持ち悪いと言われるかもしれない。怖い。怖い。

 「チズを虐めてまでチカラが視たいのか」

 メドアスが急に現れてそう言うと、私を抱えてサクラから遠ざけ、温かい透明なシールドを作った。鬼ような顔をしている。そして一気にサクラへ近づくと、そのまま頭部を大きな右手で包み込み、そのまま彼女の身体を持ち上げた。

 サクラの悲鳴が響く。

 「メドアス! やめて! やめなさい!」

 私が叫ぶ。

 メドアスは振り返り、サクラをそのまま芝生におろした。

 サクラは力が抜けたように芝生に倒れ込む。

 そんな彼女には目もくれずメドアスはシールドを解き、私を強く抱きしめた。

 「大丈夫か、チズ」

 「大丈夫、目が覚めた」

 私はそう言うとメドアスを振り解き、サクラに駆け寄った。

 気絶している。

 「やりすぎだよ、メドアス」

 私はそう言うと急いでロイおばさんとシユを呼びに走った。

 

 私から事情を聞いたロイおばさんは今まで見た事ない程メドアスを叱った。

 幸いサクラはすぐに目を覚まし、こめかみに少しだけアザが出来ただけだったが、ロイおばさんの怒りは凄まじかった。

 そのためサクラがいる客間にメドアスが入れないようシユのチカラで結界をはり、私とサクラの間に入ってゆっくりとお互いの話しを聞いてくれた。

 サクラは最初、何が何だかわからないようだったが、私にとってトラウマな言葉があること、それで苦しんできたこと、呪いのようなその傷が癒えておらず、怯えた私をメドアスが守ろうとしたことを私が説明すると、だんだんと理解できたようだった。私がうまく説明出ない時はロイおばさんが助け舟を出してくれて、何とかサクラに自分から話すことができた。

 「私、ただ聞きたいと思った事を、ストレートに聞いちゃった、ごめん」

 私の話を聞いたサクラは目線を落として言う。

 「私、いつもそうなんだ。言葉を選ばないで、頭に浮かんだまま話しちゃう」

 サクラはメドアスにされた事を怒るよりも、自分が言ってしまった事へ対しての後悔や落ち込みが大きかったようだ。

 「サクラ。私は、サクラやトコが自分の気持ちをきちんと話せることがすごく羨ましい。私も、前よりは少しだけ話せるようになったけど、ロイおばさんに助けてもらえなきゃ今回の事もうまく話せなかった」

 私がそう言うと、サクラは首を横に振った。

 「チズ、言葉って、凶器なんだ」

 今度は目線を落とさず、私を真っ直ぐ見てサクラは言う。

 「言葉ひとつで、チズみたいに呪いを抱えてしまう。だから慎重に選ばなきゃいけないのに、私は思った事をすぐ発する癖がなかなか直せない」

 サクラは自分にそういう癖があることを理解し、直そうとしている時点で立派だ。私は、話せない理由さえ考えたことがない。しかしその理由をサクラはもう既にわかっていた。

 「チズはさ、言葉を沢山吟味しちゃうんだね。選んで、悩んで、相手がどう捉えるかまで考えてる。それこそ、私からしたら羨ましいよ」

 サクラは少し涙目だった。

 お互い、自分の欠点だと思っていた部分がお互いにとって喉から手が出る程羨ましいもので、長所だった。

 これはどうしたら良いのだろうか。抱えて生きていくしかないのだろう。直したいと思うのなら、直すよう努力していくしかないし、このままで良いと思えるのなら、それとうまく付き合って生きていくしかない。

 言葉がうまく出てこないこと全てが悪いわけじゃないと、サクラのおかげで思うことが出来た。しかし、それをやはりうまく表現できず、私はただ一言伝えた。

 「ありがとう」

 サクラは、とうとう涙を流したが、にっこりと笑っていた。

 

 その後、メドアスはサクラに謝ったがサクラはチカラが視れてレポートが書けると気にしていない様子だった。

 念のためにロイおばさんが車でサクラを家に送ってくると言った時、メドアスはすっかりしょんぼりした神になっていた。

 

 

 ●怖い神との出会い

 季節が秋になった頃、私に大きな出来事が起きる。

 あぁ、あまり森の奥に行ってはいけないと、あれ程シユに言われていたのに。特に、陽が落ちてからはいけないと。

 

 「メドアス、戻ろう。もう充分山菜もキノコも採れたし」

 森で秋の実りを収穫していた私は、振り返ってメドアスに声をかける。しかしメドアスは私の言葉に反応せず、遠くを睨むように見つめながら、私の腕を強く引いた。

 「メドアス…?」

 陽が落ちかけて暗くなってきた中でも、メドアスの表情が強張っていくのがわかる。どうしたのか、メドアスの目線の先を追って見るが、暗く黒い木々が微かに風に揺れるだけ。ただ、静かすぎる。嫌な感覚がした瞬間、メドアスは私をお腹から抱えて後ろに引き下がった。

 何かいる。暗くて良く見えないが、黒い塊のようなものが上下に少し動いている。黒い動物が地面にある何かを食べているようにも見え、誰かがうずくまって肩で息をしているようにも見える。後者の場合、私達にとって良くない何かである事が、あまりに静かで淀む空気から感じ取れた。

 光は、沈みかかった陽と出始めた月明かりだけ。

 じっとしているわけにはいかない。私とメドアスは黒い塊の影を見つめたままゆっくりと後ずさる。少し離れたところで、私とメドアスは森の出入口に向かって走り始めた。

 「チズ、すまない。もう少し早く帰るよう促せば良かった。足元に気をつけて」

 メドアスが後ろから付いてきて言う。走りながら振り向く。あの黒い影はどんどん離れていく。こちらを追ってくる様子も無い。それでも空気の淀みは消えず、心が騒つく。走るのは苦手だが、怖いという感情が身体に走れと命令しているようだった。

 森の出入口が見えてくる。もう陽は完全に落ちて、月明かりだけになっている。

 突然だった。右脚が地面に埋まる感覚があり、私は足を止めてしまった。地面に手を付いて、足元を見るが、右脚は特に何もなっていない。それなのに、何かが絡まっているような、土に埋まっているかのような感覚。

 「チズ!」

 戸惑う私の後ろでメドアスが名前を呼ぶ。すぐ近くにいたはずなのに、なんだか遠く感じる。

 右脚を触りながら振り返ると、そこにメドアスはいなかった。

 「逃げなくてもイイジャナイ」

 いたのは身長が高く、綺麗な顔をした男。月明かりでよく見えないが灰色のような白っぽい髪が真っ直ぐ伸び、地面に着きそうなくらい長い。

 さっきまで近くにいたのはメドアスだったのに。

 その男は私から一メートル程の距離にいる。

 私は完全に腰を抜かし、その場に座り込んでしまった。嫌な気配や淀んだ空気はこの男から出ていると一瞬で理解し、それと同時に、とうとう出会ってしまったと思った。

 彼は、死の神だ。

 「チズ…!」

 メドアスの声が遠くからするが、何処にいるかわからない。暗闇の先から聞こえる。

 「メドアス…」

 大きな声で呼びたいが、喉が震えてしまう。自分でも驚く程、恐怖を感じていた。

 「守り神が聞いて呆れるネェ」

 死の神が空を仰ぐように両手を広げると、月明かりが強くなり、スポットライトのように私を照らした。遠くでもうひとつ照らされいるものが見える。すぐ近くにいたはずのメドアスが、百メートル程先で、強風に煽られている。私や私の周りには風ひとつ無いというのに。

 「僕の用事が済むまデ、彼には風と闘ってモラウネ…僕は君に用事がアルンダ」

 死の神が不気味な笑顔を浮かべて言う。月明かりのスポットライトで、彼が喪服のようなスーツを着ているのがわかった。髪だけでなく、手足も長い。死の神で無ければ、モデルのような体型と顔。ただ、醸し出す雰囲気は重たく、嫌な、淀んだ空気。

 「メドアスに酷い事しないで」

 自分から出た声があまりにも震えていて驚く。脚にもまだ力が入らない。遠くで台風のような渦に巻き込まれまいと足掻くメドアスが見える。

 「うわァ。そんなにあいつが大切ナノ?自分は震えちゃうくらい怖いノニ?」

 死の神は心底驚いたような顔をする。

 確かに震える程怖い。死の神の欲求は死そのもの。メドアスか、私か、もしくは両方の死を望み、目の前に現れたのだろう。私は、自分の死よりもメドアスの死の方が怖い。

 「メドアスを…殺さないで」

 「はァア。覚醒者デ、すぐ視えちゃう子が、あの守り神と組んだって聞いたからこの森で待ち伏せしてタケド、思ったより懐いてるナァ…気持ち悪いくらいニ」

 死の神は私に近づいて、冷たい手で私の頬に触れる。鳥肌がたった。

 遠くでメドアスが何か言っている声がするが、風のせいかよく聞き取れない。

 「あの守り神も思ったヨリ…」

 死の神は何か言いかけてやめ、さらに私に近付いて耳元で囁く。

 「守り神なんか捨てて、僕と組モウヨ」

 嫌だ。

 怖い。

 鳥肌と、嫌悪感。

 押し寄せる吐き気を抑えながら『嫌だ』と強く思った瞬間、月のスポットライトが消えた。お腹に何か温かいものを感じると私はメドアスに抱きかかえられ森の外側まで飛んでいた。

 「あぁア」

 死の神の残念そうな声だけが耳に残り、姿はもう見えなかった。

 森から離れた所でメドアスが私をおろした。震えはまだ残っているが立ってはいられる。

 不気味な静けさは消え、周りの音が聞こえるようになった。

 「あいつは森から外には出られない」

 メドアスはそう言うと私を抱え、家のある方向へ歩き出す。

 「私、歩けるよ」

 そう言ったが、正直クタクタで具合も悪かった。メドアスはそれがわかったのだろう。私の言葉を無視してそのまま歩く。

 「メドアス、怪我は無いの」

 「無いよ。チズは自分の心配だけすれば良い」

 確かに、服はボロボロだが、私から見える範囲でメドアスに怪我や傷はない。

 少しホッとして、家が見えてきた時、急に泣きそうになった。小さい子どものように。泣いてはいけない、泣いている場合ではない。きっとロイおばさんもシユも状況を聞きたがるだろうし、説明しなくてはならない。身体も頭も重くて、具合も悪い。でも、甘えてはいけない。やることはやらなきゃ。まずは、採ったキノコも山菜も森の中へ置いてきてしまった事を謝るべきだろうか。いや、違う、帰りが遅くなったこと? 陽が落ちるまでに森を出なかったこと? メドアスも自分も危険な目にあったこと? 謝らなくてはいけないことばかりだ。いつもそうだ、私は失敗ばかりで、迷惑をかけてしまう。誰かに「迷惑じゃない」と言ってもらいたいのだろうか。そんなつもりは…無い。つもりが無くても、自覚が無いだけで現に甘えている。どうしてこんなに弱くて、駄目なんだろう。

 間違えてしまったと感じた時、いつも選択し直したくて時間を戻せたら、と考える。一度メドアスに質問した事がある。

 「時の神はいるのか」と。

 メドアスは怪訝そうな顔を隠さずに「いない」と答えた。そして「時間だけは神の力でもどうしようも出来ない」と続けた。時の神がいたら、人間も神も自身の欲求のために時間を左右したいと思うのが殆どだ。時間軸がおかしくなると世界が成り立たなくなる。そうなるとどんな力も及ばない。「無くても良い神だっているんだ」とメドアスが言っていたのが印象に残っている。もし時の神がいたら、私は間違える度に時間を戻してほしいと願ってしまうだろう。時の神がいないとわかってからも、間違えるたび、何かに時間を戻してほしいと思ってしまう。

 私は、きっと、間違える事よりも間違えて誰かが傷ついたり、迷惑をかけて困らせたくないいのだ。それだけならまだ良いのだが、それだけじゃない。私は…自分のせいで誰かが傷ついたり迷惑をかけられているところを見て、自分が落胆したくないのだ。

 怒られたくない。

 責められたくない。

 自責に追い込まれたくない。

 人の傷で、自分まで傷つきたくない。

 結局、私は私が傷つくことが嫌で仕方ない。

 自分のことが一番嫌いなくせに、自分を一番大切にしている。傷つくことが怖いだなんて。傲慢だ。

 もう、心が破裂しそうだった。

 メドアスに抱えられ、家のドアを開けてロイおばさんとシユの顔を見る前に、私は気絶してしまった。

 

 

 ●闘いの後の不安

 生温かい水の奥深くへ、私は沈んでいく。身体が動かない。浮かび上がらなくては、と思う反面諦めている自分もいる。もういいや、もうこのまま眠って沈んでしまおう。もがくのも、疲れた。

 死の神の声がする。

 「守り神なんか捨てて僕と組モヨ」

 息ができない。それは、嫌だ、怖い、それだけは、嫌だ、嫌だ…。

 

 「チズ」

 メドアスの優しい声がして、ハッとする。

 そこは水の中ではなくて、自室だった。私はベッドに横になっていて、メドアスは横で私を覗き込んでいる。水の中にいたのは夢だったんだと気がつき、やっと息ができたように深く呼吸をする。

 掛け布団はいつも使っているものと同じはずなのに、重たく感じる。それに、暑い。布団の中が蒸し風呂のようになっているような感じがして、布団を外そうとするがうまく身体が動かない。

 着ているパジャマが汗で濡れている。

 「汗を拭こう。ロイとシユを呼んでくる」

 メドアスの服はもうボロボロでは無くて、いつもの綺麗な紳士服に戻っていた。部屋を出ていくメドアスを呼び止めたかったが、そのエネルギーさえ無く、そのままじっとした。

 部屋の窓は開いていて、秋なのに暖かい風が入ってきている。よく晴れていて、陽も差し込んでいる。。昼くらいだろうか。時計を見ると十一時になるところだった。

 暖かい秋の昼。気持ち良い日のはずなのに、私の身体は重たくて、気持ちはそれこそ水の底に沈んでいる。私はどれくらい眠っていたのだろうか。あの森の出来事について、メドアスはロイおばさんとシユに話しただろうか。胸が苦しい。彼女達はどんな顔をしているだろう。

 そんな心配が一気に吹き飛ぶくらいの早さでロイおばさんとシユは部屋に来てすぐに私を起こして身体を温かいタオルで優しく拭き、着替えをくれた。あまりに手際が良く、私は頭が回りそうだった。

 着替えてまたベッドに横になる時には、シーツと枕カバーまで新しいものに変えられていた。さすがだ。

 「チズ、少し起きていられる?水分と、食べられそうなら何か軽いものを食べよう、あと薬もね」

 ロイおばさんが少し早口で言う。

 「薬…?」

 私が聞くと、シユが私の背中にクッションを入れ、ベッドに座りやすいよう工夫してくれた。

 「チズ、ひどい熱で二日も寝ていたんですよ。今は下がったけれど、薬を飲みながらもう少し様子をみないと」

 「二日も…ごめんなさい、迷惑かけてしまって」

 謝る私に、ロイおばさんもシユも何も言わず、ただ優しく笑った。その笑顔が、優しくてなんだか苦しい。

 ロイおばさんが用意してくれた粥は美味しかったが、ほとんど食べる事が出来なかったが「えらいえらい」とおばさんは褒めてくれた。

 薬と水を飲んでまた横になる。身体がは重たいのになんだか眠れそうにはなく、目を開けたままでいた。

 食器を片付けて戻ってきたロイおばさんは、メドアスとシユも一緒に私に聞きたいことがあるようだった。。

 「チズ、眠れそうになかったら話してほしい。森から帰った日のこと。メドアスからは、少し聞いたけど、チズからも聞きたいんだ」

 ロイおばさんはそう言うと、ベッドの横にある椅子に腰掛けた。

 メドアスは部屋の入口近くで壁によしかかり、腕を組んでいる。

 シユは私のベッド足元に腰掛け、目線を落とした。

 話さなければならない。

 私はゆっくりとだが、森で出会った死の神の事、言われた事、覚えている限りを話した。話している間は誰も口を挟まず、ロイおばさんは「うん、うん」と頷きながら聞いてくれた。それが少し勇気になった。

 「ひとつひとつ、整理しようか」

 私が話し終えるとロイおばさんは一呼吸置いて言った。

 私も森での出来事を整理したかったが、その前に伝えたい事があった。

 「ロイおばさん、シユ、メドアスも…本当にごめんさない」

 ずっとこれが言いたかった。

 「陽が落ちる前に森を出なかった、メドアスに何も手助けしてあげられなかった、他にも…たくさん…」

 泣きそうになるのを堪えた。泣いて済むとは思わないし、何泣いているんだと思われたくなかった。間違う選択ばかりしてしまう私が情けない。また間違えてしまった。

 壁によしかかり腕を組んで立っていたメドアスが、私に駆け寄る。そして、強く、私を抱きしめた。

 「チズが、死ななくて、本当に、良かった」

 メドアスの声は震えていた。

 その言葉と、力強い温かさで、泣くのを我慢することは出来なかった。メドアスこそ、死ななくて良かった。

 そして、今わかるのは、私が死なないことでこんなにも安心してくれる人がいたんだという事。大事にされていると感じる。

 今更わかるなんて、私は馬鹿だ。こんなに、大事に想ってくれる守り神が、私のそばにいるんだ。

 「チズ、私たちも同じ事を思っているよ」

 ロイおばさんが、本当に優しい声で言った。

 涙が止まらない。

 私は、間違えたのに。それなのに。

 その間違いを責められたりしない事もあるんだ。時間を戻したいと思わなくても良いんだ。

 「私、自分の失敗や間違いで、誰を傷つけてしまって、自分も傷つくのが怖かった。お前が悪いって責められるのが、怖かった。でも、話さなきゃって…」

 涙でぐちゃぐちゃになった顔で私は本音を言った。

 「チズは、怖くても話してくれましたね。逃げることも、自分以外の誰かのせいにすることもなく」

 シユが、ハンカチとティッシュを渡してくれる。

 「それに、大した失敗でも間違いでもありません。誰も、チズを責めません」

 安心する言葉だった。きっと私は、許せない自分を許してくれる一言に救われたかったのだ。

 私はハンカチを受け取り、顔を拭く。メドアスはまだ私を抱きしめていたそうだったが、身体を離して枕元に腰掛けた。

 ロイおばさんが、ゆっくりと私の頭を撫でる。

 「チズ、それにね、間違えたって良いんだ。常に選択が迫られる人生で、一度も間違えないなんて無理だし、何度も間違える人だっている」

 ロイおばさんの声が身体の内側に入っていく。

 「確かに、間違いが少ない事に越した事はないかもしれない。でも、何が正解で何が間違いかなんて、その時の状況や要因で変わることもある」

 そしておばさんは、力強く続ける。

 「だからチズ、自信を持って選んで良い。間違えて良い。一人で全部責任を負わなくて良い。一人で決められない時は、一緒により良い選択を見つけていこう」

 ロイおばさんの力強い言葉は、私の中で折り固まった間違う事への恐怖をかき消す。

 間違えて良いなんて、思った事なかった。

 私は、間違えて良いんだ。

 三人に囲まれながら深呼吸をし、

 「整理しよう」

 と私は前向きに言った。

 

 どうして死の神はあの森にいて、私に近づいてきたのだろうか。

 「あの森は、古くから夜になると死の神が出ると噂があった。でも、食物や果物が採れるとても豊かな森だから、昼間に山菜や果物を採りに行く人も多いんだ」

 ロイおばさんは、腕組みをしながらそう教えてくれた。

 メドアスは眉間にシワを寄せる。

 「あの森へ何度か訪れた事があるが、死の神の気配を感じたのはあの日が初めてだった」

 「死の神の噂は確かに昔からありましたが、あの森でその気配を感じた事は私もありません」

 噂はあったけど、シユも会った事は無いのか…。

 「チズに用があって、あの森を利用したのかもしれないね」

 ロイおばさんがまとめるように言う。

 「森の外からうちまでの間はシユの土で結界を張っている。入ってきたらシユはすぐわかるし、招かれないものは、まあ、神でもちょっとじゃすまい怪我をするだろう」

 メドアスが私を抱えて森の外まで飛んだ時に、死の神がすぐ諦めたのはそのせいだろうか。

 ちょっとじゃすまない怪我については、聞かない方が良い気がしたため聞かないでおく。

 「メドアスが、死の神の攻撃で怪我をしないで良かった」

 怪我と聞いて、私はふと感じた事を口に出す。

 「攻撃を受けたのかい」

 ロイおばさんが、初耳だというように少し目を見開いて聞く。

 「正確には、死の神の攻撃ではないな」

 メドアスが考え込むように言う。

 「え?でも、強い、台風みたいな風が…メドアスを覆って…」

 「ああ。でもあれは、死の神のチカラじゃない。チズからは見えなかったと思うが、私へ直接チカラを使って攻撃してきた違う神がいた」

 死の神以外に神の気配も姿も、私にはわからなかった。いつもなら百メートル程の距離なら姿が見えなくても気配は感じられる。あの時は、恐怖でいっぱいだったから、わからなかったのだろうか。

 「死の神の指示を受けて、彼の目的を達成する手伝いをしている者がいる」

 メドアスの考察は鋭かった。

 「台風みたいな風…風の神かもね」

 ロイおばさんが聞く。

 「おそらく。暗くてよく見えなかった、気配もうまく消していたが、身体が細い女性のようだった」

 メドアスは記憶に自信があるようだった。

 死の神には仲間がいる。

 「死の神なら仲間を集めることは容易いでしょう。口のうまい者が殆どですから。では、彼等の目的は何でしょう」

 シユが言う。

 「チズと組みたいと言っているということは、それが目的のひとつだろう。他にもありそうだけどね」

 ロイおばさんが腕を組む。表情がとても険しい。

 「どうして私なんだろう」

 ぽつりと言った言葉に他の三人は少し目を丸くし、驚いたようだった。ロイおばさんは険しかった表情を崩す。

 「チズ、君は自分は思っているより神から見てかなり魅力的なんだよ」

 「魅力的? 私が?」

 「そう。学校ではこれから習うかもしれないね。魅力として、まず神がすぐ視えること。これは神にとって認識してもらえて、素直にただ嬉しい」

 ロイおばさんが続ける。

 「そして覚醒者。私は神じゃないからよくわからないんだけどね、こう、神から見たら特別感があるみたいだよ」

 「私もうまく説明出来ませんが、人間がレアな物に惹かれるのと同じ感覚でしょうか。そのようなものを感じます」

 シユがわかりやすいように付け足す。

 それだけが魅力なのではないらしい。メドアスが話すには、私が神を信頼する想いが人より強いようだということだった。神からしたら、信頼してくれて、認識してくれる貴重な人間。レア中のレアらしい。私自身、自分に魅力があるとは思えないが、レアな人間と組みたいと死の神が考える事はありそうだと思った。

 他にも整理したい事があったが、私の体力の回復を優先するため、もう休むようロイおばさんに言われた。

 

 その日の夜、また汗をかいた。身体が重い。

 夢を見ていたような気がするが、何の夢だったか思い出せない。

 シユが着替えを手伝ってくれた後、白湯を淹れてくれた。

 それを飲むと喉から胃の方にかけて、温かいものがじわじわ沁みていくような感覚がした。

 「死の神って、みんなあんなに怖いものなの?」

 死の神に出会った時は、身体の内側から冷えていくような、今とは真逆の感覚だった事を思い出しながら、シユに聞く。

 「チズが見た死の神は、どのように怖かったのですか?」

 シユは着替えが入った洗濯かごを床にそっと置き、私の近くにある椅子にゆっくりと腰かけた。

 気配でなんとなく、メドアスが居室のドアの外側にいるのを感じる。

 「身体が凍るように、怖かった。全身が震えて、うまく力が入らなくなる」

 思い出すだけでも、少し寒気がする。私は白湯をもう一口飲み、カップを両手で包みこむ。

 「チズ達が出会った死の神は、死の神の中でもかなりチカラの強い者だと思われます。強いチカラの持つ神には恐怖を感じます」

 「死の神でなくても?」

 「はい、チズは気がついていないかもしれませんが、メドアスもかなり強いチカラの持ち主です」

 シユは居室のドアをちらりと見る。メドアスが外側にいることを、シユもおそらく気がついている。

 「初めて貴女とメドアスを視た時、少し身構えました、その時感じたのは怖さです」

 「そうなの?」

 出会った時のシユは怖がる素振りなど全く視せていなかったし、メドアスも脅すような事はしなかった。

 「チズはメドアスを信頼し、メドアスが守り神として全力で貴女を守ろうとしている。その関係が既に出来上がり、強い絆になっていました」

 人間と神の強い絆は、神のチカラをより強力にする。

 「神にも、器用不器用、天才凡才がいるのです。メドアスのような器用な天才がチカラを持つと、私でさえ恐怖を感じます」

 神でさえ、完璧ではない。同じ種類の神でも違う性格を持ち、違う考えを持つ。人間にとてもよく似ている部分が多い。

 「私が出会った死の神も、器用な天才…?」

 「聞く限りですが、おそらく」

 「誰か、人間に信頼されてるから、余計に強い?」

 背筋がゾワゾワする。白湯はだんだん冷めてきている。

 「チズ、死の神を信じている人間はこの世界にとても多いのです」

 シユが悲しそうな、でも当たり前のように呟き、それ以上な何も言わずに着替えの入ったカゴを持って居室から出て行った。

 死の神を信じている人間は多い。

 シユの言葉は、とてもよく理解できるものだった。

 誰かを殺したいもの、死期が近いもの、何かで大事な人を失ったもの、自殺したいもの…。そういった人間たちが、死の神はいるのだ、もしくはいてほしい、いてほしくないと認識する度に、死の神は強くなる。

 生きたいと思うものも、それは同時に死を意識している事となり、死の神への恐怖を持つ。その時点で、恐怖は認識となりまた死の神を強くする。信じてもらえなくても、信じられている。死は絶対だから。

 白湯は残り少なかったが、もうすっかり冷えてしまった。飲みきろうか迷ったがせっかく温まった身体がまた冷えてしまうのは嫌だった。カップをベッド脇のテーブルにのせ、布団に包まる。

 死の神への恐怖は消えない。でも。

 「メドアス」

 「いるよ」

 私が呼ぶと、メドアスはすぐ側で返事をした。

 「死の神は怖いけど、メドアスがいると思うと安心する。いつもありがとう」

 「チズ、私が必ず守る」

 メドアスの声を聞いて安心したまま、私は眠った。怖い夢を見そうになかった。いや、見ても大丈夫なような気がした。

 

 体力は一週間ほどで回復した。ロイおばさんは「若さだね」と言って驚きつつも喜んでくれた。

 復帰祝いだ、とロイおばさんとシユは街へ買い物に出かけた。

 私は休んでいた間は学校に行けなかったため、少し自学習をしようと考えていた。しかし教科書を開く前に、サクラがうちにやって来た。

 彼女にしては珍しく顔色を悪くし、走ってきたのか息が切れていた。

 「がっ…チ…ズ、に…コ…が」

 サクラは何か話したそうにしていたが、苦しそうにして言葉がうまく出ていない。玄関で倒れ込み、深く息をしている。

 体力があり、疲れを見せたことの無いサクラがものすごく疲れて苦しそうにするなんて。

 私が戸惑っている間に、メドアスがすぐに水を汲んだカップを持ってきた。手渡すとサクラは少し震えるようにして手に取って飲む。

 「サクラ、大丈夫? ゆっくり呼吸して」

 サクラの背中を撫で、玄関にある丸椅子に座らせる。身体がすごく熱く、湿っている。こんなサクラを見たのは初めてだ。

 「何があったの…」

 水を飲み終えても、サクラの息は荒く苦しそうだった。こんな時、ロイおばさんやシユならどうするだろう。無理に動かしたりはしないはずだ。

 メドアスが三杯目の水を手渡そうとした時、サクラは顔を上げ、今にも泣きそうな目をして私の手を掴んだ。

 「チズ、助けて、トコが連れて行かれちゃった、怖そうな神に」

 声が震えている。

 私とメドアスは顔を見合わせる。

 「どういうこと? どこに連れて行かれたの?」

 「森に行くって、言ってた。私…トコと一緒に視る訓練してて…そしたら灰色の長い神が来て…」

 サクラの顔色がさらに悪くなってくる。

 「私は、最初視えなくて…トコが意識を失ってやっと視えた、でもすぐ消えてちゃった」

 「何の神だった」

 メドアスが緊張した声で聞く。

 「…わからない、ごめんなさい。でも、トコは森に連れて行かれた。助けに、行って」

 サクラが振り絞るように言う。

 「なんで、トコが…。メドアス、灰色の長い髪の毛の神って、あの…」

 「可能性は高い」

 死の神が、トコを連れて行った可能性が高い。

 助けに行かなければ。

 「ロイとシユに連絡して、帰ってきたら私が森へ向かおう」

 メドアスの言葉を遮るように、サクラは真っ青な顔で

 「早く!」

 と言った。

 「メドアス、手遅れになる。先に森へ行ってトコを助けて。ロイおばさんとシユが帰ってきてから私も後から…」

 「チズは駄目だ、ここにいろ。シユのチカラで守られる」

 メドアスは私の肩を押さえて強く言った。本当は、私と離れる事に抵抗があるはずだ。守り神はどの神よりもそばにいることを好み、近くにいればいるほどチカラを発揮する。でも今はそんな事を言っている場合ではない。あの怖い死の神がトコを連れ去ったならば、何をするかわからない。

 「早く!」

 サクラが冷静を失ったかのように叫ぶ。今にも倒れそうだ。

 「チズ、この家から一歩も外へ出てはいけないよ」

 メドアスは私の手を握りながらそう言うと森へ向かうため消えて行った。

 メドアスならきっとトコを助けられる。強い神だからじゃない、私が一番信頼出来る優しい神だからだ。

 私は家の鍵を閉め、丸椅子で項垂れているサクラに声をかけようとした。その時、サクラはスッと立ち上がり、私が閉めた鍵を解き玄関の扉を開けた。

 「サクラ?」

 彼女の名前を呼んだ時には、目の前が見えない程の強風に私の身体は包まれ、浮かびあがっっていた。

 罠だったんだ。

 家の屋根より高く身体は浮かび上がり、下でサクラがこちらを見上げているのが小さく見えた。

 そして、森で出会ったあの死の神も、数メートル先で風に包まれながら浮かんでいる。

 「土に結界ってサァ…厄介だけど触れなきゃどうってことないヨネ」

 あの怖い笑みを浮かべている。

 そうか、敷地や家などシユの土で出来た物に触れない限り、彼女の結界であるチカラは発動しない。

 「サクラとトコに、何をしたの!」

 どうしようもない身体をジタバタさせながら私は声を張り上げる。

 今回は、怖さよりも怒りと悔しさが強くなっていた。

 「何もしてなイヨ。ただ、トコって子に眠ってもらって、サクラって子に君んちの扉を開けるよう頼んだダケ」

 死の神は、見下したように、にやりと笑う。扉に触れる事ができるサクラを利用したのか。

 「あ、あの邪魔な守り神が君から離れるように芝居も頼んだカナ。サクラって子、あのトコって奴が相当好きなンダネ。動揺しちゃっテ。まぁうまくやってくれタケド」

 死の神は、頼んだのではなく私の友達をただ脅したのだ。自分の目的のために。

 「どうして、そこまで」

 私の中で怒りが膨れ上がっている。

 「うワァ。今日は前より怖がってナイネ。怒ってルノ? 心外ダナァ」

 死の神は、とても余裕な顔をしている。

 「まァいいヤ」

 油断していた。死の神はそのまま私に勢いよく近づき、チカラを使って私を気絶させた。

 メドアス…。

 呼ぶことも出来なかった。

 薄くなる意識の中で、サクラの叫び声が聞こえた。

 

 

 ●死の神モアと風と雪

 目を覚ますと、身体のアチコチに鈍い痛みを感じた。それでも身体を起こそうと床に手を着くと、ひんやりと冷たい。石の上にいるみたいだ。辺りは薄暗い、教会ような、施設のような建物の中だった。椅子や棚が乱雑に置かれ、埃や蜘蛛の巣が張っている。小さな窓からは薄っすらと外の光が漏れ出ているが。窓が汚いのかきちんと光が差し込んではきていない。

 人は誰もいない。そう、人は。

 死の神と、他に神と思われる者が二人いる。

 一人は小柄な女性で、メドアスが言っていた風の神のようだ。手のひらで小さなつむじ風を操って遊んでいる。比較的若く視える。

 もう一人は男性で、白い肌に白い髪の毛が顎ぐらいまであり、前髪で目が殆ど隠れている。憂鬱そうに下へ目線を落として、椅子に腰掛けている。

 「冷静に観察するなんて随分余裕があるんダネ」

 奥の暗い所から、死の神がゆっくりと近づいてきた。灰色の長い髪の毛は、前に森で出会った時よりも長く感じる。埃まみれのところにいながら、彼の上品な喪服は埃や糸屑ひとつさえついていないようだ。

 「サクラもトコも、メドアスも無事なの?」

 痛む身体を起こして立ち上がる。あちこち痛いのは、擦り傷が出来ているからのようだ。でも今はそんな事どうでも良い。

 「自分の心配じゃなくて、周りの心配とはご立派ダネ」

 徐々に近づいきていた死の神は、私の顔をじっくりと見る。

 彼の呼吸が聞こえるくらい近い。それでも私は視線をはずさなかった。森で出会った時と同じくらい恐怖を感じるが、今は前よりも怒りが湧いている。

 「あんま怖がってないね」

 死の神の後ろで、風の神と思われる女性が言う。

 「うるサイヨ。君が守り神を逃したからこうなったってイウノニ」

 「守り神なんかと闘ったのは初めてだったんだ、あいつ、嫌い」

 風の神はふてくされた顔をする。

 「紹介が遅れたネ。この子は風の神のソヨカゼ。まだ百歳の赤チャン」

 死の神の紹介に、風の神であるソヨカゼはムッとした顔をしたが何も言わなかった。

 「こっちは、雪の神のショウ。この子もまだ二百歳くらいなんだけど、優秀ナンダ」

 死の神は隣の男性を指差す。雪の神のショウは、前髪の隙間からチラリと私を見たがすぐに視線を逸らした。なんだか懐かしい雰囲気がある。

 「トコって奴をすぐに気絶させる事ができたのはショウのお陰ナンダ」

 「なんでそんな事…! 無事なの?」

 得意げに話す死の神に食ってかかるように私が言う。

 「まだ僕の紹介が終わって無イノニ」

 死の神は面倒臭そうにため息をつく。

 「気絶した後は知らナイヨ。森に置いてキタ。あの守り神でも探すのは手間がかかるんじゃナイ?」

 私は最悪な事を考えてしまい青ざめる。メドアスが間に合わなかったら?秋だとはいえ、もう十分外は寒い。長い時間森の中でいたらどうなるか。そんな私を差し置いて、死の神はどんどん喋る。

 「僕が死の神なのはもう知ってるヨネ? 名前はモア。改めて、よろシクネ」

 「私に用があるだけなら、私の友達を傷つけないで」

 「だって君に近づこうとしても、うまくいかないんダモン。それニサ…」

 死の神のモアは長い髪の毛をかき上げる。。

 「守り神ガ、守りたい者を守れなかった時の絶望感でどんなだと思ウ?」

 死の神のモアの背筋が凍るような低い声と、おぞましい程憎しみがこもった表情が私を震えあがらせた。

 「メドアスを弱らせる事が目的なのね?」

 私と組もうと言った事も、メドアスから私を遠ざけたのも、彼を傷つけるため。内側から、壊すため。

 死の神のモアは私の肩に手を置く。想像以上にずっしりと重みを感じ、私はそのまま座り込みそうになる。ぐっと脚に力を入れて耐えるが、色々な擦り傷がズキズキ痛む。きっと深い傷もあるだろう。

 「君ハ、あの守り神と組んだ時の事を覚えてル?」

 死の神のモアが、首を傾げて聞く。

 「覚えてる、メドアスは私を助けてくれた」

 「あれは、助けたって言えるのカナ」

 「あなたが何を知ってるって言うの」

 私はモアを睨みつける。

 「彼が見せてくれたンダ」

 モアはそう言うと、右手を後ろの方へ向け、拳をぐっと握った。一瞬で離れていた雪の神のショウが私の目の前にくる。近づいた瞬間、ひんやりとした空気が私を包んだ。

 私は驚いた顔をしたが、ショウは表情を変えず、されるがままだった。近くに来た事で、ショウの白い前髪の奥で、まつ毛に雪の結晶がついているのがわかった。

 「雪の神が? 見せたって、どういう事?」

 私がそう聞くと、ショウは気だるそうに両手で空気を優しく掻き回すような仕草をした。少しするとその手の中に雪の結晶が集まる。彼はそれを天井に向かってふわっと広げ投げた。

 雪の結晶はキラキラと舞い上がったが消えず、徐々に何かを映し出した。

 映ったのは、冬の雪の中で小走りしている私だった。

 これは、死のうとした日の夜だ。

 私は脚の力が一気に抜け、しゃがみこんでしまう。それでも結晶が映し出す映像から目が離せなかった。

 映し出された私は、図書館の裏で眠ろうと目を閉じる。少ししてメドアスが近づいてくる。何かを私に言っているようだが、声は聞こえず口が動いているのだけわかる。メドアスは私に手のひらをあてると、光が私を包み込み、二人は消えた。

 映像はまだ続いている。私が横になったところに、死の神モアがやってくる。とても怒った顔をして、辺りを見回している。

 そこで結晶はキラキラと消えていった。

 「雪の神は、記憶を結晶で映像化できるんだ」

 ショウはぼそり、と消えそうな声で言った。

 私は彼の顔を見て、思い出した。

 「あの時、すれ違った、雪の神?」

 身体を濡らして図書館まで走っていく時、すれ違った神がいる。それが雪の神だったのを、今の今まで忘れていた。ショウだったんだ。彼は、私が死のうとしている時、メドアスが私を助けた時見ていたんだ。そして死の神がやってくる前の映像を、モアに見せた。

 「雪の神デ、こんなにはっきりとした映像を見せられる者はなかなかイナインダ」

 モアはそう言いながらショウを後ろに押し退ける。ショウはよろけつつも、そばにあった椅子にストンと座った。

 「強烈な死の匂いがして行ったノニ。あれは君を助けたんジャナイ。君の死の邪魔をシタ。だって君は死にたがってたロ?」

 「それ、は…」

 言葉が出ない。

 「すぐに神が視える覚醒者。おまけに脆くて弱くてぐらつきヤスイ。守り神からしたらそりゃあ守りたくて守りたくて仕方ないほど魅力的」

 モアはうっとりた声を出す。

 神にも欲求がある。守り神であれば、守るべき者を守りたいという欲求。メドアスは確かに、あの時魅力のある弱い私を守りたかっただけかもしれない。

 「同時に死の神からしても魅力的ダヨ。こんなに才能があるノニ、君は死にタガル。不幸とたくさんの死を寄セル。僕はたくさんの魂がホシインダ」

 死の神は、死が欲しい。たくさんの魂が欲しい。死が欲しい。モアは欲求に従っている。

 寒気と吐き気がした。

 私が不幸を寄せる?

 先ほどとは違い、怒りよりも恐怖と絶望が押し寄せてくる。そして、すぐ弱気になる自分に嫌気が差して大嫌いになる。

 「本当ハ、『なんであの時死なせてくれなかったノ』って思ったことあるんジャナイ?」

 「ない!」

 震えながら私は叫ぶ。

 あの、死のうとしたあの日以来、そんな事を思ったことは一度もない。

 「もし無くてモ、これから思うことアルヨ」

 モアはニヤついたまま、しゃがみこむ私を見下ろして冷たく言う。

 そして彼は両手を大きく広げる。天井が唸るような音を出す。

 それを見たソヨカゼとショウは、顔色を変えてその場から急ぐように離れて行った。

 私も危機感を感じるが力の抜けた脚は動かない。

 天井にヒビが入り、空間が歪むような感覚になる。

 私は一気に呼吸が苦しくなり、両手で喉を抑える。首を絞められているみたいだ。

 モアは広げた両手を握り、天井を引っ張るかのようにチカラをこめている。

「大丈夫、殺しはシナイ。でモ、死ねば良かったって苦シミ、与えてあげルヨ」

 モアの不気味な笑い声が響く。実際は、そんなに大きな笑い声では無かったかもしれないが、私の耳と心臓に大きく響いた。

 苦しい。どうして、やっと生きたいと、生きていきたいと思えた時にこんなに死が迫ってくるんだ。

 守ってくれる人がいる、わかろうとしてくれる人がいる、私は弱いかもしれないが、強くなりたいと思えた。それなのに。

 気を失いそうな瞬間、モアのチカラが緩み、私は呼吸ができるようになった。

 目の前がぐるぐると回り、咳き込みながらも肩で息をする。

 ものすごく苦しくて、心臓が痛い。それでももう死にたいなんて、思わない。思いたくない。

 「あァ…目が死なないなァ」

 モアは両手をおろし、咳き込みながらしゃがみこむ私の顔を両手で包んだ。

 死の神の顔がすぐそこにある。

 よく視ると目も灰色で、意外なほどに綺麗な瞳だった。整った顔立ち。でもものすごく冷たい表情。

 「ねェ、僕と組もうヨ」

 囁くようにモアは言う。

 「もう痛いのも苦しいのも嫌デショ? 組んだら君に集まる不幸な魂をもらッテ、最後に安らかデ、気持ちの良い死を君にあげル」

 「ふ…」

 私は痛む身体と心臓を震わせるように叫ぶ。

 「ふざけるな! 痛くても苦しくても、私はあなたと絶対に組まない!」

 モアは一瞬驚いた顔をしたがすぐに余裕そうに笑った。

 「わかってないナァ。君の魅力を有効活用できるのは僕なのニ」

 モアは私の顔から両手を離し、片手で指を鳴らした。

 辺りは急に真っ暗になり、何も見えなくなった。

 私は最初、目がおかしくなったのかと思ったが、すぐに違うとわかった。

 近くにいたはずのモアが、燭台に乗せた蝋燭を持ちながら十メートルほど離れたところにいるのが視えた。彼の顔が不気味に照らされている。

 「君ハ、強い人間になりたいんでショ?」

 離れているのに、すぐそばにいるようにモアの声が聞こえる。

 それを遮るように私は言う。

 「メドアスは、弱くても良いと言っってくれた」

 「あははははハハハハ」

 モアは声を上げて高らかに笑う。

 「そう言うのは当たり前ダロ。守り神にとって君は守るべき存在で、守らせてほシイ。強くなられちゃ困るんダヨ。だから『弱くても良い」なんてさぞ優しさのように呟ク」

 ニヤニヤと笑い、私の心を抉りだそうとするように彼は続ける。

 「結局あの守り神も守りたいって欲求を満たして神としての存在価値を残しておきたいダケ」

 モアはもう一度指を鳴らすと、私は叫び出したいほど心臓が痛くなった。まるで鷲掴みされているように。掴むものが何も無いのに、何かに掴まりたくて、手を動かす。しかし宙を描くだけで、何も掴めない。暗闇と遠くに不気味な蝋燭と死の神が視えるだけ。

 私を弱くても良いと言ったのは、メドアスが自分の欲求を満たしたかっただけ?

 神は食事もしなければ、眠りもしない。

 土の神は土を豊かにしたいし、守り神は守る事を続けたい。

 人間に気にされない神は弱っていく。

 いつか消えてしまうのだろうか。

 神も、消える事が怖いのだろうか。

 「僕なら君を本当の意味で強くしてアゲル。望んだ安らかな死が約束されてるなんて安心ダロウ。やっと解放されルヨ」

 もう、苦しまなくて良いってことか。こんなふうに色々考えなくて良い。怖い思いも、辛い呪いも気にしなくて良いなんて、私からしたら最強だ。

 「僕くらいダヨ。気持ち悪くて何も出来ない君を強く出来るノハ」

 痛みで頭がぼんやりとしてくる。

 気持ち悪い私。

 手足はビリビリと感覚が無くなってくる。

 「なんで君は、普通に生きられないんダロウネ?」

 だんだん、蝋燭と死の神がにじむように視えなくなる。

 なんで出来ない?

 気持ち悪いことばかり言うから?

 完全な暗闇になる。

 呪いの言葉が頭の中でぐるぐる回る。

 気持ち悪い、何でできないの? 気持ち悪い、何でできないの?気持ち悪い、何でできないの? 気持ち悪い、何でできないの? 

 気持ち悪イ、何で出来ないノ? 

 

 気持ちワルイ、何でデキナイノ?

 

 あの、死のうとした冬みたいに身体が寒い。

 でも死んだら、やっと解放される。

 気持ち悪くても、できなくても、もう関係無くなる…。

 …

 ねぇ、あの時、一度死のうとした時、メドアスはなんて言っていた?

 雪の神が見せてくれた結晶の映像を思い出す。

 私は、メドアスの声を聞いた気がする。

 なんて、言っていた?

 メドアスは。

 

 「チズ。生きるんだ。君は、幸せになるべきだ」

 

 視界が一気に明るくなり、私は温かい何かに包まれた。眩しさでよく視えないが、声だけははっきりと聴こえる。メドアスの、優しい声。

 暗闇は消え、先ほどいた建物の中には光が戻っていた。

 私はメドアスに抱えられている。触れている部分が、じんわりと温かい。

 メドアスは私を見て安心したような、でも少し不安そうな顔をしている。

 助けにきてくれたんだ、守ってくれたんだ。

 呼吸がきちんと出来るようになり、頭もすっきりとしてきた。

 なんて安心感だろう。

 「遅くなってすまない」

 メドアスはそう言うと、私をゆっくりと近くの椅子まで運び、おろした。

 「少し待っていてくれ」

 メドアスは、見上げる私の頭上で片手を大きく回し、柔らかいシールドを作った。そのシールドは、驚くほど温かった。まるで全身湯船に浸かっているような感覚がする。

 「あぁア。もうちょっとだったノニ。また邪魔が入っちゃっタ」

 モアの足元には消えた蝋燭と、粉々になった燭台が落ちている。彼はそれを名残惜しそうに見ると、顔を上げてメドアスを睨んだ。

 メドアスは全く聞いていないかのように一瞬でモアに近づき、首を掴んだ。チカラを込めているのが私のところからもわかる。

 モアは顔を歪ませたが、余裕そうにそっと首を掴んでいるメドアスの腕を右手で握った。そして空いている左手で、拳を握り、メドアスを殴ろうとする。

 メドアスはその拳を片手で受け止めたが、すぐに強風が吹いた。風の神だ。

 メドアスの右手奥からソヨカゼがにやにやと笑いながら両手を広げ回し風を起こしている。

 そこに追い込むように左側から先の鋭い氷の矢がメドアスに向かって飛んでくる。雪の神ショウが片手を突き出してメドアスを狙っている。

 「メドアス!」

 私はシールドを抜けようとするが、身体が通らない。柔らかい透明なものに囲まれたまま叫ぶ。

 メドアスはモアから手を離して氷の矢を避けたが、何本がかすったのが視えた。三対一なんて、いくらメドアスが強くても不利すぎる。

 私が何も出来ない中、神々達の攻防が続く。メドアスは三体もの攻撃を避け、反撃しているが苦しそうだ。

 三体の攻撃は、私に向かってくることがあったが、メドアスが作ったシールドは強度で、ぼん、と鈍い音を立てて跳ね返した。

 しかしこのシールドが、無敵なわけでは無い事を私は知っている。これはメドアスのチカラで出来たもの。メドアスが弱れば、チカラで出来たシールドも弱まる。

 「さすが弱き者を守る神ダ」

 モアは急に攻撃を止め、ソヨカゼとショウにも止めるよう両手を上げた。

 メドアスは肩で息をしている。綺麗だった服もボロボロで、ところどころ怪我をしているのが視える。神は、神からのチカラで受けた攻撃でのみで傷が出来、怪我もする。

 何も出来ずにいる自分が悔しい。

 「チズチャン。君が弱いおかげでこうやってこいつは守りたい欲求を満たせてるんダヨ」

 モアがゾッとするような声で言う。

 「弱いままで良いって言われて良かったネ」

 「黙れ」

 メドアスが言う。

 「僕と組めばもっと強い人間になレルノニ」

 「黙れ!」

 メドアスがモアに衝撃波を飛ばすが、すぐにショウのチカラで雪の壁が出来て当たらない。

 確かに私は弱い。ずっと言われっぱなしで、メドアスに守られていることしか出来ていない。思っている事もうまく話せないし、他にも出来ないことがいっぱいある。

 それでも、死の神モアに言ってやらないといけないことがある。

 「あなたにはわからないでしょうね」

 「エ?」

 「メドアスは、私に弱いままでいてほしくて『弱くても良い』って言ったんじゃない!」

 私はシールドの中で叫ぶ。

 「私は、強くなる方法を聞かされるより、弱くても良いと弱い私を受け入れてもらえる方が強くなれる。メドアスはそれを知った上で『弱くても良い』と言ったんだ。それは、私を強くした!」

 メドアスは自分の利益のために私にそう言った訳ではないと、私が一番よく知っている。

 私は、誰かに強くなる方法を教えられ、勧められるたびに、今の自分がどんどん否定される気がしていた。

 弱い私ではいけないのだと自分自身を否定し、強くなる方が良いと思い込んでいた。

 それはますます私を弱く、悲しくさせた。

 メドアスは全部知っているんだ。私が、このままでいいと言われたい部分も、変わりたいと思う部分も、彼は深く理解してくれている。その信頼と愛は、何よりも私を強くした。

 私は忘れちゃいけない。私を助け、守ってくれている存在を。

 「あの時私を助けたのはメドアスだ! 神の中でも人間の中でも私に『生きろ』と強くしてくれたのはメドアスだ! 私は彼と組んで幸せなんだ!」

 そうだ、もうあの死にたがっていた時の私じゃない。

 気持ち悪いと言う言葉も、何で出来ないの? という言葉も、呪いは完全には消えない。それでも、それに負けないくらい私は強くなった。

 モアはもう余裕そうな表情を視せなかった。

 「じゃあもうイイ。みんな死んじゃいないナヨ」

 モアの手が震える。

 メドアスはそれを見逃さなかった。大きな球体の衝撃波を作り上げ、それをモアに向かって投げる。またショウによって雪の壁が造られたが、それも吹き飛ばし、ショウとソヨカゼに鎖のようなものを巻き付けて動けなくした。

 モアは受け身を取ろうとしたが、そのまま衝撃波にのまれ、大きな音がなった。建物の壁がガラガラと崩れる。

 メドアスは私をシールドから出すと、そのまま抱えて高く飛びヒビの入った天井を壊し、脱出した。

 抱えらながら私はメドアスを視る。色々なところを怪我し、服には血が滲んでいる。胸が痛んだ。

 陽の差す外へ降り立った時には、そこにあったであろう建物が大きな音を建てて崩れ落ち始めた。古い教会のようであった。

 「チズ、大丈夫か」

 メドアスが少し泣きそうな顔で聞く。今まで見たことの無い表情だ。

 「私は大丈夫。メドアスこそ、大丈夫?」

 よく視ると頭からも少し出血している。

 「私は平気だ。帽子を失くしてしまった事が少し残念だが」

 平気そうには視えなかったが、過剰に心配されることをメドアスは望んでいないようだった。

 メドアスは私を抱えたまま、崩れていく建物から離れる。

 「あの三体の神はどうなったの?」

 「人間が信じる限り、消えはしない。ただ、しばらくは自由に動けないだろう。最後に私が当てた攻撃は半端なものではない」

 

 

 ●私のそばにいるのは

 シユの結界がある敷地まで来た時、メドアスは私をおろしてしゃがみ込んだ。肩で息をし、苦しそうに顔を歪ませている。

 「あぁ…メドアス、早く治療しないと…」

 私はうろたえながら、何もないのに何か使えるものが無いか辺りを見回す。

 「チズ…私は、大丈夫だ。少し息を整えているだけだ、私は死なない。君が守り神を信じて、強く意識してくれている限り」

 メドアスは屈んだまま私の手首を掴む。胸の辺りから、出血が増えているのがわかった。

 「でもメドアス、こんなに傷があったら、動けなくなってしまう。それに…」

 私は掴んだメドアスの手を握り、涙目になって言う。

 攻撃を受け、負傷した神はかなり弱る。神自体に元気が無くなると、人間から意識されることも難しくなり、最悪の場合は消滅してしまう。

 私はメドアスを意識せずに忘れるとは思えないが、弱る神の存在をずっと認知しておけるのかはわからなかった。

 「チズ、私を信じてくれてありがとう。あの時君が、私と組んで幸せだと言った瞬間に今までに無いくらいのチカラが湧いた。君が、信じてくれたから…」

 「メドアス、喋ると傷が…」

 「チズ…」

 メドアスの顔色がどんどん悪くなる。

 「誰か! 助けて!」

 メドアスがどんどん弱ってしまう。忘れたくない。視えなくなりたくない。どうすれば良いのか。私は誰もいない辺りを見回す。自宅まではまだ距離がある。

 どうすれば。

 私の涙と汗が地面に落ちる。それはすっと土に吸い込まれた。

 「見つけましたよ」

 シユが地面をすべるようにして来た。

 「シユ!」

 私はシユを抱きしめる。温かい土の良い匂いがした。

 「どうして、場所が…」

 「土が教えてくれました」

 シユは優しくにっこり笑う。そしてすぐにメドアスに駆け寄り、小さな小瓶に入った透明の液体を飲ませる。

 「メドアス、弱ってはいけません」

 シユはチカラを使って地面の土を盛り上がらせると、形を変える。シユの手の動きに合わせて土はどんどん形変えていき、土で出来た馬車になった。

 シユは私とメドアスを馬車に乗せ、シユが土でできた馬の手綱を引くと馬車は地面を滑るように動いた。馬車の中で、柔らかいような少し硬いような土が私たちを包んだ。

 馬車はすぐに家に到着し、扉からロイおばさんはものすごい勢いで出てきた。私たちが馬車から降りると馬車は砂となり、そのまま風に吹かれてサラサラと飛んで行った。

 「チズ!」

 ロイおばさんは私に思いっきり抱きつく。

 こんなにも強く抱きしめられたことは無い。私は、何も言葉が出ないまま涙を流した。

 シユとロイおばさんはすぐにメドアスを処置し、私の手当もしてくれた。

 処置が終わり落ち着くと私のベッドの横には簡易ベットが置かれ、メドアスが横になった。私はそれをホッとした気持ちで視つめる。

 チカラも元気もこれから回復していくだろう。

 私はふと初めてメドアスが横になって目を瞑っているのを視たと気づく。神は眠らないから当たり前なのだが、なんだか視られて嬉しい気持ちになった。

 「ニヤニヤしすぎ」

 部屋にサクラが入って来た。

 「あ、いや、違うの、また思ったことを先に言っちゃった。チズ、その、ごめんなさい」

 サクラは深々と頭を下げる。震える手を前で交差し、硬く握っている。

 「サクラ、顔を上げて」

 私は痛みを堪えてベッドから上半身を起こして言う。サクラが無事であった事にホッとする。

 彼女は頭を下げたまま首を横に大きく振る。

 「ううん、顔向けする資格ない。私、チズを死の神に手渡した。最低。いくらトコが人質にされたからって、友達を…私は…」

 コンコン、と扉をノックする音がする。

 「入るぞ」

 低い声がし、扉が開いた。

 トコだった。指先に包帯が巻かれているが、普通に立って歩き、顔色も悪くなさそうだった。

 「トコ! 大丈夫なの?」

 私は身体の痛みを気にせずベッドから出る。

 「あぁ。手足に少し凍傷が出たくらいだ。死の神と、雪の神にやられた。お前の守り神が来るのがあと少し遅かったら、手足の壊死か、凍死をするところだった」

 トコは冷静に淡々と話した。しかし目はまだ落ち着かない様子で、横になっているメドアスをチラチラ見ている。

 「メドアスは、大丈夫。多分」

 私がそう言うと、トコはホッとしたような顔でメドアスを視つめ、すぐにまた私を見た。

 「チズ、サクラをどうか責めないでくれ。…油断した俺が悪い」

 「トコは悪くない!」

 サクラは顔を上げてトコに向かって言う。涙が溢れ、顔が真っ赤だ。

 「サクラも、トコも、悪くないし、責める資格なんて私には無い。巻き込んで、ごめんね」

 私も泣きそうになった。でもここで泣くわけにはいかない。大事な友人を危険にさらし、怪我をさせ、泣かせてしまった。死の神が企んだ事だとしても、私に責任がある。

 「ここにいる全員が、自分が悪いと思っているんだね」

 気がつくとロイおばさんが部屋に入って来ていた。

 柔らかそうなタオルを三枚持っている。

 「若者達に口出すようで悪いんだけど、私の意見を良いかな」

 ロイおばさんはタオルを一枚、一枚、トコ、サクラ、私に渡す。

 「自分が悪いって言って何になる? そんな事ないって言われたいのかい?自分を責める前に、無事だったお互いを補い合いなさい」

 その言葉に、とうとうトコも泣き出した。

 そして三人でたくさん泣き、たくさん励まし合った。

 誰も誰かを責めたりなんかしなかった。あのトコでさえ、私を認め、以前言われた事まで謝ってくれた。

 誰でも失敗する。誰でも後悔する。それがわかって、私はとても安心した。私をわかってくれる人がいるなら、失敗しても後悔しても泣きながらでも前に進める気がした。

 

 しかし、二週間以上経ってもメドアスは目を覚さなかった。

 傷は治ってきており、顔色も悪くない。眠らないはずの神が、ただ目だけを覚さない。ロイおばさんもシユも原因はわからないようだった。

 私はほぼ完全に元気なっていたが、学校にはまだ復帰せず、家のことを少し手伝って過ごしていた。もう少し体力が戻ったら学校に行くとロイおばさんと約束した。

 ただメドアスが目を覚さない事は、私の気持ちをとても暗くした。何度も自分を責めようとするたび、ロイおばさんの言葉を思い出した。それでも深い溜息をつかずにはいられなかった。

 不安と、悲しさと、そして苛立ちを感じ始めていた。メドアスはわざと目を覚まそうとしていないのではないか、そんな気がしたからだ。そんな風に考える自分と、苛立っていると自覚している自分に少し驚きつつ、私がどうにかしなければメドアスはこのまま目を覚さない気がした。

 もう少しで三週間が経とうとした夜、私は思い付いた。

 勇気のいる事だったけれど、試してみる価値があった。

 私は夜の中家を出て、シユの守りがある敷地からも出た。そして森へ向かう。。

 「チズ! こんな夜に何をしているのですか!」

 気がついたシユが追ってきたきたけれど、私はそれを無視した。誰かを無視するなんて初めてで、動悸がした。ごめんなさいシユ、必要な事なの、と心の中で答えた。

 試してみるしかない、そう思いながらも森に近づくにつれて少し身体が震えた。しかし、その震えは森の入口でおさまった。

 メドアスが立っていた。

 「チズ、自らを危険に晒して私を呼ぶとは」

 私は思わず微笑んでしまう。

 「だって、起きないんだもの」

 そのままメドアスに抱きつく。安心する匂いがした。

 「すまない、守り神とは何なのか、チズを守る資格があるのか、色々考えていた。悩むことなど一生無いと思っていたのに」

 メドアスが私の髪を撫でる。

 「悩んだら一人で抱え込まないで。私に寄り添ってくれたように、私もメドアスに寄り添いたい」

 そう言うと、メドアスはとても嬉しそうににっこりと笑った。

 「メドアス、私だってあなたを守りたい、これからも」

 

 

                            終

 

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