序章 六
六
楓と別れて一人、大きすぎる家に帰る。
何年、何十年前に建てられたのかもわからないわたしの家は、無駄に広い。
和洋折衷の外観に和室が合計六部屋。庭には立派な木々が生い茂っており、ちょっとした池まである。
樹木たちは庭師を雇うのではなく、風雅さんが剪定して高い質を誇っている。
「やぁお帰り、深春さん」
その風雅さんは、今日もわたしの家で家事をしている。
毎日ではないけれど、こうして家に来ては食事を作ったり、家の中を掃除したりしてくれている。
今日も、彼の作る料理は美味しそうだ。
キッチンに隣接した居間に入れば、芳しい香りが立ち込めている。
今日の夕食は、肉じゃがだろうか。
においしかわからないのが、もったいない。
それでも美味しそうだというのはわかるので、よしとしよう。
「調停社の方から依頼が来てましたよ。そこに」
「あー、そですか」
料理をする風雅さんが示した先には、卓上に、茶封筒。
先ほど古賀凛から渡されたものと同じ封筒だ。
中身は違うだろうけれど、彼女は、ここにも来たということだろうか。
風雅さんは、十年近く前に父が封印した妖怪だ。
長い銀髪や何年経っても劣化しない見た目は確かに人間離れしたものだが、わたしは、彼の妖怪としての姿を知らない。
同じように、庭をうろついている猫とハクビシンも、普通の動物ではない。
こちらは二匹とも、わたしが封印した妖怪だ。
器を持たぬ妖怪は燈凪暢に斬られれば妖力を封じられ、霧散する。
しかし器があったり、何らかの生物に憑りついていた妖怪は、妖力を失っても肉体だけ残り続ける。
そういうものたちは調停社に回収されたりもするが、場合によってはうちで飼うこともある。
封印された妖怪の姿は、個体によってまちまちだ。
「立て続けの『仕事』で大変だね。無理は、してないですか?」
風雅さんは、わたしの父に恩義を感じているようだ。
父の優しく慈悲深い姿はおろか、父親らしい姿すら知らないわたしにとっては、そこに違和感しかない。
「ええ。多少の無理はありますけれど、身分相応弁えて、日々精進しています」
「そうですか。くれぐれも、見えないものを見ることに、とらわれぬよう」
居間の座卓に食事が並べられるのを見るともなく眺めながら、小さく礼を言う。
栄養バランスを考えられた、絵に描いたような和食が目の前に並んだ。
「……はい」
風雅さんの言っていることの意味は、半分もわからなかった。
でも、半分くらいは理解できた。
理解できた気に、なっていた。
この世界には目に見えるものと見えないものとがあって、その中にさらに、見ようとするものと見ないようにしているものがある。
人間の脳みその奥底に隠されて、認識できないもの。
その一部が、わたしが日々追及している、妖だ。
人は表面的なものや上っ面だけの取り繕いよりも、本質的な内側や真実を重要視する。
でも、何よりも優先されるべきものはこの体だ。
何かを見て、聞いて、感じるのは体だ。
栄養を摂取して生命維持をするのが現実のこの体である以上、優先すべきはそれそのものだ。
多分、風雅さんが言ったこととはそういう意味。
妖怪を追いかけるあまり、自分や、周りの人を見失うな。
何が重要で何を優先すべきか、それをずっと、考え続けている。
モグラ塚で穴を掘るな。
自分にできないことをやろうとしてはいけない。
不可能だと確信していることを実現しようとしてはいけない。
誰かを助けたいと思っても、まずは、自分のこと。
誰の助けも必要としないまま自分一人で立つことができる。
そうして初めて、人は誰かに手を差し伸べることが赦される。
一人の人間として誰かを救い、守ることができる。
そしてその上で、他人を自分よりも優先できる。
そういう人間がきっと、英雄になれるのだ。
「……ヒーロー、か」
昔好きだった変身ヒロインや、仮面を被ったライダーを思い出していた。
日曜日の朝、母の作るベーコンエッグの味に舌鼓を打ちながら、漠然と憧れていた。
彼らが強い理由は、魔法のステッキやかっこいい武器のためではなかった。
彼らは仮面を脱いだって、かっこいいのだから。
白いツナギの上に黒いコートを羽織って、夜の街を練り歩く。
肩には竹刀入れに収めた燈凪暢があり、ずっしりとした重さを伝えている。
古賀凛からもらった資料をもとに、わたしは、焼死事件の起きた現場を巡っていた。
ほとんどが規制線とブルーシートに覆われ人の目から隠されていたが、捜査員などはいなかった。
ならば、問題ない。物理的に閉ざされていなければ、入ることはできる。
人の目がないことを確認して、ドラマでしか見たことがないキープアウトをくぐる。
足音を立てずに小走りで、そのままブルーシートの中に潜り込む。
そこは、今のところ五件起きている焼死事件のうち、二件目の事件現場。
大通りからだいぶ離れたところにある、公衆トイレだった。
周囲に街灯は数えるほどしかない。
中に入ればさらに薄暗い。
妖怪でなくとも、何か悪事を働こうと企むには十分な悪環境だ。
「……妙だなぁ」
などとどこかの名探偵みたいに唸ってみるけど、違和感の具体的な理由がわからない。
ペンライトを取り出して、室内全体を照らす。
「ああ、そうか」
数瞬考えて、気づく。違和感の正体。
違和感が、ないことに。
この空間は確かに薄暗く、気味悪く、一秒だって長くいたくない。だけど、それだけだ。
言ってしまえば旧校舎のトイレみたいなもので、――とても、人一人が亡くなった環境だとは思えない。
具体的にいえばまず、天井や壁、床にすら、焼死事件が起きた証しとなる焦げ跡が、どこにもない。
言われなければ、ここが事件のあった場所だなんてわからない。
きっとそれこそが、これが妖怪の仕業であることの根拠だ。
周囲を焦がさず人だけを焼き尽くす炎。
そんなもの作り出せるのは、妖以外に考えられない。
世の理から外れたものは、すべて妖のせいになる。
逆に言えば、人間が感知できない現象や存在を、妖怪として呼んでいる。
ただそれだけだと言えるのかもしれない。
現場百閒というけれど、ただ眺めただけでは何もわからない。
頭の上に髪の毛のアンテナもないから、妖の残した妖気なんかを見つけて辿ることはできない。
いつだってわたしの妖怪探しは地道で、愚直だ。
「さ、じゃあ次行きますか」
それでいて見つけたら見つけたで後は燈凪暢と一緒に肉弾戦だ。
愚直にもほどがある。
たまに馬鹿らしくならなくもないが、そこは考えない、言わない約束だ。
方法とか、手段とか、それらの泥臭さはどうだっていい。
大切なのは、結果。それのみなのだから。