序章 五
五
放課後、カルマ先輩を待って教室に残っていた。
わたしと楓以外に残っている生徒は数人いたが、それもしばらくすれば、一人、また一人と下校していった。
「楓は、先に帰ってくれててもよかったのに」
「んー。だめ? かな」
今日も音は遠かった。
わたしの耳に届く音はいつも水中にいるみたいにくぐもっていて、実際よりも遠くから聞こえてくる。
足りない音は正常だったころの記憶から補填されて、それ故にわたしにとって最も聞こえやすい音の一つは、楓の声だった。
いつも楓との会話は、楽で、心地がいい。
「だめではないよ。もちろん、一緒に残っててくれたってかまわない」
「うん、じゃあそうする。事件の話も気になるしねぇ。近くで起きた事件なら、他人事じゃないし」
わたしとしてはあまり楓を血なまぐさい話には巻き込みたくなかったが、本人がそう言うのであれば、無理に帰らせるわけにもいかない。
「よ、お待たせ」
そうしてしばらく待っていると、教室前方の扉が開いた。
カルマともう一人、小柄な女生徒が教室に入ってくる。
一目見てわかった。
――その少女は、人間ではない。
「そちらの方は?」
見た目は背の低い少女でしかなく、わたしのように直感でそれが妖怪であると判別できない楓は、無垢に問いかけるだけ。
カルマの方も、特に気負いなく応じる。
「一応この学校の三年生ってことになってる、古賀凛さん」
「……一応?」
楓は、少しもの珍しそうにしているものの少女が人間ではないとはわかっていなさそうだった。
世界の裏に隠された秘密の事情を知りながら楓は、相手が妖怪であるとか人間だとか、そういうもので考えない。関心が、ないのかもしれない。
「うん。一応」
一方わたしは、二人が教室に入って教卓のあたりまで進むのを眺めていた。
頬杖をつきながら、言を発する。
「調停社の方ですか」
このタイミングで、カルマの紹介。
そう考えるのが妥当だろう。
綺麗なおかっぱ髪の少女の姿をした古賀凛は、わたしの前へと歩み寄って、恭しく紙片を差し出してくる。
どうやら、名刺のようだった。
「ご名答。調停社の仕えとしてやってきました、古賀凛です。今回は、神埜さんにお願いがあってやってきた所存です」
「あぁ、はい。そですか」
どこか勝気な性格を思わせる表情。
楓とは違って、人見知りもしなさそうだ。
影と言いこの子と言い……よく化けてるなぁ。
単純な外見だけで言えば、古賀凛にこれといった特徴はない。
来ている制服もわたしや楓のそれと変哲ないし、気になるところといえば、右手の手首につけられている暗い色のブレスレットぐらいだろうか。
「くだんの妖怪の討伐ですよね、……といっても、まだ妖怪の姿も、そもそも妖怪の仕業なのかもわからないですけど」
「えぇ、こちらとしてもまだ決断をしかねているところでして、調査員の役割も兼ねて私が派遣されました」
へぇ、と、実に興味なさげな声が出た。
実際に、興味なんて微塵もなかった。古賀凛から受け取った名刺は机上に放置して、話半分に聞き流す。
わたしはあまり、調停社の人間が好きではなかった。
ウマも合わなかった。
調停社は、人間と妖怪が入り乱れるこの現世で、その間に立ち円滑にシステム構築をする組織だ。
構成員には人間はもちろん彼女のような妖怪もおり、その仕事は妖怪の捕獲から教育、存在の隠ぺいまで、多岐にわたる。
それだけ聞けばわたしの「仕事」と大して違いはないように思えるが、実情はもっと複雑だ。
「これから先、私は神埜さんと行動をともにさせていただきます。あくまで調停社との仲介や伝令係程度の役割しか持っていませんので、戦力としては数えないでいただきたくあります」
「あぁ、はい。特に期待はしてません」
彼らがやろうとしていることは、円滑なシステムの構築。
つまり、人間と妖怪、二世界間の完全なる支配だ。
それはわたしの望む自由な世界とは違う。
混沌とした無秩序は望まないが、誰かが管理し統括する世界なんて、面白くない。
わたしはなによりも、自由で平穏な状態を好む。
あたたかい、ぬるま湯みたいな日々だ。
「ついてくるのは勝手ですが、こちらにはこちらのやり方があります」
いや、特にないけどね。こちらのやり方とかそういうの。
とりあえずふてぶてしい態度で言ってみたら、それらしくなった。
「邪魔さえしてくれなければ、どうでもいい。この街にいる妖怪はすべてわたしが封じます。今回もそのつもりでした」
ここ最近の寝不足のせいで、あくびが出そうだ。
でもなんとかそれをかみ殺して立ち上がる。
机の横にかけてあった鞄を乱雑につかんで、吐き捨てた。
「今日はもう、帰ります」
「わかりました。では、これ。今回の連続焼死事件の資料です。現場の詳しい位置や状況が書かれています、ご参考までに」
そう言って、古賀凛が大きめの茶封筒を押し付けてくる。
それはそれで有用そうだったので、受け取るだけ受け取っておいた。
この世界の均衡とか、秩序。そういうもの、本当はどうでもいいのだ。
守りたいものがある、諦めたくないものがある。ただそのためだけにわたしは斬っている。
「じゃあ楓。行こうか」
ただ、君のために。
帰り道、わたしと楓は少し寄り道をして帰った。
三つほど電車を乗り継いだ先の駅には大きなショッピングモールもできているが、わたしたちの街の商店街もまだまだ負けていない。
どこか下町を思わせる街並みは、夕暮れ時に訪れると大変に風流だ。
八百屋や肉屋はスーパーの特売に負けないくらい日々安売りしていて、家計を助けてくれる。
殊にわたしと楓のお気に入りは、商店街のはずれにある甘味処だ。
「またアイスぅ? ほんっと、好きだねぇ深春。ちゃんとまともなものも、食べなきゃ」
そう言う彼女は、トッピングを増しましにしたあんみつを美味しそうに頬張っている。
和菓子にクリームって、合うのかなぁ。
和の印象を崩さない店先のベンチに腰掛け、二人肩を並べて夕食前に甘味を食む。濁った視界の先で、人々が行き交っていた。
「アイスだってまともなものだよ」
そうは言うけれどやはり、わたしはアイスクリームそのものの味を楽しんでいるわけではなかった。
だって、わからないから。
冷たいアイスを何口か口内で溶かしたあと、あたたかいお茶に口をつける。
途端に、体中に熱が巡るようだった。
味覚のないわたしでも、その温度差を楽しむことはできる。
だからアイスクリームと熱い飲み物の組み合わせは好きだ。
家でもよく、アイスと珈琲の組み合わせを楽しんでいる。
戦いを繰り返していくうちに、いつの日か痛覚が鈍くなった。
そこに痛みがあり傷が生じたことは理解できるのに、感覚的な反応は鈍い。
ただ傷を「知覚」するのみで、そこに対して反射的に情動を揺さぶられることはない。
それに合わせて体の感覚もわからなくなって、毎朝、自分と外界との境界を探している。
「どうなん? 深春」
「……ん?」
街の雑踏はくぐもった音となって届かないのに、楓の声はしっかりとわたしの鼓膜を叩く。
隣の彼女に向いて、首を傾げる。
「今回の、事件。また、忙しくなっちゃうのかな」
そう口にする楓は、食事を与えられるのを待つ小動物のようだ。
「うーん。どうだろうね」
わたしの「仕事」が立て続くと、どうしても楓といられる時間が少なくなる。
それがわたしたちの常ではあるけれど、だからといって、素直に受け入れられるかどうかとは、また別の話。
「つっまんないなぁー。一個終わったらまたすぐ別の『仕事』なんだもん。終わったら、みーちゃんに遊んでもらおうと思ってたのに」
みーちゃん……わたしと長い付き合いのある楓は、時折、昔のあだ名でわたしを呼ぶことがある。
中学に上がる際恥ずかしいからと言って名前呼びにシフトチェンジしたが、油断すると昔の呼び方が出てくる。
指摘すると目に見えて照れて狼狽するので、わざわざ言うことはしない。
なんだか猫っぽくて、呼ばれる度に気恥ずかしさが視線を逸らさせる。
「まぁ、生活かかってるからなぁ」
「それもそうなんだけどねー」
わたしの現在の生活の基盤は、調停社や協会からの討伐報酬で成り立っている。
わたしらの一族が代々そうなのだから、変わらない。変えることのできない理だ。
「じゃあますますこうしてていいのかな? 私たち」
ぺろりとあんみつは平らげられてしまった。
楓は大変満足そうだ。
頬にクリームをつけて、ご満悦だった。
しかし本当に、よく食べるなぁ。
「うーん。どうだろ」
そのクリームを指で拭ってやる。
指に乗った粘度の高い液体を口に含む。
やっぱり、脂っこい質感しか感知できなかった。
「急いで何をしたって、何も変わらないから。妖怪はあまり日中に動かないし。……誰かが、傷ついてるから。本当ならすぐにでも探しに行きたいんだけどね」
「そ、だよねー。みーちゃんは、優しいな」
優しい。
いや、そうではない、そうではないことを、自分自身よくわかっている。
――ごめんね、楓。
わたしは、優しくなんかないんだ。
秋の薫風が、わたしの頬を撫ぜて街に消えた。