三章 一
命を奪うということについて、ずっと考えていた。
誰かを傷つけて、命を奪い、それなのに自分ばかり傷ついていると勘違いしていた。
あなたの痛みにずっと、気づけなかった。
一
気を失っていたらしい。
眠った覚えはないのに私の記憶はどこかで一度途切れてしまっていて、気づいたとき私は、冷たいコンクリートの上に寝転んでいた。
ほこりっぽくて、どこか鼻につくにおい。
ここは、どこだろう。
薄暗く手狭な空間で現状を把握しようと、寝ぼけた頭で周囲を見渡す。
「んっ」
と、そこでまた気づく。
私は、手足を拘束されて硬いコンクリートの床に転がされていた。
体を起こそうにも、普段と勝手が違うとうまくいかない。首と眼球を動かしてわかる範囲に、視線を這わせる。
無数のボールが収まった可動式の籠。
通常のそれより小さく簡易的なサッカーゴール。
その他、小中学校の体育の授業で使われる雑多な備品たち。
かび臭く実に不衛生な環境。
なのに、どこか懐かしい。
そこは、野外に設置された中学校の体育倉庫だ。それも、私と深春が一昨年まで通っていた中学校の倉庫である。
少しの間気づかなかったけれど、中学二年の時深春が跳びそこなって壊したハードルがある。
倉庫の端で、真っ二つに割れているあれだ。
決して運動神経が悪いわけではないしむしろ常人離れしているのに、何故か体育の授業では目覚ましい活躍をしない深春だった。ルールとか規定に従って身体を動かすのが苦手なのだ。
今はもう、そのすべてが懐かしい。
「おはよう、楓ちゃん」
耳障りな開閉音をさせ、重々しく倉庫の扉が開かれた。
何者かが、倉庫に入ってくる。
一瞬ほの暗い倉庫に光が射したが、すぐにまた閉ざされた。
「……やっぱり、あなたですか」
逆光だったしこちらは床に伏していたので顔を確認することはできなかったが、間違いない。
声の主は、私を誘拐してここに監禁したのは、彼だ。
「わかっていたような口ぶりだ」
いつも通り彼は穏やかだった。
でも、私をさらって、手足を拘束して床に転がしたのだから、そこは穏やかではない。
目立つ傷とか痛むところはなくて乱暴された形跡はないが、連れ去られる際後頭部あたりを強打されたので、まだ頭がくらくらする。
床に伏したまま、ほこりを吸わないようにしつつ対話を試みる。
現状何もされていないからといって、誘拐までされているのだから、この先身の安全の保障はされていない。
待っていれば深春が助けに来てくれるという確証だけはあった。
だからこそ、時間稼ぎは有用だ。
ゆっくりと、だけど彼を焦らさないように、言葉を紡いでいく。
「ずっと、気にはなっていました。怪しいところなんて、一つもなかったけれど」
「怪しいところがなかったのに、何故?」
「……なかったから、かな」
四年前のあの日を経て、彼に蟠りや悪意というものがないことが、深春に向けられてしかるべきそれが彼から感じられなかったことが、不可解だった。
深春の方には漠然とした不安とか罪悪感とかいうものが見られていたのに。
「でも、それでもあなたの目には、暗い水の底みたいなものが宿り続けてた」
なんとか身を捩って、うつ伏せだった姿勢を仰向けにしてみる。
これで大分、呼吸が楽になった。
ちょっと動いてみても、彼が私に危害を加える気はなさそうだった。
本当に、どういうつもりで私を誘拐したのだろう。
それも、今になって。
「深春と、私を見る目が、ずっと気になってました」
喋りながら考えていると、すぐに思い至った。
――あぁ、そうか。
――……復讐、か。
「あなたは深春も、私だってゆるしてない。きっとこの世界ぜんぶぜんぶ、あなたはゆるせないんですね。今まで我慢してて、でも抑えきれなくて。溢れそうなもの、抱えきれないはずのもの、長い間持ち続けてきた」
素敵だなぁ。
復讐なんて、間違いなく間違っている。
でも、どうしたって思ってしまう。
誰かのために怒り、憎しみを抱き、それを忘れない。
なんて、なんて素敵なことなんだろう。
「それでいいと思いますよ。ゆるせなくて、抱えきれなくて、爆発しちゃっても。まぁ、しょうがないんだと思います」
彼が驚いたように息を呑むのが気配でわかった。
彼とも、腹を割って話せる仲になれるはずで、そうなれないことは少し残念だけれど、仕方がない。
「あなたはあなたのやりたいように。私は私のやりたいように、しますから」
生きるってつまり、そういうこと?
深春と風雅さんが妖を退治する様を、私は屋上の少し離れたところで見ていた。
二人の邪魔にならないようにしていたのだが、思えば、それもすべて彼の計算だったのかもしれない。
自分の妖力であの蝶を集め、深春の視線を誘導。
そちらに集中させて、その隙に私を誘拐した。
うーん。こうして見ると、一番間抜けなのは私みたいだ。
「自分に嘘は吐かないでね。できるだけ、後悔の少ない方に」
間抜けついでに、手足を縛られ地面に転がったまま、彼を諭してみた。
諭すというほど立派なものではないけれど、でもとにかく、彼を救いたいと思ったのだ、私は、
私が死ぬのはいい。深春が死ぬのは嫌だ。
彼に、自分を殺したまま生きていて欲しくはない。
いろいろ、望みはある。望まないことがある。
私は基本わがままで、でもそんな自分の性質を悪いとは思っていない。
だって、みんなそうでしょ?
やりたいことがあって、やりたくないことがある。
みんながみんな自分の要望を押し通したら、世の中、大荒れだろう。
でももしかすると、案外美しい世界ができるかもしれない。
一人一人が自分を生きて、やりたいことをやっていく世界。
全員が自分勝手になることができれば、みんなが人生の中で自分の願いを叶えることができれば、きっと、それは素晴らしい。
まぁ理想論だ。
この世のどこにもない桃源郷だ。
叶うはずなんて微塵もない。
だけど――叶えたい。
「それで君や、深春が死んでもいいのか?」
「やだよ。やだけど、そういうものじゃないかなぁ、って」
体の後ろで結ばれた手と腹筋を大いに利用して、半身を起こした。
なんとかやっと、まともな体勢をとることができた。
体育倉庫内の雑多な何かに腰掛けた彼の姿が視界に収まる。
「あなたがそうしようとするなら、私も……多分深春も、全力で抵抗させてもらう。それで生き残った方が生き残る。そういう、ことで」
現代の文明社会には全くそぐわない野蛮な考え方は、まさに弱肉強食。
それに、その理論でいえば真っ先にほふられるのは私だ。
だけど、変に説得を試みたり命乞いをしたりするのは彼に対して失礼だという気がしてならなかった。
これまで、行動を起こすまでに、彼が悩み苦しみ抜いたことは容易に想像がついた。
それこそ四年という時を、彼は終わりのない闇の中で過ごしたことだろう。
安易にわかるということすらはばかられる苦しみ。
偽物の光に寄る辺を見出すよりも何倍も大変で、自分の想いや、彼の、姉の死に対して誠実。
誠実な想いにはまっすぐに応じなければ、不誠実というものだ。