一章 八
八
風呂から出ればわたしも、いくらか冷静さというものを取り戻していた。
体はあたたまっていてぬくぬくだが、心はいつもの冷ややかさを取り戻している。
冷ややかさ。
悪い意味に聞こえるが、わたしにとっては落ち着いて合理的な判断を下せる、とてもいいものなのだ。
とりあえず、戦闘後放置してしまった燈凪暢の手入れだ。
最優先はそれ。
一旦腰を据えて手入れをすれば、きっとこの先何をすべきか、何をしたらいいか、そしてどうしたいか。そういうものが見えてくるはずだ。
「とりあえず、影に謝りに行かなきゃね」
言って、呼気を刃に吹きかけないための和紙を口にくわえる。
「そだねぇ。怒ってないどころか、秋くん、ちょっと深春に感謝してるくらいだと思うけど。でも、深春が謝りたいなら、そうしたらいいんじゃないかな」
鞘から取り出した燈凪暢は変わらず妖艶な輝きを保っている。
でも使用後に後処理をしなければ切れ味が落ちるということは強く父から教えられていたので、わたしがそれを怠ることはない。
楓も、手入れをしている間はわたしと燈凪暢から距離をとってくれていた。
――謝りたい、か。
実は別段、影に対して謝罪したいという想いは少なかった。
申し訳なさがないわけではなかったけれど、それは、自分が勝手に感じている後ろめたさとか負い目とかに起因する。
どこまでも結局、わたしという人間は自己中心的なのだ。
その後は、ご飯だ。
楓と一緒に台所に立って、朝食と昼食の中間ぐらいの食事を作った。
もう随分と冷える日が増えたので、何かあたたかいもの。かつ、空腹を極めたわたしの胃にも優しいものを作ることにした。
思いついたのは、お茶漬けだ。
たっぷりふやかしたお米を和風だしやしょうゆ、塩で味付けして、アクセントに梅干しを乗せる。
時折夜食に作るけれどこれが案外一仕事終えた後の身に染みて、たまらなく美味しいのだ。
わたしがそうしている間、隣では楓がわたしの好きな白身魚を調理し始めた。
何やら手の込んだことをしている。
芳しい香りが、嗅覚の是非を知らしめてくれる。
まだわたしには、嗅覚がある――。
好物だといっても、それは、まだ味覚が残っている頃の話だ。
肉も野菜もあまり好きではない食わず嫌いなわたしだったけれど、魚は結構好きだった。
刺身よりも、フライや焼き魚、特に白身魚が、好きだった。
今はもう、ぼそぼそと口の中で崩れる食感しか、知覚できない。
「はーい。白身魚と長ネギのポワレ、完成でーす」
わたしが食卓に二人分のお茶漬け、それとちょっとした漬物なんかを用意していると、明るい声を上げながら楓が食器を運ぶ。
全身を包むように、あたたかい湯気と香りが漂ってきた。
「ぽわれ……?」
聞き慣れない料理名だ。
いやまず、料理名なのだろうか。小洒落た料理というものは、使われている材料とその調理法を料理名にする傾向がある。
わたしがわからないのはその、調理法と思われる名称だ。
改めて、少し焦げ目のついた白身魚に目をやる。
添えられた長ネギにも見た目から食欲をそそる焼き色がついていて、何よりその香りが、繊細でそして、洗練されていた。
「外はカリッと。中はジューシーに焼いてみたの。なんか、そういう料理方法があるんだって。蒸していろいろ細かく香り付けもしてあるから、深春でも、――美味しく、食べられるかな」
そう言う楓の笑顔はどこか儚くて手を重ねたくなるけれど、わたしのがさがさの指先で触れたら壊れてしまいそうで、はばかられる。
楓の気遣いに口を突いてごめんねが出かける。
言いかけて、そうではないなと、思い至る。
「ありがとう」
誰かに気を遣ってもらって、それが嬉しかったら言うべき言葉はごめんなさいではない。
感謝を――精一杯に伝えよう。
「いただきます」
「いただきます。……あ、お茶漬け美味し。流石だねぇ、深春」
名前を呼ばれるだけで耳のあたりが熱くなって、頭の後ろの方がじくじくなって、もっと呼んで欲しいと、もっとそばにいたいと、切に願ってしまう。
一口大に切り分けた白身魚を頬張ると、淡いレモンの香りが、わたしの中に広がった。