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ただ、きみのために  作者: 蒼伊織
一章 わたしの光
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一章 七

     七


 夢を見た。

 今度はトワイライトが見せた幻想ではなくて、本当の夢だ。

 睡眠中に見る、目覚めたらすぐにどっかにいってしまう、あれ。

 夢の中でわたしは、母のぬくもりに縋る子どもだった。

 誰だって、幼い頃見たことのある情景。

 母に抱かれ、そのぬくもりを疑いもせず、安心しきって眠る。

 そんな幸福が、今はもう、遠い昔のこと。

 

 母は、病に伏してわたしの前で快活にいられる時間がなくなって、そしてそのまま、死んだ。

 その死に、妖怪や「仕事」は関係ない。

 本当は、父のことも「仕事」に対する蟠りも、どうだってよかった。

 重要なことはただ一つ、わたしが、お母さんを失ったという、それだけだった。


 確固たるぬくもりを、失ってしまったという――。

 陰りのないぬくもりの中で目を閉じ、息を吸って、吐いて、眠る。

 それはもう遠い昔のこと。

 失ってしまった、今はなきもの。でも――。

 失ったなら、また取り戻せばいい。


 簡単にいかないことはわかっている。

 一度失ったのだから。命だって、一回なくしたらなかなか取り戻せない。いや基本的には、二度目はない。

 でも本気を出せば、意外とうまくいくのではないかという想いが無根拠にわたしの胸を突いた。

 本気でやれば、頑張れば、偽物でも代替品でもない本物を取り戻せる。

 そう思うんだ。


「……おはよう、お母さん」


 目を覚ましたら途端にぬくもりは失われてしまって、喪失感に、涙があふれ出した。

 でもなんだか、ぬくぬくとした物に体が包まれている。

 これは、そうだ。布団だ。

 最近ではろくに寝転ぶこともなくなっていた、馴染み切った自室の布団。


「ふとん?」


 懐疑が心に浮かんで、テニスボールみたいに跳ねて、落ちた。

 そのまま転がってどこかにいってしまいそうだったけれど、どうにかまた戻ってきた。

 わたしは、いつの間に布団に入って眠ったのだろう。

 記憶がおぼろげだ。曖昧で、うやむやで、どうしても形を成さない。


 わたしは昨日――昨日? か、どうかもわからないけれど、とにかく眠りに落ちるまで、トワイライトと戦っていたはずだ。

 普段のわかりやすくバケモノらしい妖怪との戦いとはまた質の違ったものだったけれど、あれもわたしにとっては充分に戦いだった。

 トワイライトの創りだした領域の中で、何度も誘惑に負けそうになった。

 母を失って、ぽっかり空いたわたしの心を埋めてくれた楓のぬくもり。

 移り移ろう世の中ではそれが久遠に保たれる保障なんてないから、妖の創りだす夢の中で、未来永劫それを噛みしめ続ける。


 それはどれだけ、わたしの渇望を満たしてくれたことだろう。

 それさえあれば、他に何もいらない。トワイライトの誘いを断った今でも、はっきりとそう思える。

 でもわたしは、偽物のそれを拒んだ。

 偽物だからという理由だけで、それを拒絶できた。


 まだ、迷っている。

 あの選択は正しかったのだろうか。 

 あれを拒んだのは、正しい選択だったのだろうか。

 でも、走馬灯のような記憶の中ではっきりとしている、最後の記憶。わたしを見て安心しきった笑顔を向けてくれた、楓。

 ここにはまだ楓がいるから。

 わたしがいなくなったら、楓が泣くだろうから。

 その事実だけで、トワイライトを拒んでよかったと、そう断言できるだろう。


「あぁ、起きた? 深春」


 ふらふらととろけたような頭で家を徘徊して、居間にいる楓を見つけた。 

 楓は食卓の椅子に腰かけ、机の上で開いた雑誌を読みふけっていた。

 わたしを確認して、顔を上げる。


「おはよう」

「……おはよ」

「丸々二十四時間ぐらい寝てたねぇ。どう? 目覚めは」


 すっと音もなく立ち上がると、楓は冷蔵庫に向かっていって、すぐに帰ってきた。

 わたしに、冷たい麦茶の入ったカップを差し出してくれる。


「すきっ腹に冷たいのはよくないだろうから、ゆっくりね」と、付け足して。


「……そんなに、わたし、寝てた?」


 居間には、というか、この家には、時計以外まともに日付を確認できるものもない。

 かすれた声で尋ねると、楓は、雑誌の横に置いてあった新聞を示した。

 日付を確認する。


 トワイライトとの会敵が深夜で、午前の始まりだったとしてもそれはもう昨日のことだった。

 タイムスリップでもしてしまったように、わたしの中から丸一日が失われている。

 でもそれに、強い喪失感はなかった。

 ただ目覚めの、おぼろげで曖昧で、だけれどとてもすっきりした感覚だけが続いた。


「秋くんが、家まで運んでくれたんだよ。後でお礼言わなきゃね」


 影――その名前を聞いて、一気にわたしの胸は冷や水を浴びせられたように委縮する。


 二週間前。

 わたしは、力を解放して妖怪化してしまった影を再度燈凪暢で封印した。

 その時の方法があまりよくなかったとか、態度が大層悪かったとか、後になって気になってしまい、わたしはここ数日、影も楓も、古賀凛すらも避けていた。

 彼らがわたしを咎めずにいてくれることは予想できた。

 心根の優しい彼らのことだ。むしろ感謝とかされそうで、それがまた、嫌だった。


 自分の矮小さを突きつけられているみたいに感じて、わたしは、逃げてしまった。

 それもまた後ろめたさがあって、でもどんどん、後に引けなくなった。


「雨でびしょびしょになって、軽く体拭くぐらいしかできなかったからね。昨日は一日熱でうなされてたよ。今も……まだちょっと、微熱だね」


 楓の小さな手がわたしの首元にあてがわれる。

 その優しさが、そのぬくもりが、またわたしを小さくする。冷たくする。


「ごめん、楓」

「え? 何が? どこのこと? いつのこと?」

「いろいろ、心配も、迷惑も、かけた……っ」

 

 やっとのことで振り絞った謝罪は面と向かって言うことができなくて、俯いてしまう。

 少し背の低い楓が、下がったわたしの額に自分の額を重ね、低く笑う。ふふっ、と。

 けれどとても、優しい響きだった。

 そのまま数秒、わたしたちはそのままだった。

 重ねられた額とか、軽く握られている手とかから二人溶け合ってしまいそうで、身震いする。さむい? と小さく問われた。

 首を振って、大丈夫、と伝える。


「今も、心配してますよ。とりあえずご飯かお風呂か、どっちにする? どっちか済ませてくれないと、心配だよ」


 なんだろう。なんだか楓が大人っぽいというか……お母さんっぽい。

 今まで勝手に面倒を見ているような気分だったのに、立場が逆転してしまったみたいだ。


「じゃあ、ご飯、いや、お風呂、さき、かな」

「だよね。深春はお風呂先派だもんね」


 にぱーっと、楓が笑う。至近距離で発動されたその笑顔に、予期せず胸が鳴った。

 さっきから、なんなのだ。

 なんだというんだ、この、落ち着かない感じは。


「じゃ、ちょっと待ってて。今お風呂沸かしてくるから」

「あ、や、手伝います。手伝うっていうか、自分でやるから」


 そう進言するも、今度はじとーっとした目が向けられた。

 こちらを責めているような、何か隠しごとを追及されているような。これもまた、落ち着かない。


「またそうやって、病み上がりなんだから無理しないでよ」


 ああ、そういう。わかっている。

 楓は、優しい。

 優しすぎる。

 わたしがわたしを大事にしなかったら、自分がないがしろにされるその何倍も何十倍も怒るのだ。


 誰かのために怒ることのできるその優しさが、痛いほどに羨ましい。


「全然もう、大丈夫だよ。元気、だから」


 ぐっと、両腕で力こぶを作ってみせる。

 元気を伝えると同時に全力で場を盛り上げようとしたのだが、逆効果だっただろうか。楓は目を瞬き、ぽかんとしている。

 ぽかんとして、そして数秒後、ぷっと、吹き出した。


「なにそれ」


 笑われて、笑ってくれたことが嬉しくて、わたしも頬が緩む。

 よかった。また、笑い合えている。

 これからもきっと、変わらず。わたしたちは二人笑い合うことができるだろう。


「じゃ、久しぶりに一緒に入ろうか。私もちょうど朝風呂したかったし」


 軽く結ばれた手を引かれて、楓とともに廊下を抜ける。


「うん」


 昨日までの荒みようが嘘のように、窓の外では太陽までもが笑っていた。

 澄み渡るような青空。

 雨が降っていたのは一昨日の夜くらいからだったはずだけれど、その青が、随分と久しぶりのものに思えた。

 そしてその久々が、思わず頬が上がってしまうほどに、心地いい。




 うちの風呂は、いわゆる檜風呂というやつだ。

 浴槽から壁の下部まで、基本的な構造を檜で構成している。

 ただ、その木材が檜なのかどうかは正確にはわからなくて、わたしが勝手に檜なのだと思っているだけだったりもする。


「深春んちのお風呂久しぶりー。相変わらず広いねー」


 先にべたつく汗だかなんだかわからないものを洗い流したわたしが浴槽に浸かっていると、シャワーを浴びながら楓が言う。


「ま、二人だと流石に狭いけどね」

「でも、家のお風呂で足を伸ばせるってのは結構重要だよ」


 そうなのだろうか。

 きっと、そうなのだろう。

 わたしだって自宅の風呂は気に入っている。

 妖怪との戦いで疲弊した体を、何度この風呂で癒してもらったことか。

 熱い湯に浸かって、全身くまなく洗って、ようやっとわたしの心は落ち着いた。

 ふぅ、と息を吐いて、しばし体をほぐすなどして心身ともに安らいだ。


「これから、どうしようか。連休だからまだ明日も休みだし。今日も一日、空いてるし」


 言いながら。楓が丁寧に髪を洗っている。

 うちに置いてある安物のシャンプーとコンディショナーではもったいないくらいに楓は髪に手間をかけているだろうし、なんだか、申し訳ない。

 それに文句を言うでもなく楓はシャワーを浴び終えて、先んじてわたしが浸かっていた湯船に入ってくる。

 二人分の体積が追加されて、僅少ながらお湯が湯船から逃げ出す。

 二人で入ることを考慮して、最初から少しお湯を少なめに張っていたことが幸いした。


「これから……か」

「うん。とりあえずあの子はどっか行っちゃったみたいだけど、元々追ってた妖怪さんの方は見つかってないしね。やっぱり、またすぐ『仕事』だ?」


 わたしが背にしているのとは反対の壁に背中をつけて、互い違いに湯船に体を収めて、向かい合う。


「んー。うん。やっぱり、放ってはおけないよね。ただ、今日はもう疲れちゃったから、少し休みたいかな。明日の……夜くらいから、また『仕事』に出るよ」

「そっか、お疲れさま。……じゃあ、今日と明日の夕方くらいまでは、一緒にいられるね」


 一緒にいられる。口にした楓は酷く柔らかい空気を纏って笑う。

 その言葉を聞いたわたしも、言葉を理解する脳みその前、脊髄とかそこらへんで、それが紡ぐあたたかさに胸を満たした。


「うん。そうだね。なんなら、泊まってってもいいよ」

「おぉー、いいねぇ。じゃ、後で着替えとか持ってくるね」


 嗚呼――ずっと、こうしていたいな。

 そう思ったときには口に出しそうになっていて、慌てて閉口する。

 確かに今この瞬間、この時間が永遠に続けばどれほど素敵なことだろう。

 だけど、それは叶わないことなのだ。

 現実的に、難しい。

 第一に、ずっとお湯に浸かっていたら体がふやけてしまう。

 ふにゃふにゃーと、そしてそのまま溶けて崩れて、楓と混ざり合ってしまう。わー、なんと甘美な響き。


「トワイライトは? あの後すぐに、消えちゃったの?」


 楓がさっき「あの子」と言ったのは、トワイライトのことだろう。

 その後あの現象がどうなったのか、目覚めたときから気にはなっていた。


「うん。すうぅ……って、消えちゃったよ。……後には、誰だろう。あの子が乗っ取ってたっていう女の子が、倒れてた。コガリンが言うには、もうずっと前に亡くなったご遺体だろう、って」


 そうか。

 では、トワイライトは自分を留めておく肉体を置いていったことになる。

 そうするとすぐにでも次の肉体を探したいはずだが、まずもって、肉体なしにどれだけ奴が活動できるのかは疑問であった。

 とにもかくにも、トワイライト。

 突如として遭遇した現象が巻き起こした騒動は、これで一件落着と言えるだろう。


 わたしにとってはトワイライトに飲まれてそこから脱出したというだけの話だけれど、楓をはじめとして古賀凛や、ちらりと見えた影にまで今回の騒動は及んだはずだ。

 その話もゆっくりと聞かなければならない。

 ならないけれど、今はとにかく。


「わたし、楓と一緒にいたい」


 とにかく今は、自分の想いの丈を伝えなければ、という義務感とも使命感ともとれるものが、焦燥を生みだした。


「いようよ。一緒に。これからも、ずっと」


 それに押し出されるまま口にして、慌てて撤回しようとしたところで、楓の強い口調が帰ってきた。

 決して大きな声ではないのに芯があって、よく通って、楓が自分自身に表明したようにも聞こえた。

 その言葉は嬉しい。

 涙が溢れそうなほどに、幸せがわたしのお腹をいっぱいにする。

 実際は、丸一日何も食べていないから空腹状態なのだけれど。

 だけど、素直にその多幸感を食むことはできない。


「でもわたし、影を、傷つけて」


 わたしは、やってはいけないことをやってしまった。

 いくら封印のためという大義をかざしても、影が類稀な再生力を持っていてあの程度の傷ものともしないといっても、重要なのはそれを、感情に任せて行ったという事実。


「秋くんなら怒ってないよ、許してくれるって。それに、秋くんが――他の誰が許さなくても、私は、深春をゆるすから」

「――……」


 その言葉で、どれだけわたしが救われたことか。

 こちらも言葉で伝えようとしてみるけれど、きっとうまくいかない。

 どうやったら今のこの感じ、この想い。

 余すことなく楓に伝えることができるだろう。

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