一章 三
三
トワイライトとは現象だ。
妖力を帯びて光り輝き、どこであってもいつであってもその場を夕暮れで包む。
そういう現象を指して、トワイライトと呼んでいる。
ただ光り輝くだけならいいのだ。むしろ美しい。
しかしトワイライトの危険性は、それのみにならない力を持っている点だ。
ここからはわたしたち術者や調停社の間で定説となっている推論が多分に含まれているが、トワイライトには本体がある。
現象であるといっておいてなんだが、まだまだ推論の域を出ず、トワイライトについてはわからないことの方が多いのだから仕方がない。
トワイライトは、人の肉体を喰らう。
領域内で気に入った肉体を無作為に選び取り、乗っ取る。
対象が生きていようが、その命を奪い取り自らが肉体の主と成り代わる。
元々使っていた肉体は捨てられ、そこには物言わぬ骸が転がる。
街から街へと渡り、領域を広げ、新しい肉体を手に入れる。
肉体を手に入れたら領域は収束し、トワイライトは消える。
こちらからの接触はまず不可能だと思われ、しかし、命が奪われている以上守人の「仕事」の対象となる。
その異質さから、今まで噂を聞くことはあっても敵として認識することなど一度もなかった。
そんなほとんど伝説みたいなものが、目の前に。
見渡す限り、領域から抜け出そうと駆けてみても、広がり続ける。
「なん、なんだよおおぉぉ、もおぉ」
今のところ、トワイライトの本体のようなものは確認できていない。
夕暮れのノスタルジアに走って突っ込んでみても、四つ角を曲がってみても、飛んでも跳ねても、ただ美しい光景が広がり続ける。
楓が、マジックアワー――日没後の太陽の姿はないのにまだほのかに明るい、美しくも不思議な時間――を好んでいた。
気づいたらその時刻になると空を見上げていて、そこに咲くたおやかな笑顔は、彼女こそが世界で最も美しい光景だと確信させた。
だけどわたしは、やっぱりこういう、朝でも昼でもなく、かといって夜の暗闇に沈むでもない中途半端な時間は嫌いだ。
今まさにそれに翻弄されているともなれば、なおのこと。
連日の捜索の空振り。
夜闇を曖昧にさせる曇天。曇天が一瞬にして夕暮れに染まった気持ち悪さ。
諸々の要因がわたしを苛立たせて、円滑な思索を阻む。
こういうときこそ冷静に思考をくゆらせて、現状を打破する一手を見つけ出すべきかもしれないけれど、疲弊した頭では非効率的な方法しか浮かばない。
そしてそれがまた状況を袋小路へと誘って、とどのつまり、悪循環だ。
八方ふさがり、という単語も似合うだろうか。
わたしは語彙力満載だから、一つの状況に当てはまる単語をいくらでも思いつけるのだ。
すごいだろー。
……なんかもう、自棄気味だった。
どれくらいの時間を、トワイライトの夕暮れの中で過ごしただろうか。
立ち止まると最初に感じた違和感に飲み込まれて喰われそうだったので、わたしは、足を止められずにいた。
途中、試しに虚空を燈凪暢で斬ってみたけれどなんの変化もなかった。
びっくりするくらい、何も起きなかった。
「もうやだ……おうち帰りたい」
家でなくてもいい。
楓の隣とか。楓のいる学校とか。
楓と過ごす放課後とか。
そういう、わたしがわたしでいられる場所に、帰りたい。
ああ、もう。苦しいときや、落ち込んだとき。わたしはいつも、楓だらけだ。
わたしの頭の中は、楓のかわいらしいぬくもりで、いっぱいいっぱいになる。
走る。時折歩く。喰われそうになって、慌ててまた駆けだす。
どこまで行っても景色は変わらず、方角も時間の経過も関係なく。
夕焼けは、夕焼け。
状況に変化はないけれど、心は摩耗していく。次第に、理解していく。
「深春、もういいよ。無理しすぎ」
トワイライトは、こうして人の心をすり減らして、肉体までも奪ってしまうのだ。
「ちょっと休みなよ」
神々しい光を帯びる楓を前にして、わたしはついに、完全に足を止めた。
トワイライトが楓の姿をとっているように見えたのは一瞬のことで、瞬きをすればすぐに、それは見知らぬ少女の立ち姿に変わった。
トワイライトが、楓の虚構を創ったのか。
それとも疲弊したわたしの心が幻覚を生みだしたのかは、わからない。
どちらにせよよっぽどわたしの心は参っていたようで、トワイライトの本体を前にしても、すぐに動きだすことはできなかった。
膝から頽れそうになるのをなんとか耐えるのが精いっぱいで、数メートル先の敵に、警戒も反応もできなかった。
「あそぼ」
低くて高くて、幼くて年老いているような声。
本体であるはずの少女も口を開いてはいない。
どこから聞こえているのかも定かではない。
だけど、ここはもうトワイライトの領域内。
何が起こっても起こらなくても、不思議ではない。
「あんまり、遊んでる暇はないかな」
正直な言葉が口から漏れた。返事をしてもいいものなのか。
それで悪いことでも起きないかと不安だったが、頭が回らないもので、素直に口は動いていた。
「あなたの、からだを、ちょうだい」
「やだ。あげない」
「かわりに、ぼくはあなたのほしいものをなんでもあげるよ」
「いい。欲しいものは、自分で手に入れるから」
「……」
どうやらわたしは、トワイライトに次の肉体として気に入られてしまったようだ。
よくできたものだと思う。
夕焼けの領域に狙った相手を閉じ込めて、心を消耗させる。
すり減った心の持ち主の心を殺し、そして――肉体を奪う。
狙ったのも、守人であり常人よりは丈夫な肉体を持ったこのわたし。
トワイライトが、多くの術者や調停社から危険視されている訳がわかるというものだ。
「あなたの、のぞむものはなに」
三日間徹夜したみたいな、眠気と疲労感に満ち満ちた体を奮い立たせる。
実際、それぐらいの疲れは蓄積されていると思う。
「わたしの、望むもの」
地を蹴って、一足でトワイライトの元へと疾走する。
居合斬りの要領で燈凪暢を振るうも、鈍色の刃は空を斬った。
「どんなよくぼうも、かつぼうも、せつぼうも。ぼくが、かなえてあげるよ」
「なるほど?」
見れば、かき消えたトワイライトの肉体はまた同じくらいの距離を取ってわたしの背後にいた。
乗っ取られた少女の表情は虚ろで、しかし聞こえてくる声は、どことなく楽しそうだった。
要するに、願いを叶える代わりに体をよこせということか。
でもそれは、どうなのだろうか。
無意味とわかりながら、もう一度、トワイライトに斬りかかる。
もはや止まることはできなくて、自動的に目の前の敵を攻撃していた。
攻撃を続けながら、考える。どうなのだろう、と。
トワイライトの口にする「契約」の、矛盾点に。
願いの代わりに体をよこせというのは、一見して成立しているように思えて破綻している。
もし仮に、ここでわたしが永遠の自由を望んだらどうだろう。
望みを叶えればトワイライトはわたしの体を手に入れられない。
叶えないで無理やり体を奪うことは……できるなら、とっくにやっていてもおかしくない。
そんなわたしの疑問を察したように、トワイライトの声が響いた。
今度のその声は、所在のわからないものではなく、しっかりと本体から発せられているようだった。
声も、誰のものでもない、幼い少年を思わせるものに染まっていた。
「ぼくはすべてであり。すべてはぼくであるんだよ。ぼくこそがすべてだから、どんなのぞみもかなえられる」
いよいよ話がわからなくなってきた。
理解することは諦めて、どうやってトワイライトを倒すか、もとい、ここから抜け出すかに思索を巡らせる。
領域を打ち破る方法は、二つに一つ。
領域を張った術者を倒すか、こちらも領域を主張し、相手の領域を壊すか。
それがだめならもう、頭を下げて頼みこみ、領域を解除してもらうほかない。
「ま、どうしようもなかったらそうしますか」
ちょうどよく食いしばった歯から血が出ていたので、口の端からそれを拭って燈凪暢の白い柄に吸わせる。
燈凪暢はわたしの血で汚れることもなく、柄の白さと、刃の鈍色を保ち続ける。
「さ。お願いね」
トワイライトが、直接的に攻撃をしてくれなくてよかった。
領域を広げるのには結構集中がいる。今回は探索ではないので広く主張する必要はないが、その分狭く、強く。
わたしが、わたしでいられるために――。
君を、わたしの中で守るために。
「わたしの、望みは――」