序章 十一
十一
一瞬にして、自分が別世界に投げ込まれたような。
そんな感覚があった。
見上げる廃ビルは見るも恐ろしく、そのままホラー映画の舞台にでもなってしまいそうだ。
それだけならまだ日の高いこの時刻に強く嫌悪することはないけれど、中に入ればそこは不衛生極まりない空間だった。
「うぇー、気持ち悪い。ほんとにここにいるのー? 二人とも」
ほこりにまみれた床はローファーで踏みしめる度にべたつく。
見れば、非常階段へと続く中途には既に先客の足跡があった。
二つのスニーカーの足跡は、深春と、影のものということだろうか。
「うん。間違いないと思うよ。何階にいるかまでは、わかんないけど。でも多分、まだ結構距離あるから上の方」
「じゃあ、とりあえず屋上でも行ってみますか」
不快な玄関先を抜けて、コガリンと二人、屋上への階段を上がっていく。
行先を屋上に決めたのはいいけれど、延々と続く階段を上るのは大分辛いものがある。
廃墟でもほこりっぽくてもいいから、エレベーターだけは生きていて欲しかった。
文明の利器、万歳。
階段を上りきる頃には、十月も終わりだというのにじんわりと汗がにじんでいた。
背部でシャツが、へばりつく。
コガリンはやはり妖怪。それほど息が上がっている様子も疲労を感じている様子もない。
ここ一、二年の運動不足で体力も落ちている私は、息も絶え絶えだった。
先を行くコガリンが屋上の扉に手をかける。
取っ手の部分には鎖が巻かれていたが、それを固定する南京錠が壊されていた。
やはり、深春たちはここにいるようだ。
ぼんやりとした彼女の姿を夢想して、扉をくぐる。
「――――――ッッッ」
それは、獣の咆哮のように聞こえた。
全身を芯から揺らす獣の鳴き声。
屋上に出てそこにある光景を見るよりも早く、音が私の体を叩いた。
そこには、金色の大きな狐がいた。
なびく毛皮は光を透かしつつもきらびやかに輝いている。
それ自体が光を放っているのではと、そう思わせる。
精悍な顔つきや、深紅の瞳は神々しくも妖しい。
どうしておどろおどろしいものよりも、美しいものが妖怪の恐ろしさを引きたたせるのか。
おどろおどろしい方の妖怪もそこにいた。
燈凪暢を構えた深春と金色の狐が見据える先に、暗い紫の炎で全身を構成した、妖。
あれがくだんの焼死事件の犯人か。
そしてでは、あの、大きな狐は――。
「あぁ、あれ秋くんか」
おっきくなったなぁ、先輩は嬉しいぜ。
なんて、呑気な状況ではないのだろうけれど。
「コガリンは戦わないの?」
紫の妖が火の玉を生成して、自らが火の玉となって、深春と秋くんに攻撃を仕掛けている。
二人は軽くいなしているように見えるが、ここが今、戦場であることに変わりはない。
とりあえず、扉の内側に引っ込んでおいた。
「私は、戦闘向きの能力持ってないし。それに」
すぅっと目を細めて、二人の戦いを見つめるコガリン。
そんな彼女の横顔は美しく、完成された芸術品みたいなのだけれど。
「あんな美しいもの見せられたら、私なんて、本当の姿、さらせないよ」
コガリン自身は、自分のことをそう思っているらしい。
確かに秋くんのもう一つの姿は美しかった。
身の丈は二メートルを軽く超えているだろうがその身のこなしは俊敏で、虚空をかけるようにして妖を翻弄している。
そしてまた――。
私の大好きな、私の幼なじみもまた、美しい。
長い黒髪は邪魔にならないように結われているが、あまりまめではない彼女の性格なので、適当に括っただけにすぎない。
故に燈凪暢を振るい激しく動くと、それに合わせて流水の如く髪が揺れる。
漆喰のようにむらのない黒。
白い肌との対比が、狂おしいほどに美しい。
均整のとれた肉体も、無駄のない動きも、全部。
生きているから、美しい。戦って、戦いの中で生きている。だから、美しい。
「うん……確かに、綺麗だ」
生きるとは、美しい。
しばらくの間、両者の戦いは拮抗していた。
投げられる火球は秋くんの体や燈凪暢で受け止められるが、どうも攻めあぐねているらしい。
決定打が打たれないまま、数分間、攻防が続いている。
「そういえばコガリンは、どんな妖怪さんなの?」
あの二人が揃って、間違っても敗北するということはないだろうが、そうなるとただ見ているだけの状況が退屈に感ぜられる。
こんな状況で退屈を感じること自体どこか麻痺しているのだろうけれど、暇つぶしにと、コガリンに尋ねていた。
「……うん」
「うん?」
煮え切らない返事。
答えにくいことを聞いてしまっただろうか。
小首を傾げて質問を撤回しようと口を開きかけて、くるっとこちらを向いたコガリンに、阻まれる。
「あ」
その目元に、縁取るように隈のような模様が浮かぶ。
「ぽんぽこ!」
「ぽっ。ちょっと、それやめてよね」
「だって、ぽんぽこじゃん。リアルぽんぽこってことでしょっ?」
興奮気味にまくしたてると、すぐに目元の痣は引っ込んだ。
コガリンの目元に浮かんだ、まさに狸の模様のような痣。
つまるところコガリンの正体は、秋くんのもう一つの姿が狐であるように、狸の姿をとる妖怪なのだ。
それだけならまだしも、そこから、人に化けるという要素まで組み込まれてしまっては、ぽんぽこを想像するほかない、とはいえ露骨にそこに反応したのはよくなかった。
妖怪といえどもそこは女の子。人の中に紛れれば気になることも出てくるだろう。
深春とともにいる中で私が、自分の無力さを痛感しているように――。
「ごめんごめん。ちょっと、テンション上がっちゃった」
「ふっつーに傷つくんですけど」
唇を尖らせて抗議を示してくるコガリンもまた、可愛らしくていいではないか。
なんて。そんなこと言ったらまた、怒られるだろうか。
当初の堅苦しい印象から一変、すっかりコガリンには、親しみのこもった想いを抱いている。
目の前で戦闘が繰り広げられている中でそんな想いを抱いている自分がいささか異常であることには、結構前から気づいている。