序章 一
――妖刀燈凪暢。
平安時代、ある貴族に仕えていた一人の武士が妖怪退治に使っていたとされる一振りの長刀。
その刀は、妖怪を斬ることでそれが持つ妖しい力を封じることができたという。
かつてそれを持つ武士は、貴族の側近として数々の妖怪を斬ってきた。
斬られた妖怪は、たちまち邪気を失い、姿形さえも変わってしまった。
その武士は守人と呼ばれ、現代まで稼業を続けている。
貴族豪族が消失した今でも、その末裔が守人として街を守っている──。
一
夜半を過ぎて、すっかり街は夜のしじまに包まれていた。
わたしは黒いコートに身を包んで、ある高層ビルの屋上に立っている。
屋上の縁に仁王立ちして、視線だけ下方にやってある一点を凝視していた。
見つめているのは、夜の街――では、ない。
今わたしがいるビルの壁、その壁に敷き詰められている硝子窓。
今わたしがじっと見つめているのは、壁一面の、それ。
正確にいうならば、その硝子面に映るその景色だ。
握る手には、一振りの刀が鞘に納められている――。
「――見つけた」
張り込みを始めて三週間目。
ついに見つけた。
今この街を騒がしている通り魔の、犯人を。
視線の先にあった硝子が歪み、盛り上がる。
わたしから見て五メートルほど先、地上十メートルほどの硝子の一枚が、内側から押され、隆起している。
言うまでもなく考えうる限り起こることがないような。
そんな光景が目の前に繰り広げられている。
軽い屈伸運動なんかしてみて、躊躇することなく――ビルの屋上から、飛び降りる。
一瞬の浮遊感とともに視界が停滞したが、すぐに、圧倒的な風圧と落下による血液の偏りを覚えた。
「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」
隆起した硝子が、やがて、はっきりとした形を成していく。
人型のような、硝子質のマネキンのような不気味な異形が、その姿を顕した。
妖怪――人の信仰、恐怖、憎悪、怨嗟により生まれた、バケモノたち。
今も昔も形を変えながら存在するそれら妖怪は、人と交わらずに、静かに在り続ける。
そして稀に人の世界を侵食し、現世を乱す。
わたしの「仕事」とはつまり、それらを斬り、均衡を正すこと。
人の世に漏れだした異端を封じ、本来の形のまま、保つ。
それが、わたしたち一族が代々生業としている「仕事」だった。
「わぁー」
なんておどけつつ自由落下に身を任せたわたしのすぐ目の前に、硝子より打ち出でた妖怪が迫る。
半身を硝子の中に沈めたまま、上半身だけの人型が、そこにいる。
「気持ちわりー」
いつものことだ。
妖怪は、わたしが打ち倒すべき異形は、この世ならざる姿かたちをしている。
人の怨嗟から生まれたということは我々の想像力の範疇にあるのだろうが、とてもそうは思えない。
まっこと、人の心とは奇怪で未知なものなのだ。
刀――燈凪暢を抜刀する。
振り抜くのと同時に重力に吸い込まれる体が妖怪に届いて、すべてのエネルギーが、刀と異形の間で拮抗する。
眩いほどの火花が散るも、妖怪の硝子質は崩れない。
――まだ、硬いな。
力を逸らして、十メートルほど直下の地面に降り立つ。
ある程度エネルギーを分散できたので、難なくコンクリートの床に降り立つことができた。
妖怪を封じる刀の使い手として選ばれたわたしは、この程度の自由落下ものともしない。
常人では引き出されない身体能力の引き上げが、約束されているのだ。
「都会の街はもうコンクリートだらけだねー。どこ歩いてもアスファルトばっかりだ」
などとのんきに呟いていると、目の前の硝子扉が隆起した。硬く、割れる以外でその形質を変えるはずのない硝子が、人型に盛り上がっていく。
まずは定石、中段の構えより、一筋。
キンッ、という金属音が響くも、ダメージとして相手に響いた様子はない。
「お?」
硝子質が迫ってくる。
パキパキと自身を割りながら、すべてを映し、すべてを透かす指先が、目の前に。
――そこか。
下段からの斬り上げを一筋。
キラキラと、硝子の破片が目の前に散る。硬質な身体にできた僅かな隙間に、刃を斬りこんでいく。
決まり手は、中段の突きだった。
幾度か攻撃をいなしていくうちに隙を見つけ、一撃を繰り出す。
燈凪暢が妖怪の身体に突きたてられると、傷口から、靄のようなものがあふれ出す。
それは刃に吸い込まれるようにしてかき消えて、気づけば、硝子の妖怪そのものごと、夜の街から霧散していた。
器を持たない妖怪は、燈凪暢に妖力を封印されるとこの世界から消える。
人の想いが捻じれて、よじれて、一つの形を作る。
それに依存しなければ、彼らは存在することすら敵わないのだ。
そしてそれを、人から離れたわたしが始末する。
「因果なものだなぁ」
鈍色の刃にこめられた積年の業が、冷たい柄から伝わってくるようだった。