#1
むせ返りそうなほどの緑の匂いと僅かに漂う鉄と油の香りを大きく吸い込みゆっくりと吐き出す。貸与された新人用の装備を整える金属音が鼓動と重なり自分が高揚していることを理解させた。やっとこの日が来たんだと思うと靴紐を結ぶ手に力が入り指先が震えた。思わず上がりそうになる口角を必死に抑えつけ顔を上げると、周囲には今日から同期となるであろう人々が思い思いに装備を整え、談笑し、あるいは緊張を滲ませていた。両親の失踪の報を受けてから四年。やっと、その足跡を辿るための一歩を踏み出せる。腰に帯びた剣の柄頭に触れるとその冷たさが心地よかった。
ふと、背後から肩を指先で突かれ振り向くと見慣れた青い瞳がこちらを心配そうに見上げている。
「アイン、ちゃんと準備はできた?」
「ああ、出来てるよ。アイリ」
収穫期の小麦の穂を思わせる豊かな金の長髪を耳にかけながら幼馴染のアイリ・カインドがいつものように世話を焼こうとしてくれていた。それをやんわりと断るのもこの四年間で随分と慣れた気がする。
「お姉ちゃん心配だなぁ。忘れ物とかしてない?」
「大丈夫、大丈夫だから……」
慣れたとは言っても、アイリがその程度では諦めないことに慣れたのかも知れないとは考えないようにする。そもそもアイリは俺の姉を自称しているが年は俺のほうが一つ上なんだが、本人が頑なに譲らなかったのでそれを訂正するのはとうに諦めている。
いつもどおりの何気ないやりとりに触れると自分が緊張から体が強張っていた事に気が付き、その力を解く。結果としてアイリに世話を焼かれてしまっているのだからどうにも彼女には敵わない。俺がそう考えることなんてお見通しだと言わんばかりにアイリは春の日差しの如し笑みを顔いっぱいに湛えていて苦笑してしまう。
すると、にわかに後方が木々のそれとは別のさざめきを立てた。どうやら所定の時間になったらしい。
「傾注ー!!」
ひと目で場数を踏んでいると分かる体格の良い男がさざめきをかき消す程の咆号を放つと、蜘蛛の子を散らすように人の話し声がその鳴りを潜めた。その様をぐるりと見回しうなずくと、咆号の男は隣に立つ細身の男に「隊長、お願いします」と声を掛け右後方に控えた。
「諸君、俺の声を聞け。死にたくなければその一切を聞き漏らすな。それが出来ない者は早急にこの場から去れ」
先程の男とは違い細身であるにも関わらず、隊長と呼ばれた男の一言一言の圧力はその細身を何倍にも大きく感じさせた。俺にとってはこの場に集まった他の人達よりも身近な細身の男は、数秒の間を置くと頷く。
「どうやら腰抜け野郎は居ないらしいな。では改めて新入り諸君、資質育成機関の卒業おめでとう。俺はこの小隊の長を務めるグレイ・ワースだ。今日から諸君は我が開拓研究部第二小隊の一員となる。と、言いたいところだが諸君も知っての通り正式に入隊する為には試験をパスする必要がある」
グレイと名乗った男の言葉に疑問を呈する者はこの場には只一人たりとも存在しない。
「ねえねえアイン。グレイさんって仕事中だとあんな感じなんだね。なんだか普段と違いすぎてびっくりかも」
張り詰める空気が乾いた音を幻聴させる中で小声でアイリが俺の袖口をちょいちょいと引きながらそんな事を言ってきた。
「そうか? 稽古をつけられてた時もあんな感じだったから俺はそこまで違和感は感じないけど」
「あー、そういえばアインはグレイさんに絞られてたんだもんね」
「あぁ……。それはもうたっぷりな……」
思い返すだけで喉が焼ける感覚が蘇るようだ。グレイは親父の懐刀とされていて、失踪以前から俺にとっては歳の離れた兄のような存在だった。親父達の失踪後俺が「開拓研究員になりたい」と告げると、それはもう熱烈に鍛え上げてくれた。「一朝一夕ではどうにもならんが、せめて自分の身を守れる程度にはなっておけ」とはグレイのお決まりの言葉だった。グレイは公私の切り替えがはっきりとしている人物で普段はまるで学者のような落ち着きぶりだが、開拓研究のことにおいては親父を彷彿とさせる苛烈さを持っている。当然、稽古でもその苛烈さを垣間見ていた身としては馴染み深い一面だ。
アイリとそんなやり取りを小声で交わしていると、俄に背筋に冷たい感覚を覚えた。(しまった……)と思った時には既に遅く、グレイの凍てつくような視線に貫かれていた。
「アイン・ティルド。俺の試験の説明では聞く価値も無かったか?」
「いえ! その様な事は決して」
「では何故この場この時において歓談を楽しんでいるんだ? 行楽にでも来たつもりか? それとも『英傑』と『月輝』の息子だからと驕っているのか?」
グレイが問うと同時に、僅かに周囲がざわついた。冷笑と「あいつが?」なんて言葉が粘度を持ち纏わりついてくるようだ。俺の両親はそれなりに名が通った開拓研究員だった。その為にこういった言葉には慣れている。当然グレイもそれを分かっていてわざとこうなるようにしたのだ。多分「始まってもいない内から浮かれるな」と釘を刺してきたのだろう。
「申し訳ありませんでした。以後、注意します」
グレイの目から視線を逸らさず答えるとグレイはニヤリと笑みを浮かべた。
「俺の説明をしっかり聞かない愚かな新入りのお前に以降があれば、の話だがな?」
周囲からすれば正式に入隊する前から隊長に目をつけられたと映るだろうが「早く力をつけてこんな反応は消し飛ばせよ?」と背中を叩かれているように感じた。
「挑戦的な新入りのお陰で話が逸れた。さて、では改めて試験について説明をする。ガイ、ハウンドを」
「承知しました」
グレイが傍らに立つガイと呼ばれた咆号の男に指示を出すと、ガイは背後で布を被せていた荷物をその大柄な体から想像できる力を遺憾なく発揮し重厚な檻を引いてきた。周囲はその絵面に最初はどよめいたが、次第に別のどよめきに変わっていく。それもそうだろう、檻の中身を見ると俺自身も思わず息を呑んだ。
「これが、ハウンドだ」
魔獣。そう呼ばれる存在を討伐し人類の生活の範囲を開拓するのが開拓研究員の主要な役割の一つであることはこの場に居る誰もが分かっていることだ。しかし、一部居住区に出没する最弱の魔獣を除けば、実際に魔獣を見たことがある者は恐らく誰一人として居ないだろう。
半機半生のその体躯は陽光を飲み干してしまうかのように重く、暗い。その有り様だけで原初的な恐怖を惹起させるには充分な威容だった。誰もが音無く息を呑む振動がこの場を包む。永遠にも思える緊張を打ち破るように、金属に硬い拳を打ち付ける音が響いた。
「諸君。魔獣を見るのは初めてであろうが、諸君はこれからこいつらを討伐し、戦果を上げなければならない。故に、呑まれるな。恐怖に呑まれ、判断を過てば忽ちに諸君らは死に絶える。どの様な時であっても、自らを見失うな」
決して大きくはない、音量のグレイの言葉は噛んで含めるように俺達の中に滑り込んでくる。理屈ではなく恐怖で理解できる。目の前にいるこれは死の具現であり、グレイの言葉は俺達が生きるための盾となる。
「どうやら理解できたようだな。それでいい。その感覚をちゃんと覚えておけ。さて、このハウンドだが諸君はそもそも魔獣には脅威判定があることは知っているな?」
その言葉に誰もが無言で首肯で返すとグレイは頷く。
「よろしい。ではアイン・ティルド。このハウンドの脅威度を答えろ」
「は! ハウンドはその生息域による生態の差異により脅威度が可変する魔獣で判定はC~Aです」
「素晴らしい。教本通りの退屈な説明をありがとう。さて、諸君。今聞いたようにハウンドはその生態により脅威度が可変する。では、その生態とは具体的には何を指すか、だが……。アイリ・カインド、答えろ」
「はい! ハウンドの脅威判定はその頭数により変動します。具体的には一頭であればC、二から四頭でB、それ以上になればA判定となります」
アイリが淀みなくそう答えるとグレイは満足そうに頷いた。
「ありがとう、アイリ・カインド。流石、資質育成機関主席卒業者だな。諸君も彼女に習い今後も研鑽に励むように。さて、では脅威判定をしっかりと理解した上で諸君のファーストミッションの内容だが、このハウンドの『単体』を自身の力のみで発見、討伐してもらう。とは言え、現状ではこなせない者も中には居るだろう。だがそこは安心していい。今回失敗したとしても予備人員として隊には席を与える。そこで戦闘訓練を行い討伐を達成すれば正式に入隊させよう。だからこそ一つだけ留意して貰いたいことが『無理だと思ったら逃げろ』ということだ。説明するまでもなく死んだ人間の席の用意はない。故に『死ぬな』以上だ。さて、存外に説明が長くなってしまったな。では諸君の健闘を祈る。ファーストミッション、開始!」
グレイの号令が掛かると次第に居住区の外門広場から人が減っていく。目の前に広がる森の中に分け入っていく者も居れば、『終わった時代』に使われていたらしい放棄された街道を進む者も居た。俺はそんな人々を横目にしながらグレイの方に歩を進める。
「グレイ。さっきはすまなかった」
先程の非礼をまずは詫びておく。すると、グレイはひらひらと手を振った。
「ここでは隊長と呼べ、アイン。先程のことは構わん。周囲の引き締めにもなったしな。それで?」
何が聞きたい。と言外に促される。こういう所を見せられると敵わないな、と感じる。
「十名程とはいえ、この人数だとハウンドの取り合いになったりはしないのか?」
俺がそう問いかけると、グレイはくつくつと笑いながら俺の背を叩いた。
「お前、そう思うなら何故真っ先に行かないんだ? まさか怖気づいたか?」
「まさか」
大げさに首を竦めながらそう返すと、グレイは呼吸を整えながら更に俺の背を叩いてくる。いい加減痛いし止めて欲しい。
「まあ、そうだろうな。それで、お前の疑問に答えるならその通りだ。だからこそ、お前は今すぐにここを離れてハウンドを探索するべきだと思うぞ? ただし、事前に説明していたとおり所定の範囲は離れるなよ。居住区周辺は我々が常に魔獣を処理しているからハウンドくらいしか居ないが、距離が離れればその限りではないのだからな」
「分かってる。聞きたいことは聞けたし、アイリも行ったみたいだから俺もそろそろ行くよ」
グレイにそう告げて背を向けると、またもくつくつと笑い声が聞こえた。
「可愛い姉が試験をパス出来るように譲る弟は苦労をするな」
「そういうのは分かってても言わなくて良いんだよ……」
思わず溢れた言葉に滲んだ気恥ずかしさで居心地が悪くなり、森に抱かれた旧街道を真っ直ぐ駆ける。暫くするとアイリとすれ違ったが視線を送ると同じく視線で「大丈夫」と返されたので邪魔にならないように更に奥へ。所定の範囲もそろそろ端まで来てしまうが、未だハウンドは見つからない。
(こっちには居ない、か)忠告されていた事もあり来た道を戻りながら別の方向に逸れるプランを考えていると、前方の岩陰でのそりと重たい物が動く気配を感じた。咄嗟に近場の木の裏に身を隠し、気配のあった方を注意深く観察する。
(確実にハウンドじゃ、無いな)それだけは確信しつつも観察は止めない。もしも気配の正体が別の魔獣であればこちらが駆け出した瞬間に感づかれる危険性がある。故に観察を怠ることは出来ない。緊張から冷ややかな汗が頬を伝った。その雫が顎先から地面に落ちる音を幻聴した瞬間、ソレは動いた。
ソレの姿がはっきりと見えると、濃密で確かな死の気配に溺れ、その場に縫い付けられる感覚がした。息が、苦しい。
(ソルデ……!!)
魔獣の中でも好戦的な人形の魔獣のソルデはとてもじゃないが、新人の俺では太刀打ちできない。その脅威度は単体でさえBと言う通常三人以上での討伐が推奨される危険な魔獣だった。慌ててその場から離脱する算段をするが、恐怖で思考がまとまらない。
(どうする、どうする、どうする!?)
この場での最善は何か、脳が赤熱し焼ききれるのでは無いかと感じる程に思考を重ねる。その間も死を感じ取る心臓は警鐘を鳴らし続けている。もういっそこの耳障りな心臓を握りつぶしてしまおうかとすら思えてくる。永遠にも感じる絶望の袋小路に捕らわれていると、ふと声が頭の中で反響した。『呑まれるな。恐怖に呑まれ、判断を過てば忽ちに諸君らは死に絶える』グレイの言葉に背を叩かれた気がした。(こんなところで死ぬわけにはいかない!)それだけを確かに心中に抱くと、不思議と覚悟が固まった。
(とにかく、静かに、見つからないように)そう自分に言い聞かせながら、一歩、また一歩後退する。無論、物音を立てないように細心の注意を払う。
(気づかれてない、このまま、ゆっくりと……)そんな風に甘さを出してしまったのが災いしたのだろう。腰に帯びた剣の鞘の小尻が岩に当たり、かつん……。と乾いた音を立てた。俄に、その場を包んでいた緊張が爆ぜた。
気づくな、なんて祈りは虚しく消え、ソルデがぐるりとその視線をこちらに向ける。気づかれた……!
そう思ったときには既に遅く、ソルデは急速にこちらへと駆けてくる。その速度から逃れることは、不可能だと理解させられる。
「クソったれ!!!!!!」
自棄になって叫んだその言葉によって開戦の火蓋が切って落とされた。
初めましての方は、初めまして!そうでない方はいつもお世話になってます!
鈴月詩希と申します。普段は短編でヒューマンドラマや現在最も文字数を使用している「海の見えるこの町で一杯の幸せを」の様にハートフル、ハートウォーミング系の物を書くことが多いのですが、ふと思い立ち今回こうして自身初となるハイファンタジー作品を書き始めました。
何分初めての試みですので至らない所もあるかと思いますが、どうか暖かい目で見守っていただければと思います。
応援や、感想や、ブックマーク、誤字脱字衍字報告、お叱りもこの物語をより良くして行くための燃料になりますのでよろしければお気軽に投げつけてください。
いやもうホント、「ええやん」とか「ここがおもんない」の一言でも励みになりますので是非に是非に!
さて、乱文になりましたが、一度この辺りで閉じようと思います。
ここまで読んでくださりありがとうございました、ではまた次回に!