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「今日はここまでにしましょう」
そう言って、年老いた侍祭が教書詞篇を閉じた。
私たちは椅子から立ち、深くお辞儀をして部屋から出て行く後ろ姿を見送った。
侍祭が行ってしまうと、思い思いの姿勢で伸びをして体をほぐす。
開け放たれた窓から、緩やかな春風がかすかに甘い香りを運んでくる。
「そろそろ杏の花が咲く頃かしら」
サダリが窓から外を眺めつぶやくと、レステリーニが微笑みながら、
「咲くのは桜桃よ。杏はもう散ってしまったもの」
「嘘」
「本当よ。貴女ったら、謡詞に夢中で気づかないのだもの」
レステリーニがふわふわな蜂蜜色の癖毛と同じくらいにやさしく笑うと、サダリは短く切り揃えた茶色の髪をいつものように掻きむしる。
「もしも巫女になれば一人で詠むのよ、恥ずかしい事は出来ないわ。でも、今年は特別だから見ておきたかったな」
私は、友の他愛のないやりとりをぼんやり見ていた。陽はもう高く昇り、ただ穏やかに差し込んでいる。
「で、シャーデはどうする」
「へ?」
突然話を振られた私は間の抜けた声を上げる。
「何を?」
「何をって、聞いていなかった?」
サダリはあきれ顔で言った。巫女になる事を望むのかに決まっているだろうと。
かつてはありふれていたという奇跡が地上に示されず、教書の言葉から伺い知るよりほかなくなって久しい。
けれど、かつてあったように大いなるものの言葉が直に伝えられることを信じて、心を澄まして待つ、それが泉の巫女。
教団の中にあり教団の秩序に従いながら、ときに教団の則を離れる不思議な立場。
そんな巫女になるために、私たちはここにいる。
「なるもならないも、私は選ばれないよ。ここまで来れたのが出来すぎだと思うから」
私は、正直な感想を述べた。
いま、巫女の卵として一緒に恩寵を学ぶ者は20人。選ばれるのはその中から5人。成績があるわけではないけれど、とりたてて飛び抜けたものがない自分が、他人を差し置いて5人の中に入ることは考えられなかった。
今年の春の四分聖節は四年に一度の大祭。選ばれた者はそこで印を受けて大いなるものの言葉を待つ巫女になる。
選ばれなかった者は様々だ。親元で市井の生活に戻る者もいれば、改めて侍祭や祭司といった聖職者を目指す者もいる。
「ミルトルの聖堂教院に戻って、燭台を磨いたり聖謡を謡ったりしているのは想像できるけど」
しっかり者でみんなをまとめる、でも時々思わぬ失敗もするサダリは、親戚が教区大祭主に選ばれたこともある聖職者の家系。巻き毛と同じようにふわふわと柔らかで、けれど祈ることにはとてもとてもひたむきなレステリーニも、曾祖母が巫女を務めた敬虔な信徒の家だ。
二人とも、教えへの真摯さや教書の知識の豊富さ、そしてなにより醸し出す雰囲気と存在感は、私など足下にもおよばない。
「あなただって凄いわ。聖謡は私たちが聞き惚れてしまうほど上手だし、管区大祭主を号泣させただけのことはあると思うの」
「それはただの噂話だから。確かに寮徒へは推薦して頂いたけれど」
誰だって毎日ずっと謡餐に出続ければ巧くなる。
確かに謡をほめて頂いたけれど、教院の大人達の中に一人でいた私に、同じ年頃の仲間と過ごす時間を与えようというお心遣いからだと思う。
そのご恩でたくさんの仲間、中でもサダリとレステリーニに巡り会えた。二人はきっと巫女になるだろう。だからもうすぐお別れだけれど、二人と過ごした3年の思い出はきっと一生の宝物になる。
こんな話をしていると、もうすぐここでの暮らしが終わることを実感する。改めて思い直して無性に寂しくなり、それで、思い切って話してみた。
「課業が終わったら、桜桃の花を見に行かない?みんなで」
「いいね!」
サダリが間髪入れずに同意した。レステリーニも頷いている。
皆に呼びかけようとしたところで、教義講読の祭司が部屋に入っていらしたので慌てて席に戻った。
課業の終わりに私は落ち込んでいた。浮ついて受けた教書の講釈で、ひどい間違いをしたのだ。
「あなたも教院の子でしょうが。教書の講釈を受けたりしなかった訳?」
サダリが疑問をぶつけてきた。
「寮徒になることが決まってから。だから本当に学んだのは少しだけ」
「あれだけ聖謡や聖詞がすらすらでてくるのに」
「みんなはそう思うみたいだけど、私逆だから」
小さい頃から、教院で祭祀があるたび後ろに控え、聖詞を詠み聖謡を謡った。だから、信徒がするように教書を開いて眼から覚えるのではなく、耳から入ってくる音を体で覚えた。
大きくなって歌詞の意味をしらべたり、聖詞の講釈を読んだりはしたけれど、本書解釈はあまり熱心に取り組まなかった。
教院で育って、聖語の遣り取りが多かった私にとって、東方語の文語体なのも難しい。
教院に来る人達と話すので口話は普通に出来るけれど、書き下しは難しい言い回しがあるとつかえてしまう。
「自覚が足りない」
サダリは切って捨てた。
「例え巫女にならなくても、教院でお世話になるつもりなら、人並み以上に本書解釈は頭に入れておかなければ」
全くそのとおりで、返す言葉もない。
サダリは無言で教書を開いた。復習に付き合ってくれるつもりらしい。
結局、みんなに話を持ちかけたのは、課業が全て終わった後になった。




