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翼なきもの  作者: 加藤 弓雅
エトセトラ
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ー承前ー 霙の日 

完結記念の外伝になります。

令和2年4月19日脱稿(苦笑)


一応、読了後に読むのが、お勧めです。


“このままでは、保つまいな”

 どこかで、囁くような声がした。

”ああ、今宵は雪にはなるまい。それがかえって体を冷やそう”

 もう一つの声がする。やはり、小さく。

 何か、暖かいものに包み込まれているのがわかる。

 そして、その温かさが力を失って、次第に冷え始めていることも。

”お主は、この街には所縁があろう”

”確かにな。だが、この季節、我が同胞は皆、眠りに就いておる。まあ、起きていたとして、これを運ぶのは相当骨が折れようが”

”では、”我が同胞にあたろうぞ”

”頼めるか、金色の”

”応”

 声が途絶えてしばらく、鼻を鳴らす音と同時に自分の周りがまさぐられるのを感じた。

 不意に、温もりの残り香から引き離されて、刺すような空気にさらされる。

 泣くこともできず、振り回されて運ばれるのを感じながら、意識は次第に闇へと溶けていく。



 淡い陽の光に満たされた寝棚で、鐘の音を聞いた。

 私たちは、暗いうちに起き出して、務めを果たし、そして鐘の音の前に祈る。

 慌てて体を起こそうとして力が入らず、わずかに浮かせた肩も、優しく寝棚へと戻された。

「横になっていなさい。今、朝餉を用意しますから」

「祭主、さま」

 目の前に、このミルトル聖堂教院を束ねる院長の顔があった。

 とても酷い熱があるのよ。と、言いながら、私のそばを離れ扉へと歩む。

 湯気の立つ野菜の汁物が、盆にのせて運ばれてくる。

 祭主様は、受け取った盆を持って私の傍らへと戻ると、私の半身を起こして、半分煮崩れた野菜を匙で丁寧につぶすと、汁と混ぜて私の口元へ運ぶ。

 私は、されるがまま口にする。

 申し訳なさが溢れて、つい口から言葉がこぼれる。

「ごめんなさい」

「誰にでもある事です。気にしてはいけませんよ」

 そして、椀一杯の汁物を食べさせ終わると、院長は横になって目を閉じるようにと言った。

 下働きを始めて、三月を越えました。そろそろ疲れが出る頃でしょう。と。

 あなたがここに来たのも、今日のような霙の降る日だったわね。

 院長が、私に言うでもなく呟く。

 熱が私を覆って、声が、言葉が、遠い。

 あの日、少し離れた小路で行き倒れていた女の人がいたの。もしかしたら、最後の力で、あなたをここへ託していったのかもしれないわね。

 眠りに誘われた私の中で、その言葉が意味を成すことはなかった。



「この頃は、こんな冷える日に体を動かすのが辛くなってきたわね」

「お互いに、随分歳を歳をとったという事かしら」

「そうね、オスラーシャ」

「全くだわ、タニア」

 平服の管区大祭主を、普段の装束でご案内する院長。

 お忍びとはいえ、管区大祭主をお迎えする緊張感に背筋が伸びきっている私たちと違って、二人の間には穏やかな空気が流れている。

「さて、お仕事を始めましょうか」

「ええ」

 そして、院長はいつもの位置、皆の後ろ脇に立った私を呼び寄せた。

「シャーデ、前に出て」

 おずおずと前へ出た私を中央へ導くと、告げた。

「唱導を、なさい」

 みなに起こったさざめきは、私の知らない符丁へと思い至ったように、たちまち消える。

「聖節、『朔日』を読み、聖謡は『御手に仕えて』とします。それでは、始めて」

 院長の言葉が終わっても、誰も口を開かない。

 当然だ。

 私が、最初に言葉をとなえるよう、指名されたのだから。

 唱導は、聖餐の儀式を司る重要な務め。

 式典の出来不出来はすべて、唱導の言葉一つにかかっているといってよい。

 私のような、聖職者の位階を持たない年若い者がすることは、間違ってもない筈のこと。

 お忍びで……

 そうか。

 これは、私への問い。

 私にとっての教えをはかる、問い。

 『朔日』の聖節。

 この世界の始まりについて。

 大いなるものの眷属が、大いなるもののかつての御業を語ったとされる言葉。

 満ちる混沌と、翼なきものを蝕む忌まわしきもの、それを打ち払った恩寵。

 私なら、どう詠む。

 私なら、どう伝える。

 不意に、私の中に熱いものが満ちて、溢れる。

 熱いものとしか言えない、何かが。

「かつて、天地の間には、ただ混沌のみ在り。混沌には名はなく、すべてを備う。

忌まわしきもの、混沌を統べ、翼なきものを蝕む。善きものは蔑まれ、正しきは曲げられる。大いなるもの憐れみて、我らを遣わし、……

 熱は、言葉に伝わり、言葉の熱はさらに新たな熱を呼び起こす。

 教書の聖節を唱え終え、どこか遠くで楽器の音を聞きながら聖謡を唄っている時にも、流れ続ける熱いものは、私の中をめぐり、私の周囲をめぐり、聖謡の言葉の端々に宿る。

 高まった全てが形を取らずにまとまると共に、聖謡の言の葉は終わりを迎える。

 残るのは、詩が駆けまわった後の微かな揺らぎと沈黙。

 その静寂が、拍手で破られる。

 大祭主様が、光る目元を拭おうともせず、手を叩いていた。

「素晴らしいわ。この歳になっても、こんなに素晴らしいことに出会えるなんて、お互いまだ老け込んでは居られないわね」

「ええ」

「安心して任せてタニア。何か小難しい事を云う奴がいたら、管区ごと教団から抜けると言ってやるわ」

大祭主様は、満面の笑顔でなにかとても恐ろしいことを仰っていた。


 あのお忍びが何だったのかは、二月ほど経ってから私に明かされた。

 その結果と一緒に。

 大祭主様が訪問なさるしばらく前から、ミルトル聖堂教院に、とても美しく聖謡を唄う下働きの少女がいると噂になっていたそうだ。

 教院の中で暮らしていた私は、全く知らなかったけれど。

 今日、私は、ミルトルから旅立つ。

 泉の教院で、泉の巫女の修行を受ける寮徒となるために。

 侍祭が、私の鞄を乗合馬車へと乗せる。

 少し大きめ程度ものだけど、小さな私にはまだまだ大きく重い。

「気をつけてお行きなさい」

 院長が、私の肩に両手を置いて言う。

「はい」

 私は、院長へ笑顔を向けて続ける。

「年限が終わればすぐに戻りますから、みな様もお達者でお過ごしください」

「何を言っているのだか。貴方は巫女になるのですよ」

 院長は、仄かな苦笑を浮かべて言う。

 そして、私の右手を取ると、片膝を衝いて拝礼する。

 見送りの教院の人たちもそれに倣う。

「さあ」

 促されて、馬車に乗り込むと、すぐに動き出す。

 夕暮れに照らされた、みなが、そして街が次第に小さくなってゆく。

 別れを告げるように、晩鐘が響いた。




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