分水嶺
それは赦しのような言葉だった。
仮にホンモノの人生がツクリモノの人生よりも劣っていたって、いい。そう思いたいぼくは、そんなことを言われたような気がした。
「あなたの手、つめたい……」
にぎにぎと彼女はぼくの手のひらを開くように握る。彼女の高い体温が、冷えた指先を暖める。
人と手を繋いだのはいつぶりだっただろう。その時もこんな気持ちを抱いていだんだろうか。
緊張した精神がゆっくりと溶けほぐされたような気がした。
けれど——
落ち着いて、少しあたまが醒めてきて、別の考えが頭をもたげる。
(怖い)
こうやって他人を自分のエゴに巻き込んで、のうのうと生きていけるほど、ぼくは自分に自信が無かった。
いや、そうではない。それは偽善的に過ぎる考え方。
ぼくは——彼女からどう思われてしまうのか、それが怖かった。
この——この一瞬であれば、ぼくの素性が知れることもない。普通の人生を諦めて、薬に逃げてるだなんて、知れることもない。
よしんば薬をやってなかったとしても、ぼくが、軽蔑されたり、嫌悪感を抱かれることもない。
だから、関わらない。関係を持たない。一人で完結して生きていく。
けれどひとつだけ聞きたいことがあった。関わらないぼくにとって、不思議だったこと。
「……ひとつ、質問をしていいかな」
彼女の握る動作が止まる。二の句を待っている。
そう、互いのことは知らないけれど、知らないままにするけれど——どうしてもひとつだけ気になったことを聞いてみることにした。
普段——ぼくはこうだったらいいなと空想をするけれど、行動に移すことはほぼない。
それは自分の中のツクリモノの物語として、空想だけして満足する。
食べたいものも、友達も、恋も、欲求は——ツクリモノで済ます。
だってホンモノは怖いから。何が起こるか分からないから。
だからこそ——
「……なんで介抱してくれたの」
最後に一つ、一つだけ、抱えた疑問を彼女にぶつけた。
ありていに言えば何をされるか分からない、得られるものも分からない、なぜそんな人間に近づいて、ここまでしようと思ったのか。
「……かいほう?」
疑問符を浮かべる彼女。確かに年齢的には難しい単語かもしれない。
「助けること」
ああ、と言った感じで彼女は合点がいったように頷き、言った。
「——くるしそう、だったから……。わたしもそうなることあるから、わかるの」
彼女の声は密やかだけど明瞭で、そこには意志の力が隠っていた。
しかし、余計に訳がわからなかった。
そうなることがある?ぼくのように薬に手を染めている——なんてことでは無いだろう。
「そう、でもきみのそれと俺のこれは違う」
自分でも驚くほど、突き放すように明瞭に言った。
何を分かったように言ってるんだと、こんな——自分の苦しみを軽く分かったように言うなよと、思っていた。
なぜだか頭がカッとした。
「俺は俺の都合で苦しんでるから、おおっぴらにされると困るし、助けて欲しくなんて無い」
彼女以上の意志を込めて明確に言った。
「だから、俺は行くよ。きみも早く帰った方がいい」
ぼくはまだぐわんぐわんと頭の中を暴れる悪心を押さえ込みながらゆっくりと両手をついて立ち上がった。彼女の感触が消える。
「じゃ」
くらくらする頭とふらふらする足元を押さえ込みながら歩き出す。
——これで良い。彼女の膝上でなぜか感じた安堵感は少し惜しかったけれど、よく分からないホンモノよりツクリモノの方がずっと良い。
他の人間に依存しても、アンコントーラブルな不確定要素が増えるだけ、完全とは程遠い。
そうやって生きてきたから、人とは刹那的な関わりしか持たなかった。
だから今回も、そうした。いや、そうしようとした。
関わらないようにするぼくに、関わろうとする彼女が手を掴んで止めた。
その手は震えていて、溶けそうなぐらい熱くて汗をかいていた。
そこから紡がれたのは、か細いけれど意志が通った言葉だった。
「——ちがってなんかないよ」




