嘔吐と拒絶
時間は夕方。青々とした原っぱからは虫の鳴き声が聞こえる。
原っぱに潜んでいた僕は、一華の家の換気扇から見えた白い煙を合図として、そこから飛び出した。
手際良く彼女の家の外壁にあるコンセントを使って、漏電を発生させる。
何度も練習したそれは、呆気なく成功した。
ブレーカーが落ち、一華の家の電気が消える。夕闇に、彼女の家が溶け込む。
あの——どなり声が聞こえて、僕の身体は少し竦んだ。
躊躇わず庭に繋がる窓を、シャベルで割った。ドタドタと誰かが近寄ってくるのが分かる。
僕は急いで開いていると知っている玄関に向かって家に入り——変わらないジメジメとした廊下を経て——換気扇の下にいる一華を見つけた。
その理由は、タバコでは無い煙が、時折彼女の家から立ち昇るのを、見ていたから。
彼女が秘密基地から持ち去ったあのドラッグを摂取してるのではと思ったから。
いや——どちらの可能性もあった。それが彼女で無い可能性も、それが彼女である可能性も。
ただ僕はその一方の選択肢を、自身の腑に落ちるという非論理的な直感から、プライオリティの最上位に上げて、それは成功した。
けれど——全然嬉しく無いのはなぜなのか。
僕は彼女の手を引っ張る。
彼女の言葉は呂律が回ってなくて——
「いー……やっ……」
強く引っ張ると、観念したかのように立ち上がった。
「あぁ、う……」
緩んだ顔、恍惚とした顔。精神が据わってない顔。
瞳孔が開き切っている——。
僕は余り時間が無いことを悟った。
遠くで物音がして、彼女の父親が来る前に走って家を出た。
「誰だあっ!!」
家屋に木霊する、あの声。
僕たちはその瞬間玄関を抜け、追いつかれないように走った。
走った。
走った——。
そして——秘密基地に着いた。
久しぶりの秘密基地。彼女と一緒。
けれど——以前とは違って、あの穏やかな時間はもう無い。
僕は彼女の喉に事務的に指を突っ込み、傷つけないように喉奥を触り、吐かせた。
「う、えっ……」
菓子パンと思われる甘い香りと胃液の酸っぱい香りがあたりに広がる。
僕は牛乳をマグカップに注ぎ、彼女に言った。
「飲んで」
有無を言わさない。彼女は躊躇ったものの、口をつけたマグカップを手を添えて飲む。僕はそれに手を添えて流し込む。
一通り飲んだのを確認して、再度口に手を突っ込んで吐かせる。
何度繰り返しただろうか。
彼女は吐瀉物と涙で顔がぐしゃぐしゃになっていたけれど、目の焦点が合って、瞳孔が正常な働きをしてきているのが分かった。
まだ足取りがおぼつかない彼女を椅子代わりの切り株に座らせると、彼女は待っていたかのように言った。
「……だっ……て……、わたしにはなにもないから。なにもないんだよ?」
文脈が読めない言葉。ただし自然と、僕にはその文脈が分かった。一華がずっと自身に秘めていた思い、根源。
自嘲した笑みを浮かべながら、諦めたように一華はとつとつと語る。全てを曝け出して。
——それが嬉しい僕も、あるいは人でなしと言えるだろう。
彼女は語る。
「確かにキミがわたしを頼ってくれたとき、うれしかった。こんな自分でも、人に好きになってもらえるんだって——思った」
希望を見つけた声。期待に満ちた声。
「でもわたしは、結局キミを利用してただけ。キミがわたしからクスリを取り上げないように、キミにとって良い人を演じてただけ」
——知っている、ある程度は。だけど僕もそこに勝手に希望を抱いていた。
あるいは、あるいは——彼女と僕は通じ合っている部分があるんじゃないか、と。
始まりはそうであっても、今はそうでないのだと、そんな期待を心のどこかで抱いていた。
彼女は告白する、懺悔のように。
「……クスリを飲むとね、ふわあってなって、どうでもよくなるの。だけど、家に帰れば同じ。夢は覚めて、どうしようもない時間が待ってる」
語気は強くなり、彼女の身体は震えていた。
「——夢から、覚めたくなかったんだよ、わたしは。ただ、それだけ」
ひとときの静寂が場を包む。
「……キミはこうやってわたしの命を救ってくれたけど、それもキミのためだってことは——私にも分かるよ。だってわたしが死んだりでもしたら、キミがくれたそれが原因だって、調べられてしまう」
僕だけではない、彼女だって思い違いをしている。僕は告げる。
「——だけど、そうはならなかった」
「ならなかったね。だからキミは私から薬を取り上げて、面倒を抱え込まないように関係を切ってしまう」
順当に考えればそれは確かに正しい。論理的かつ妥当な推論。
——しかし当事者である僕は知っている。それは正しくない結論。
——僕が決めた、論理的でない結論。
「わたしは知ってるよ。キミはどこかに行って、なにもなかったように、ぜんぶ元通りになるんだ」
僕が取るべきだった選択肢を彼女は告げていた。
「信用してないんだね」
「勝手に期待して裏切られて裏切られて裏切られて裏切られて裏切られて……わたしは、思い込みをしないだけだよ」
感情。とつとつと語っていた彼女は、感情的に二の句を継ぐ。
「それともなにかな——キミは、信じさせてくれるの?」
目には涙が滲んでいた。
「わたしに、キミを信じさせてくれるの?助けて——助けてくれるの?」
彼女の中では結論が出ていた。
「無理、だよね。だって、あなたはあの場から逃げ出したんだから——」
僕はここで初めて、感情に目をつぶる。
「置いてかれるわたしがその後どんな目にあうのか——分からないキミではなかったよね。——ううん、責めてるわけじゃないの。ただ、これ以上カッコつけて説教するつもりなら——とっても苛々するから二度と顔も見せないで」
一華の身体には新しい痣があった。まだ沈着していない、新しいそれ。
「わたしにとって今さらこんなことはどうだってないけれど、恵まれているキミが度胸も無いのに自分のエゴ——の為にかかわってくるのは、我慢できないよ」
「キミの単なる人生のお遊び、娯楽のために、これしかないわたしの人生に茶々を入れないでくれるかな」
彼女は力強く絞り出すように言い切った。
「……分かったら、もう二度とわたしに話しかけないで。二度とわたしの前に現れないで。わたしの人生に関わってこないで」
僕はそれを——僕にとって痛いそれを、喉奥に飲み込んでから、彼女に言う。




