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渡れる橋と大きな壁




「ダーシャは王族だったの?」

「僕はさっき、それを言われるのかなと思ったけれど、山猫かどうかだったよね…………」

「…………でも、足が…………」



サラは、ダーシャの体型では山で暮らせない猫だと思うと心配でならなかったので、出来れば、危険な山猫としての誇りを捨てて欲しかった。

大好きなダーシャが、山の中で遭難したりしたら大変だ。

きっと、もさもさの毛皮も、枝に引っかかったりしそうではないか。


「…………サラ、男に足の長さの話をしてはいけないよ。こう見えて、案外繊細だからね」

「…………前にも虐められたことがあるの?」


とても悲しい目でそう言うので、サラは首を傾げた。

何か、足に纏わる悲しい事件があったのかもしれない。



あの後、部屋には夜闇が満ちたので、ダーシャは部屋中のどこにでも行けるようになり、今はこうしてサラの隣に座ってくれた。


足が短くてお腹の毛をすぐに汚してしまうので、ダーシャは毎日洗われていて、抱き上げるとラベンダーの石鹸のいい匂いがする。

これは本当にサラの大好きなダーシャだろうかと、ついついくんくんすると、確かにいつもの石鹸の匂いがした。



「…………どうして僕の匂いを嗅ぐのだろう?」

「嫌な気分にさせてしまったら御免なさい。その、…………本当にダーシャかどうかは、ジョーンズワース夫人の手作り石鹸の匂いで分かると思ったの……………」

「…………そういうことか。サラは頭のいいレディだね」



多分これがアーサーだったら、あの湖のような灰色の瞳を眇めて、やれやれ困ったなと微笑むような気がする。

けれどダーシャは、ふわりと微笑んでサラの頭を優しく撫でてくれた。




(…………さ、触れるんだわ!)



そのことにまず驚いてしまい、サラは、感動の眼差しでダーシャを見上げる。

口元と髪の毛は見えるのに、表情が見えないというのがまた不思議なのだが、何となく目のあたりを見ることにした。



「ダーシャは、何だか王子様みたい…………」

「その通り、山猫になる前の僕は王子だったんだ。因みにその頃の僕の足を貶したのは、僕の友達だった女の子でね。僕と兄上では、兄上の足の方が長いと言って、僕を絶望させた」



そんなお喋りに、サラは目を輝かせる。

こんな風に色々なことを話してくれると、ダーシャが人として暮らしていた頃の背景が見えてくるようで、わくわくした。


アーサーという友達は出来たけれど、魔法のかかった友達はダーシャが初めてで、それは、サラが初めて出会う良き魔法である。

残念ながらこちら側では魔法は使えないそうだが、ダーシャが魔法の猫だったというだけで、心の中のどこかの部分が救われるような気がした。

竜に知り合いのいる魔法の猫が友達なら、音楽の呪いになんて負けないかもしれない。



「ダーシャは、王子様だったの?私、王子様に会うのは初めてよ。…………こんな風にお喋りしたら、失礼なのかしら。偉い人に叱られてしまう?」

「はは、僕はもうただの山猫だから、そんなことはないよ。サラは僕の可愛い妹分だしね」

「……………ダーシャの妹……………」

「……………物凄く怪訝そうにしないでくれると嬉しいな。ほら、僕は元王子だからとても繊細なんだよ」

「足を貶されたことも、忘れられないくらいに?」

「そう。あの時はとても悲しかったよ」

「その女の子のことを好きだったの?」


サラがそう尋ねると、ダーシャの口元がにっこり微笑んだ。


瞳が見えたらとても素敵なのに、残念ながらダーシャの表情はよく見えないままだった。

けれども時折、ふっと鮮やかな青緑色の瞳が見えるような気がした。

けれどもそれは、次の瞬間には鮮やかな赤い瞳に見えたりもする。

体にかけられた魔法が作用しているようで、実際のダーシャの瞳は鳶色なのだそうだ。


喋り方はアーサーのどこか皮肉っぽい穏やかさとは違い、ダーシャの言葉は繊細で柔らかい。

何となくだが、アーサーが冬の夜のような深々とした静謐な美しさであるなら、ダーシャは夜明けの庭園のような優しく透き通った穏やかさがある。



「彼女のことは、友達としては大好きだったけれど、恋ではなかったね。彼女は僕達の暮らす王宮に住み込みで勤めていて、僕の友達の騎士の、大切な婚約者だった」

「まぁ、その女性の方は、お友達と婚約していたのね。私の友達も、今年の七月に婚約したのよ」


カチコチと時計の針の音がする。

何だか嬉しくて、あれこれお喋りをしようとしてしまってから、サラはふと我に返った。



ダーシャが人の姿でいられるのは、満月の夜だけなのだ。

こうして一緒に過ごせる時間は、とても貴重に違いない。



「…………ごめんなさい。大切なお話が沢山あるのに、普通のお喋りに夢中になってしまったわ」

「どうして謝るんだい?まだ、陽が落ちてから半刻も過ぎていないし、サラだって僕のことを知る時間が必要だろう?」

「でも、夕食もあるでしょう?また次の満月までとなると、こんな風に一緒にいられる時間は少ないもの…………」



ただ、魔法のかけられた猫と友達になったという楽しい話ではないのだ。

サラは、アーサーをこちら側に引き止める為にも、このアシュレイ家にかけられた呪いを解かなくてはいけないし、ダーシャだって、一刻も早く橋を渡って大事な人に会いに行きたいだろう。



「では、僕達が話し合うべきことから始めようか。………夕食まで、まだ時間があるからね」

「うん」



この家の聖域のようなサラの祖父の部屋には、沢山の蔵書や、バイオリンを作っていた祖父の道具や古い置物などがある。

その全てにゆらゆらと震えるランプの影が長い尾を落とし、サラは少しだけ不安になってダーシャに寄り添った。



(魔法のかけられたダーシャが、アシュレイ家の呪いに纏わる話をしたことによって、その呪いが悪さをしたりしないかしら………?)



そんな不安を抱いてしまったが、でもここには、頼もしいダーシャがいるのだ。

さっきまでは、不審者だったら硝子の置物を投げつけようと思っていたが、今はもう、大好きなダーシャだと分かったので側にいると安心する。



「まずは橋の話をしよう。僕が、君なら僕の帰り道を見付けてくれるだろうと話したのはね、先程話した国境の町に行く道は、一本だけではないからなんだ」

「……………近くにもあるの?」

「そういう場所は、沢山の扉を持っていることが多い。…………多分、僕や君が探しているところは、この屋敷の裏手を流れる川の上流のどこかに架かっている橋の筈だよ」

「…………ダーシャ、あの川はとても長い川なのよ?」

「でも、僕が落ちたのは、国外ではないと思うよ。川に流されたのもせいぜい一時間くらいだったし、流れはとても緩やかだった」

「……………ダーシャは川から流れてきたのね…………」



サラが思わずそう呟くと、ダーシャはこちらには見えない瞳をさっと逸らしたようだ。

一応元は王子様なので、川に流されたことはたいへん不名誉だと考えているらしい。


「……………続けようか。橋を渡りきったところで、土地の空気ががらりと変わったのが僕にも分かった。これはまずいなと思って戻ろうとしたのだけれど、あの辺りはいつも濃い霧が出ていてね。焦るあまりに欄干の隙間から落ちてしまったようだ」

「それで、川に流されてしまったのね…………」

「幸い、どういう訳か浮いたんだ。………………船火の魔物の祝福のお蔭かな」

「ふなび……………魔物の祝福?」

「ああ、それは僕の独自の体質の話だから、聞き流しておくれ。…………ともかく、そのお陰で僕は、暫くは為す術なく流された後、川岸に近くなったところで何とか川から上がることが出来た」

「…………ダーシャが沈んでしまわないで良かった。ダーシャは、大切な友達だもの」



ほっとしてそう呟いたサラに手を伸ばして、ダーシャは、またサラの頭を撫でてくれる。



(ああ、オードリーも、こんな風に私の頭を撫でてくれた…………。叔母様も、お母様も……………)



父やアーサーも時々頭を撫でてくれるけれど、その二人の撫で方は男性特有のもので、頼もしいけれど、少しだけ大雑把なやり方なのだ。

ダーシャは、頭の形に添わせてそっと撫で下ろすので、喪われた家族の温もりを思い出した。




「では、次は落ちないようにしなければだね」

「ダーシャは、階段や水溜りにも気を付けてね」

「……………嘆かわしいことにね。それとサラ、君が探している町は、霧の町と呼ばれているのだろう?僕が訪ねた国境の町にも大きな劇場があったし、やはり霧深いところだったよ。相手と魔術の縁が出来てしまうといけないから言えないけれど、そこに君の一族のルーツがあるだろうという根拠もある。僕達二人の目的地は、同じで間違いないだろう」



であればやはり、向こう側からこちら側に面している境目の町は、その一つしかないのだろうか。

どこか特定の土地に決められた橋がかかっているのではなく、様々な国や場所からそこへ行けるということが、何だか不思議でならない。


けれども、ダーシャ曰く、“あわい”というのはそういうものなのだそうだ。



「…………それなら、ダーシャが川に流されたのは、良かったかも知れない。川は一方方向にしか流れないから、何処から来たのかが分かりやすいのね?」

「その通り。だから僕は、サラが、僕がどこから来たのかを見付けてくれると思っているんだ」



ダーシャが、サラにも国境の町が探せると言った訳が、やっとサラにも分かった。



(思っていたよりも、ずっと近くにあったんだ……………!)



そんな新事実に嬉しくなり、慌てて本棚からこの辺りの土地の地図の本を取り出してくると、それをテーブルの上にどすんと広げてみる。


例えばこれが冒険の物語だったなら、この地図を広げるという行為は、その中でもとびきりにわくわくする場面なのだろう。

でも、遊びに行く訳ではないのだから、ここはまず冷静にならねばと自分に言い聞かせ、サラは密かにその興奮を胸に収めた。



砂色の紙に印字された地図を、ゆっくりと指先で辿る。

この本は、土地の歴史や風習などを編纂した立派な本で、この辺りに住む古い家には必ずある本だった。

地元の学校や教会が協力し、周年の記念品として作られたものだと聞いている。



「川の上流で、橋があるところを探せばいいのかしら…………。大きな橋は五本、小さな橋は十七本もあるのね……………」

「橋だけで探すよりも、霧に纏わる伝承があったり、大きな祝祭などがある土地の方がいいかもしれない」

「……………橋があるだけでは決め手にならないの?」

「それは、向こう側へ続く特別なものだ。常時存在しているかどうかはかなり怪しいし、普段は何の変哲も無い普通の橋なのかもしれない。…………けれど、扉が開く程の魔術が動くのなら、それに相応しい話の何かが伝えられている筈だからね」

「……………すごい。ダーシャは魔法使いみたいね」



そう呟いたサラに、ダーシャの口元がほころぶ。



「僕の祖父は、それはそれは偉大な王で、魔術師でもあったんだよ。だからこのような考え方や調べ方は、どれも祖父から教えられたものなんだ。僕がかつて得意とした魔術は、星見や予兆を渡る占いのようなものだった」

「…………その国は、王様が魔法使いだったの?」

「その通り。でも、その魔法使いという言葉は、僕たちの領域にはないんだよ」

「ええと、………魔術師…………?」

「うん。僕達の暮らしたところでは、そう言われていた。こちらの世界の魔法使いのような無尽蔵な力を持つ存在ではなくて、各々の才能に差異があって職業としても成り立つものだったからこそ、この名称なのかもしれない。もしくは、こちらの世界だと、魔術師が魔法使いと呼ばれるのかもしれないね」



そう言ったダーシャに、サラはこっそり打ち明けてみる。



「…………私はね、アーサーの手を、魔法使いの手のようだと思っているの。どうしてなのかしら……………」

「それは面白いね」


そんなことを打ち明けられたダーシャは、生真面目に頷いてくれた。


人の姿になったダーシャが着ているのは、深い青色の上着を羽織った王子様の服で、けれども決して華美なばかりの装いではなく、どこか異世界めいた清廉な美しさがあり、実用的にも思える。


聞けば、この驚嘆する程に細やかな刺繍にはたくさんの祝福が縫い込まれ、飾りに使われた糸や宝石の全てに、充分な魔術が宿っているらしい。

けれどもその全てが、ダーシャには触れられてもこちら側の人間であるサラには触れられないものだと知り、サラはとてもがっかりした。


キラキラ光っている剣の宝石も、サラが触れると、しんと静まり返って光らなくなってしまう。




「……………君がアーサーにそのような思いを抱くのは、君の中に受け継がれた向こう側の記憶が反応するからなのかもしれない。…………アーサーは、向こう側に行っても充分に魔術師としての勉強が出来るくらいの、とても珍しい高可動域の保持者だ。…………ああ、可動域というのはね、その人間が体の中にどれだけの魔術を通し、扱えるかを示すものの呼び名だよ」

「その、かどういき、………が高くて、アーサーはとても凄いのね」



何だか誇らしくなってふんすと胸を張れば、ダーシャがくすりと笑った。


ダーシャの言動はアーサーによく似ているので、もしサラが何も知らずに、二人は兄弟だと言われたら信じてしまったかもしれない。

上手くいえないが、身に纏う雰囲気がとても良く似ているのだ。



「数値的なものを言えば、僕達の暮らしていた土地での基準は、成人では六十くらいからが一般的だね。対して、こちら側の人間達は、殆どの人達がその可動域というものを全く持っていない」

「そんなに違うものなのね…………。アーサーはどれくらいなの?」

「アーサーは、少なくとも二百くらいはあると思うよ。この魔術の欠片すら落ちていないような不毛の土地で、祝福が濃い土地を好んで訪れているのは、彼が、こちらではずば抜けた力を持ちそのような場所を無意識に嗅ぎ分けるからだ」

「…………二百!………ダーシャ、私は?私にも可動域はある?」

「サラは、三十くらいかな。…………ああ、落ち込まないで」

「………………三十。ちょっぴりしかないわ………………」



こんな風にダーシャと話を出来るのだから、きっと自分も凄いのかなと思って期待していたサラは、残酷な告知を受け、がっくりと肩を落とし睫毛を伏せた。

三十ということは、ダーシャの暮らしていた土地では一般的な数値の半分くらいではないか。



「でも、君はこちら側の人間なのだから、それでいいんだよ。僕達の領域だったら、立派な大人だ。国境の町にかかる橋も渡れると思うよ」

「……………大人じゃなくても?」

「君が教えてくれた一節は、恐らく可動域のことだろう。可動域が低い者達を、僕達の暮らす場所では大人として認めない。その資質はね、あの橋を渡る為には必要なものなんだ」

「その可動域が低いと、大人じゃなくて橋が渡れないのね……………?」



一瞬その指摘にぎくりとした。

けれども、何を以って成人とするかの規定は、ダーシャ曰く、混ざり込んであの一節になったのではないかということだった。



「あの橋は大人でなければ渡れないと、向こう側の誰かが言ったのだろう。それを君のご先祖が、こちらの規準に当て嵌めたような気がする。橋を渡れるかどうかは僕達の規準だと思うけれど、君達の一族はこちらの規準での成人を待っていても、呪いに傷付けられなかった訳だから、呪いはこちらの基準で動くのかもしれない………」

「………………ダーシャは、あっという間に絡まった糸を解いてしまうのね。アーサーにもそういうところがあるの。…………私も、可動域が高かったら、そんな風になれる?」

「君はこちらの世界の規準ではまだ子供だから、成長してゆく過程で可動域も育つかもしれない。ただ、こちら側で暮らしてゆく君にとって、それがいい事とは言えないだろう」

「それが、ダーシャがアーサーとお喋り出来ない理由なの?」

「……………そうだね。彼に、こちら側にしっかりとその魂を繋ぎ止めるだけの楔があればいいのだけれど、今のまま彼が向こう側の存在を知れば、アーサーは、もうこちら側には戻って来られないだろう。…………さっき君は、アーサーの手を魔術師のようだと言っただろう?」

「…………………ええ」

「そういう直感は、えてして当たるものだよ。君が思うのなら、アーサーは魔術師としての才があるのだろう。僕もそう思う。特に魔術師というものは厄介な人間でね、それが自分を滅ぼすものであっても、焦がれたものに真っしぐらだ。…………少し難しい話だったかな?」




(それが、自分を滅ぼすものであっても……………)



それはなんて、美しくて苛烈な言葉だろう。

その響きの悲しさと激しさに、サラは小さく息を飲んだ。



「…………ううん。私にも、ダーシャの言おうとしている事が分かる気がするわ。アーサーは、いつか、…………どこか遠くに行ってしまいそうだって……………」



サラがその不安を誰かに打ち明けたのは、初めてだった。



愛する人達を喪ったばかりの父に、こんな残酷な問題を相談する訳にもいかないし、ジョーンズワースの家の人達には勿論言える筈もない。


けれど、こうしてダーシャと話が出来て漸く、サラは自分が感じている理由のない不安を肯定して貰えたような気がして、心からほっとした。




「……………君にもそう感じさせてしまうのであれば、彼は少し危ういね。でも、あれだけの可動域を持っているのに、こちら側の魔術の薄さでは、さぞかし息苦しいだろう。それについては可哀想だとは思うが、……………アーサーはまだ若いからね。それでもとこちら側を捨てるのだとしても、まだ彼にはその判断は早いと僕は思っているんだ」

「……………アーサーには、どこにも行って欲しくないわ」



少し風向きがおかしいぞと不安になりそう言えば、ダーシャは不思議に透明な声で、その人の人生はその人のものだよと言う。



(それは、例え自分を滅ぼすようなものだとしても……………?)




「でもね、彼は多分、………今こちら側を捨ててしまえば、必ず後悔する。正しい場所があったとしても、知らない方が幸福だという場合もある。僕は、彼に彼の愛する家族との生活を捨てて、苦しんで欲しくはないな」

「……………私は、アーサーは、ご家族を置いて、自分勝手にどこかに行ってしまう事はないと思うの。…………なんて言うか、…………もっと怖い事が起きそうで………………」



アーサーがどれだけ自分の家族を愛しているか、サラはもうよく知っているつもりだ。

両親は勿論だが、特に、自分とは全く性格が違うのに仲良しだという兄をとても慕っているようで、そんな人達を置いて自分の欲求だけを優先させるには、アーサーは優し過ぎるのだと思う。



感じるままにそう伝えたサラに、ダーシャは少しだけ黙っていた。



間違っていたかなと不安になって、瞳があるであろう部分をじっと見上げたサラに、ダーシャはまた悲しげに微笑む。


その艶やかさは、この人はきっと、とても魅力的な人なのだろうと思うくらいに、美しい微笑みだった。




「僕が年長者ぶって君に言わずにいた事まで、サラはとっくに気付いてしまっていたのだね。…………うん。アーサーは、自分が魔術師になる為に、家族を捨てて向こう側に出かけたりはしないだろう。けれど、…………向こう側が確かにあるのだと知れば、嬉々として自分の命を対価にし、家族を呪いから救う為の魔術に没頭はするだろう」




どこかで、時計の時報が鳴った。

ゴーンゴーンと鳴らされる鐘の音に、もうすぐ夕食の時間だと、はっとする。


でも今はもう少しだけ、ダーシャと向かい合って、話をしていたい。



これはとても大切なことなのだ。




「…………ねぇ、ダーシャ。私は、アーサーがそんな風に考えてしまうのは、呪いを解く為に必要な魔法が、どこにも見付からないからだと考えていたの……………」

「うん。そこから始まったのかもしれないね。だからこそ、彼の中に詰め込まれた魔術や人ならざる者達への憧憬は、とても深い諦観と、あの一族が受け継いだ呪いの色によく似た終焉の気配がする。本来は、決して組み合わせてはいけないようなものだけれど、そのようにして枝葉を茂らせてしまったのが、アーサーなんだ」



(それを変えられたらと思うことは、アーサーに対して失礼なのかしら…………)




そんなことを考えながら、サラは美味しい晩餐をいただいた。

この時ばかりは手足の短い猫の姿に戻り、ダーシャもベサニー特製のご飯を食べている。


実は今日は、ジョーンズワース家の人々は親族を訪ねて家を空けており、ダーシャはサラの家に預けられているのだ。



普段は、家族が誰も帰れない日は、エマがダーシャを預かるらしい。

でも今回は、それなら自分が預かりたいと提案してみたサラに、ジョーンズワース夫人が頷いてくれたことで実現した、ダーシャの公式なお泊りの日である。


サラは、ジョーンズワース家の人々が今夜出かけるよう、ダーシャが魔法をかけたのかなと思っていたが、偶然だったようだ。




「お父様の帰りが遅いのは寂しいけれど、そのお陰でダーシャと沢山お喋り出来るわ」

「……………僕にも妹がいたけれど、ここまで気を許されてしまうと、複雑な思いだなぁ」



夕食を終えてお風呂に入ることになったサラは、ここでも時間を無駄にしてはなるものかと、ダーシャを浴室に連れ込んだ。



ダーシャはけばけばになってブニャゴと暴れたが、サラは逃さなかった。

ノンナからは、仲良しですねぇと呆れられてしまったが、話したいことはまだまだ沢山あるのだ。



しかし、なぜかダーシャ本人も遠い目をしており、続き部屋になった洗面室の方に避難してしまっている。



「だって、ダーシャは、私のお父様とあまり変わらないお歳なのでしょう?」

「僕達の暮らす土地はね、可動域の高い人間は成長がゆっくりなんだ。こちらの世界で言えば、そこまでお年寄りじゃないからね」

「それに、ダーシャは猫だもの。今夜も、一緒に寝るのだから今更だわ」

「……………そうか、サラにとっては猫になった元王子ではなく、元王子な猫なのだね」

「ダーシャがそう教えてくれたのでしょう?猫の姿が、今のダーシャなのよね?」

「うむ。残念ながら、そう言わざるを得ないか…………」

「ふふ、ダーシャは時々面白い言葉遣いになるわ。それは、王子様だから?」

「そうかもしれないね。王子としての公務では、もっと厳めしくしていたよ。でもまぁ、僕達の国では国民とも仲良しだったから、こんな風にお喋りすることが多かったかな」



森の香りのする入浴剤を放り込み、温かなお湯に浸かったサラは、濡れた髪の毛を後ろに撫でつけて浴槽の縁に手をかけた。

勝手に自分なりの規則を制定し、お風呂場と寝室には悪いものが入り込まないと信じきっているサラは、お風呂の時間が大好きだった。


ここも我が家の聖域なので、ダーシャを呼ばない手はない。



「そう言えば、ダーシャがジョーンズワース家に拾われたのは、何月のことだったか覚えている?その日に特別な祝祭があったのなら、日にちが分ればもっといいでしょう?」

「ああ、であれば十月最後の日だったね。何か祝祭のようなものがあった筈なんだ。それが橋を繋げる要因になっている気がする」

「…………だとすると、ハロウィンなのかしら」

「それは、どこの祝祭なんだい?」

「十月三十一日に、ジョーンズワースのお家では、あまりハロウィンはしない?」

「…………南瓜を煮た食事を貰うくらいかな。その祝祭は、一般的なものなのだろうか?」



不思議そうな声に、サラは眉を寄せた。


もっと小規模な土地のお祭りのようなものであれば良かったのだが、ハロウィンとなれば、ある程度広範囲で認知されている季節の祝祭である。


とは言え、父やオードリーからもっと大々的にやる国も多いと聞いていたが、このあたりではあまり大仰に祝うお祭りではなかった。



「ハロウィンは、秋と冬の境の日だと言われていて、収穫祭や、あの世から死者の霊が家に戻ってくるとされた日が起源になっているの。でも悪霊も出てきてしまうから、お祭りがあるところでは、お化けの仮装をしたりするのよ」

「……………クロウウィンか。僕達のところにも、似たような祝祭があるよ。季節の境界にあたり死者の国の扉が開く日は、あわいに繋がり易い一日でもある。…………そうか。だから繋がったのかもしれないね」

「じゃあ、ハロウィンの日に、ダーシャが落ちた橋を見付ければ、国境の町に繋がっているのかもしれないのね?」



そうとなれば、ゆっくりなどしていられない。


サラは慌ててお風呂から上がり、どこか儚い声のダーシャから、きちんと寝間着を着てから声をかけてくれ給えと言い含められる。



その通りにして、二人は寝室に向かった。

途中で、遅い帰宅だった父に出会い、サラとダーシャは就寝の挨拶を貰う。



(…………ダーシャの見立て通り、叔母様の手帳にあった始まりの町が、ダーシャが探している国境の町だったならば…………)



でも本当は、そこにはアーサーと一緒に行く筈だったのだ。



そう考えて覚悟を決めたサラは、そこだけは頑固にダーシャに交渉した。

国境の町に行く時には、必ずアーサーも一緒でなければならない。

あの時、その約束でアーサーを引き止めたのはサラなのだ。

であればサラは、そこだけは譲れないのだった。



ダーシャは随分悩んだが、アーサーにはダーシャの正体を知られないようにすることと、アーサーの可動域などの問題については、こちらから決して本人に知らせてはいけないという約束を守ることを条件に、国境の町に行く時には、アーサーを誘っても構わないと言ってくれた。



「でもね、シャーロットは、僕を拾ってくれた大切な恩人だ。アーサーも、クリスティンも。そしてエマも、…………コンラッドも。そんな彼等を、僕と関わったことで破滅させたくはない。君には秘密の多い難しい立場を強いてしまうけれど、どうか許しておくれ」



悲しげに微笑んでそう言ったダーシャに、サラはしっかりと頷いた。


その言葉からダーシャがどれだけジョーンズワース家の人々を愛しているのかが伝わってきて、この約束は絶対に守らなければならないと強く思う。


一つ我が儘を言ったのだ。

その上で、アーサー達を守る為に結ばれた約束なのだから、こちらもしっかりと守らなければならない。



「だとすれば、それまでに準備を万端にしておこう。僕の存在が齎した情報を差し引いて、君はその町への道を、さも自分が見付けだしたかのように、彼に示さなければいけないよ。町についてからは、…………僕がどうにかしよう……………。こちら側のハロウィンという祝祭の性質的に、国境の町の中であれば、こちらの姿に戻れるかもしれないからね……………」




サラがしなければいけないことは、たくさんある。



アーサーを始まりの町に連れてゆくこと。

そして、ダーシャを、国境の町に返してあげること。

その上で、始まりの町でアシュレイ家の呪いを解く為の情報を収集しなければいけないし、アーサーが道を踏み外さないように、しっかりと見張っていなければならない。




(でも、ダーシャがいてくれたから、どんどん話が広がって、こんなに早く、始まりの町への道が見えてきたんだわ!)




「……………私、たくさん頑張らなきゃだわ。ダーシャも協力してくれる?」

「勿論だよ。でも、アーサーは勘がいいからね。手強いだろう…………」

「……………が、頑張るわ……………」

「後、もう一つ重大な問題がある」

「……………何かしら?」

「国境の町は、こちら側と時間の流れが違う。それは、君が呪いについて調べる為には、まだ事情を知る者達が残っているかもしれないから有利だよね。でももし、君に国境の町に足を踏み入れる覚悟があるのなら、君はまず、それだけの時間を向こう側で過ごす為の時間稼ぎをする必要があるんだよ」



(それは、……………)



果たして可能だろうか。



ダーシャの暮らす土地では、可動域が三十あればサラは立派な大人だという。

けれどもこちら側では、何日も外泊する訳にはいかない、とても不自由な子供でしかない。




最大の難問を前に、サラはくしゃくしゃになって、ベッドに突っ伏した。








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[気になる点] >「でもね、シャーロットは、僕を拾ってくれた大切な恩人だ。アーサーも、クリスティンも。そしてエマも、…………コンラッドも。そんな彼等を、僕と関わったことで破滅させたくはない。君には秘密…
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