夕闇の来訪者と山猫の秘密
ゆらゆらと夕暮れの闇が揺れる。
その夏闇の光がくらりと揺れる度に、庭の木が窓から床に落とす影が不思議な模様を重ねた。
時折ざあっと強い風が吹き抜けると、窓に擦れる葉の音がしゃらりと鳴り、サラは、ゆっくりと青く青く翳りゆく世界を見上げる。
窓枠の形に切り取られたその影が、どこか違う世界への入り口のように思えてサラは少しだけ心惹かれた。
もしそこに、そっと爪先で触れてみたら、何かが変わるだろうか。
(例えば、違う世界に迷い込んでしまうとか…………)
そんな事を考えてくすりと笑った。
これはもうアーサーとの会話がかなり影響しているのは間違いないのだが、その全てがこの世界にはあり得ないことだとは思えないくらい、目に見えない不思議なものはサラにとっては身近なものであった。
けれどもそれまでは、暗い影と恐ろしい足音を響かせたその気配が、また違う色で見え始めたのはつい最近のことだ。
(泉の側でピクニックをしたのは、初めてだった…………)
サラが知る日々に散りばめられた呪いは、大きな歌劇場やコンサートホール、正装した人々が行き交うパーティ会場や、暗い劇場で見上げる天井絵画、そして暗い棚の中や一人ぼっちの家、真っ黒な服を着た人々の葬列の姿をしている。
でも今は、きらきらと朝露に煌めく薔薇の茂みや、森の中で一面真っ白な百合の花を咲かせた不思議なところ。
青空を映した泉の影と、さらさらと風に揺れる細やかな泉の畔の黄色い花の光景も加わった。
(何でなのかしら。呪いはなくなった訳ではないし、叔母様の手帳以外に、その呪いを解けるような糸口もないのに……………)
けれども、サラの見る世界は変わった。
そんな美しいものの影にも人ならざる者達が潜むのであれば、それは恐ろしくても、決して悍ましいばかりではないと思えるようになったのだ。
それはきっと、アーサーがそういうものを信じているのが分かって、アーサーと出会い屋敷の外に出たことで、サラの瞼の裏側にたくさんの色が蓄えられたから差し込んだ光なのだった。
瞼を閉じれば、この前のピクニックの日に見た美しい森が鮮やかに思い出される。
アーサーとの間にちょっとした悲しい行き違いが生まれてしまったりもしたが、楽しい一日だったのは間違いない。
(でも、帰り道のアーサーは、何だか近くに感じたわ……………)
あの帰り道で、サラがもう頑張って紳士らしく振舞わなくていいと言えば、アーサーはパイから逃げてきたのを見抜かれてけばけばになる、ダーシャのような顔をした。
どう接してあげればいいのか分からなくてサラもおろおろしてしまったものの、はっとする程に無防備な目をしたアーサーはちょっと可愛かったかもしれない。
あの時のアーサーは、どこにも行かない、ただのアーサーの気がした。
「……………踏んでみようかしら」
そう呟いたのは、窓の形をした光の影が、夕闇に淡くなり始めていたからだ。
あの日のアーサーのことを思い出してほかほかした気分だったので、これは今しか出来ないことだと思うとそわそわしてしまい、サラは影を踏んでみようと立ち上がろうとした。
その時のことだった。
「…………それは、やめておいた方がいいかもしれないよ。そこが門だった場合、君はどこかに連れ去られてしまうから」
「……………っ?!」
突然聞こえた声にぎくりとして振り返ると、窓からの光が届かなくなった祖父の部屋の暗がりに、見たことのない一人の男性が立っていた。
(…………え?)
顔の口元より上の部分だけが、ひときわ暗い影になっていて見えない。
背は高くすらりとしていて、夜会などで見かけるような華やかな服装をしていた。
得体の知れない人がそこにいる。
そう思うと背筋が冷え、サラはソファから立ち上がろうとしたが、恐怖にがちがちに強張った体はぴくりとも動かなかった。
その温もりに縋りたいのに、ついさっきまで足元に伸びて寝ていた筈のダーシャの姿はない。
知らない人が入ってきたので、どこかに隠れてしまったのだろうか。
(こわい………………)
見知らぬ人の気配が、その瞳は見えなくても、じっとこちらを伺っているのが分かる。
怖くて怖くて堪らないのに、その怖さをどう噛み砕けばいいのかが分からなくて、サラは、ただ浅く短く、はくはくと息を詰める。
「……………だ、れ?」
しっかりと誰何の声を上げようとしたのに、絞り出した声はすっかり嗄れて掠れてしまっていた。
そんな自分の声を聞いて、急に生々しくその怖さが募った。
じわっと涙目になり、立ち上がって窓際まで後退ろうとしても、膝が萎えてしまって、まだ立ち上がれない。
「…………おや、僕と前の満月の夜にお喋りしたのを、忘れてしまったのかい?」
「………………まん…………げつ?」
サラが怯えたことが意外だったように、ぽかんと口を開けていたその男性は、気を取り直したようにこほんと咳をすると、とても柔らかく微笑んだ。
口元だけはしっかりと見えるので感情は読み取れるのだが、やはり、不自然なくらいに口元より上の部分はこちらから見えなかった。
けれども、こんな風にそこだけ全く見えないだなんてことはあるのだろうか。
そう思うとまたぞくりとしたが、どこか柔和で優しい口調に、少しだけ冷静になる。
(満月の夜………………?)
そう思えば、前の満月の夜に見た、あの不思議な夢が思い出された。
(まさか、ね……………)
思い当たることがない訳ではないが、それは夢の中のことだった筈だ。
それともこれもまた、祖父の部屋で居眠りをしているサラが見ている、新しい夢なのだろうか。
(でも、それなら怖くないのかしら……………)
胸元でぎゅっと握り締めた手を、そろりと下ろした。
この前の夢なら、ちっとも怖くなかった。
あの夢の続きなら、この男性とお喋りしてもいいのかもしれない。
(だってここは、お爺様の部屋なのだし…………)
夢の中とは言え、この聖域に現れたものなのだから、きっといい人に違いない。
それも妙ではあるが、夢の中でのことであれば、何だか不思議なことが起きてもすんなりと受け入れられた。
或いはそれが、今のサラに理解出来る不思議なことの限界なのかもしれない。
「これは、夢……………?」
「ふむ。夢ということにしておいた方が、君は怖くないかい?それとも、夢ではないよと言ってあげた方が、いざという時に僕の言葉を頼れるかい?」
ところが、夢だったのだとほっとしたサラに対し、男性はそんなことを言い出すではないか。
呆然として目を瞠ったサラに、また雄弁な口元がにっこりと微笑む。
(夢じゃ、…………ないの?)
怖々と見つめる先で、体重をかけ変えたものか、彼の足下でみしりと床板が軋み、その音にサラはぎくりとする。
自分が僅かに動いたことでまた竦み上がってしまったサラに、男性は少しだけ微笑みを深くした。
彼の足元の床板が軋むということは、そこに体重があるという事ではないだろうか。
そう考えてしまい、サラは、思わずテーブルの上に武器になるようなものがないか確かめた。
この男性が生身の人間だった場合、一番恐ろしいのは、悪意を持ってこの屋敷に入り込んできた不審者であることだ。
でも、どうやってべサニーやノンナの目を掻い潜って屋敷に入り込み、この部屋まで辿り着いたのだろう。
その上、サラに気付かれずにこの部屋に入ってきている。
ちらりと視線を投げたのは、祖父が作業用のメモなどの紙を押さえる為に使っていたという、林檎の形をした硝子のペーパーウエイトだ。
万が一不審者だった場合、これを投げつけてその間に助けを呼ぶ事は出来るだろうかと考えていると、困ったような優しい声が聞こえた。
「………サラ。出来れば、その置物を投げたりしないでくれるかい?僕はこちら側の生き物ではないけれど、それが当たったらまずいことになるかもしれないから、ぜひに避けたい」
「……………あなたは、人間じゃないの?」
びっくりしてそう尋ねたサラは、その直後、部屋の隅に立った男性の髪色がくるりと変わる瞬間を見てしまい、ぽかんと口を開けた。
「……………ふぇ」
(さっきまで、…………淡い金髪のように見えていたのに、……………銀髪になったわ………!)
光の加減かとも思ったが、影が動いていないのにそんなことがある筈もない。
びっくりしてまじまじと見ていると、男性は不思議そうに首を傾げる。
「僕が、…………どうかしたのかい?」
「髪の毛の色が…………変わったの………」
「……………それは、本人的にも驚きだ。と言うか、僕の顔は相変わらず見えないのかな?」
「…………顔が見えないように、影のところに立っているのではないの?」
「確かに影になっているところに立ってはいるけれど、僕は、“満月の夜”の領域を選んで立っているだけだよ。…………ほら、そこまではまだ黄昏の領域だ。僕がこの姿でいられるのは、ある筈のないものが顕現出来るとされる場所だけだからね。………やはり、こちら側では、僕の姿が記憶に残らないようになっているのかなぁ………」
(……………なんて、)
それはなんて不思議な言葉だろう。
サラはふすんと息を吐き、柔らかな星空のような銀色の髪を持つ人を見上げた。
よく見ればその男性は、襟元の刺繍の素晴らしい中世の王子様のような服を着ていて、腰に素晴らしい装飾の剣を佩いている。
そこに散りばめられた不思議な光を放つ宝石を見た途端、サラは、これは何か特別で不思議な事が起こっているのだと、すとんと腑に落ちた。
彼の持つ剣に嵌め込まれた宝石が、キラキラしゃらりと、プリズムを手に持って太陽に翳した時のように光ったのだ。
ダイヤモンドダストのように光の粒が大気中に散らばり、またキラキラと光って消える。
(ま、魔法だ……………!)
その美しさに目が釘付けになってしまい、サラは、あの不思議な剣に触れたくて指先がむずむずする。
特にゆらゆらと陽炎のように煌めく深い赤色の宝石が放つのは、何て美しい光なのだろうとほわりと息を吐いた。
「…………あなたは、そういう風にしか、存在出来ない…………ひと?…………も、もしかして妖精さん?!」
「はは、妖精じゃないよ。僕は人間だったからね」
「……………でも、過去形だわ」
「…………そうだね、君に分かりやすいように言うならば、僕は変質した亡霊のようなものだと思っていい」
「……………幽霊なの?」
そうなるとまた違う怖さがあるので、サラは、ぞわぞわする背筋をもぞりと動かし、少しだけ手を握り込んだ。
サラの知っている幽霊は、恐ろしくて悲しいものばかりで、身内でもない限り、こんな風に部屋の片隅で微笑むという話は聞いたことがない。
それこそ、誰かを呪ったり傷つけたりするものだ。
「…………というだけでもないんだ。こちら側には、不慮の死を遂げた人間が、良き者の力を借りて他の生き物に姿を変えて貰うような物語はないのかい?」
「……………白鳥のおとぎ話があるわ。悪いお妃様に殺された王子が、神様の力を借りて、美しい白鳥になるの」
「…………白持ちか。それはかなりの大出世だね…………」
その言葉に、サラはぴくりと体を揺らす。
この男性が口にした言葉は、庭のガゼボでアーサーが呟いたものと、同じものを指しているのではないだろうか。
(白持ち………。私は知らないけれど、そういう考え方をする教派や国があるのかしら………?)
よく考えてみれば神様の衣には白があるし、天使の翼も真っ白だ。
サラがきちんと聖書を読んでいないだけで、そういう信仰もあるのかもしれない。
でも、それまでは耳にしなかったその言葉を、こうしてサラが出会った二人が口にするとなると、それは偶然ではないような気がする。
「………………もしかしたらあなたは、お隣の家のアーサーの、お友達?」
「アーサーの事はよく知っているし、大好きだ。ただし、彼は僕とこうして話したことはないよ」
「よく知っているのに、会ったことはないのね…………」
「うん。彼は…………、僕に会わない方がいいと思うんだ。僕のような者が近付くと、彼がギリギリのところで保っている均衡が崩れてしまいそうだから」
その言葉の余韻が消えるか消えないかのところで、窓から差し込んでいた最後の夕暮れの光の筋が消え、部屋は青く深い夕闇に包まれた。
すぐ近くにあるランプを点けたいが、灯りをつけてこの男性が消えてしまったらどうしようと、サラは途方に暮れてへにょりと眉を下げる。
(この話を、もっと聞きたい…………)
そんなサラの苦悩に気付いたのか、男性はまた小さく笑う。
「ランプを点けても僕は消えてしまわないよ。このままでは、真っ暗になってしまうだろう?」
「…………その、あなたは亡霊さんなのでしょう?真っ暗なところじゃなくても平気なの?消えてしまったりしない?」
「うん。僕は、君の知っているおとぎ話の中の、その白鳥の王子のようなものだからね。満月の夜にしかこうして人の形を取り戻せないけれど、灯りに損なわれるようなものではない」
大丈夫だと言うその言葉を信じ、おずおずと手を伸ばして、カチリと机の上のランプを点けた。
ぼうっとオレンジ色の光が部屋を照らし、頼りなくはあるが何とか真っ暗な部屋でお喋りすることは回避出来たようだ。
「……………あなたも、何か他の姿になるの?」
「ご明察の通り。大抵の場合は、君がよく長椅子に引っ張り上げてくれる、足の短い猫の姿でいるよ」
「…………ダーシャ?!」
びっくりして思わず立ち上がってしまったサラは、上手に立ち上がれなくてへたりとソファに尻餅をついてしまい、ふるふると持ち上げた手で口元を覆う。
こちらを見ていた男性が、くしゃりと子供のような微笑みを浮かべた。
「そう。僕はダーシャだ。僕としては、呪いで足の短い不細工な猫にされているけれど、こっちが本当の姿なんだよと言いたいところだけれど、…………残念ながら今のこれは生前の姿でね」
サラは何も言えずに声もなく頷き、ややあって、サラの呼吸が落ち着くまで忍耐強く待ってくれていた男性に、か細い声で尋ねる。
「……………あなたは、死んでからダーシャに生まれ変わったの?」
「確かに一度死んでからこの山猫の姿になった訳だけれど、僕は僕のまま、死者の国に向かう前にこの姿に変えられたから、生まれ変わってはいないよ」
「…………だとすると、あなたは昔の時代の人なのね?………夜会でもそういう服装をする人はいるけれど、剣を持っている人はいないもの」
自分は亡霊だと名乗ったこの男性が、その上でダーシャであると告白したのだ。
突然の出現の上で、あんまりな事を言われているという混乱は許して欲しい。
けれどもどうしてか、たいそう動揺はしていたが、サラはその全てを受け入れる事が出来た。
(…………音楽の神様がいて、その呪いが人を殺すのなら、普段は猫の姿をしている亡霊くらいいるかもしれない…………から?)
そう考えかけて、サラはそうではないと首を振った。
すとんと受け入れられたのは、サラにとってのダーシャが、普通の猫とは違う特別に頼もしい存在だったからだ。
「前に話したことを覚えているかい?僕はこちら側の存在ではないって。僕のいた場所ではそのようなことは珍しくないんだよ」
「…………古い時代の人だから、そのような格好をしている訳ではないのね?」
「うん。僕は、橋の向こう側の土地からこちらに迷い込んだ存在だ。そちら側では、まだこうした服装をする者達が普通にいるよ」
「………………橋」
その言葉に、またぴくりと体を揺らせば、ダーシャだという男性はどこか満足げに微笑んだ。
「…………そう、橋。君の一族に呪いを残した人物が、そう言い残していたのだったよね?」
「その話も知っているのは、あなたが亡霊だったから?」
「と言うより、僕がダーシャだからかな。ほら、君は僕がいるところでその話をしただろう?」
「…………アーサーに話したわ!」
「うん。その時に僕も、橋について知ったんだ。確かに、迷子になる直前に大きな橋を渡った記憶があったからね…………」
そう呟き、ダーシャかもしれない誰かは綺麗な指先を顎先に当て、考え込むような様子を見せた。
「その、……お父様が教えてくれたお話に出てきた橋は、………ダーシャが、向こう側から来た時に渡ったものなの?」
「僕もよくは知らないけれど、恐らくそれがこちらとあちらを繋ぐ、魔術の道のようなものなのだろう。こちら側は随分と魔術が薄いからね、特定の条件を満たした時にしか繋がらないとは思うけれど…………」
(ダーシャみたいな人達がいるところと、こちら側を繋ぐ橋……………)
そんなものだとは思ってもいなかった。
けれどそう言われると、何だか特別で素敵なものに思えてくるではないか。
「……………その橋がどこにあるのか、ダーシャなら見付けられる?」
しかし、そう尋ねると、ダーシャは少しだけ悲しげに溜め息を吐いた。
その様子があまりにも悄然としていて、サラはあのけばけばで暖かいダーシャを思い出し、可哀想になってしまう。
「…………もしかして、ダーシャは帰り道が分からないからずっと迷子なの?迷子になって、ジョーンズワースのお家で暮らすことにしたのではなくて?」
「…………ジョーンズワースの家は大好きだよ。でも僕はね、向こう側に待たせている大切な人がいるんだ。けれどこちら側はとても魔術が薄くて、こうして満月の夜にこの姿に戻れても、遠くまでは歩けない。夜が明けてしまえば、僕は満足に段差も超えられない山猫だしね…………」
「じゃあ、その、………カトリーナのお話に出てくる橋の場所は、分からないのね………」
しょんぼりとしたサラに、ダーシャはひらりと片手を振った。
「そうでもないよ。君が協力してくれたなら、向こう側に繋がる場所を見付けられるかもしれない。だからこうして、向こう側に近い人間を探してここまで来たんだからね」
「……………私が?」
「そう、君がいれば」
目を瞬き、ごくりと息を呑む。
サラ自身には、自分にそんな事が出来るとは思えない。
何しろ叔母の手帳にあった地名は、どれも外国のものだというではないか。
(でも、ダーシャは、どうやってそんな遠くからここまで来られたのかしら?)
ダーシャは、野良猫だったらしい。
森の方にある小川の手前で、そこを渡れずに鳴いていたダーシャを、アーサーと彼の兄、そしてジョーンズワース夫人が見付けて連れ帰り、暫く預かって元の飼い主を探したが、そのような人が名乗り出なかったので飼い始めたと聞いている。
「と言うことは、あなたは、ジョーンズワースのお家を選んで拾って貰ったのね」
「僕を向こう側に返してくれる人を探していたんだよ。でも、アーサーとこんな風に会話をする訳にはいかなかったから、君がいてくれてとても助かった」
「アーサーに会えない理由は、………均衡が崩れてしまうから?」
その問いかけに、彼はそうだねと微笑む。
今度の微笑みはとても大人びていて、サラは、前に見た夢の中で、この人が見た目よりもとても歳上に感じられたことを思い出した。
「彼は、こちら側では珍しいくらい、あちらに近い人間だ。…………どう言えばいいのかな、森で生まれるべきだった生き物が、砂漠で生まれてしまったような感じなんだ。それは言葉にする以上に、本人にとってはとても苦しいことだろう。だから僕は、アーサーには僕の正体を明かさないことにした。………彼が喜んでくれるだけならばいいけれど、こちら側で生きてゆけなくなったら困るからね」
「……………アーサーが………?」
「君達は多分、向こう側の要素を持った人達の末裔なのではないかと、僕は思っている。或いは、向こう側に近いところで暮らし、その影響を強く受け過ぎた誰かが、血族のどこかにいたのかも知れない。それとも、向こう側であまり可動域が高くない人達がこちらに来たのかな。…………でもそれだと、あのあわいの向こう側っていうのは難しいか…………」
何やら専門的なことをぶつぶつと呟き始めてしまったダーシャに、サラはおろおろする。
「…………え、ええと、」
与えられた情報量が多過ぎて飲み込めなくなってしまったのだが、そんなサラの姿にダーシャはくすりと笑った。
ごめんね、急がなくていいよと呟き、愛おしそうに腰の剣にそっと触れる。
そこには、先程サラが見惚れた深い赤色に揺れる不思議な宝石が嵌め込まれていて、ゆらゆらちかちかと光るのだ。
「…………とても綺麗な宝石ね」
「これはね、僕の大事な竜がくれたんだ。宝物だよ。…………彼が自分を作り変えた時に無くなってしまった筈なのに、こちら側での僕の手元にあるらしい。まるでここは、死者の国のようだね」
「…………死者の国」
そう呟けば、胸がぎゅっと引き絞られた。
(そうだ。ダーシャは、元々は幽霊なのよね………?)
大好きなダーシャが、死んだものであるかも知れないと思うと、こうしてその正体を知ってしまったら、ふらりとどこかへ行ってしまいそうに思えて怖くなる。
よくある物語では、黄泉の国から戻った死者たちは、自分が死者であることを知られると、物言わぬ亡骸や土塊に戻ってしまうのだ。
けれども顔を曇らせたサラを見て、ダーシャは、その不安は死者の国というものに対してであると考えたらしい。
「僕のいたところには、死者の国というものがあるんだよ。死んだ人間の殆どがそこに行くのだけれど、死者の王に気に入られた死者は、死者の国に行くと生前に最も幸福だった頃の容姿や服装で体や衣服が修復されると言われている。そう言えば、こちらには、死者の国はないみたいだね」
「…………ええ。こちら側にはないみたい。だってお母様達は、会いに来てくれないもの…………」
そう項垂れたサラに、ふっと、ダーシャが悲しげに微笑んだ。
その微笑みにはどこか、葬儀から帰って来た日の父と似た色が宿る。
「こちらにも死者の国があれば、死者の日には、大切な人達にまた会えただろう。そういう場所があれば良かったのにね…………」
「……………うん。お母様やお姉様、叔母様やお爺様にだって、また会えたのに。……………ダーシャのいるところは、死んでしまっていたとしても家族にまた会えるのね。羨ましいわ…………」
ひっそりとした声が、それはどうだろうと呟いた。
その声はとても儚げで脆く、本当にここにいる男性があのダーシャならば、いつもその毛皮でサラを温めてくれた優しいダーシャを、今度はサラが抱き締めてやるべきかもしれない。
「僕達の家族は、叶わないだろうね。…………戦争で殺された者達は、敵国の者達から、死者の日に地上に戻れないようにと、罪人のようにその魂を壊されてしまうものだ。…………僕の竜が僕を殺したのなら、あの戦は僕達の国が負けたのだろう。僕の家族の魂は、残ってはいまい。もう会う事はないのではないかな…………」
「…………戦争があったのね。……………ダーシャは、竜に殺されたの?…………もしかして、その宝石をくれた竜?」
こぼれ落ちるのはどれも、物語の中の文章のような信じ難い不思議なことばかり。
(竜がいる世界が、どこかにあるの………?そこでは戦争があって、ダーシャのご家族はその戦争に巻き込まれてしまったということ……………?)
だとしても、目の前のダーシャの言葉に滲んだ苦痛や絶望は本物で、サラの胸はきりきり痛む。
もう二度と会えないという事なら、サラだってよく知っているのだ。
どれだけ苦しく、息が止まってしまいそうに悲しいことなのか、身を以てずしりと染み渡る程に、よく知っている。
無残に剥ぎ取られ、二度と会えない人を思うということは、どれだけ恐ろしいことだろう。
「……………酷い戦争だった。僕達王家の血を引く人間は、例え王族ではなくとも、徹底的に魔術の名簿で名前を管理されていて、殺されるとその場で魂を砕かれた。だから僕の竜は、僕を自分の手で殺して、こうして山猫にすることで助けてくれようとしたんだろう…………」
「ダーシャを待っていてくれるのは、その竜なのね?」
「……………ああ。彼は、きっと待っていてくれる筈だ。僕をこんな不細工な猫にしたんだから、…………その責任を取る為にも、……………彼は、必ず生きていてくれないと困る……………」
(あ、……………)
ダーシャの話す世界のことは、戦争を自分の身で知らないサラには、きっと正しくは分からない。
けれども、大切な人をその魂を守る為とは言え、殺さなければならなかったくらいの場所に取り残されたのなら、残されたその竜もまた、相当な危険に晒されたのだろうという事は想像出来る。
「だからダーシャは、急いでそこに帰らないといけないのね?…………っ、………でも待って、も、もう何年も帰れてないのでしょう?!」
ダーシャがジョーンズワース家に拾われたのは、何年も前の事だ。
ぞっとしてそう言えば、ダーシャは苦笑して首を振った。
「そろそろ帰らなければと、焦っているんだよ。……………猶予があるとしても、後二年くらいかな…………」
「に、二年も帰らなくて大丈夫なの?その竜が、待ち草臥れてしまわない?」
思わず拳を握ってしまったサラに、ダーシャは、微笑んで首を振った。
「向こう側とこちら側は、時間の流れが随分と違うらしい。厳密なところはよく分からないけれど、完全に向こう側に戻れば、こちら側での五十年が一年になると聞いているよ」
「ご、五十年……………」
「僕がやって来た橋の向こう側はね、特殊な死に方をした死者が行く“あわい”と呼ばれる領域がある。更にそこから先に進むと、こちら側との境界になる一つの町がある。そこには、今の僕のようにこちら側に迷い込んだ者の話が幾つもあった。そのどれもが、何年もこちら側に居たのに、戻ってくると一時間しか経っていないとか、そんなものばかりでね。僕はそれを調べていたから、だいたい、向こう側での自分に響かないくらいの残り時間は計算しているよ」
ダーシャ達のいた場所では、そこを国境の町と呼んでいたそうだ。
こちら側に近くなる分、あわいと呼ばれる土地よりも時間の流れがゆっくりで、古い時代の死者がまだ残っていたりすると言う。
「僕はね、そこに僕の血族の誰かが残っていないか、探しに行ったところだった。随分前に、ウィーム王家の者が国境の町から向こう側の世界に逃げ延びたという話を聞いて、その人に会えないだろうかと思ったのだけど、探している内に迷子になって、問題の橋を渡ってしまったらしい。…………ほら、山猫の姿だと、とても視線が低いだろう?周囲がよく見えないんだ……………」
そう話してくれて悲しげに息を吐いたダーシャに、サラはとうとう我慢が出来なくなってしまう。
ずっとずっと、気になって堪らなかったことがあったのだ。
「………………ねぇ、ダーシャ。ダーシャはもしかして、……………」
「うん?」
「……………山猫なの?…………その、私の知っている山猫は、手足が長くて体がすらりとした猫なのだけど、ダーシャのいたところは、山猫はそういう形なの?」
我慢出来ずにそう尋ねたサラに、ダーシャはとても悲しそうな顔をした。
相変わらず口元しか見えなかったけれど、確かにそう思えたのだ。
その後、とても暗い声で語られたことによると、ダーシャのいた所でも山猫はしなやかで細い肢体を持つ優美な生き物であるらしい。
ダーシャをこの姿にしたという彼の大事な竜は、魔術を使ってダーシャを山猫に変えたのだが、どうやらその竜に絶望的に絵心がなかった結果、ダーシャはくしゃくしゃのモップのような山猫になったようだ。
一人では階段も登れないとかくりと項垂れたダーシャに、サラはとても親近感を持ち、すっかりこの男性が怖くなくなったことに気付いたのだった。