アルヘイドの歌姫と本の記憶
その霧の町で、一人の青年が出会ったのは、真っ赤なドレスを着た美しい歌姫だったと言う。
「霧の町と呼ばれているが、それがどこの国のどこの都市なのかまでは分かっていないんだ」
「霧の町…………」
父の横顔を眺め、サラは不思議な物語に耳を傾ける。
窓の外は相変わらずの霧雨で、したんと雨粒の落ちた木の葉が項垂れた。
季節は夏だが、古い石造りの屋敷は、窓の向きのせいでこうして雨の降る日は少しだけ肌寒くなる。
サラは、温かな紅茶を淹れてくれたノンナに感謝した。
「カテリーナさんは……」
「カトリーナが正しい名前だよ、サラ。………とは言え、それは残された家系図に間違いがあったという人もいるらしい。父も、その人のことはカテリーナと呼んでいた。…………でも、今回は、家系図に名前のあるカトリーナとして話をしよう」
こくりと頷いた父に、サラはしっかりと座り直す。
かちゃりと音を立ててカップを取り上げ、父は紅茶を一口飲んでからその話を始めた。
とある作曲家の青年がいた。
それまでのアシュレイ家は、決して貧しい一族ではなかったが、家系図が残るような家ではなかったようだ。
次の代には爵位の残らない、男爵家か騎士の家だったようだが、次男であるその青年が作曲家を目指せるだけの経済的な背景はあったらしい。
かくして青年は作曲家を目指し、あまり多くはない蓄えを持って、音楽の都とされる有名な国で先達に学びながら、日々研鑽を積んでいた。
才能は程々、けれども実直で優しい青年であったので、伸び悩む才能について惜しむ人達がいたようだ。
もっと才能があれば、彼を支援するのに。
そう思う人達の期待も虚しく、彼は一度音楽の道で食べてゆくことに挫折して、祖国に戻ることとなる。
そして、その帰り道で不思議な町に迷い込み、そこにあったという素晴らしい歌劇場で出会った歌姫、カトリーナと恋に落ちた。
帰国の報せから一年しても戻らない息子に気を揉んでいた青年の家族は、一年後に息子が素性も不確かな美しい女性と生まれたばかりの息子を連れ帰ったことに驚いた。
その女性こそがカトリーナで、彼女は、類い稀なる歌声を持っていたのである。
不慣れな異国で、この女性は誰だろうという眉を顰める人達に耐えられなくなったのか、女性の才能を埋もれさせるのは惜しいとなったものか、理由は語られていないが、青年とカトリーナは再び、青年がかつて夢に敗れた音楽の都に戻り、そこで艶やかに才能を開花させた。
人々はカトリーナを持て囃したが、それ以上に驚きを持って受け入れられたのは、かつては凡庸とも言われた青年の作る曲が、人々の魂を震わせるような素晴らしいものになっていたことだ。
たちまちその名が知れ渡り、夫妻は当時の国王夫妻にも晩餐会に招かれ、様々な貴族達から支援を受けた。
人々は夫妻の音楽を絶賛し愛したが、幸せな日々はあまり長く続かなかったようだ。
カトリーナは、夫妻がその国に移り住んでから二年後、忽然と姿を消した。
そのような事件の場合は夫が疑われることも多いのだが、“魔物が迎えに来る”と悲鳴を上げて橋を渡る彼女の姿を見ていた者達が何人もおり、また、その時刻に青年は自身の作曲した曲のお披露目も兼ねた王宮の舞踏会におり、疑いの目が向くことはなかったようだ。
おまけに、音楽家というものは、えてして気まぐれなもの。
そう信じられていたその時代には、心を壊してしまう程に音楽に心を傾ける人達も珍しくなかったので、カトリーナの失踪はさもありなんと人々に受け入れられた。
いつか彼女は、何かよくないものに自分の魂を捧げてしまうだろう。
或いは、人ならざる者達に見初められてしまうだろう。
人々に、そう納得させてしまうくらいに、カトリーナの歌声は素晴らしかったのだ。
伴侶の失踪を知り、街はずれの古びた橋の上でカトリーナの靴が転がっているのを見た青年は、涙を流して呟いた。
「…………妻は、舞台を下りて子育てに専念しようとしていた。カトリーナが、初めて音楽以外のものを選ぼうとし、音楽の神はそれを決して許さなかったのだろう、と」
そうして彼は、子供達にアシュレイ家の呪いを語り継ぎ、自身もその呪いに戒められるように生きた。
“アシュレイ家の人間は、音楽の神に呪われている。
それは多くの才能と美貌をこの血筋に残すだろうが、成人し、あの橋を渡れるようになった者は、音楽に携わりそれに命を捧げ続けない限り、音楽の神に命を奪われるだろう”
彼の自伝にはそう記されていたらしいが、その自伝というものもとうに失われている。
真偽の程は確かではないが、そのように一族に語り継がれ、その二人がアシュレイ家の最初の音楽だと言われているらしい。
「…………お父様も、そこから我が家の呪いは始まったのだと思う?」
そう尋ねてから、サラは子供っぽい自分の言葉にしょんぼりした。
春まで通っていた学院では、良家の子女としての立ち振る舞いにも指導に力を入れていて、姉と叔母を喪ったサラは、少しでもしっかりとした大人になれるよう、その指導を思い出して、喋り方には気を付けてゆこうと思ったばかりだった。
(でも、あまり思うように学校には通えなくて、そうすると、自分とお喋りしている時間が長くなってしまうのだもの…………)
これではいけないと自分を叱りつけたが、ここで大人びた口調に戻すのもわざとらしいだろう。
そう言い訳をし、今日ばかりはお留守番の間頑張ったご褒美として、このままの口調で伸び伸びと過ごすことにした。
幸い父は、そんなサラのしょうもない葛藤には気付いていないようだ。
「さて、それはどうだろう。それ以前の記録が残っていないだけで、その青年……サリフェルドが、音楽家を目指しただけの理由が、元々一族にあったのかもしれない。アシュレイ家が元々は何をしていた一族なのか、そのような資料が残っていないからね」
ふわりと、父の大きな手が頭の上に乗せられた。
アーサーの手とはまるで違う、ごつごつとした分厚い手だ。
よく母が、美麗な容姿に似合わないその無骨な手が大好きだと話していて、サラやオードリーも、父の大きな手は大好きだった。
「……………サラが知らないのであれば、話さなければならなかった話だ。…………この話を聞いて、怖くなかったか?」
「いいえ、このお話を聞けて良かったわ、お父様」
心配そうに尋ねる父にそう微笑み、サラはふるふると首を振る。
「………橋を渡れる年齢って、なんだか不思議な表現ね」
「ふむ。そこについては、オードリーが色々と推理していたな。成人し、音楽を生業にしてゆける立場になることをそう記したのではないかと話していた」
「お姉さまも、叔母様も、このお話を聞いて色々と考えたのかしら…………」
「かもしれない。特に、アイリーンは歌い手としての道に進んだ。カトリーナと同じ道に進むからには、感じるものが多くあったのかもしれない」
また紅茶を一口飲み、父はどこか遠くを見るようにして小さく呟いた。
アーサーもよくこんな目をするが、父の眼差しはその向こう側を見据えるだけで、どこかに行ってしまいそうだとは感じない。
眼差しに込められた羨望にも似た何かが、決定的に違うのだ。
「言い伝えられていることも、起こっているように見えることも、もしかしたら何一つ正しいことはないのかもしれない。サラ、君のお爺様は、この家に生まれてとても幸福だったと言って亡くなったんだ。…………だから私も、悲しい事があっても、そう思って生きてゆこうと思っている」
そう呟き窓の向こうの庭を見る父の眼差しは、ひどく透明で胸が苦しくなった。
サラにはまだ分からないその向こう側には、それでもと愛し続ける音楽というものの無尽蔵さがあるのかもしれない。
(私には、分からない…………)
サラは音楽が好きだ。
家族を結んできたものであるし、サラは歌う事がずっと好きだった。
サラの歌声は叔母だけでなく父や姉も褒めてくれたし、まだ髪の色が白くなる前の幼い頃に、叔母の出る舞台に子供の役として出させて貰ったこともある。
真っ暗な舞台で光を浴びて歌うと、ここではないどこかに行けるようで胸が騒いだ。
でも、サラにとって大切なのはやはり家族で、今は父より大切なものなどこの世界にはないような気がした。
だからきっと、サラは成人したらあっという間にアシュレイ家の呪いに捕まってしまうだろう。
(だから、お父様が怖いものに捕まらないようにする……………)
父は、自分はそう生きるので、サラもそう生きてくれと言える程に言葉巧みではない。
そう生きるから、サラを一人にしないと言える程に、器用でもない。
だからこそサラは、そんな父を守ってあげなくてはならないのだ。
「私は、お父様の指揮の音楽が一番好き。同じ曲でも全く違うものに聞こえるもの」
微笑んでそう言えば、こちらを見た父は嬉しそうだった。
「いつか、サラが歌うその後ろで私が楽団の指揮をしたいものだ」
目を瞠り、サラはその言葉についてたくさん考えた。
諦めていたものと、諦めてはいけないもの。
愛する人を守る為に、自分がしなくてはいけないことを。
眠る前にベッドの上でまたあの緑の手帳を開き、そこに書かれた叔母の様々な試行錯誤を文字で辿ってゆく。
そうしてあの夢の訪れを待ったりもしたが、まだ満ちていない月光では訪れはないようだ。
サラはいつの間にか、自分があの不思議な夢の再訪を信じていることに驚いた。
夜が明けて朝食を取ると、父は仕事に出掛けて行った。
サラの父は、基本的には様々なところで仕事をするのだが、現在所属している楽団も一つあり、帰国してそちらの公演の為の練習に顔を出すのだそうだ。
サラは庭に出て、今日はアーサーは来るかなとガゼボに居座ってみた。
ガゼボの石造りの床には散ったばかりの薔薇の花びらが落ちていて、その儚い美しさが素敵でどかせずにいる。
アーサーは程なくしてやって来ると、君はいつもここにいるねと微笑んでくれた。
また、エマからのお裾分けのミルクシュガーのクッキーを持って来てくれていて、どうやらこれはアーサーの好物でもあるらしい。
サラはまず、少しだけお喋りをしてから、叔母の手帳をアーサーに見せてみた。
アーサーは、それを丁寧に読んでいたようだ。
その間サラはダーシャと遊んでいて、拳にした手の指をぴっと伸ばし、どの指を伸ばすかをダーシャが追いかけるという遊びをする。
大興奮でじたばた暴れて指を追いかけるダーシャは、少しするとすぐにぜいぜいしてしまう。
ダーシャを休ませて顔を上げると、アーサーは手帳を読み終えたのか、君達はすっかり仲良しだねと愉快そうに言ってくれる。
どうやら、とっくに読み終わってサラ達のことを眺めていたようだ。
「ダーシャがいると、胸の中がほわほわするわ。やっぱりダーシャは凄いのね………」
「ブニャ!」
「もしかして、…………サラは、少し落ち込んでいるのかな。お父上も帰ってきたばかりなのに、この手帳が原因かい?」
そう言われてぎくりとする。
アーサーに、その落胆に気付かれるとは思っていなかったのだ。
サラはくすんと鼻を鳴らし、こちらを見ているアーサーに、おずおずと自分の悩みを打ち明ける事にした。
「お父様を一人ぼっちにしたくないの。…………でも私に、音楽の神様が認めてくれるような、音楽への愛はあるかしら」
そう告げたサラに、隣に座ったアーサーが柔らかく苦笑した。
クッキーを一枚手に取ると、サラの口にすぼっと押し付けて来たので、サラは目を丸くしてそのクッキーを受け取ると、甘く優しい味を噛み締める。
「迷いながらでも、いいと思うよ」
「…………お爺様のように、お父様のように、音楽を愛さなくても…………?」
「多分、そういう仕事の場に身を置けば、必ずしも毎回、自分の演奏や作品にいい感情ばかりを得られるという訳でもないだろう。時には失敗して落ち込んだりもしながら、それでも自分の道を歩いてゆくということでいいんじゃないかな」
「………………それなら、大丈夫かもしれないわ。…………アーサーが読んで、気になるところはあった?」
そう尋ねる時、サラは少しだけ緊張した。
この手帳は、叔母の遺品として手に取っていたが、開いて不思議な表記を発見したのは一昨日だということにしてあった。
漸く父が帰国し、アシュレイ家はひと段落したところだ。
また家を空けて国外に出るような仕事は、二ヶ月はないという。
(お父様が毎日家に帰って来てくれるなら、もし怖いことがあっても大丈夫………)
その手帳を誰かと共有することで、何かが起こるのではないかという、子供染みた不安のようなものがあった。
そんなもしもの時に父が不在にしていたら、サラは、毎晩かかってきていた父からの電話の際に冷静に振る舞えないかもしれない。
おまけに更に万が一呪いのようなものが動いてサラに何かがあったりした場合、父が帰国せざるを得なくなってしまう。
だからと寝かせておいた手帳だが、アーサーはどう思いその中に記されたことを読んだものか。
(私にもまだ分からないことが沢山あって、アーサーならそれを読み解いてくれるかしら………?)
今なら、昨日のように分からないことがあれば、父の話を聞くことも出来る。
安心して、魔法使いのような不思議なお隣さんに秘密を明かせる時が来たのだ。
期待に満ちた眼差しでアーサーを見ていると、微かに淡く微笑む気配におやっと目を瞠った。
「…………君の叔母さんは、呪いに立ち向かった人だったのだね」
「ええ。私は何も知らなかったし、家ではそのような素振りは見せていなかったと思う。………でも、もしかすると姉は知っていて、私に怖い思いをさせないようにしてくれていたのかもしれないわ……………」
「或いはそれは、何か明確な懸念があったのかもしれない。…………ほら、ここを見てご覧」
そう言ってアーサーが指し示したのは、幾つかの地名が並んだページであった。
恐らくは地名だと思われるものがぎっしり並んでおり、その一つ一つが斜線で消されている。
サラも調べてみたが、大きな都市の名前ではないようで、どこの国のものなのかも分からなかったものだ。
「これは、君のご先祖様が暮らしていた国の、郊外にある小さな町や村の地名だ。この様子だと一つ一つ、何かを確かめて消していっているようだから、君の叔母上は実際にここを訪れていたのかもしれないね」
「……………始まりの町と書かれているから、カトリーナと出会った町を探していたのかもしれないと考えているの。幾つか線で消されていないところがあるけれど、訪ねてゆくには随分遠いところばかりだわ…………」
未成年のサラに、異国での調査は厳しい。
いきなり躓いてしまい、かくりと項垂れる。
「でもこれで、君の叔母さんは少なくとも、現実にある土地を何らかの目的で調べていたということが分かった訳だ。呪いという曖昧なものを探るには、随分と明確な目的があるように思えるよ」
「…………もしかして叔母様は、アシュレイ家の呪いを解こうとしていたのかしら」
「かもしれないね。こうして、始まりの町に辿り着けば呪いを解けるかもしれないと思ったのだとしたら、この手帳は君にとってのとても大切な手がかりになるかもしれない」
そう呟き、また次のページを捲るアーサーの目には、不思議な煌めきがある。
それは、興味や興奮のようなものではなく、どこか諦観にも似た、奇妙に沈んだ光に思えた。
「…………アーサーは、もしかして少しだけがっかりしてる?」
「うーん、そう言われると悩ましいな。僕がまるで人でなしのようだ」
「でも、…………やっぱり、少しだけがっかりしているわ。…………さっきまで、わくわくしていたのに」
重ねてそう言えば、君の中での僕の評価はどうなっているのかなと恨めしく呟いたが、困ったように伏せ目がちに微笑んだアーサーは、膝の上で眠っているダーシャをそっと撫でる。
「…………そうだね。ここに書かれている記録はどれも、とても現実的で、呪いを紐解くというよりは、一族のルーツを探る為のものにも思える。そこから糸口を探れるのであれば、これは君にとっては大切な手がかりではあるけれど、……………例えば、呪いの解き方のような魔法めいたものではなくて、君達の一族の背景を辿る為の地図に近い。…………そしてそれも、とても人間的だ」
「…………つまりアーサーは、人間的ではなくて、もう少し魔法があった方が良かったのね?」
「そう言われると、何だかいっそうに僕が酷い人間のようだから困ってしまうな。でもね、…………確かに君が言うように、そう考えてもいた。例えばそこに記されたのが、呪いが解ける泉の場所や、奇跡を賜われる森の木だったりしたら、僕は嬉しかったのかもしれないね…………」
(それは、…………アーサーのお家も呪われているからなのかも…………)
彼は、もしかしたら、そうやって自分の家族も呪いに打ち勝てるような印を、この手帳に求めたのかもしれなかった。
サラは、なぜ自分がこの手帳を見せたらアーサーが喜んでくれると感じたのか、すっかり分からなくなってしまい、そっと返された手帳の表面を撫でてふすんと項垂れる。
(……………アーサーに、アシュレイ家の呪いを一緒に解いて欲しかったのではないのだけれど、…………)
上手く表現出来ないけれど、ここで、サラがアシュレイ家の呪いについて新しい秘密を紐解けば、アーサーは目を離した隙にどこかに行ってしまいそうな遠い目をしないで、同じように呪いを背負う仲間として、ずっと側にいてくれるような気がしたのだ。
でもこれでは、出口の見えない呪いに向き合う人に、こちらには光明が見えたと自慢するようなものに思われてしまったかもしれない。
サラは、アーサーの気持ちを引っ張り上げられるような魔法を自分の中に探したが、あるのは目の前の緑の手帳ばかりだった。
(ううん、あの夜……………)
「そういうものは、難しいのかもしれないわ。魔法は、魔法を使える人なら何でも出来るという訳ではなくて、最初に交わされた約束の決まりに則ったことをしないと、きちんと運ばないみたいだから…………」
何か、サラには分からない探し物がみつからずに失望しているアーサーを慰めたくて、サラは、ついついそんな事を言ってしまった。
それは夢で聞いた話ではないかとはっとした時には、アーサーがじっとこちらを見ている。
「…………そういうものなのかい?」
「…………………ええと、誰かにそう聞いたことがあるのだけれど、誰に言われたのかしら?…………も、もしかしたら、本で読んだのかもしれないわ」
「……………サラ、僕に何か隠していないかい?」
「か、隠していません!」
「…………ならいいけれど。君は白持ちだから、自分でも知らない間に、そんな叡智の何かを得ているのかもしれないね」
「………………アーサー?」
その不思議な言葉に首を傾げたサラに、アーサーは、ふっと瞳を揺らした。
こちらを見て小さく微笑み、ひどく頼りなげな眼差しを向ける。
「…………おかしな言葉だよね。僕にもなぜ、自分がそう思い、そう考えるのかが分からないんだ」
「どこで知ったことなのかを、忘れてしまったの?」
「…………と言うより、どこでそんなことを知ったのか、まるで心当たりがない」
大真面目にそう言ったアーサーの瞳を覗き込み、サラははっと息を飲む。
「どんな本にそう書いてあったのか、それを探しているのね?もしかしたらそれが、アーサーのお家の呪いを解く手掛かりになる?」
こちらを見ていたアーサーの瞳が困ったような微笑みに変わり、サラは自分がとても大切なところで、返答を誤ったのだと理解した。
アーサーは別に怒ってはいなかったし、サラに失望してしまった訳でもない。
けれども何か、開いて見せてくれようとした扉がぱたんと閉じてしまい、アーサーはもう二度とその扉を開けてはくれないような気がして、胸が苦しくなる。
「……………うん。そうかもしれないね、だから僕は、その本を探しているんだろう」
けれども、アーサーが何でもなかったかのようにそう言うので、サラは涙を堪えて、ではその本を探さなければいけないと宣言しておいた。
「ブニャゴ」
「…………おっと、ジョーンズワース家の浮気者は、またサラの家に泊まるつもりか?」
「ブニャ」
「……………ダーシャ、…………もしかして、またお夕食がパイなの?」
「ブ…………ブニャ?」
「サラは賢いな。まさしく、今夜の夕食はパイだ。あのパイの呪いを止める為にも、僕は魔法の本を探さないといけないらしい」
そう微笑んだアーサーが立ち上がり、サラは何となく立ち上がれないまま、目の前にある魔法使いのような綺麗な手をじっと見ている。
この手を掴んで、遠くに行ってはいけませんと言えたら、どれだけいいだろう。
(なぜ、こんな風に思うのかしら。…………お父様も時々とても遠くを見ているけれど、いなくなってしまいそうだなんて思わない。…………だけど、アーサーは、…………きっといつか遠くへ行ってしまう……………)
それはなぜか、アーサーが新しい大学に入ってサラのお隣さんではなくなるということとはまた違う、とても怖いことのような気がした。
とても無残で悲しいことが、彼の眼差しの向こうに見えたような気がしたのだ。
(それに…………)
ここにはもう何もないと、彼が失望し、いなくなってしまったら、サラは、また一人でこの庭で過ごすのだろうか。
出会ったあの時は正しく飲み込めていなかったけれど、きっとあの日のサラは、アーサーに出会わなければ、悲しみに崩れ落ちて呪いに負けていたと思う。
呪いは何と失礼な奴だろうとアーサーが言ってくれて初めて、よく分からないべたべたとした怖いものから、サラの中の呪いというものに形が生まれた。
そうして形が生まれて初めて、サラはそれを覗き込んで、呪いと共に生きて行くアシュレイ家の子供としての覚悟が決まったのだと思う。
「アーサー」
嫌がるダーシャを小脇に抱えて、アシュレイ家に泊めて貰うにしても、夕食を食べてからだと無情に言い含めているアーサーの名前を読んだ。
こちらを振り返ったアーサーを、サラはひたと見つめる。
くしゃりとした黒髪に、吸い込まれそうな、湖のような灰色の瞳。
ふとした時になぜか、アーサーはここではないどこかから迷い込んだ、寄る辺ない旅人のように見えた。
「………私はきっと、アシュレイ家の呪いの正体を突き止めてみせるわ。いつか私が、始まりの町を見付けたら、アーサーも一緒に来てくれる?」
その瞳を覗き込み、思わずそんなことを言っていた。
言いながら、どうしてそんなことを言ってしまったのだと大混乱に陥ったが、こちらを見ていたアーサーが瞳を瞠り、途方に暮れたような無防備な顔をしたのでこれで良かったのだと思う。
「…………始まりの町とやらには、僕の探している本もあるかな…………」
「よく分からないけれど、呪いを追いかけてゆくのだから、きっと不思議なものはたくさん出てくる筈だと思うの。分からないものがあったら、アーサーに相談してもいい?」
はらはらと、盛りを過ぎた薔薇の花が風に散る。
「……………そうだね。その時に、僕があの本の内容を、少しでも覚えていられれば、きっと」
その中に立ち、こちらを見たアーサーは確かにそう微笑んでくれたと思う。
けれどもやはり、サラの不安は消えないままであった。