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家族の帰宅と最初の音楽




サラが不思議な夢を見てから二日経つと、父が家に帰ってきた。




その日は、朝からヴェールのような霧雨が降っていて、庭の木々や薔薇をしっとりと濡らしている。

さぁさぁと音を立てて降る雨は、時折風に流され、ゆらゆらとカーテンのように揺れた。


アーサーと出会った日に咲いていた白い薔薇は既に盛りを過ぎ、ちらほらと幾つかの花が残るくらいだ。

その代わり、今はまた違う品種の白薔薇が咲いている。



あと半月もすれば、この庭もだいぶ寂しくなるだろう。



最も多くの薔薇が咲き誇る季節が終わり、小さな茂みで咲く秋薔薇の季節がやって来る。

こうして今日のような霧雨の日が続き、やがてここにも霧深い秋が訪れるのだ。



大好きなオードリーとアイリーン叔母のいない、最初の秋がやって来る。





玄関ホールに出迎えたサラを見て、父はまず青い瞳をふっと和ませた。

サラは家族の中でも身長が低い方だったが、父は飛び抜けて背が高い。

ぐぐっと背筋を伸ばして、そんな父を見上げる。



「お帰りなさい、お父様。お仕事お疲れ様でした」



ずしりとした革のトランクを持って帰宅した父にそう言うと、端正だからこそ気難しく思われがちな表情を緩めて、ほっとしたような柔らかな微笑みを浮かべてくれる。



「ただいま、サラ。長い留守番をさせてしまってすまなかった」

「お父様はお仕事ですもの。新聞を見ました。公演は大成功だったのですよね!」



全てではなかったが、いくつかの公演は新聞で少しだけ取り上げられていたのだ。

微笑んでそう言えば、父はどさりと大きなトランクを床に下ろし、サラをふわりと抱き上げてくれる。



「…………むぐ」



この歳で抱き上げられてしまうと気恥ずかしいのだが、家族が二人きりになってしまうと、父は、こうしてサラをよく抱き上げるようになった。




白髪混じりの金髪に、深いブルーグリーンの瞳。

決して分かりやすい表情を浮かべる父ではないが、サラの大好きな家族である。




(お爺様がライオンなら、お父様は豹だわ…………)



父は今でも素敵だが、若い頃は、優美でどこか仄暗い美貌が、多くの女性達の心を奪ったのだそうだ。


それこそ、アシュレイ家の呪いなど気にしないと名乗りを上げる女性達も多く、母も、最初は女性関係の派手な男性だと思って倦厭していたと話していたくらいだ。




『お父様に憧れていた女性達はとても多かったし、お父様は花に例えるなら、赤い薔薇のように見えたわ。それなのに、中身が優しい香りのするラベンダーのような人だとは思わないじゃない?』



あれはまだ、サラの大事な家族が揃っていて、ただ幸せだった頃。

いつだったか、暖炉の前で母達がそんな話をしていた。



それはきっと、サラにはまだ分かるまいと思って話していた会話なのだろう。

しかし、幼いなりにもサラは、その時の会話の内容をしっかりと記憶している。

幼い女の子の理解力を侮るなかれ。

素敵な恋の話とくれば、寝物語のおとぎ話にだって出て来るものではないか。


そんな話を、こっそりわくわくと聞いていたあの日のことは、今でも鮮明に覚えている。



確かに、今も残る微かな口元の歪みはどこか退廃的な艶やかさにも思え、その姿を見ただけで、父生来の職人のような気質を想像させるのは難しいだろう。

姉の婚約者だった男性が好んでいた社交界の夜会を思い描けば、若い頃の父は、そのような場がさぞかし似合ったに違いない。



けれども、そんな美貌を持つ父はとても不器用な人で、音楽家達が多く集まった祭典の後のパーティで、母に、美しい演奏に心を奪われたという内容の手紙をもそもそと渡してきたのだそうだ。



最初はこれが放蕩者の手練手管かもしれないととても警戒した母も、何度か機会をもって話をする内に、この男性は、薔薇の容姿を持つ素朴なラベンダーだと分かり、そんな父に恋をした。




あまり多くを語る人ではないし、歳を重ね多くの責任を負う立場になった今でもなお、器用な人でもないことを、娘のサラはよく知っている。


解釈の難しい譜面を手に丸一日部屋から出てこないこともあったくらいの、音楽漬けの生活を送ってきた父は、アシュレイの呪いで大切な人達を奪われてからは、更に口数が減ったとも思う。



けれどもこの自慢の父は、胸の中にたくさんの愛情を持っている、とても優しい人なのだ。



だから、そんな父がサラを抱き上げたいのなら、サラは気恥ずかしくても我慢する。

サラは、小さな頃から父親っ子だった。



「呪いが足枷にならなければ、サラを連れて公演に出たのだが…………」

「お父様、…………もしかして、まだ落ち込んでいらっしゃるの?」

「寂しかっただろう…………」



アシュレイ家の呪いがその性格に影を落としたということもなく、サラの父は元々、あまり人付き合いを好まず音楽に人生を捧げるようにして生きて来た人だ。

あまりにも淡々と話すせいで、初対面の人からは冷淡に思われることが多い。

今も、淡々と話しているような表情と声音なのだけれど、これでも父は分かりやすく落ち込んでいたりする。



だからサラは、にっこりと微笑んだ。



「ジョーンズワース夫人が、何回もお茶に誘ってくれたし、アーサーは裏の小川に釣りに連れて行ってくれたの。おまけに、三日もダーシャを私の騎士にって貸してくれたのよ」

「ジョーンズワース家には、後で挨拶に行って来る。貝も貰ったのだったな」

「ムール貝をたくさん。とっても美味しかったから、お父様にも食べて欲しかったけれど

今日までは保たなかったみたい…………」

「ベサニーとノンナとは、仲良く出来たか?」

「お父様が選んでくれたベサニーもノンナも、とっても素敵な人達よ。ノンナはお家をぴかぴかにしてくれたし、ベサニーは毎日美味しいご飯を作ってくれたの」

「…………そうか。であれば、あの二人にして良かった」



そう唇の端で淡く微笑んでサラをふわりと床に下ろし、父はもう一度トランクを持ち上げる。



小さくこちらに頷きかけ、きりっと前を向いて階段を登ってゆくので自分の部屋に向かったようだ。




(…………帰宅したばかりだから、荷解きをしてお風呂にでも入るのかしら?)



多くの言葉を自分の胸の内側で留めてしまう父に寄り添う為に、家族には、昔からこの父の行動を予測する習慣があった。


今の頷き方は、サラが健やかに過ごしていたことを知り満足したので、次の興味が荷解きに移ったことを示している。


そうなるともう、荷解きを終えるまではその作業に一心不乱になるのが父で、この性格だからこそ父は、サラを置いて海外公演に向かわなければならなかったのだ。





「お父様にご挨拶は出来ましたか?」



廊下で父を見送り居間に入ると、お茶の支度をしてくれていたノンナにそう尋ねられた。


いつもにこにこしているノンナは、エマの穏やかな陽だまりの微笑みとは少し雰囲気が違うが、やはり明るい太陽の匂いがする。



(ノンナは、からりとした南洋の太陽みたい。カンツォーネとオペレッタの国の人らしい、きらきらしたお日様の匂いだわ…………)




「お父様にちゃんと、お疲れ様でしたって言えたわ。ノンナ、新聞の記事を教えてくれて有難う」

「ふふ、お嬢様はサリノア様が大好きですものね」




そう微笑んで頷いてくれたノンナに、サラはこてんと首を傾げた。



「そう言えば、ノンナは、お父様の昔のことを知っているのよね?」

「ええ、私がお勤めしていた時にも、何回かお会いしたことはございます。あの頃の旦那様は、とてもお素敵でしたよ。こう、物憂げな眼差しが美しくていらっしゃって。けれども、その話を主人に話したら、仕事先のご子息に見惚れていてどうするのだと叱られてしまいましたけれどね」

「叔母様もお綺麗だった?」

「アイリーン様は、ずっとお綺麗でしたけれど、お若い頃はそれはもう輝くようでした。私達にもとても優しくして下さって、おまけに、二ヶ月のお手伝いの期間が終わった時には、みんなに素敵な刺繍のハンカチと、美味しいお菓子の詰め合わせを贈って下さったんです。みんな、アイリーン様が大好きで、またあのお屋敷で働きたいと話していましたからねぇ」



そう教えてくれたノンナは、かつて、アシュレイ家に二ヶ月間だけ手伝いに来ていたことがある。


それは、サラにとっての祖母が亡くなったばかりの頃のことで、葬儀後の片付けの手伝いから、その二ヶ月後に控えていたアイリーン叔母の結婚式の延期の手伝いなども含め、五人の家政婦がこの家に手伝いに来てくれていたらしい。



お茶の支度を終えて、また後で旦那様が来たら暖かいお茶を持って来ますねと下がったノンナがいなくなると、サラは、そんな叔母のことを考えた。




(お爺様がいたから、お父様は息子という立場だったけれど、成人していた叔母様は、女主人としてもこのお屋敷を守らなければならなかった……………)




母親が亡くなり、この屋敷の女主人として振舞わなければならなかった叔母は、どれだけの寂しさや不安を抱えていただろう。


さすがにお葬式と結婚式が近過ぎるとその年の秋に延期されたものの、控えた自身の結婚式はきっと、叔母にとっての心の支えでもあった筈だ。



(でも、叔母様の婚約者の方は、結局、結婚式には来なかった…………)




謝りにすら来なかった、不実な人だと思う。

けれども、普通の人は、そのようにして目に見えない呪いを恐れてしまうのだろうかと、深く考えさせられる一件でもある。



これからはサラが、その呪いを引き継いで大人になってゆくのだ。




(お姉様の婚約者も、葬儀にすら来て下さらなかった…………)



あの男性のことを考えると、サラはむぐぐっと眉を寄せてしまう。



サラは、最初からオードリーの婚約者が気に食わなかったが、姉は彼をとても愛していた。


あの男性の場合は、アシュレイ家の呪いを恐れたというよりも、姉の死にまつわる面倒ごとに背を向けたという感じに違いない。


そう考えていっそうに眉を寄せていると、ふっと視界が翳った。




「サラ?」




はっとして顔を上げると、思ったより早く父が居間に下りて来たようだ。

渋面の娘に気付いて、心配してくれたのだろう。

ここで、姉の不実な婚約者について考えていたと正直に伝えたら、父は落ち込むかもしれない。



そう考えたサラは、誤魔化すことにした。




(どうせなら、…………ここでお父様に聞いてみようかしら……………)



ふと脳裏を過ぎったのは、叔母の遺した緑の手帳だった。



いつの間にかサラの目の前のお茶は冷めており、父は、荷解きをして着替え終わるとすぐに、サラとのお茶の為にこちらに来てくれたようだ。


心配そうにこちらを見る父に、サラは意識して何でもない表情を取り繕う。




「お父様、アシュレイ家にカテリーナさんという方がいたかどうか知ってますか?」

「……………カトリーナ、…………アルヘイドの歌姫のことだろうか」




(…………お父様は、その名前を知っているのだわ…………)




思いがけず、その名前は、すんなりとその輪郭を現した。


叔母の手帳を読み、これはきっと、先祖の誰かの名前ではないだろうかと考えたサラだったが、誰の記憶や記録に残っていない人の可能性もあったのだ。




「…………その名前の方が、いらっしゃるんですね?」

「私はあまり家系図を調べたりはしなかったんだが、アイリーンから、何度かその女性の話を聞いたことがあったんだ。アイリーンは、サラともその話をしたのか?」



その問いかけに、サラは少しだけ考えた。

素直に、叔母の手帳が出て来て不思議な書き付けがあったのだと告白すれば、父もそれを見たがるだろうし、書かれた内容を気にするだろう。



(そしてもし、そのことがお父様の音楽への思いを損なってしまったら…………?)




そう考えると、背筋が冷えた。

まだ成人しておらず、アシュレイ家の呪いに脅かされないサラとは違い、父は、日々その呪いに見張られているような状態なのだ。



であればやはり、あの手帳に記された謎を紐解くのは、呪いに手をかけられる前の子供である、サラの役目なのかもしれない。

満月に見た不思議な夢の後からずっと、サラはそんなことを考えていた。



あれはただの夢なのだと思うけれど、どこかでサラが、この呪いについて知らなければいけないと思っているその決意が、ああして夢の形を取って現れたような気がするのだ。




「さっき、ノンナから、若い頃の叔母様がとても素敵な方だったという話を聞かせて貰っていたの。その話を聞いていたら、叔母様が…………その方の名前を出していたのを思い出して、お父様ならご存知かなと思って」




そう答えたサラに、父は少しだけほっとしたようだった。



「その女性は、随分昔の先祖だよ。アシュレイ家では有名なひとだ。サラには、アルヘイドの歌姫の話をしたことはなかったかな?」

「ないです!お父様、お話して下さい」

「……………ああ」



ついつい子供っぽく袖を掴んでしまい、はっとしたサラは目元を染めたが、そんな風に掴まれてしまった父は嬉しかったようだ。


お茶を注ぎに来たノンナも、ご機嫌でサラの隣に座った父を見て、あらあらと微笑んでいる。




「アルヘイドの歌姫は、アシュレイ家に名前が残る、アシュレイ最初の音楽家の一人だと言われている。当時のアシュレイ家の当主、………と言っても、まだ名前も知られていない貧しい作曲家だったそうだが、……彼とそのカトリーナが夫婦になり、音楽家としてのアシュレイ家の名前が世に出たそうだ」




ノンナが父にも紅茶を淹れてくれて、ほこほことした湯気が立った。

サラも紅茶のカップを手に持ち、小さな子供の頃のように父に寄り添って、遠い昔の最初の音楽の話を聞かせて貰う。




それはとても不思議な、そして音楽と愛の悲しいお話だった。





“カテリーナをもう一度あの死神に捧げれば、私達は呪いから自由になれるかもしれない”




叔母の手帳の最後のページは、そんな表記で終わっている。








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