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優しい部屋と真夜中の囁き




夕暮れになってくると、森の方からの涼しい風が薔薇を揺らした。



この時間の庭はそれはそれは美しいのだが、アーサーに見せられなかった手帳をポケットにしまったサラは、貰ったクッキーが悪くなってしまわないように、そろそろ家の中に入ることにした。



夏のこの時間は、まだ灯りをつけるにはどうだろうという悩ましい時間である。


薄暗い屋敷の中には、庭から摘んでくる薔薇の香りがして、そこに微かな磨き粉のミントの香りがするので、誰かがなかなかに真剣な掃除をしてくれたらしい。


現在、屋敷には、父が新しく雇った家政婦が二人いる。


二人としたのは、一人だとその家政婦が呪いを恐れてしまうかもしれないからだと聞いているが、父は、サラが見知らぬ人と二人きりにならないようにもしてくれたのだろう。


どちらも紹介所からしっかりとした人が派遣されてきており、気持ちの良く優しいご婦人達だ。




「サラお嬢様、お夕食は時間通りで大丈夫ですか?」



そう尋ねてくれたのは、この国よりも明るい青い海とオリーブ畑のある国の出身のノンナで、からからと笑う陽気な人だ。

アシュレイの呪いのことを知ってはいるが、そもそも自分はアシュレイ家の人間ではないから気にならないとけろりとしているので、サラも気負わずに接することが出来る。



「はい。時間通りでお願いします」

「お嬢様、そのクッキーはお部屋にお持ちしますか?それとも、お台所にしまっておきます?」



そう尋ねてくれたのは、簡単な食事の支度も引き受けてくれているベサニーで、ノンナよりは若く、おっとりとした優しい微笑みが春を思わせる。


ベサニーはアシュレイの呪いは少し怖いようだが、明るく力強いノンナとは対照的に繊細で信心深く、屋敷に一人でいるサラを何かと気遣ってくれる優しい人だ。



「夜にも食べるかもしれないから、お部屋に持って行くわ」

「ジョーンズワース家の方々は、サラお嬢さんが可愛くて仕方ないのですねぇ」



そう笑ったノンナに、サラは目を瞠る。

何かと気にかけてくれているので頼もしく嬉しく感じていたが、他の人の目にそう映るのであれば、それは何だか素敵なことのような気がした。



ノンナもベサニーも、サラの母親というには年上の女性で、ふっくらとした体型や優しい微笑みを見ていると、サラは、父がエマのような人を探したのではと考えてしまう。



(お母様がいた頃までは、昔から通ってきてくれていた馴染みの家政婦さんがいたのだけど、亡くなったお母様を見付けてしまったことで、すっかり参ってしまったから…………)



ノンナやベサニーが、これからの日々を経て、ジョーンズワース家のエマのように、この家を愛してくれるといいのだが。


もう、二人きりの家族なのだと思えば、サラは、言いようがない不安に胸の奥がきりりと痛んだ。




「ブニャゴ」

「あらあら、ダーシャは今日もお泊りなのね。後で、鰊の燻製を塩抜きして焼いてあげましょうね」

「ブニャ!」

「まったく、ベサニーはダーシャに夢中ねぇ。でもまぁ、すっかりサラお嬢様の騎士役が板について」

「ブニャゴ」



その鳴き声に呆然と足元を見る。




「…………ダーシャ、ついて来てくれたの?」

「ブニャ!」



いつの間にか後ろについてきてしまったらしく、帰ったと思っていたのに足元にいたダーシャに、サラは驚いた。



(でも、…………よくないわよね………?)




ダーシャは、キャットフードを嫌う不思議な猫だ。



焼き魚は好きなようだが、食事は一般的に人間が好むようなものが気に入っており、かりかりした固形のキャットフードが出されると荒れ狂うのだとか。


とても食の好みが難しいそうで、ジョーンズワース家では、市販のものではない特別なご飯を作って貰っている。


なので、こうして側にいてくれるのはとても嬉しいのだが、今日もこの家に泊まってしまうとなると、ジョーンズワース家の人達が寂しいだけでなく、向こうで準備している食事が無駄になってしまう。



サラは、何とかダーシャを抱き上げてお隣に連れ帰ろうとしたが、ダーシャは潰れたモップのように床に突っ伏してしまい、持ち上げることすら出来なかった。




「……………困ったわ」

「ブニャゴ」

「ダーシャ、ジョーンズワースのお家の皆さんが、あなたを探しているのかもしれないのよ?」

「……………ブニャ」




ダーシャがとても頑なな様子なので、困り果てたサラがお隣に電話をかけて事情を話すと、エマに頼まれた仕事を終えたところだったというアーサーが出てくれて、後でダーシャ用の食事をそちらに持って行くから、今夜はダーシャを預かってくれるかなと言う。




チンと音を立てて電話を切った時、サラは持ち上がってしまった口角を指先で撫で付けてやらなければならなかった。


足元にいるけばけばを、サラだって、まだ撫でていたかったのだから。



「……………ダーシャが必要だと思っているのなら、今日はダーシャと過ごした方がいいよ、ですって…………」

「ブニャゴ」



その通りだと言わんばかりにダーシャが短く鳴き、重たいお尻をどしんと床に落とした。

体が大きいので座ると後ろ足が普通の猫のように折りたためず、何だか愛嬌たっぷりに開いてしまっている。




「…………今夜も、一緒に寝てくれるの?」

「ブニャ」



厨房の方で夕食の準備をする音をどこか懐かしく聞きながら、サラは、一人ぼっちの晩餐や就寝ではなくなったことに、密かにほっとしていた。



アシュレイ家の食卓のテーブルは広い。

かつてはそこに、母親や姉、叔母が一緒に料理を囲み、女達でわいわいやっては父を苦笑させたものだ。



あの広いテーブルが、今では父と囲むか、一人きりで座るようになってしまっている。



ノンナやベサニーにも同じテーブルで食べて欲しいのだが、雇用主の子供と距離を狭め過ぎることは様々なトラブルに繋がるので派遣元で禁じているらしく、一緒に食事を摂ることは出来ないのだ。


この二人のような人を、ジョーンズワース家で直接雇用しているエマのように、アシュレイ家でも雇えればいいのだが、きちんとしたところからの派遣であるが故に保障される安心もあるので、難しいのかもしれない。



(それに、うちも決して特別なお金持ちという訳ではないし……………)



決して貧しくはないのだが、音楽を生業にすることと、音楽を学んでゆくことには何かとお金がかかる。


父の収入はそれなりだろうが、この家や庭の維持費や、学校に通えていないサラの家庭教師代など、今は無理なく支払えてはいるものの、それ以上に無理をしてもいい家計ではない。



それでもこの家を守るのは、サラと父に残された家族の思い出の全てが、今もこの屋敷に詰まっているからだ。



カタカタと窓硝子が風に音を立てる。

隙間風が入る程ではないが、新しい家ではないので風が強くなるとこうして小さな音を立てた。


冬はしっかりと雪が降るので窓硝子は二重になっているところもあるが、こちら側の窓は造りが凝っているので一枚硝子だ。

冬の夜には内側に作りつけの木戸を締め、その上から、ぶ厚いカーテンを二重にかける。


その木戸には鈴蘭の細工があり、これは、古い木戸を取り替える際に、母が気に入って注文したものだと聞いている。

しかし、それでももう、二十年以上も前のことなのだ。



窓の外には、はっとするような青さを滲ませた銀白にけぶる夏の夜が広がっていた。

明日の天気予報が雨だからか、空の向こうの森の方はずしりと黒い雲に覆われ始めていて、ざわざわと揺れる木に、薔薇の花が散ってしまわないかとはらはらする。




「風が強くなってきたみたいね」

「ブニャ……………」



そう呟いたサラに、窓を覗けないダーシャが不満の声を上げた。

飛び上がっているつもりで弾んでいるが、足が短くて体が重いので、じたばたしているようにしか見えない。


小さく微笑んで抱き上げると、そのままふぅふぅしながらダーシャを抱え、大好きな祖父の工房のある一階の離れに向かった。



屋敷の左翼側をバイオリン職人だった祖父の為に改築した離れは、工房として使った作業の為の道具が片付けられてしまった今も、不思議な温かさのある部屋だ。


母屋の廊下にバイオリンの絵を彫りつけた硝子戸の扉を設け、庭に突き出したような形の部屋に入れるようになっている。


この屋敷の建造当時は、庭にそのまま出られる、談話室兼書斎として作られたようだが、祖父が改築して今の形となったらしい。



郊外の森の方に工房を持っていた祖父を、共に暮らそうとこちらに呼んだのはサラの父だ。



ここで、生まれたばかりのサラも合わせてみんなで暮らしていた時は、さぞかし賑やかな屋敷だっただろう。




(今はもう、こんなに静かになってしまった…………)




でも、人がいなくなっても家の思い出は残り続ける。



だからサラは、この屋敷に一人になってからはいつも、寝る時を除いてはこの部屋で過ごしていた。



祖父の部屋は、墨色の床石に立派な青色の絨毯を敷き、一枚板の大きなテーブルがある。

祖父の描いた雪景色とソリの絵が飾られていて、陶器の小さな花籠の置物や、バイオリン造りの為の資料やメモが収められたままの大きな紙ばさみが入る特注の作業用の抽斗。


大きな書架には専門書がぎっしり詰め込まれているが、ページを開くと少しかび臭いのであまり開くことはない。


部屋で一際目立つところには、硝子ケースに収められた祖父の遺作のバイオリンがあった。

作りかけだがそれがいいということで、父や叔母の深い愛情をもって、丁寧に飾られている。

窓辺には庭の花を生けた花瓶が三つもあり、その水を取り換えるのはサラだった。



「……………むぐ」



祖父がお気に入りだったという、濃紺に灰色の模様が美しい天鵞絨貼りのソファに腰かけ、サラは一人の時にしか出さない気の抜けた声を出す。


足下ではダーシャが自分も乗せるようにと催促しており、それを見越して持ってきた濡れタオルで足を拭いてやってから、重たい体をソファの上に引っ張り上げた。



(…………温かい。生きていて、ぬくぬくしていて、けばけばだわ…………)



そんなことが何だか嬉しくて、サラは大事なお隣の年寄り猫を優しく撫でた。

気持ち良かったのかゴロゴロと喉を鳴らすダーシャは、時折人間のような奥深い瞳でこちらを見上げて、サラの心を優しく包み込んでくれる大事な友達だ。



この部屋に来たのは、安心出来る祖父の工房の部屋で、叔母の手帳をじっくり読み込む為だったのだが、サラはその温もりに蕩かされてしまい、ベサニーが呼びに来てくれるまで、ダーシャにくっついて居眠りをしてしまっていた。





「お嬢様、お隣のアーサー様がいらっしゃっていますよ」

「…………っ?!」



何度目かの呼びかけで飛び起きると、ダーシャの晩餐を持って来てくれたアーサーが扉の前でひっそりと微笑んでいた。


両手にダーシャの餌のお皿を持っていたので、ベサニーは彼を中に通していたらしい。

勿論、アーサーに家の中に入って貰うのは構わないのだが、すっかり眠りこけているところを見られてしまった。



「…………また変なところを見られたわ」

「ダーシャがいると、君は心を緩められるんだね。さすが我が家のダーシャだ」

「ブニャ」

「ダーシャはあったかくて、もこもこしてるから……………」



ベサニーがダーシャのお皿を預かってくれ、アーサーがこちらにやってくる。

ふわりと頭を撫でられ、サラは情けない思いでアーサーを見上げた。


彼の抱える微かな危うさを知り、このジョーンズワースの魔術師ともっと対等に色々なお喋りをしたいと考えたばかりなのに、知識で敵わないだけでなく、いつも子供っぽいところばかり見られてしまう。



「さて、君の家の美味しい夕食の邪魔をしないように、これを渡したら失礼しよう。……………有難う、ベサニー。ほら、ダーシャ、君の晩餐だよ」

「ブ、……………ブニャ」

「好き嫌いはいけないよ。もしかして、これが嫌でアシュレイ家に逃げて来たんじゃないだろうね?」

「……………ブニャ?」



すっと目を細めたアーサーに追及され、まるで後ろめたいことがある人間のように、ダーシャはサラの後ろに隠れた。


サラが、今夜のダーシャの食事は、獣医さんの薬入りだったりするのかなと考えていると、にっこりと微笑んだアーサーから、先回りして普通の食事だよと言われてしまった。


ダーシャが嫌がっている理由は分からないが、何か家族だけに通じる事情があるのだろう。


であれば聞き出すことでもないなとこくりと頷くと、なぜかアーサーから、君は時々、たいそう慎ましくなり過ぎてしまうねと苦笑され、また首を傾げた。



(嫌な言い方じゃなかったけれど、少しだけ寂しそうに言うのはなぜだったのかしら……………?)



そんなことを考えながら、アーサーを見送り、サラは自分の夕食の席に着いた。


ダーシャは床の上に小さな絨毯を敷き、そこで特別な食事の席を設けてある。

適当な入れ物がないので、サラがリモージュ焼きで出してしまった小皿には、ベサニーが焼いてくれたほかほかの塩抜き鱈が乗っていて、それを見たダーシャは、目を輝かせていた。


こちらはお客様へのふるまいで、勿論、アーサーが持って来た自分の食事の皿も並んでいるのだが、ダーシャはあまりそちらは見ないらしい。




夕食はムール貝のコトリアードと、ノンナが作ってくれたペペロナータに、焼きたての紅茶のパンだった。


ノンナもベサニーも、自身のルーツが異国にあるので、サラは最近、今迄知らなかった美味しくて新しいものをたくさん覚えた。


コトリアードは、鱈やムール貝などの入った具だくさんの白いスープで、本来はその日に地元でとれた新鮮な海の幸で作られるものらしい。


白いスープにはたくさんの野菜も入っていて、湯気で上がってくるいい匂いに、サラはお腹が鳴りそうになってしまった。



「美味しそう……………!」

「たくさんありますよ。何しろ、新鮮なムール貝を沢山貰いましたからね」

「…………いただきものなの?」

「ええ。旦那様がジョーンズワース家に上等なお酒を差し上げたそうで、向こうの奥様が貰い物のお裾分けをして下さったんですよ。あちらのお宅は、旦那様のお付き合いで貰い物が多いそうです」

「……………まぁ」



何から何まで助けられっ放しではと少し困惑したサラに、ノンナがくすりと笑う。




「念の為に、お電話のあった旦那様にも受け取っていいかお聞きしてありますが、生物はね、もう食べきれないと言われた時は受け取っても宜しいんですよ。残しておいても悪くなるだけですからね」

「……………そう言えば、アーサーから昨日は三食貝を食べる羽目になりそうだったと聞いたわ……………」

「何でも、ジョーンズワース家の旦那様の部下の方の、ご実家からみたいですね」



そう微笑んだベサニーから、貝はそちらの料理に慣れていないと、調理が単調になってしまい持て余すかもしれないと教えて貰った。



ペペロナータはあげられないが、塩抜きした鱈を焼いたものを食べたダーシャは、ご機嫌で喉を鳴らしている。

時折横目で恨めしげに見ているのは、ジョーンズワース家からアーサーが持って来てくれた謎のポテト料理のようなものだ。


一口食べて、曲がった尻尾がけばけばになったので、夫人の作ったご飯かもしれない。

サラは鋭い目で観察し、どうやら鶏肉とポテトのパイを崩したものらしいと目星をつけた。



よってダーシャは、ベサニーから貰った鱈の方が嬉しいようだ。




(このパイは普通に見えるのに………)




そう考えて、サラは首を傾げる。

先日振舞われたオレンジのパイは、まさかの糸を引いたパイで、父はとても暗い顔をしていた。


アーサーの推理では、お砂糖部分の何かが変質したに違いないということだったが、作りたてでほかほかのオレンジのパイが、なぜ糸を引いたのかは、深い謎に包まれている。


アーサーにもエマにも分からないらしく、二人ともとても遠い目をしていた。

ジョーンズワース夫人は料理上手らしいが、パイだけはなぜかとんでもないものが仕上がるそうで、アーサーは割と真剣にこれも呪いの一部だと思うと呟いていたくらいだ。


その時のことを思い出して、サラは小さく微笑んだ。



(そんな呪いばかりだったらいいのにな……………)




夜にかけて、風はまた少し強くなったようだ。



ひゅおっという時折唸るような風の音を聞きながら、サラは就寝前の時間を、ほっとした気持ちになれる祖父の魔法の工房ではなく、自分の部屋で過ごした。


寝間着に着替えてしまったから仕方ないのだが、出来れば祖父の部屋で眠りたいと思うくらいにあの部屋は居心地がいいのだ。




「何でお爺様の部屋は、あんなに居心地がいいのかしら」



だからだろうか。

サラは夢の中で、誰かにそんなことを話している。



そこは自分の部屋に似た夢の中のどこかであり、けれども窓の向こうはなぜか、真っ白な雪景色であった。



サラは、この年齢ではもう幼いかもしれない、白いドレスワンピース風の寝間着を着ていて、これは、店で見かけた叔母がすっかり気に入ってしまい、お姫様の寝間着だと言ってクリスマスに贈ってくれたものの一枚だ。

冬用のしっかりした生地の、ぬくぬくの寝間着は淡いアイリスブルー、この夏用の薄手の寝間着が白で、幸いにもあまり体が大きくならなかったサラは、どちらも大事に使い続けている。



窓の向こうで、きらきらと満月の光に煌めく雪景色を見ていたら、同じ年のクリスマスに、叔母がオードリーに贈った綺麗な香水瓶に密かに憧れていたのを思い出した。



「君のお爺様は、受けた魔術を、恩寵としてまっとうした方なんだろう。だからあの部屋には、祝福が満ちているのではないかな。……………この世界では、とても珍しい場所だよ」




夢の中で、そんなことをサラに応えてくれるのは、不思議な男性だ。


髪の毛の色は淡い銀髪のようにも見えるが、見る角度によって複雑に変わる。

水色の瞳に見えたり、淡い緑色の瞳に見えたりと、瞳の色の印象もくるくる変わってしまうのだが、これは夢なので仕方ないのだろう。



「この世界では、珍しいのね?」

「こっち側には、僕が知るような魔術は殆ど存在しないからね。そういうものを持たない人達の世界なのかもしれないけれど、君達のような人間もいるから不思議だねぇ」



その人は、優しい顔をしているように思えた。



でもなぜか、よく顔を見ようとすると霞がかかったようになって、視界がぼやけてしまうのだ。

目をごしごし擦ったサラに、赤くなってしまうよと静止の声をかけてくれる。



「僕は、迷い子だから、記憶や視界に残り難いんだろう。本来はね、こちらにいていいものではないんだ。僕がいるべきあわいの中を考え事をしながら歩いていたら、たまたまこちら側に道が繋がった日だったみたいでね、次に道が繋がる日まで帰れないんだよ」

「……………あなたは、どこか違う世界から来たの?」

「多分ね。だって、正しいことが分っていないから世界と言ってしまうけれど、もしかしたら地続きなのかもしれないだろう?繋がっていないところには行けないから、異世界だと思っても、ここも僕の知っている世界のどこかなのかもしれない」

「………………とてもややこしいのね」

「世界のあちこちには、あわいがあることは知っているかい?」



その男性の問いかけに、サラは頷く。

“あわい”という言葉は、サラも言い伝えの中に出てくる言葉で知っている。



夕暮れ時や夜明けなど、時間と時間の隙間をあわいと言い、そんな時間には怖い妖精が出てくるのだと、この国の母親たちは子供に話して聞かせる。


勿論、妖精を見たという話はそうそう聞かないが、そういう危ない時間に子供達だけで家を抜け出して遊びに行ってはいけないよという迷信のようなものだが、その“あわい”で、当っているだろうか。



「おお、こっちの世界にも、そういう言葉はあるんだね。でも実際には妖精が出てくることは、あまりないかもしれない。こっちには妖精が殆どいないんだ。少なくとも、僕は見たことがない」

「あなたの住む世界には、妖精がいるの?」

「いて当たり前なんだよ。絨毯の裏やインク壺の横みたいな、どんなところにもいるし、仲良しのシーも沢山いたなぁ」



シーというのは、妖精の王族なのだそうだ。

背中に六枚の羽を持つ以外は人間と殆ど変らない姿をしており、けれども目を瞠る程に美しいのだとか。


その話を聞いたサラは、そんな妖精に会ってみたくて思わずベッドの上で弾んでしまう。



「妖精に会えたらいいのに!そうしたら、怖いことはなくなるのかしら?」



伸ばされた手が、そっと頭を撫でたような気がした。


さりさりっと髪を撫でるその手はとてもあたたかく、胸の中がぽかぽかしてくる。



「どうだろう。妖精は決して優しいだけの生き物じゃない。例えば、呪いや障りを出すようなものも多いから。人間と同じでいい人も怖い人もいるんだ」

「……………怖い妖精は、呪ったりするのね?…………私の家の呪いもそう?」

「どうかな、妖精の呪いには似ていないね。竜もこんなことはしないから、魔物か精霊かもしれないよ」

「………………そんなに色々なものがいるの?」



びっくりしてしまい、サラは目を丸くした。

呆然としているのが分ったのか、男性はまた優しく微笑んだようだ。


どこかアーサーに雰囲気が似ているが、若い男性の姿のように見えるのに、祖父やその他のもっとずっと年配の人と話しているような、不思議な穏やかさが声の中にある。


この人も人間ではないのかもしれないと、夢の中のサラはこっそり考えた。



「色々なものがいるよ。だから、僕にはこの世界は少し寂しく感じてしまう。サラやアーサーには、遠い誰かの、…………僕達の領域のものの気配があるけれど、それは、あまり君達には良くないもののようだね」



つまりそれが、呪いの気配なのだろうか。



「………………あなたには、この呪いをなくせる?」



おずおずとそう尋ねたサラに、男性は困ったような悲しげな微笑みを浮かべたようだ。



「ごめんよ、僕には出来ないんだ。魔術を知り、その多くを調整出来る者であっても、最初に結ばれた誓約や約束を紐解かないと、そういうものは容易には解けない事が多い。誰がどうして呪いを受けたのか、どうすればその契約を破棄出来るのか、丁寧に調べる必要があるんだ。…………そうだね、道具の修理と同じだよ。分解して調べてみて、それを直すのに相応しい人が必要なんだ」



言われたことは、サラにも充分に理解出来た。

微かに項垂れたサラに、男性はまた頭を撫でてくれる。



「……………もう、誰にもいなくなって欲しくないわ」



そう呟いたサラに、そうだねと優しい声が返される。



窓の向こうで木々が風にざわざわ音を立てており、そこだけは、現実世界と繋がっているような気がした。


きっと、眠っているサラの向こうで、夜は風に揺さぶられてこんな音を立てているのだろう。



「でもほら、君は僕とお喋りが出来るから、向こう側の魂の色を多く持っているのかもしれないね。或いは、その血に与えられた呪いの中の、祝福の部分が大きく作用するような素質があるのかもしれない」

「……………それは、いいことなの?」

「それもまた、いい部分も悪い部分もある。でも僕は、君達の味方だよ」

「…………私と、お父様?」

「それと、ジョーンズワース家の人達もね」




そんな風に言って貰えれば、まるで二つの家族は一緒に戦う仲間のようだ。

何だかとても頼もしく感じてサラが唇の端を持ち上げると、よく顔の見えないその人が、ふいに声を潜めた。




ふっと体を屈め、サラの耳元で囁くようにする。



「サラ、これは僕からの忠告だ。君の叔母上が見付けた、始まりの町を見付けるといい。きっとそのどこかに君達にかけられた呪いの理由があって、その理由を見付ければ、アシュレイ家の呪いはどうにかなるかもしれない。…………でもね、決してその間に、呪いを傷付けるようなことをしてはいけないよ。こうして声を潜めて用心しないと」



その声は低く秘密めいていて、囁かれた内容にサラはぶるりと震える。

呪いを解けるかもしれないヒントを貰えたということよりも、最後の一言がとても怖かったのだ。



「呪いを傷付けること………?」

「呪いというものはとても親密なもので、呪われている人達は、呪っている誰かの特別な獲物なんだ。呪いをかける程の相手から、その獲物を奪うような真似をしてはいけないよ。…………獲物を奪うような真似をしたら、障りが出てしまう。………………ああ、雲が出てきた。もう時間だね。……………サラ、また次の満月の夜にね」




その囁きを最後に、サラはぱちりと目を開いた。




「……………ゆ、め?」



サラはちゃんと寝台に横になっており、母が幼い頃に作ってくれたキルトのかかったベッドで、夏用の布団をかけて、窓から差し込む夜の光の中でぐっすり眠っていたようだ。



もそりと体を起こして窓の方を見れば、ちょうど雲に満月が隠されてゆくところであった。


隣を見れば、ダーシャが、ぺたんこになったモップのようにべしゃりと伸びきってぐうぐう眠っている。

指先でちょいっとつつくと、ブニャンと眠たげな声を上げた。



色々と考え事をしながら眠ったから、あんな夢を見たのだろうか。

叔母の手帳に書かれた不思議な言葉が、サラにあんな不思議な夢を見せたのかもしれない。



(でも、……………本当にそれだけなのかしら?)



夢は夢らしくひどく曖昧でもあったけれど、サラはあんな風に意味のある夢を見たことはない。

それに、夢の中に出て来た人は顔までは見えなかったけれど、僅かにアーサーに似た気配がして、その向こう側にサラは、どこかお伽噺の国めいた不思議な匂いを嗅いだのだ。




「……………始まりの町を見付ければ、呪いが解けるかもしれない」




けれども、そう呟くとなぜか背筋がぞくりとしてしまい、その秘密は誰にも聞かれてはいけないような気がした。














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