優しくない魔法と約束の森
目を覚ますと、涙で強張った頬をそっと撫でた。
窓の外は鮮やかな新緑で、昨晩まで降っていた雨の影響なのか、まだ薄っすらと霧がかかっている。
事前に、大学からは本日の勉強会は雨天決行であると知らされていたので雨具を用意してあったが、雲間の青空を見る限りは、これからゆっくりと晴れてゆきそうだ。
(でも、地面が濡れていそうだし、森の中も歩くのだから、レインコートは持っていこうかしら……………)
そう考えて起き上がると、一夏限りの契約で借りられた家の居間に置かれたピアノが、ぴっちりと蓋が閉じられて鍵盤が見えなくなっていることに小さく息を飲む。
毎日このピアノを弾いていた人はもういないのだと思えば、思わぬ寂しさに胸が痛んだ。
(思っていたよりも、……………ずっと長い時間を一緒にいたのだわ………)
窓際の飾り棚の上には、お守りのように置かれた幾つかの写真立てが飾られている。
そこには、サラの大切な家族と、学院への入学の際に後見人になってくれた人達、そして気付かれると逃げるので無理矢理撮った一人の魔物が写っている写真が、お気に入りの写真立てに入れられてそれぞれ並んでいた。
昨晩、サラはとても大切な人とお別れしたばかりだ。
こちらで一年間も共に暮らしてくれたその魔物は、今は離れた土地に暮らすサラの後見人と少しだけ電話で話した後、夏至祭の祝福が潤沢な内にと、見送ると言ったサラに首を振り真夜中に一人でこの部屋を出て行った。
サラが橋のこちら側に戻ってから一年と少しが経ち、失ったと思っていた人が生きていた事を知ったのは、ほんのふた月前のこと。
それまでのサラは、体の内側いっぱいに涙が溜まってしまったかのような日々を送りながらも、まだ全ての希望が失われた訳ではないのだからと信じる事で、辛うじて心を繋いでいた。
そんな状態のサラの面倒を甲斐甲斐しく見てくれたのは、橋のこちら側には存在しない筈の一人の魔物で、サラが死者の国の歌劇場で眠り続けている間に手配した、新しい容れ物の体で共にこちらまで来てくれたのだ。
やっとこちらに戻れるとなったとき、またどれだけの時差が出るかも分からないのだし、サラは、グラフが共に橋を渡る必要などないのにと考えていた。
(歌乞いの契約の魔物は、自身の持ち物である歌乞いに過保護だと言うから、それでなのかしらと考えていたのだけれど…………)
失われたものがあっても、きっとすぐにアーサーには会える筈だと信じていた愚かなサラにとって、こちらに戻ってから思い知らされた運命の残酷さはあまりにも衝撃的で、グラフがいなければ到底乗り越えられなかったのは間違いない。
きっと、サラの恩師はそんなことまでを想定し、その上で付き添ってくれたのだろう。
サラは、こちらに戻ってからの大部分の時間を、この家で契約の魔物と共に暮らしていた。
そして昨晩、その魔物は、ようやくサラを自立させられると苦笑交じりに呟きながら、橋の向こうの不思議な世界へ帰っていった。
紅茶を淹れたカップを置いたテーブルの上には、新聞から切り抜かれた、サラの本当の父親と姉のスクラップが置かれている。
重たい花をつけた薔薇を生けた一輪挿しに、まだ必要な写真や記事を切り抜いていない新聞や雑誌の束。
それを見るたびに、容赦なく思い知らされる。
ここは、何も知らずに手を出したサラ達の思い通りになどならなかった、優しくない魔法の顛末なのだと。
(……………私はもう、アシュレイ家の娘ではない…………)
サラがこちらに戻ると、アシュレイ家には、オードリーという名前の美しいバイオリニストの娘がいるばかりで、誰も、白い髪の次女がいた事は覚えていなかった。
グラフ曰く、サラが橋の向こうで白薔薇を咲かせて雪を降らせ、人ではないものになりかけた事で、向こう側との繋がりが切れてしまった可能性があるらしい。
その事実を知った日、サラは、グラフがとってくれた宿の部屋で声が枯れるまで咽び泣いた。
せっかく大好きなオードリーが生きていたのに、サラはもう、父やオードリーの事を家族だとは言えないのだ。
二人に駆け寄る事も、二人に抱き締めて貰う事もなく、サラは一人の人間として育んだ殆どの履歴を失ってしまった。
泣き過ぎて腫れてしまった目を冷やしてくれたり、暖かな飲み物を淹れてくれたりしたのは、すっかりこちら側の暮らしに馴染んでいたグラフだ。
橋を渡る前に、ジャンパウロとして過ごしていたグラフが念の為に持って来ていたというある程度のまとまったお金がなければ、サラはその日の宿すら取れなかっただろう。
帰る家もないままに彷徨わずに済んだのは、魔法の残酷さをよく知るグラフが、全ての最悪を想定した上で共にもう一度こちらに来てくれたからだった。
(死者の国の歌劇場で歌を歌ったあの日から、とても長い時間が流れた気がする………)
サラは、白持ちの爵位ある魔物の歌乞いとなった対価として、橋の向こうで半年近くもの時間を過ごさねばならなかった。
あの歌で自らの魂では受け止め切れない程の魔術を錬成してしまったことで、魔術そのものになりかけてしまっていたのだ。
グラフが丁寧にサラの体や魂を修復してくれて何とか一月後に目を覚ましてからも、人間に戻る為に必要とされた治療がどれだけ沢山あったことか。
特赦日の恩恵を放棄しない為に一度死者の国を出なければならなかったダーシャ達は、サラがそうして向こう側に留まった期間の中で二回訪れた死者の日の一度目にサラを訪ねてくれ、二度目の死者の日にグラフがサラを死者の国の外側に連れ出してくれると、雪の国を案内してくれた。
そこでサラが見たのは、戦争の爪痕も生々しいものの、アーサーの血のルーツでもある、ウィームという名前の国だった土地の美しい街並みだ。
あの時の感動を、どう伝えればいいのだろう。
(私が見た街並みを、アーサーに話してあげる事をとても楽しみにしていたのに…………)
本物の魔法や、人ならざるもの達に溢れる美しい禁足地の森。
戦後の混乱はまだ続いており、名だたる竜や妖精達は侵略戦争で殺されてしまった者達も多く、妖精達が光らなくなった街はかつての美しい国の姿とはまるで違うとダーシャは呟いていたし、あまりにも生々しい傷跡もあるからとサラには見せて貰えないものも多かったが、そこは確かに、ほんの少し前まではあの絵本の雪の国だったところであった。
戦争の爪痕があってもなお、サラにとっては美しい魔法の国で、サラは、ダーシャ達の立ち合いの下、戦時中は中立を保った事で綺麗に残っていた公文書の保管施設の一つに、グラフとの歌乞い契約の書類を残した。
グラフに名前を渡してしまったアーサーとは違い、サラがこちら側に戻ると、向こう側での証跡が消えてしまうと知り、ダーシャ達から忘れられてしまわないように、あえて印を残したのだ。
(だから、もう会えないかもしれないけれど、ダーシャとバンルさんは、私達のことをずっと覚えていてくれるのよって、アーサーに話したかったのに……………)
一日にも満たない短い滞在時間の中で、サラは、せいいっぱい雪の国に触れた。
アーサーに話したい沢山のことや、我が儘を言って死者の王に気付かれないくらいの小さなアーサーへのお土産も手に入れて貰い、再会したらどれだけのことをどこから話そうと考えながら弾む思いで橋を渡った。
そして、全てをなくしてしまったのだと知ったのだ。
サラがアシュレイ家の娘でなくなったばかりではなく、慌てて訪れたジョーンズワース家からは、アーサーがいなくなっていた。
かつてアシュレイ家があったところには見知らぬ家族が住んでいて、その家の主人は、ジョーンズワースの家の次男を尋ねたが家人は不在だったと話したサラ達に対し、不思議そうな顔をして、ジョーンズワース家にはクリストファーという息子しかいないよと教えてくれる。
(その時はまだ、嫌な予感がしても我慢出来た。………アーサーが、名前をなくした後に、クリストファーという名前になってしまったのかなと思ったから……………)
不安を抱えてまた翌日ジョーンズワース家を訪れたサラ達が見たのは、サラのよく知るクリストファーでしかない男性とジョーンズワース家の夫婦が仲良く車に乗り込む姿で、それを見たサラは、世界が足元から崩れ落ちてばらばらになってゆくような気がした。
最後に橋を渡る前、ジョーンズワースの呪いを家族から切り離す為にと、アーサーはこの世界には存在しないひとになってしまっていた。
けれどもそれは砂糖の魔物との契約の一環で、グラフはその契約を放棄した筈なのだ。
では、自由になって家に帰れた筈のアーサーは、一体どこに行ってしまったのか。
無事でいてくれればその近くで会える筈だと、ジョーンズワース家の近くに通ったが、そこをアーサーが訪れる事はなかった。
「………行ってきます」
サラがそう声をかけるのは、運命に取り上げられてしまった父と姉の広報用の宣材写真を入れた写真立てで、サラは大好きだった人達のことを忘れないように毎朝その写真を眺める。
書き換えられてしまった事を、人間は少しずつ忘れてゆくかもしれないと聞いたサラが、覚えていられる限りはと決めた朝の習慣だった。
同業者だから手に入れられたというその写真をこっそりサラにくれたのは、サラの後見人になってくれたジャンパウロで、ジャンは、サラ達と共に過ごしたあの数ヶ月の出来事と冒険の全てを覚えていてくれた、かけがえのない人だ。
彼は今、この国で生まれた音楽家として暮らしており、自身の人生が書き換わってしまったことに驚きはあるものの、そんな改変が削ぎ落としたのは、ジャンパウロにとっては不要だったものばかりであるらしい。
旅行者としてではあるが、愛する祖国に好きなだけ行けるようになり、ジャンパウロを蔑ろにしていた浪費家で浮気者な妻の代わりに、彼は運命の人に出会った。
幸せいっぱいでサラの大切な理解者でもあるジャンパウロは、妻と愛犬のぺぺを伴い、かつての祖国にある別荘で一夏の休暇を過ごしている。
サラは、魔物らしくどこからかこの国の人間としての戸籍などを持ち帰ったグラフと一緒に、サラの通う音楽院の近くにある家を借りて暮らしていた。
家を出るとしっかりと鍵を閉め、鍵束を鞄に入れて雨上がりの街を歩いた。
森に入るのは遊歩道があるところまでなので本格的な森歩きではないにせよ、雨上がりの森の散策があると知っていても白い服を着てしまったのは、弾むような期待と喜びのせいだろうか。
おろしたてのワンピースの裾が多少汚れても、気になんてするまい。
サラは今日、大切な人に会いに行く。
とある大学が中心になって行っている森の保護運動があると知ったのは、昨年のことだ。
サラがまだアシュレイ家の子供だった頃に、アーサーとジャンの姿をした魔物と調べた、呪いを退ける為に使えるかもしれない奇跡を有する、こちら側での人ならざる者達の証跡があった。
その中でも、グラフが最も強い力が敷かれていると話していたのが、その大学の敷地に面した国立公園の一画にある、深い深い森と湖の区画だ。
サラがこれから参加するのは、その森の保護活動への理解を促す体験型のセミナーで、お目当の森に入るにはそこに登録するしかない。
昨年に引き続き申込みをしに行ったサラは、参加者同士であれば自由に閲覧出来る名簿があることを初めて知った。
そしてそこには、三日前に申し込みをしたというクリストファー・ジョーンズワースの名前が記されていた。
サラ達だって勿論、二人が離れ離れになってしまった時のことは想定していたから、お互いの家以外にも待ち合わせ場所を決めておいた。
こちら側に戻ってきてアーサーへの繋がりが途切れてしまったサラにとっては、かつて二人で辿った地図の上の魔法の印が最後の希望だったのだ。
(もし、一緒に帰った筈でもお互いの時間がずれてしまっていたら、そして、お互いの家のような分かりやすい待ち合わせ場所を失ってしまっていたら、みんなで探した魔法の足跡のあるどこかに、自分の名前を残しておこうと約束したの………)
そんな最後の魔法が繋がって、サラは今日、アーサーに会いに約束の森にゆく。
さあっと、柔らかな初夏の風が吹いた。
夏至祭の日にこのセミナーが開催されるのは、古い女神と聖人の伝承のある豊かな森の素晴らしさを、支援者達に知って欲しいという趣向であるようだ。
今後の支援活動に興味を示している学生達も多いが、参加者には奉仕活動の一環として足を運んだ裕福な者達もちらほらいる。
電車で最寄駅までゆき、そこからバスに乗って集合場所である森の近くで降りれば、初夏の森は輝くような美しさで、サラは、ふくよかな緑の匂いと雨の香りを胸いっぱいに吸い込む。
雨の雫を纏ったまま鮮やかな緑色を陽光に透かした木々と、森の入り口の可愛らしい菫の群生地に、遠くの木陰を走り抜けてゆく野兎。
奥にある仮設の小さなテントでは参加者の受付が行われていて、セミナーが終わった後の懇親会に参加したい者達はその場で申し込みをするらしい。
それ目的の者達も多いのか、昔からの支援者達と事務局の上役との和やかな談笑が、こちらまで聞こえてきた。
その輪から離れて、シンプルな白いシャツを着た男性が一人、森の近くにある大きな木の下に、どこか寄る辺ない無防備さで立っていた。
黒髪に灰色の瞳をした夜のような美貌は初夏の森には不似合いで、まるで迎えを待ち続けていた迷子のよう。
サラは、息苦しいくらいに暴れまわる心臓を胸の上から押さえて真っ直ぐにその人の方に歩いてゆくと、正面に立ったサラに目を瞠った男性に、羽織ったカーディガンにつけた一粒真珠のブローチを見せる。
「初めまして、クリストファー」
「……………初めまして、サラ」
「このセミナーには毎年参加しているの?」
「そうだね。…………だからきっと、君が昨年の回で名前を呼んでも振り向かなかったという失礼な男は、僕だったのだと思うよ」
「……………アーサー」
サラがその名前をそっと呼べば、サラの記憶の中にあるままのアーサーその人でしかない男性は、ふっと悲しげに微笑む。
「…………それが僕の名前だったのだね」
「ええ。でも、もう私が覚えているから大丈夫よ。電話でも話したでしょう?」
「……………すまない。僕だけだと、すぐに忘れてしまうんだ」
あまりにも悲しげにそう微笑むから、サラは胸が潰れそうになった。
手を伸ばしてアーサーの腕にそっと触れると、その手を、アーサーは自分の手で上からしっかり押さえた。
「…………ただいま、アーサー」
「…………………おかえり、サラ。僕はきっともう、随分多くの事を忘れてしまったけれど、君のことは何一つ忘れていないよ。ずっと、…………君を待っていたんだ」
「……………っ、」
ここで堪らなくなってしまい、サラはアーサーの腕の中にぼすんと飛び込んだ。
すると、しっかりと抱き締めてくれたアーサーから、あの年の歌劇場のパーティと同じ柑橘系のコロンの香りがする。
その香りに息が止まりそうになったサラの胸の中を、沢山の愛おしさが濁流のようにごうごうと流れた。
葬儀の日の薔薇のガゼボで、初めてアーサーに出会った。
家族を呪いに奪われたサラに、呪いは理不尽なものだと教えてくれて、けばけばの温かなダーシャを紹介してくれた。
二人で助け合って生きていこうとサラを強く抱き締めてくれた父の温もりに、叔母のアイリーンがおもしろおかしく話してくれた失敗談に、アイリーンと声を上げて笑った幼い日のこと。
サラを抱き締め、階段を上がっていった母の美しい微笑み。
その宝物の日々は、全部ぱちんと泡が弾けるように消えてしまった。
身の程知らずにも魔法に手を出した、愚かな人間を罰するように、ただその呪いから逃れようとしただけのサラとアーサーを、そんな二人を助けてくれようとしたダーシャを飲み込み、奇妙で濃密なほんの数ヶ月の冒険の日々は無残に終わった。
結果としては、サラはアシュレイの呪いを手放し、アーサーのジョーンズワースの呪いは、誰かが獲物であるジョーンズワースの者の命を脅かし呪いを刺激されなければ、ずっと眠ったままでいるように出来たのだと聞いている。
(それはまるで、願い事が叶ったようだけれど、………………)
「……………すまない、サラ。僕が君を巻き込んだんだ。君の大切なものを僕が奪ってしまった……………」
どこか泣いているようなアーサーの声は、耳元で掠れて篭る。
でも、サラはもう、ここで何も言えずに泣いてしまうような子供ではないのだ。
アーサーに言いたい言葉を、花束のように胸いっぱいに抱えてここに来たのだから。
「でも、私はアーサーを取り戻す為に頑張って歌ったのだから、アーサーが取り戻せたのなら、もうそれでいいの」
「………………だとしても、僕は君に名前を呼ばれて、振り返りもしなかったんだろう?」
「……………あの時は悲しかったけれど、アーサーが名前を取られてしまった事を忘れていた私もいけないの。グラフにも叱られたわ…………」
それは、昨年の同じセミナーの事だった。
サラはそこで、アーサーによく似た男性の後ろ姿を見たのだが、その人は名前を呼んでも振り返らずに行ってしまったので、アーサーに会いたいあまりに背格好の似た人がみんなアーサーに見えるようになってしまったのだろうと悄然として帰宅し、グラフにもその話はしなかったし、アーサーかもしれないと考えて参加者名簿を調べたりもしなかった。
もしその時、名前を手放したアーサーが、自分の名前を忘れてしまっている事まで考慮出来ていたのなら、二人の再会はもう少し早く叶ったのだろうか。
ただ訪れるだけの他の魔法が残る土地とは違い、この森で毎年夏至の日に行われるセミナーは、決められた日に集まるからこそ再会の可能性が高まる希少な機会となる。
それならば、昨年は会えなかったけれど諦めずに今年もと思って登録をしに行ったサラは、参加者名簿が閲覧自由であることを今更知り、そこにクリストファーの名前を見付けた。
慌ててその前に調べ上げておいたジョーンズワース家の番号に知り合いのふりをして電話をかけたが、クリストファーは職場の長期海外研修中という事で家にはいなかった。
三日前のセミナーへの申し込みは、一時帰国の際のものだという。
途方に暮れたサラの代わりに電話を取ったエマと話をしてくれたグラフが、巧みな話術で、研修先からクリストファーが連絡を入れた際にはこちらの連絡先を伝えて欲しいと伝えてくれて、サラ達が会話だけの再会を果たせたのはその二日後のこと。
それから今日まで、サラ達は何度も電話を重ね、時にはグラフとアーサーが話をする事もあった。
(グラフも、アーサーに会ってゆければよかったのに…………)
サラはそう説得したのだが、グラフはアーサーに会わないまま、こちらを発ってしまった。
魔術的なあれこれに不要な揺らぎを与えたくないと話していたが、あの慎重な魔物のことだ。
もしかすると、昨晩帰国したばかりのアーサーを遠くから見に行く事ぐらいはしたのかもしれない。
「名簿の閲覧が出来ることを知らなかったんだろう?」
「……………ええ。名簿にジョーンズワースの名前があったのってグラフに話したら、どうして昨年はそれを見なかったんだって叱られて、そう言えばアーサーによく似た人を見たかもしれないって言ったら、また叱られたわ。私がもっと慎重であるべきだったのだから、当然の事よね…………」
体を少し離してそう告白すると、アーサーはやっと、ただ嬉しそうに唇の端を持ち上げて微笑む。
「君はこちらに戻って来たばかりで、家族を失ったと知った直後だ。ジョーンズワース家にはクリストファーという子供しかいないと知って落ち込んでいた君が、………聞こえている筈の呼びかけに応じなかった男を、探し人ではなかったと判断しても仕方ないさ」
それは、たまたま厄介な偶然が重なってしまった、とても簡単なすれ違いだった。
隣人宅の住人の言う通り、そしてサラ達が念を入れて役所で調べた通りに、ジョーンズワース家の息子は確かに一人きりである。
けれどもそこには、事故で両親を亡くしたローレンスというアーサーの従兄弟が共に住んでいて、そのローレンスの容姿がかつてのクリストファーそっくりだったことで、サラ達はアーサーはジョーンズワース家にはいないのだと判断してしまった。
実はアーサーもその家に住んでいたのだが、朝早く出かけて夜遅くに帰ってくる仕事をしていた彼の姿をサラ達が見かけることはなかったし、彼は、半年前からは国外の研修に出ていた。
それを引き受けたのは、そこが、アシュレイ家の呪いの始まりだったサリフェルドが、音楽の神様を見付けた国だったからなのだそうだ。
その国を指定されたことが運命かもしれないと思って引き受けてしまったのだと、電話口ですぐにこちらに帰れないと落ち込んでいたアーサーは、橋の向こうから帰って来てからの六年間、必死に様々な証跡を追いかけてくれていたのだろう。
(六年間………………)
二人の別離がそれ程の長さだったことに、サラはあらためて打ちのめされそうになる。
その間にジョーンズワース夫人は亡くなってしまい、サラは、あの思い出のパイをもう一度食べる事は出来なかった。
「ローレンスは、かつての僕の兄にそっくりなんだ。…………容姿だけではなく、心の動かし方や言動もね。僕の両親の子供だった筈の兄がどうしてその家の子供として生まれたのか、…………それは運命というだけではなくて、もしかすると僕は知らされていなかっただけで兄は最初から従兄弟で、両親にとっては養子だったのかもしれないと考えもしたけれど、………その答えは分からなくてもいいかなと思うんだ」
「ええ。アーサーにとっての大切なお兄様が、今も元気で一緒に暮らせるだけで充分だわ」
そう微笑んだサラに、アーサーは手を伸ばして、サラのカーディガンに留められた真珠のブローチにおずおずと触れた。
「……………君があの日、向こう側に持って行ってくれたから、これは失われずに済んだのだね」
「あの日に、私が用意していたクリスマスプレゼントはなくなってしまったわ。でもね、我が家は、グラフがよく分からないけれど合法な取引きで蓄えを増やしてそこそこに裕福になったから、去年のクリスマスはアーサーへのとっておきの贈り物を買ったの。今年のクリスマスに二つ渡してもいい?」
「…………勿論。僕はもっと多く用意しているから、君は開封するのが大変だと思うよ」
「ふふ、持って帰れるかしら?」
そう答えたサラに、アーサーは灰色の瞳を震わせ、小さく息を飲んだ。
サラを抱き締めていた手を離して、どこか張り詰めた気配でこちらを見たアーサーに、サラは首を傾げる。
「……………アーサー?」
「………このように性急に済ませるべきではないことだと、勿論知っているよ。こうして再会出来たのだから、もう会えなくなったりする事もないだろう。……………でも、ここで何の約束もしないで君と別れたら、僕はきっと後悔する」
「…………電話番号の交換はしたから、住所も交換する?」
大真面目にそう言ったサラに、アーサーはなぜか少しだけしょんぼりしたように見えた。
困惑してまた首を傾げたサラに、アーサーはくすりと笑ってサラの手を取った。
「僕はとても狡猾な男で、身勝手だ。……………サラ、もう二度と君を手放したくない。僕と結婚してくれないか?」
「………………っ、」
その思いがけない告白に、サラは心臓が止まりそうになった。
確かにサラの年齢で結婚している女性も少なくはないし、アーサーは更に大人である。
けれども、いきなりプロポーズされるとは思ってもいなかった。
サラが無言のまま目を丸くしていたからか、アーサーは慌て始めたようだ。
「……………婚約期間が長めでも構わないよ。けれど、公に共に居られるような形のあるもので僕達を繋いでいたいんだ。…………ねぇ、サラ。僕では駄目かい?」
「……………っく」
「ごめん!…………いきなりこんな事言われても混乱してしまうよね。さすがに焦り過ぎた…………」
ぶわっと溢れてきた涙を堪えてアーサーを見上げると、狼狽したアーサーから慌ててそう言い重ねられる。
サラはぶんぶんと首を横に振り、アーサーが今の言葉を撤回してしまわない内にと、よれよれの声でプロポーズの返事をした。
「アーサーがいいわ。私も、もうアーサーが迷子にならないようにする…………」
「サラ……………」
その時のアーサーの微笑みを、きっとサラは死ぬ迄忘れはしないだろう。
この二人のただならぬやり取りはどうしたのだろうと、周囲で密かにサラ達の様子を窺っていた人達が、わっと声を上げていっせいに祝福してくれる。
図らずも大騒ぎになってしまったが、その時のサラはアーサーに抱き上げられて振り回されていたのでそれどころではなかった。
「指輪は二人で買いに行こう。………ずっと考えていたんだ。でも、今の君の指のサイズまでは推理出来なかったからね」
「……………私の戸籍で大丈夫かしら。グラフが用意してくれたものだし、おじさまも問題ないと話してくれているけれど………」
「……………であれば、きっと問題ないんだろう。また問題が起きたらそれから考えるさ。…………ただ、君の名前の一部には少しだけ異論がある」
深く豊かな森を歩きながら、そう顔を顰めてみせたアーサーがあまりにも拗ねたような目をするから、サラは小さく声を上げて笑った。
「君の姓が、グラフィーツだとは思わなかったよ。まさかあの魔物の名前だとはね…………」
「グラフは、わざとそうしてくれたの。私がその名前を持っている間は、もし私が一人になっても、名前が守ってくれるようにって」
「だから彼は、あんな事を言ったのかもしれないな…………。電話で僕に、約定通りにいい加減に引き継ぐぞと話していた」
「私には、………やっと自立するなって」
互いにその言葉を並べて顔を見合わせると、サラ達は、不思議な縁で冒険の最後までを共に過ごした魔物のことを思う。
歩きながら空を仰ぐと、見事な森の木々の天蓋からこぼれる木漏れ日の美しさに、原始の畏怖にも近い煌めきを見た。
これだけ深く豊かな森には、確かに女神が住んでいるのかもしれない。
もし子供が産まれたら、この森の女神の名前を貰おうと考えかけ、サラはあんまりな想像に真っ赤になった。
「サラ?」
「な、何でもないわ…………」
「どうしてじたばたしているんだい?………怖い虫でもいたかな?」
鳥達の囀りに、あちこちに咲いている可憐な花々を楽しみながら歩いていると、やがて森の真ん中に位置する美しい湖とその畔りに建てられた古い聖堂が見えてくる。
どこからか吹き抜けてきた気持ちのいい風に、サラは僅かな魔法の気配を感じた。
(……………魔法は確かにあった)
王子様だった山猫や、日常から地続きの橋の向こうや、その向こうに見える国境の町に。
魔法は確かにあった。
アシュレイ家に祝福を与えた音楽の神様に、真っ黒な馬車で迎えに来るジョーンズワースの呪いに。
「…………そう言えば、雪の国は、美しかったかい?」
そう尋ねたアーサーに、サラは胸が痛んだが、言葉を詰まらせる代わりに繋いだ手をぎゅっと握った。
「ええ。あんなに不思議で美しいところは初めて。森に囲まれた、雪のお城のような王宮を遠くから見たわ」
「…………これから、沢山その話を聞くよ。もう二度と橋の向こうの事を忘れてしまわないように」
「あのね、お土産もあるの」
「…………雪の国の、…………かい?」
「ええ。森の祝福が結晶化した小さな緑色の石なのよ。…………私がグラフィーツの名前から離れたら、いつかは消えていってしまうみたいだけれど、その時はお庭に埋めるといいみたい。ほどけてゆく祝福が土に還って、庭の花々や木々に妖精や精霊が宿りやすくなるんですって」
そう言えば、アーサーは綺麗な灰色の瞳を瞠り、はっとする程に嬉しそうな顔をする。
(魔法は確かにあったわ。…………私達はそれに手を伸ばして、橋の向こうの不思議な土地を訪れた………………)
でもそれは優しいばかりではなく、目を瞠り畏怖するべき美しさで心を打ちのめし、あっという間に魂を攫ってゆくくせに、優しく微笑んで帰っておいでと手招きするくせに、伸ばした手で捕まえてしまった人間を二度と同じ場所には帰してくれない。
「…………サラ。僕は、馬車の呪いを背負ったジョーンズワース家の息子だ。呪いは眠り続けているけれど、それでもいつかは目を覚ますかもしれない。僕の妻になるという事は、君をこちらの呪いの輪の中に呼び込んでしまうという事でもあるんだ。だからもし、……」
だから、ぽつりとそう言ったアーサーに、サラは繋いだ手をしっかりと握って微笑む。
「私達は、一緒にあの橋を渡ったのよ?優しくない魔法を沢山知って、私もアーサーも、魔法に沢山のものを持っていかれてしまった。…………だからもう、アーサーと離れ離れになってしまう以上に怖い事なんてないわ」
「……………そうだね」
静かにそう呟いて、俯き加減に深く微笑んだアーサーが思うのは、こちらで待ち続けてくれたという六年の長さだったのだろうか。
その微笑みに滲む安堵の鮮やかさに、サラは大事な人を両手で抱き締めてあげたくなった。
「あのね、アーサー。私は音楽院を出たら、オペラ歌手になるわ。その、………お家でも練習していていい?」
「そうなると、僕は何度も君の歌声を聴ける訳だ。喜んで応援するよ」
「おじさまが、私が歌手として一人前になったら、お父様と共演が出来るように推薦してくれるそうなの」
サラが音楽家を目指したのは、もう繋がりはなくなってしまったのだとしても、アシュレイ家の娘として父や姉と同じ舞台に立ちたいという願いがあったからだ。
共に暮らしてゆくことは出来なくなってしまったが、アシュレイ家の娘として育てられたサラだからこそ、一つの音楽を共に作ることは出来る。
おかえりと抱き締めて貰う事は出来なかったけれど、舞台を終えてから共演者として抱き合う事はきっとまだ出来るから。
「ジャンにも、………ええと、ジャンパウロの方のジャンにという事だけれど、彼に会うのが楽しみだ。彼と会うのは随分と久し振りになるからね」
「おじさまも、アーサーや私を探してくれたみたいなの。でもやはり、ローレンスがクリストファーだと思っていたみたい」
「はは、兄さんはややこしいな」
「今でもそう呼ぶの?」
「うん。彼の方が年上だから、時々、……………ふざけてだけれどね」
かつては手の中にあった筈の宝物が失われて、みんなで敷物の上で寝転んだ日の思い出は遠くなった。
もし、今のサラが魔法とはどんなものだろうかと尋ねられたら、それは一つの願いと引き換えに自分の持つものの全てを持ち去ってしまうかもしれない、美しくも恐ろしいものだと答えるだろう。
(でも、私もアーサーも、お互いの大切な人は元気で生きていてくれるのだから、私がまたお父様に抱き締めて貰う事だって、アーサーがお兄様と敷物の上で寝転ぶことだって、きっとまた叶えられる筈……………)
そう考えていたサラは、ふと視線を向けた茂みの葉影がぽわりと光ったような気がして息を飲んだ。
「サラ?」
「昨日の雨で濡れている葉っぱが光っただけかもしれないけれど、今そこに、不思議なものがいたような気がしたの…………」
サラがそう言えば、アーサーは少しだけ熱心にその辺りを見ていたようだ。
「……………まだ、橋の向こうに憧れる?」
「そうだね。僕はもう冒険は懲り懲りだけれど、やはり、あちら側への思慕のようなものは残っているよ。君は、また橋を渡りたいかい?」
そう問いかけられ、サラは首を横に振った。
ダーシャ達やグラフに会えなくなるのは寂しいけれど、もう二度と、アーサーの手を離すつもりはない。
「……………少しだけ考えるんだ。いつかまた、あの町への扉が開くだろう。その時に誰かが、僕達のようにあちら側にいくかもしれないし、僕のようにその向こうに魅せられるかもしれない。…………そうしていつか、ジョーンズワースの誰かがあの霧の向こうに行って、今度こそこの呪いを解いてしまうかもしれないね…………」
それは、ずっと遠い未来のことかもしれないし、案外近い未来のサラ達の知っている誰かかもしれない。
サラとアーサーの冒険は終わってしまったけれど、呪いは常に足元の影に眠り、魔法はずっと橋の向こうに在り続ける。
「もしかしたら、今度は、向こうから来てくれる誰かに会うのかもしれないわ」
「じゃあ、ダーシャから教わったおまじないを唱えてみようかな。竜を呼んだら大き過ぎると思うかい?」
「私は妖精がいいわ。橋のところにいた、もこもこの鼠のような妖精に会いたいもの」
あの妖精であれば、橋の入り口近くにいたのでこっちに来てくれるかもしれないとサラが目を輝かせると、なぜかアーサーは、妖精はもういいかなと遠い目をする。
向こう側で過ごした森と宝石の町での日々は、かなり大変なものだったらしい。
「でも、そのおまじないでもこもこの妖精に会えなくても、私にはもうジョーンズワースの魔術師がいるわ」
サラがそう言えば、こちらを見たアーサーは優しく微笑んで体を屈めると、羽のように軽い口づけをサラに落とした。
「僕には、雪白の歌姫がいる。お互いに、なかなかの相手を手に入れたと思わないかい?」
「…………っ、アーサー!」
「大丈夫。僕はこれでも魔術師………こちら流に言えば魔法使いかな……だったらしいから、きっと後ろを歩いている人達は見ていないよ」
こんなところでと、顔を真っ赤にしてアーサーの腕をばしばしと叩いたサラに、アーサーは小さく声を上げて笑った。
その優しい微笑みに滲む木々の緑の色に、サラは、二人が出会った薔薇のガゼボのことを思う。
(私達は、呪われた家に生まれて、あの橋を渡った)
二人とも無傷では帰ってこられなかったけれど、これからはずっと、この手を離さずにいよう。
死者の国の歌劇場で歌ったサラが人間に戻れた後、剥がされた魔術に持ち去られてしまったのか、サラの白い髪は幼い頃のような淡い金髪に戻っていた。
その日以降、あの不思議な夢を見ることはなくなったが、それでもサラには小さな確信がある。
(アーサーと私は、いつかは、ジョーンズワースの呪いに飲み込まれてしまうのだと思う。………でも、私達はその先もずっと手を繋いでいたし、橋の向こう側に行った誰かは、とても幸せそうだったわ…………)
アーサーが言葉にしたその未来が、遠いどこかで実現する事をサラは知っている。
サラが見たあの女の子は、サラ達の子供かもしれないし、もっとずっと先の子孫かもしれない。
ただ、愛しい子と呼びかけた自分の声からすると、面識のある子供なのだとは思う。
アーサーと手を繋いで暗い劇場でその様子を見ていたのだから、二人はまたいつか、ジョーンズワースの呪いに飲み込まれたまま橋の向こう側を訪れることになるのだろうか。
そこにはきっと、サラの咲かせた白薔薇で作った義手を持つ砂糖の魔物がいるのかもしれない。
山猫の使い魔になったサラの大切な友達や、そんなダーシャの大切な竜達が、あの美しい雪の国で暮らしているのかもしれない。
けれども今はまだ、ここで二人で幸せな日々を過ごそう。
あの黒い馬車が、サラ達を迎えに来るその日までは、精一杯幸せでいよう。
サラは、ずっと大好きだったアーサーの手をしっかりと握り締め、二人は幸せな微笑みを交わした。
二人の結婚式は、その五年後に行われた。
式には、ジャンパウロの友人でサラも親しくなったアシュレイ家の人々も訪れ、サラはアシュレイ家の人々を呼べるまで式を待ってくれていた花婿に、感謝を込めてとっておきのキスをした。
その式に、橋の向こうからサラの恩師が来てしまっていたかどうかは、結婚の誓いを立てた神様の手前秘密である。
ふくよかに色づいた薔薇の茂みに、さぁさぁと優しい雨が降る。
美しい庭に囲まれたその屋敷には、不思議な呪いを背負った一族が暮らしていた。
封印された呪いを起こしてはいけない。
呪いは獲物を奪おうとすれば、目を覚まして牙を剥く。
だからどうか、名も知らぬ誰か。
その姿も見えない誰か達よ。
どうか、ジョーンズワースの一族にだけは、危害を加えぬよう。
それは略奪者であるあなたを滅ぼし、獲物を奪われる訳にはいかないと我々を殺すだろう。
そうして、我々がすっかりいなくなった後、その孤独な呪いは、あなたについて行ってしまうかもしれない。
だからどうか。
この幸せを決して脅かさず、私達の良き隣人のままでいて欲しい。
夜明けの部屋に、ジリリと電話のベルが鳴った。
雨音の響く部屋で、どこか不穏な予感を覚えてその受話器を取れば、聞こえて来た言葉の冷たさに、世界が翳り落ちた。
本編はこれで完結となります。
また後日、幕間のお話を一編書かせていただいて、完結にさせていただきますね。
ここまでお付き合いいただき、有難うございました。




