ジョーンズワースの魔術師
サラ。
今日から君に、手紙を書こうと思う。
君が帰ってきた時に伝えたいことや、君に会えた時に今度こそ言わなければいけないことを沢山ここに書こう。
これでも僕はジョーンズワースの魔術師だったから、もしかするとこの、宝石の町で買ったインクが君に僕の言葉を届けてくれるかもしれない。
まず、君に謝らなければならない事がある。
ごめん、サラ。
僕はあの日、一人で橋を渡ってしまった。
と言うより、海の国の魔術師に命を狙われた事で、ジョーンズワースの呪いが動きかけている可能性があり、渡らざるを得ない状況になってしまった。
今度こそ、君があの素晴らしい歌で取り戻してくれた僕の命を台無しにする訳にはいかないからね。
もしかすると、竜の背中から落ちないようにと言っていたジャンは、最初からそうしなければいけなくなると知っていたのかもしれない。
でも、そうせざるを得なくなったのは、しなくてもいいのに舞台に上がって目立ってしまった僕のせいだ。
君がこちらに戻って来たら、まず謝らなければと思っている。
あの日の事を書くよ。
実はこの作業は、僕があの日の事を忘れないようにする為にでもあるんだ。
死者の王が話していただろう?
在らざるものの記憶は、繋がりを断つと失われてゆくって。
三人で過ごしたあの夜にダーシャから貰った祝福石は、こちらに戻ってから少しずつ小さくなってきているような気がする。
だから、僕があちら側の事を忘れてしまわないように、ここに書いておこう。
僕はあの日、夏闇の竜に乗って国境域まで送り届けて貰った。
あれだけの大きな竜は、翼の力だけではなくて魔術も使って飛ぶらしい。
だから、僕は柔らかな毛皮の背中から落ちてしまうこともなく、ダーシャと一緒にバンルの背中に乗って、あっという間に国境域の町に着いてしまった。
歌劇場の入り口まで追いかけてきた魔術師から火矢で射られたのだけど、バンルは気にもかけていなかったよ。
闇の系譜の彼は、その身の周りに張り巡らせている魔術領域で全ての攻撃を弾き落としてしまうんだ。
…………ごめん。
少し竜の話で興奮し過ぎたね。
二人であの橋に向かえた筈なのに、その機会を手放してしまったのは僕だ。
君を竜の背中に乗せてあげたかった。
……………サラ。
サラ、そちらはどうだい?
君は眠れているだろうか。
怖い思いはしていないかい?
君が、どうか一人ではありませんように。
あの魔物が、君の側にいてくれますように。
サラ、昨日の手紙の続きを書くよ。
昨晩は、…………あれ以上にどうしても書けなかった。
僕はもっと冷静な人間だと思っていたのだけれど、君に出会ってからはそうもいかない事が多くなった。
冷静と言えば聞こえは良いけれど、それは諦観や無関心だったのかもしれないと考える事がある。
君に出会って心臓を貰えてから、僕はとても弱く愚かになった。
けれど、これが、僕が今迄さぼってきた生きるという事の不自由さなのだろう。
さて、昨日の続きの話に戻そうか。
国境域の町に着くと、僕はダーシャと橋まで色々な事を話しながら歩いた。
子供の頃の話や、魔術の話。
好きな食べ物や色、ジョーンズワースの家で過ごした頃の思い出まで。
歌劇場の屋根から闇の尾を離したバンルは、転属したという船火の魔物としての姿で一緒に来てくれたよ。
竜の時の彼よりは細身で優男という感じだったけれど、ダーシャを見つめる瞳は同じように優しくて、それがとても印象的だった。
僕は、どちらのバンルも好きだと思う。
多分、彼がダーシャの竜であることを無意識に贔屓してなければ…………。
橋までの道行きは、ダーシャと僕の最後の時間だった。
ほんの短い間だったけれど、飼い猫な彼と家族として過ごした日々と、血族だと知ってからの時間は、とても言葉では言い表せない。
彼と分かち合うだけのものを、他の誰かに求めるのは強欲だろう。
僕はきっと、彼以上の友人を得ることはないのかもしれないと感じた。
そう。
嬉しいニュースもあるんだ。
ウィーム王家では、終戦の間際に一人の赤ん坊が産まれたらしい。
最後の夜に産まれたその女の子は、雪の国の子供として誕生の祝福を貰っていなかった事が幸いしたのだそうだ。
そのような子供は魔術の約束で保護される事になっているらしく、海の国の王宮に引き取られていったのだとか。
それを知ったダーシャが、どれだけ嬉しかったか想像してご覧。
猫の姿だったら、弾んでしまったかな。
もう二度と橋を渡れない僕は、その話を聞かせて貰ってどれだけ安堵したか。
勿論、ダーシャにはバンルがいるけれど、やはり王族としてその血筋が絶えた後の国を見てゆくということは、堪らなく無念な事だったろう。
そんな彼が一人にならないと知って…………安堵に胸が苦しくなった。
彼は、血の繋がりがあると知る前からずっと、ジョーンズワース家の飼い猫になった日からもう、僕の家族だったんだ。
彼の橋の向こうの血族として、ダーシャの家族が向こうに残っていてくれたことに、僕は心から感謝した。
……………それから、バンルから、ジャンから言付かっていたという伝言を聞いた。
これについては、僕は今でもその言伝を聞かされた時の動揺を胸の底に抱えている気がする。
ジャンは、僕の家のジョーンズワースの呪いに、一つの呪いを上書きしてくれていたそうだ。
それは、あの歌劇場の控え室で仕掛けられたものであるらしい………。
ジョーンズワースの呪いは今、とても強い目隠しをされているそうだ。
かつてジョーンズワースの呪いを作った白夜の魔物と同階位だったジャンだからこそ出来た事で、この呪いはもう、誰かに命を狙われでもしない限りは目を覚ます事はないだろうと話していたと聞いて、僕は何と言えばいいのか分からなかった。
その時からもう、彼は、君に負けると分かっていたのかもしれない。
…………もしかしたら、さっさと追放されろと僕に告げた時の、どこか寂しそうな目を思い出せば、共に過ごした日々だけの何かを、僕にも感じてくれていたのかもしれない。
実は、前述の海の国の魔術師から狙われた時から、その、せっかくジャンが封じてくれた呪いがこちらを窺っているような気配を僕は感じていた。
国境の町とはいえ、そこは橋の向こう側だ。
どうするのが最善であるかバンルに相談し、砂糖の魔物が気紛れかもしれないとは言え与えてくれた恩寵を手放すなと説得して貰い、僕は、馬車の呪いを出来るだけ深く眠らせる為に一人で橋を渡った。
僕がまた迷ったせいで、バンルは、もう一度僕を説得する羽目になった。
その手間を惜しまず橋を渡らせてくれた事を、今はとても感謝している。
まだ君は戻って来ないけれど、君がその身をかけて守ってくれた僕は、こうして無事に家に帰った。
僕が勇気を振り絞ってやらなければならなかったことは、こうして君が渡してくれたものを大切に守る事だよね?
サラ。
僕は、あの日からずっと、橋の対岸で君が戻るのを待っていた。
ダーシャから、あれだけの薔薇を咲かせてしまった君が、橋を渡れるようになるまでには一月はかかるかもしれないと言われていたから、僕は毎日橋に通った。
サラ。
サラ、僕がこちらに戻ってから、今日で半年になる。
ジョーンズワース家の隣は、ここ十年は空き家になっていて、来月から検事の家族が住むのだそうだ。
やぁ、サラ。
これは何回目の手紙だろう。
ここで、今更だけど僕の名前を書いておこうと思う。
僕は、クリストファーだ。
ジョーンズワース家の一人息子で、両親を交通事故で亡くした従兄弟のローレンスと、両親との四人で暮らしている。
不思議だと思わないかい?
僕は、自分がクリストファーではなかったことも、従兄弟のローレンスがクリストファーそっくりである事も覚えているのに、どうしてだか、かつての自分の名前だけは思い出せない。
だからもし、君が僕の名前を呼んでも、僕はもう振り向けないのかもしれない。
ねぇ、サラ。
君は本当はとっくにこちらに戻って来ていて、僕の名前を呼んでいないよね?
振り向かない僕に落胆して、どこかに行ってしまっていないだろうか。
やっと見付けたアシュレイ家には、オードリーという娘の一人しかいないらしい。
今のアシュレイ家の人々は国外に拠点を置いていて、君のお姉さんはまだご存命だった。
お父上もお元気そうだよ。
でも、君はもうそこにはいない。
サラ、クリスマスが来たよ。
今年は君の為に、白い薔薇の螺鈿細工のあるオルゴールを買った。
僕の両親は、隙あらばほこり橋に通ってしまう僕に呆れてはいるけれど、………先日、少しばかりワインで口が軽くなることがあって…………そこで待っている筈だった友人がいなくなってしまったのだと話したら、驚くべき事に父は理解してくれた。
父は子供の頃に、旅先の異国で運河を渡る為の橋を歩いている内に、見知らぬ場所に迷い込んだ事があるらしい。
奇妙な懐かしさを感じて橋を渡ろうとしたものの怖くなって戻ってしまったけれど、橋の向こう側には、太った鼠のような不思議な門番がいた事は覚えているそうだ。
橋を渡る前には、亡くなっていた筈の父だ。
僕達はその日は随分と色々な話をして、父はあの日に車に同乗していた政治家とは、同じ車に乗らない事にした。
この話は、君に直接話したかったな。
窓の外は雪が降ってきたみたいで、僕は、雪の国はどんなところなのだろうかと考える。
竜と馬車の絵本を探したけれど、どの書店にも図書館にもないようだ。
サラ。
僕が、こうして君は必ず帰ってくると信じているのは、多分、僕がジャンを信じているからなのだと思う。
あの日、歌い終わって雪と薔薇に包まれている君を見ていたジャンは、どれだけ大切そうに、そして悲しそうに君に触れたことか。
それを見た時、僕は恐ろしくなった。
そんな風に触れたものを、魔物が手放すとは思えなかったからだ。
だからあの時の僕は、あんな愚かな真似をしてしまった。
でも、…………彼は最初から、君を手放すと決めていたようだ。
それはきっと、君の為に、君をこちらに帰そうと決めた魔物なりの愛し方なのだと思う。
だから僕は、なぜか彼が君を家に帰らせようとしてくれている事だけは、疑っていないんだ。
……………ただ、アシュレイ家に君がいないここはもう、もしかすると君が帰るべき場所ではないのかもしれないね。
ジャンは、君がお父上のことを大好きだったことを知っているから、そんな間違いは犯さないだろう。
ごめん、何日か手紙が書けていなかったね。
実は、ここが僕達が出会った層なのかを調べていたんだ。
今回は僕自身はジョーンズワースの子供な訳だから、その証拠を見付けるのには少し手間取った。
大丈夫。
ここで間違いないよ。
だからきっと、君がこちら側に戻れば、色々なものが書き換わって元に戻るのだろう。
サラ。
僕がこちらに戻ってから、二年が経った。
……………今朝、母が亡くなった。
脳内の血管に損傷が出たことが原因の病気でね、倒れてから二日で亡くなってしまった。
けれど、それが事故ではない事に少しだけ安堵している自分がいて、そんな冷静さが何だか惨めになる。
もう一度君に、母のパイを食べて欲しかった。
………………おかしいかな。
でも、まだ葬儀も終わっていないのに、あのパイが恋しくて堪らないんだ。
サラ、今年のハロウィンはまだ戻れなかったみたいだね。
とは言え、そちらではまだ、あの日からさして時間が経っていないのかもしれない。
それなのに、こんな風に落胆するのは情けないか……………。
うん。
僕は何年でも待っているから、ゆっくりと元気になってから戻っておいで。
出来れば、ダーシャやバンルがまだ死者の国に居てくれて、君が沢山ダーシャに抱き締めて貰えればいいのだけれど。
この頃、朝が随分と冷え込むようになった。
きっとあっという間に冬になるだろう。
サラ、今日は残念なお知らせだ。
家政婦のエマから、裏口の扉の鍵を閉め忘れることをとうとう注意されてしまった。
でも、君がいつ僕を訪ねてくるか分からないから、それが夜で、きみが家に入れないといけないからと、どうしても閉められなかったんだ。
これからは厳重に管理されるらしいから、もし訪ねて来たらノックをして欲しいな。
サラ、こちらは二度目の冬が来ようとしている。
君は暖かくしているかい?
君へのクリスマスプレゼントが二個もあるから、早く戻っておいで。
サラ、春になったよ。
そう言えば、一つだけ言い忘れていた事がある。
実は、僕がこちら側に戻った日は、こちらを発った十二月ではなかった。
それなら、向こう側との時間のズレだけ行方不明になっていたかと言えばそうでもなくて、僕がこちらに戻ったのは、君とあの薔薇のガゼボで出会った日だったんだ。
僕は、それがとても恐ろしかった。
この世界から、君がいた時間だけが巻き戻されて消されてしまっているようで、その事実をこれまでこの手紙に書けずにいた。
宝石の町で買ったインクはとうに尽きた。
ダーシャに言われて、腕輪の魔術金庫から取り出してこちらに持ち帰ったものは他にもあったけれど、どれも、いつの間にかなくなってしまう。
インクの空き瓶もしまっておいた筈だったのに、いつの間にか引き出しの中から消えていた。
書いた手紙も消えてしまったかと思って焦ったが、幸いにもこちらは大丈夫なようだ。
けれど失われては困るものだから、念の為にそのインクで書いたものは全て、普通のインクで同じ内容の手紙を書き直しておいた。
ダーシャに貰った祝福石は、真珠くらいの大きさだったものが半分くらいの小さな石になってしまったが、これはいつまで残っていてくれるだろう。
僕は、もう一度君に会えるのだろうか。
もし君が、人間ではない姿でこちらに戻って来ていたらと考える事もある。
窓際にいた蝶や、図書館通りの並木道でいつも僕の後を付いてくる黒猫。
庭の木槿の木に巣をかけた小鳥や、あの川を泳いでいる魚たち。
僕は、君を見付けられるだろうか。
それともどこかに、剥ぎ取られた名前を持つ別の僕がいて、君はその僕と共にいるのだろうか。
サラ。
安心して欲しい。
ジャンパウロは、元通りのテノールの帝王に戻っていたよ。
変わらずに君のお父上の友人のようで、新聞の社交欄に歌劇場での二人の様子が記されていた。
彼は、東方の国からこちらに移り住んだ美しい奥方がいて、僕のよく知るジャンパウロとはだいぶ表情が違う。
それとも、僕の印象としては、ジャンと呼んでいたあの魔物が体を借りていたジャンパウロの記憶が強いのだろうか。
サラ。
サラ、こちらは男三人での暮らしにも慣れて来たところだ。
父からは、仕事に就いたのだし一人暮らしをしても構わないと言われているけれど、君がここを訪ねるといけないから離れられない。
庭にたくさんの薔薇を植えたよ。
なかなか育てるのが難しくて困っていたら、父は、実は僕が庭師を目指しているのかと思ったらしく、専門書を買って来てくれた。
解体される近所の屋敷から、僕が絶対に手に入れると息巻いて持ち帰った二本の木の件もあるから、この疑いはなかなか晴れそうにない。
今日の君は、どこにいるのだろう。
僕は何度も、何度も、君が向こう側で目を覚ます瞬間を思い描く。
君やダーシャの事を忘れたことはないけれど、やはりかつての自分の名前は思い出せない。
そちらにはジャンがいるから、きっと彼は君を一人にはしないだろう。
それを知っているから僕は、橋の向こうの死者の国や、戻って来ない君のことなど知らない普通の人間のふりをして、今日もなんとか生きてゆける。
ただ、君は意外に濃い味が好きだったから、死者の国の食べ物で困っていないか心配だ。
もし、事情があってもうこちらに戻れないのであれば、無理をせずにジャンの側にいるんだよ。
君は時々とても凛々しくなってしまうけれど、くれぐれも無理をして危ない目になど遭わないように。
サラ。
あれから、ジョーンズワースの呪いは目を覚まさずにいてくれている。
ただ、じっと大人しくしているだけで、そこにいる気配は今も変わらない。
君に、伝えておけば良かった。
僕は、…………君が好きだった。
あの日、暖炉の前でこれからの君の事も愛していると言ったのは、君の事を、女性として愛していたからだ。
でも、あの時の僕は生きて帰れる見込みなどないと考えていたから、君のプロポーズに頷く事は出来なかった。
僕はとても弱く、愚かで利己的な人間だ。
それでも、愛しているという言葉だけは、何とかして君に渡してゆきたかった。
だから、あんな言い方になってしまったのだと思う。
どうかそれを、許しておくれ。
君への想いを自覚したのは、体調を崩している君を見舞ったあの日なのだと思う。
君に別れを告げるつもりで訪ねておきながら、僕は、君への想いを自覚して惨憺たる思いで家に帰った。
もっと早く気付いていれば、僕は君に打ち明けただろうか。
それとも、君がもう少し大人になるまで待ってみたり、呪いを解く鍵を求めて近付いた浅ましさにいっそ君から距離を置いたのだろうか。
サラ。
君と別れてから、六年が経った。
あちらの時間では、まだせいぜい半年くらいなのか。
そう考えると笑ってしまうけれど、その後で必ず恐ろしくなる。
時折、渡れる筈もないあの橋を渡ろうとして、どこにも行けない夢を見るんだ。
もう僕は、向こう側には戻れないのに、我ながら諦めが悪くて嫌になる。
それとも、夢なんてどれもそんなものなのだろうか。
あの日、ダーシャは僕にこう言ってくれた。
もし僕に渡れない橋があったなら、その向こう側に必ず国境の町があるから、だからもう二度と橋を渡れなくても、渡れない橋を見付けたら、その向こうに自分やバンルがいると思って安心していいよと言ってくれたんだ。
だから僕はこれから、その渡れない橋の向こうで、君がジャンに守られている事を願いながら暮らしてゆくのだろう。
どうか君が、一人でこちらで迷子になっていませんようにと思う度に、ジャンが君の歌乞いの魔物になったことを頼もしく思う。
ただ、もしもの事がないように、こちらでも定期的に探してはいるから、もしこちらに来ていて僕を見付けたら、名前を呼ぶだけではなくて、近付いて僕の視界に入ってくれると助かるかな。
「……………ジャン、お願いだ。…………君には、対価となるものは何も残せなかったどころか世話ばかりかけたけれど、どうか、そちらでサラが一人にならないようにしてやって欲しい…………」
暗い部屋でそう呟くと、片手で目元を覆った。
歌い終えたサラをあんなにも愛おしげに見つめ、それでも彼女を帰してくれると言った君を知っているからこそ、僕はそう願う度に心から安堵する。
契約の魔物にとって、その歌乞いは生涯にただ一人の恩寵なのだという。
そんなサラを逃がしてくれようとした君だから、もし君がサラをどこかへ連れ去ってしまったとしても、僕が君を憎むことはないだろう。
その時はきっと、サラがそう望んだのだ。
でなければジャンは、サラの為に自身の願いなど殺してしまう筈なのだから。
そう考えると、もしあのままサラが目を覚ましていなかったらと考える恐怖を、何とか打ち消せる。
あの橋を渡れなくなって、全ての魔法が失われたこちら側で生きてゆくのならば、せめてサラが幸せにやっているという願いくらいは抱いていたいのだ。
サラ。
また、君に出会った季節が巡ってくる。
今年は我が家の庭にも、あの日と同じ薔薇が咲く筈だ。
だから僕は、薔薇の茂みが蕾を膨らませた夜の庭で、ダーシャから教えた貰ったおまじないを口にする。
これは、ウィーム王家に伝わる守護や祝福を呼び寄せる為の特別な呪文で、ダーシャは、きっと君になら使える筈だと教えてくれた。
ジョーンズワースの魔術師なら、きっと叶うよと。
もしかしたら彼も、サラの置かれた状況の厳しさを理解していたのかもしれない。
「おいでおいで、優しい子。おいでおいで、美しい子。おいでおいで、私を守る子。おいでおいで、………私を愛する子。…………おいでおいで、私を幸せにする子」
その言葉で、幾重にも幾重にも望むのは誰だろう。
まじないが誰かを呼び落としてくれるのなら、この体や魂に残った全ての魔術を捧げても構わない。
そう願い、どれだけの夜にこの呪文を唱えたことか。
愛したものの全ては帰ってはこない。
願いの全ても叶わない。
でも、僕達が橋の向こうで触れたのは、確かに魔法そのものだったのだから。
「……………サラ」
その名前を呼べば、息が止まりそうになった。
どれだけジョーンズワースの屋敷に見事な薔薇が咲いても、あの日の庭はもうどこにもないのだ。




