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雪白の歌姫と砂糖の魔物




時間になったと立ち上がったのは、グラフだった。



サラはその言葉に頷き、立ち上がろうとして膝に力が入らずに、アーサーに引っ張って立たせて貰う。



「有り難う、アーサー………」

「サラ、大丈夫だよ。君は必ず家に帰してあげるから」



それはまるで呪文のようだと、アーサーは気付いているのだろうか。

アーサーが魔法にかけて縛っているのは、サラではなく自分自身なのだと。



「……………アーサーも一緒に帰るの」



どうしてこんな時に声がくぐもってしまって、上等な言葉が選べないのだろう。

サラはその悲しさに胸が詰まりそうになって、こちらを見て微笑んだアーサーを見上げた。



さぁさぁと、どこか遠くで雨音が聞こえる。



ここは歌劇場の中なのだし、もうどこにもあの日の薔薇のガゼボはないのに、サラは雨の匂いを嗅いだような気がした。




「じゃあ、………サラ」

「ええ。アーサー、頑張ってくるから」

「うん………」

「サラ、客席で応援しているよ。きっと君なら、特赦に値するだけの素晴らしい歌が歌えるから、あまり緊張しないようにね」

「ダー………ドロシー、有り難う」

「はは、君にそう呼ばれると何だか恥ずかしいなぁ」

「やれるだけの事をやってこい。こちらは俺に任せておけ」

「…………はい。アーサーをお願いします」



豪奢な控え室を出て、最初の廊下で、サラと付き添いのグラフだけが違う方向に向かう。

劇場に申し入れて順番を調整して貰い、辞退したアーサーをサラの後の順番にしてそこを休憩時間として貰う事で、グラフが無理なく客席でサラの歌を聴けるようにした。


今夜は特赦の夜でこれは死者達の為の恩赦でもあるのだから、例えサラが死者ではなくても、歌劇場は出演者の意向を最大限に考慮してくれる。



さくさくと絨毯を踏み、その場所へ向かう。



広い廊下から細い廊下へ、重厚な琥珀の扉を抜けて舞台裏に通じるカーテンをくぐる。

やがて、舞台装置などを収める開けた空間に出ると、ひんやりとした空気に僅かばかりの花の香りがした。



とうとうここまで来てしまった。

そう思うと、緊張のあまり、指先が冷たくなった。



「さて、俺はここまでだ。舞台への階段くらいは一人で上がれるな?」

「……………はい」



こちらを見下ろした魔物の瞳は、薄闇の中で光の尾を引くよう。

白紫の髪が僅かに揺れ、伏せられた瞳にほんの少しだけの深い深い感情が揺れる。



だからサラは、そんな砂糖の魔物を見上げて微笑んだ。



もう、この魔物との約束の時間はここ迄だから、最後にこれまでの時間のお礼を言おう。



「…………先生、私に沢山の事を教えてくれて有難うございました。最初に会った時はとても怖かったけれど、………向こう側で、クリスマスの買い物に行った時は楽しかったですね」

「……………どうだったかな」

「この舞台で先……グラフをぺしゃんこにしたら、向こう側に戻る前にまだ少しお喋り出来ますか?」



そう尋ねたサラに、静かにこちらを見た魔物は、どこか無防備な目をしていてはっとする程に暗く美しかった。


ダーシャから、例えこのような状況であれ魔物に師事出来たことは良いことなのかもしれないと言われたのを思い出し、サラはまた小さく微笑む。



「グラフ、あなたの為に歌います。………これは、アーサーを取り戻す為の契約だけれど、それでも、あなたの心を動かす為に歌うのだから、…………だから、聴いていて下さいね」

「……………ああ」



その返答は低く穏やかだった。

もしかするともう、サラはこの魔物と二度とこんな風に話をする事はないのかもしれない。



だから、忘れないようにその瞳を見上げ、しっかりと頷いてみせる。

グラフはそれをじっと見ていたが、無言で踵を返すとそのまま客席に戻って行った。



呆気ないけれど、これでいいのだと思う。



(アーサー達とは別れを惜しまなかった。だって、私はきっとこの賭けに勝つもの。…………だから、アーサーやダーシャには、きっとまた会えるから……………)



舞台が終わったらみんなで抱き締め合って、その最後の時間を惜しんだ後に、あの橋へ向かおう。



仮面が有効なのはこの劇場までと言われているが、ダーシャの契約の竜はとても大きくなれて、素早く飛べるのだそうだ。

帰りは、劇場の屋根の上に夏闇の影を残して繋いだまま橋まで飛んでくれると聞いて、サラは、竜に乗れるのだと今からわくわくしている。



わあっと歓声が上がる。

誰かの願いが届いたのか、それとも潰えたのだろうか。



その余韻が充分に消えた頃、燕尾服姿のこの劇場の係員である男性が舞台袖からこちらを振り向き、サラに向かって小さく頷いた。



時間になったのだ。




階段を上ろうとすると、段の真ん中を踏んでしまってぎしりと軋んだ。

ああ、もう少し端を踏めば良かったなと考え、そんな神経質さを恥じてしっかりと顔を持ち上げる。


舞台袖からその向こう側を見れば、深紅の天鵞絨のカーテンの向こう側は、舞台に落ちる照明のヴェールで黎明の光のように眩しく見えた。

けれども、客席でこちらを見ているのは、その殆どが死者達なのだ。


手には、ダーシャからウィームの雪の日のようだと言われた水色の宝石の嵌め込まれた美しい白い仮面があり、ペンダントにはダーシャから貰った祝福石。

魔物とのレッスンを胸に、アーサーがくれたドレスの裾を引き摺ってその階段を上がりきる。




(まぁ、……………)




思えば、サラはまだこの歌劇場の舞台を見た事はなかった。

床は木の床ではなく、きらきらと光る黒曜石のような石床なのだと知り、少しだけ驚いて目を瞠った。



こうして舞台の上に立つ瞬間はその眩さに目が眩むのだと知っていたけれど、深く息を吐いてゆっくりと歩き出したその舞台はとても暗かった。

その暗さにまた驚き、ごくりと息を飲む。



(なんて暗いのかしら…………)



真夜中の底のように暗い舞台には、鮮やかな赤薔薇のような天鵞絨のカーテンがかかり、客席の座席と絨毯も同じ色をしている。


けれどもそれ以外のところは夜闇が霧になって薄っすらとかかるような暗さで、サラの位置から全て見渡せる筈の客席は、あまり鮮明には窺えなかった。




(あ、……………)



でも、すぐにアーサー達は見付けられた。

ちょうど、アーサーはバンルと何か話をしていたようだ。


とても動揺したようにくしゃりと顔を歪ませ、途方に暮れた子供の目をしている。

ああ、バンルは約束を守ってくれたのだなと安堵して、サラはそんなアーサーの隣に腰を下ろしたグラフの表情も確かめた。



歌い出すまでの時間を稼げばいいのだ。

後はもう、サラが戦うだけ。


だからもう、安心してここで始めてしまおう。




「四百十二番。こちらのお嬢さんは、歌を歌われるそうですので、音楽の小箱を置かせていただきます。…………終焉の王よ、この音楽の小箱が伴奏以外の魔術を動かさない事を確認していただいても宜しいですかな?」



サラの後ろから舞台に上がった劇場の係員がそう声をかけたのは、舞台の左手にあるボックス席のようだ。


正面のロージェではなく、そこに死者の王がいるのだと知り、サラはまた胸の底で踊った怖さをぎゅっと唇を噛んでやり過ごした。




「ああ、問題ない」




暗闇に響いたその声に、観客席がざわりと揺れる。

初めて耳にする死者の王の声は、凍えるような鋭さと目眩がする程の甘さであった。




「では、歌い始める時に、この小箱を開くように。宜しいですか?」

「…………はい。有難うございます」



深い菫色の天鵞絨張りの小箱は、サラの手のひらに乗るくらいの大きさなのだが、グラフはこの中にオーケストラが隠れていると教えてくれた。


事前に劇場に申請し借りておいてくれたそうで、サラが、グラフがそこまでの準備を整えてくれた事を知ったのは、控え室を出る少し前の事だ。


昨晩の内に、申請に必要なので舞台で歌う曲の旋律だけを伝えておくようにとは言われていたが、楽譜もないのに伴奏はつけられないだろうと、特に深く考えてはいなかった。


この小箱に住むオーケストラ員の亡霊達は、一度口ずさんで聞かせた旋律を、正しく演奏するのだそうなので、それはグラフが設定してくれたのだろうか。


箱を閉じれば次の曲を聴かせるまでは同じ曲を冒頭から演奏し直してくれるが、やり直しがきかない舞台である事はサラも承知していた。



(大丈夫。魔法仕掛けの伴奏だけれど、さっきの控え室で冒頭の演奏は聴かせて貰ったから、それに合わせて歌えばいいのだわ。………やはり音楽は音の厚みも大切だもの。伴奏をつけて貰えた私はとても運がいい………………)




燕尾服姿の男性が舞台からはけると、サラは真っ直ぐに前を見据えた。

観客席はまだ静かなままなので、グラフはサラの擬態の色を解いてはいないらしい。


歌う前に舞台から下ろされないように、橋の向こう側から来た事を話してもいけないし、名前を取られないように名乗ってはいけないのだともう一度自分に言い聞かせ、サラは口を開いた。


短い挨拶を許された時間は、歌う時間を差し引いてもあまり多くはない。




息を吸って長く吐いた。





「……………私は、観客席にいる魔物と賭けをしました」




透明な声は、思っていたよりも大きく響いた。


そのしっかりとした声の響きに、亡くなった母のピアノを魔物が弾いて行われたレッスンの時間を思い出す。




「魔物が私の歌に満足すれば、私の大切な人を返してくれます。けれど、魔物を満足させられなければ、私はお砂糖にされて食べられてしまう。そんな約束です」



グラフは、全てが終わってからもまたサラの意思を問うかもしれないが、この約束が撤回出来るとはここでは言うまい。

これが、交わした契約を撤回などしないというサラなりの答えだった。


真っ直ぐに見つめた先で、アーサーが体を揺らし、ダーシャが祈るように手を組んでこちらを見ている。


ざわりと揺れた客席からは、魔物が?というような僅かな囁きがこちらまで届いた。



「だから、私は今夜ここで、その魔物の為に歌います。特赦の舞台でその魔物を納得させて、大切な人と一緒にここから帰る為に」



事前に、その拍手で決めて欲しいというようなことは言わないようにと、バンルから忠告されていた。


拍手での採決が行われる特赦の舞台であるが、サラの歌声の持つ力によっては、観客達は歌が終わった直後にその反応が出来ない恐れがある。


その場合は、この場に居合わせた死者の王が特赦の決断をするだろう。

だから、自らの言葉で自らの採決を危うくしてはならないと言われていたのだ。


だから多くは語らないことにして、サラはそれだけを言うと、優雅さを心がけて深々とお辞儀をした。



頭の片側にかかるように仮面をかけ、音楽の小箱をドレスの裾で動かしてしまわないところに置くと、ぱかりと蓋を開け、ゆっくりと離れた。




曲の前奏が始まる。




すると、硬質でふくよかなその音に、小さく心が跳ねた。


(何という美しい演奏なのかしら………)



その技巧と情感の分厚さに胸が踊るのだから、サラはやはり、アシュレイの家の子供なのだ。



歩幅に合わせて揺れる髪の毛の先が、ざらりと色を変えて白く染まってゆけば、会場全体が息を飲むような、引き攣れた沈黙が軋んだ。


ドレスも裾から青緑色が剥がれ落ちてゆき、しゃわりしゃわりという衣擦れの音に合わせ純白に戻りゆく様は、水面に指先で触れて広がる波紋のようだった。




最初は囁くような音から。



強張った体を震わせるように、その音は澄んで、どこまでも澄んで、遠くへと響いた。




(あ、…………)



その音が触れた場所を示すように、舞台の中央に立ち真っ直ぐに正面を見たサラのドレスの裾に、ふつりと純白の芽が芽吹く。


視界の端にそれを捉え、けれども心は胸の中の歌声と歌詞に向ける。




(わたしは、あなたを捕まえる…………)



力のある歌声とは何だろうと考えたが、それはやはり、聴く者の心を捉えて離さない獰猛さなのだと思う。

だからサラは、砂糖の魔物をその歌声で絡め取って捕まえてしまうつもりで、歌った。



捕まえて、屈服させて、そして手放させるのだ。



橋を渡って、もしかしたらもう二度と元の場所には帰れないかもしれない向こう側に戻り、そこでアーサーと一緒に幸せに暮らす。



こうして舞台に立つと、白昼夢のように何度も見たあの暗い劇場の光景は、今夜の、この死者の国の歌劇場ではなかった。


もっと暗くもっとどこにも行けないあの場所は、アシュレイのものか、ジョーンズワースのものか。

それでもきっと、暗く残酷な呪いの果てなのだろう。




(でも、…………私はその先に行く)




アーサーと手を繋いで呪いの中に座り、まだ舞台に立っている誰か大切な人を見ていたのだから、それはきっとサラ達の血を繋ぐ誰かが損なわれずに残るという事なのだろう。


それに、サラが見た不思議で美しい歌劇場で、向かい合って立った背の高い男性に指輪を贈られて微笑んでいた少女は、サラでもなければ、サラの知っている誰かでもなかった。



(愛しい子………)



そこはきっと、橋の向こう側のダーシャ達の暮らす魔法のある世界だったと思うのだ。



(だからきっと、私達が立ち去るこちら側に、いつか、私達の血を引く誰かが戻ってくるのではないかしら…………)




サラのような未熟な人間が、人ならざる者達の叡智や祝福を覗き込み過ぎるのは危ういことだ。


しかし同時に、それが示すこの先があるのなら、その糸をしっかりと握り締めて確信するからこそ、サラは勇気をもって前に進んでゆけるのだと思う。




また歌う。



すると、芽吹いたものが茎と葉を伸ばし、見事な白薔薇を咲かせた。

そんな白薔薇がそこかしこで健やかに伸び、次々と花を開かせてゆけば、辺りは芳しい薔薇の芳香に包まれてゆく。



その香りに胸を熱くして、サラはまた歌った。



伸ばした指先から細やかな光が煌めく様は、仄暗い空から輝くような純白の雪が降るようだ。



いや、本当に雪が降っているらしい。

そう気付き、サラは目を瞬いた。




(……………まぁ、雪だわ)




そう言えば、サラ達が家を出たのはクリスマスの前の事だ。

こんな風に死者の国の歌劇場に降る雪は、プレゼントを贈り損ねたアーサーへのクリスマスになるだろうか。


そう思ってアーサー達の方を見ると、呆然と瞳を瞠ってこちらを見ていた。

他の観客達は死者だからか表情があまり見えないが、大切な人達の顔はよく見える。


大切なものが目に映るのが、何だか嬉しい。



今や、歌劇場の中には淡い光が凝るようにして魔術が結晶化した雪が降り、そして、サラの歌声で生まれ落ちた純白の薔薇が散りゆく花びらも、まるで雪のように舞っていた。


はらはらと白いものが舞い散り、歌声からこぼれる魔法が降らせる雪は、温度のない魔術の風に客席の方に広がってゆく。


真紅の絨毯に雪片が落ちれば、そこには硬質な音を立てて水晶のような結晶石が育ち、またそこから葉を伸ばし蕾をつけ純白の薔薇が咲き乱れる。


薔薇が咲きって花びらが落ちると、その全てが淡い光の粒子になって風に崩れた。

そうすると、ざっと光る祝福の煌めきが集まったような美しい霧になる。




降り積もり、咲き誇り、生まれ出でて滅びてゆく。



どこまでも、どこまでも。




(ああ、……………これが音楽だわ)




そう考え微笑み、また歌詞を拾って心で色づけ音にした。




(そして、愛とはこういうものなのだ。生まれては儚く死んでゆくけれど、例えこの世界にある全ての魔法が優しくはなく、私達を愛さないのだとしても、愛は美しく決して枯れはしない)




サラは、音楽の神に呪われたアシュレイ家の娘として生まれた。




大切な家族の願いで呪いに祝福され、愛する家族を滅ぼしたものの色を纏い、不思議な橋を渡って、この不思議な町の歌劇場へ。


客席には死者達がひしめきあい、凛々しい竜や、滅ぼされた雪の国の王子様に、壮絶なほどに美しく恐ろしい魔物達。


そして、サラの大好きなジョーンズワースの魔術師がこちらを見ている。




(これが、私のすべて)



音楽が大きくうねり曲が佳境に入れば、枯れ落ちる薔薇より咲き誇る薔薇が増えてゆき、あたりは一面の白薔薇で埋め尽くされた。



高音が伸びやかに広がり、光の波が弾ける。



魔術の光を帯びたサラの真っ白な髪が、きらきらとした青白い祝福の光を纏い、温度のない風にふわりと広がった。

いつの間にか、その髪は足元までの長さになっていて、そこからまた薔薇が咲くのだ。



ほうっと、吐き出す息が白くけぶる。



(魂を吐き出して、咲かせて、この歌で私の愛するものを生かしてみせる)



真っ直ぐに見つめた先で、こちらを見ているのは、美しい白紫色の髪と夜の宝石のような瞳をした美貌の魔物だ。


色の合わせでけばけばしくなりかねない青緑とワイン色の華やかな織り柄の盛装姿は、それすら砂糖の魔物の残忍そうな美貌を引き立てるようで、ほんの少しだけ、どこか途方に暮れたような無防備さがあった。




サラは歌って、歌って、歌った。



選んだのは、苛烈な曲ではない。

静かに伸び上がった薔薇の蕾が大輪の花を咲かせるような、寧ろ、狂おしい程に静かで豊かな曲だ。



けれどもその音楽の全てで、この歌劇場の全てを掌握するべく、胸の底に沈んでいた全ての音を吐き出した。



差し出した指先にも雪が触れ、その一欠片が触れた途端、しゃりんと音を立てて白い宝石のような薔薇が指先にも咲く。




「………………あ、」




いつの間にか、音楽は終わっていた。



そして、歌劇場の中はしんと静まり返っているようだ。



けれど、雪と満開の薔薇に囲まれてしまったサラにはもう何も見えなくて、そのもどかしさに涙が溢れそうになる。

音楽の中で自分が失われてしまうような、不思議な不思議な感覚だった。



生身の暖かな体で歌い始めたのに、今はもう、この体が自分のものではないような気がする。



どこか、人間が知り得ないような美しく澄明な深い湖の底で、微睡むように揺蕩っているかのような。

そんな気持ちの良さと、魂の端からもろもろと花びらになって崩れ落ちてしまいそうな頼りなさを感じてうとうととしたところで、ふっと視界が翳った。




「……………ああ、俺の負けだ」



誰かが、はっとする程に満足げに笑い、そう言ってくれる。


答えようとして唇を開けば、また足元に薔薇が咲き零れた。

頬に触れた指先は、誰のものだったのだろうか。



「………………サラ。それ以上潜ると、人ではないものになるぞ」

「…………せん、せい?」

「ここにいる。…………まったく、俺の教え子は加減というものを知らないのか。この歌劇場そのものを白薔薇で覆っちまいやがって。……………抗いようもない。お前に全部くれてやるから、………………戻ってこい」

「……………先生、……アーサーは、」



そう尋ねると、あまりよく見えないのに顔を顰められたのが分かって、サラは胸の底でくすりと笑う。


そう言えばこの魔物には、そんなところがあった。



「多少は書き換えの影響も出るだろうが、あいつは元の場所に帰らせておいてやる。………お前も帰してやりたいところだが、…………この有様だと、人に戻らせるのに少し時間がかかるかもしれないな。だが、………必ず帰してやる」




そう言われて、ああ自分はもう、ここから動く事も出来ないのだと漸く気付いた。


サラの舞台は特赦日の最後ではない。

最後に舞台を使う筈だったのは、グラフだったのだ。



(……………どうしよう。まだ最後の舞台が残っているのに。……………あなたは、失った片手を取り戻そうとしたの?それとも、片手を無くした煩わしさを、他の楽しいことで紛らわせようとしたの?)



唇が動かなくなったので、とろとろと微睡む意識の底でそう尋ねると、そんな問いかけが届いたものか、グラフが自嘲気味に微笑むのが見えたような気がした。




「…………腕はもういらん。これだけの舞台の後にそれを望むのも興醒めというものだ。……………だが、契約を手放す魔物らしく、其れ相応の対価は取るとしようか」



ふっと、伸ばされた指先が頬に触れた。

サラは、その手が思いがけず優しかった事に安堵しつつ、ふうっと凍える息を吐く。




「暫く眠るといい。お前の願いは俺が叶えておいてやる。…………だが、一度結ばれ、そして途切れた魔術は、修復が効かないものだ。手を伸ばして触れた魔術から、何もかもを無傷で取り戻すということは、出来ないかもしれないぞ」



(ええ……………)



それは分かっていた。

だからサラは、ぼんやりとした意識のままに微笑む。





わあっと、喝采に包まれる。

劇場が揺れるようなその中で、サラは白い薔薇と雪の繭の中で、ゆっくりと目を閉じた。




「サラ!」



どこか遠くからアーサーの声が聞こえ、サラは、意識だけをぱちりと覚醒させる。

重たい瞼を何とかして開こうとしていると、今度はパーンと手を打つ音がした。



「さて、雪白の歌姫はここからどかせそうにないからな。俺の特赦日の舞台はこのままここで行う事としよう」




朗々と響くその声は、強く美しくぞくりとする程に暗い。

これが魔物の声なのだと感嘆しながら、サラは意識の端でグラフの声を聞いている。



(きっと、もう怖くないわ……………)




「ジャン、……………もう一度僕と契約をして欲しい」



それなのに、サラの大事な人はまた困った事を言い出したようだ。

微かに眉を寄せて何とか意識を繋ぎ止めようとしたところで、ぞっとする程に美しい、砂糖の魔物の哄笑が響き渡った。



何と冷たく、残忍な笑い声だろう。

愉快そうに笑うけれど、ちっとも笑っていないではないか。



「愚か者め。解放された途端、また自分を担保に入れるつもりか?」

「その通りだ。僕がその身を損なわれずに生きている限り、あなたが欲した魔術はここにある筈だ。彼女を返してくれ。…………僕は所詮紛い物の魔術師だが、彼女が、…………とても危うい状態である事はよく分かる。魔物は、自分の歌乞いを決して手放さないんだろう?」



そう尋ねたアーサーに、ふっと魔物が笑う気配がする。



「馬鹿な男だ。愚かで、浅慮で、不愉快な人間だな」

「その通りだ。けれども…」

「………この通り、この愚かな魔術師は、歌姫が俺から捥ぎ取った自由すら火に焚べようとする」



アーサーの言葉を遮るようにして、また観客達に語りかけるグラフの声に、サラは、あるかなきかの悲しみのようなものを聞いた気がした。



「まったくもって、不愉快な男だ。お前は俺を働かせ、結局はその対価を、お前の代わりにこの歌姫が支払った。俺が支払う賭けの代償はお前の為のものではないと言うのに、あまつさえ、俺の歌を手放せだと?その対価として差し出すのが、使い古されたかつての対価などとは片腹痛い」

「では、何でも構わない。僕が持つものであれば、何だって差し出そう」




(…………アーサー!)



自由の効かない体で、サラはじたばたした。

これでは、ぐるぐる輪になって回るだけだ。

対価と契約を繰り返し、ただ魔物の手のひらの上でどこにも行けなくなるだけ。



(それに、グラフはきっと…………)



「………それなら、お前の名前を貰おうか」



きっと帰してくれようとしていたのだと考えかけていてサラは、その言葉にぎくりと心を縮めた。



「ああ。それで彼女を帰してくれるのなら」

「そしてお前は追放だ。橋の向こうに帰るといい。もう二度と、こちらには足を踏み入れるな。全てを差し出す覚悟があるのなら、お前が命よりもと願ったその願いごと捨てろ」



その言葉を聞いた途端、サラは息が止まりそうになった。



(やめて!それは駄目。それはアーサーの……………!!)



「差し上げましょう。名前も、その願いも。ただし、彼女は返して貰います」



心の中で小さく悲鳴を上げたサラの耳に届いたのは、一拍の躊躇いもないアーサーの声だった。


やっと僅かに持ち上げられた重たい瞼を開くと、白紫色の魔物が優雅に手を広げて一礼する姿が見える。


サラの正面にこちらに背を向けて立っていて、アーサーは、席を立ってこちらにまで来てしまったものか、舞台に上がって来ており、グラフと向かい合うように立っていた。



わあっと歓声が上がり、轟音のような拍手が鳴り響く。



砂糖の魔物は舞台を終えたばかりの演者のようにあちこちにお辞儀をし、最後にゆっくりと舞台の左手に顔を向けた。




(アーサー…………!)



そんなグラフを見ていたアーサーがこちらに視線を向けたので、サラは何とか声を出そうとしたのだが、もう唇は動かなかった。


アーサーの灰色の瞳が、痛みを堪えるようにくしゃりと歪む。



(だって、こちら側に二度と来られないのなら、もう二度と、あなたの親族でもあるダーシャにも会えなくなるのよ?魔法はとても怖いものだったけれど、今回はここから絶対に逃げ延びてみせるけれど、…………それでもアーサーは、またいつか、……………いつかここに戻って来るつもりだったのでしょう?)



実際には橋を渡らないとしても、またいつかこの魔法があって魔物がいて、妖精や竜のいる世界に行けるのだと思えば、アーサーは元の場所でも辛うじて息が出来る筈だ。


その悲しいぐらいに小さな希望を、サラの為に捨ててしまう事なんてない。



だってサラは、アーサーに生きていて欲しいからここで歌を歌ったのに。



(それに、名前も…………)




「………いいんだ。サラ、僕もね、願い事の全ては叶わない事をもう知っている。だから、たった一つの宝物を守れるのなら、僕はそれで充分なんだよ」



グラフが舞台の左手に移動したからか、咲き誇る薔薇を踏まないように慎重に歩み寄り、アーサーはそう言う。

サラの胸が潰れそうなくらいに悲しそうに微笑むくせに、何て優しい目をしているのだろう。


サラが何とか唇を動かそうとしていると、不意にそんなアーサーがぎくりとしたように青ざめ、サラは、はっとしてグラフが体を向けた方に瞳だけを動かして視線を向ける。




そこには、ぼうっと燃え上がる白い炎のような、恐ろしく美しい人ならざるものの姿があった。



(顔が…………)



背の高い男性だ。


薄闇でもくっきりと浮かび上がった真っ白な軍服は、マントの裏側だけが血のように赤い。

けれども、その他の部分は鮮明に見えるのに、顔だけは視線がぶれるようになってしまってピントが合わないのだ。


見ようとしてもどうしても見えない事が、とてつもなく悍ましく恐ろしい事に思えてサラは身動きも取れないままに竦み上がった。




(これが、死者の王……………)




「…………やれやれ、橋の向こうからの迷い子か。あちらのあわいから、おかしなものを呼び込んだようだな」

「この通り、追放が決まったばかりだ」

「ああ。それがいいだろう。その言葉で結ばれた魔術が、かかった橋を落とす頃にはその人間の記憶もこちら側から失わせる筈だ。在らざるべきものは、そうして排除される」

「…………まぁ、そういうものらしいな」

「だから、名前を剥ぎ取ったのか?名前を奪えば、こちらに残るその名前を知る者には、そのまま記憶が残る」



そんなやり取りを、勿論アーサーも聞いたのだろう。


ふっと驚いたように瞠られた瞳を見ながら、サラも、聞かされていなかったその事実に困惑していた。



(こちらから追放されたアーサーは、もし、グラフに名前を奪われなければ、こちら側の人たちから忘れられてしまうところだったの…………?)




「ジャン………」


思わずといった感じでその名前を呼んでしまったアーサーに、グラフはそちらに視線を向けたようだ。



「呆けてる場合か。さっさと舞台から降りろ。追放される者らしく、帰り支度でも整えておけ」



(……………っ?!)



そちらのやり取りに意識を向けていたサラは、突然、ずしりと押し潰されるような視線の圧を感じて、声にならない声を上げた。


恐怖にざあっと血が下がるような思いがして、死者の王がこちらを見たのだと気付いた。



「…………こうして、得られる筈もないところからも奪おうとするのは、人間くらいのものだな」

「勝手に見るな。お前にはやらんぞ。いくら終焉とて、これは俺の歌乞いだ」

「はは、類い稀なるものだが、俺が欲するものではないな。いらないよ」



静かだが、冷たい声だった。

ばさりとケープを翻す音がして、真っ白な影が立ち去る。



それは、舞台の上から下りたというよりは、押し潰されそうな精神圧が一瞬で掻き消されたかの如く、死者の王が完全にこの歌劇場から立ち去ったと理解させるだけの呆気ない退場だった。



(いなく、………なった…………?)



薄くぼんやりと開いていた瞼を安堵に閉じようとしたサラの隣で、ふっとグラフが気配を冷ややかにする。



「…………次から次へと。今度は何だ。悍ましく汚らわしい人間の強欲さが、ここまで届くか…………」




(グラフ………………?)




今度は何が起きたのだろうと考え、安堵に包まれてまた沈んでしまいそうだった意識を揺り起こす。


それは先程よりもずっと難しい作業だったが、サラが、何とか長い瞬きを終えてもう一度瞳を開けば、俊敏な動きで舞台に駆け上がったバンルが、小脇にはダーシャを抱え、舞台の薔薇の輪の向こう側にいたアーサーをがしりと捕まえるのが見えた。



「…………っ、僕はまだ!サラを置いていく訳がないだろう?!」

「聞き分けろ、魔術師。お前が舞台によじ登ったせいで、ヴェルリアの死者達を通して、ウィーム王家殲滅の魔術がこちらに染み込んで来やがったんだ!!お前がここに残れば、お前がその身に宿す呪いがお前ごとサラを殺すだろうが!!」

「…………っ、」



(アーサーが、危ない目に遭っているの?)



誰がそんな事をするのかと腹を立てると、ぴきぴきと音を立ててまた薔薇が広がる。

いつの間にかすぐ近くに立っていたグラフが、そっとサラの手に触れた。


視界は明瞭とは言い難かったが、苦労してグラフと目を合わせる。



「サラ、そこまでだと言わなかったか?……………アーサーは、あの竜が橋まで送り届ける。一足先に帰すが恨むなよ」



言われた言葉は、すとんと胸に届いた。

疑いもせず不安にもならず、そう言ってくれた事にとても安堵する。



(……………良かった。だって、魔物は約束を守ってくれるもの……………)



これでもうアーサーは大丈夫だとほっとしたサラは、次の瞬間、目の前に突如として現れた漆黒の竜の姿に、あまり動かない瞼をぴくりと引攣らせた。




(……………竜………………!本物の、大きくて素敵で綺麗な竜がいる……………!!)



これにはサラも、強張っていた口元に微かな微笑みが浮かんでしまい、竜の上に乗せられてこちらを泣きそうな目で見ていたアーサーが、そっと、まるで宝物にでも触れるかのようにその毛並みを撫でると、灰色の瞳を揺らして微笑んだような気がした。



「ジャン………僕は、」



呟くようなその声がこちらに届いたのは、羽ばたきの風向きのお陰だったのだろうか。



「さっさと行け。新しい名前は、戻った先でどうにかなってるだろう。こいつはすぐに後から送り返してやる。特赦の夜が終わる頃には、この醜悪な殲滅術式とやらの呪縛も解けるだろうがな」

「……………では、僕はあの橋で彼女を待っています。…………サラを、お願いします」

「………お前な、ここで何度こいつの名前を呼ぶ気だ」

「…………っ、…………すみません…………」

「その甘さにはうんざりだが、約定は守るさ。お前はさっさと追放されろ。王族気取りの豪奢な送りの車だが、ここまで手をかけさせておいて、振り落とされて死ぬようなつまらない幕引きはするなよ」

「…………はは」



困ったように小さく笑ったアーサーが、最後にこちらを見た。




“サラ、待ってる”



唇の動きだけでそう呟き、ばさりと羽ばたいたバンルの翼に遮られて、繋がった手が解けるように、そんなアーサーの灰色の瞳が見えなくなる。




「…………ここが、竜に対応した劇場で良かったと思うばかりだな。……………さて、…………お前はもう眠るといい。あいつと同じ場所に戻れるかどうかは、運次第だな」




伸ばされた手が、そっとサラの目を覆った。

ゆっくりと目を閉じ、深い深い、静かな場所に沈み込む。



少しだけその深さが恐ろしかったが、グラフが付いていてくれるのだから、大丈夫だろう。


何しろサラが捕まえてしまった魔物は、白に近しい色を持つ長命高位な砂糖の魔物なのだから。






それが、サラが、最後にアーサーと過ごした日の記憶の全てだった。














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― 新着の感想 ―
だから、名前を剥ぎ取ったのか?名前を奪えば、こちらに残るその名前を知る者には、そのまま記憶が残る」 だから王様の記憶は残ったのですね その辺のお話の繋がりも読みたかったです… 伏線すごすぎる… ウィ…
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