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雪の国と海の国





劇場に入ってまず、サラ達が向かったのは舞台に立つ者用の受付だ。

仮面を貰っても必ず舞台に立つ必要はないが、舞台に立つ者は割り当てられた番号の公演時間の開始一時間前迄にここで、舞台に上がるという申請をする。

そして、特赦の舞台でどのような事をするのかをざっくりと説明するのだ。



(特に舞台そのものの準備がある訳ではなくて、舞台に通された演者が身一つで自分の時間を使うということなのだわ…………)



一度、叔母の立つ歌劇の舞台のオーディションを見に行った事があるサラは、何だかそのようなものに似ているなと考えていた。


特赦を願い出た死者が自分の時間に舞台に立たなければ、その間の舞台は空っぽになる。

事前に辞退の申し出があれば、休憩時間になることもあるらしい。


今回、サラは自分達が最後の組だと知り、チケットの購入可能な時間ぎりぎりに訪れたのだと思っていたが、こちらで暮らしていた時のアレッシオが不定期ながらも歌劇場で働いていたかららしい。


グラフが購入したのは、そんなアレッシオに手配させて、事前に予備も含め何枚か押さえておいた取り置きのチケットだったそうだ。



「先……グラフは、何枚買っておいたのですか?」

「五枚だ。特定の舞台を利用するのは、何も俺ばかりではない。顔を合わせたくない奴等が来ている可能性も含め、特定の公演時間を回避する事も考慮したからな」



死者の為の舞台のトリが魔物の公演になるのは主催者側も不本意だろうが、革の装丁の受付帳を持っていた燕尾服姿の男性は、サラ達の公演の受付を手早く済ませてくれた。


サラは特赦の申請の手段を歌と伝えたのだが、隣の係員に言葉でと伝えているアーサーを見上げ、サラは目を瞠った。



「アーサーも舞台に立つの?」

「立つつもりだよ。折角なのだから、僕にも得られるものがあるかどうか試さないと」

「直前まで辞退は自由だからな」

「…………ジャン」

「それについては俺にも言いたい事がある。………控え室に入ってから話させてくれ」



(言いたい事…………?)




奇妙な重さを持つバンルの言葉に、サラは首を傾げた。

サラが長いマントのようだと思った黒いコートを肩にかけ、夏闇の竜が歩くとしゅるりとその裾捌きの音がする。

肩の上に乗ったダーシャはけばけばの襟飾りのようだったが、大好きな竜の肩の上で心から安堵しているように見えた。


時折二人は視線を合わせ、そうするとダーシャの曲がった尻尾がゆっくりと揺れる。

魔法のある国の山猫が喜びを示す為に尻尾を振るかどうかはさておき、ダーシャの心がその度に動くのだ。



(大切なひとが、無事に生きていてくれたのだから、ダーシャがどれだけ嬉しかったかなんて考えるまでもないわ)



戦乱の中で自分を殺す事で生かしてくれた大切な竜だったのだと、ダーシャは話してくれた。


その話を聞いていたサラにとっても、この立派な竜が無事だった事が堪らなく嬉しい。


そんな事を考えていたら、サラはふと、そのバンルと言う名前の竜が、意識してアーサーの隣を歩いている事に気付いた。


ダーシャの友達と言うだけでなく、アーサーがダーシャの血族である事を知って、近くで見てみたいのだろうかと考えていたサラは、出演者用の控え室に入ったところでその理由を知らされた。



「さて、落ち着く間も無く話させて貰うが、この死者のあわいに入ったヴェルリア………ウィームは知っているか?君達がダーシャと呼んでくれていた、俺の契約の子供の祖国だ。その国を侵略したのが、ヴェルリアという名前の国だ」



控え室は、思っていたよりも豪華だった。

落ち着いた深緑色の絨毯が敷かれた部屋には、重厚な作風の天井画と小さなシャンデリアまである。


小さな貴賓室のような作りにサラは驚いてしまったが、この劇場が地上にあった頃には劇場を利用出来るのは貴族までだったそうで、舞台も儀式的な要素が強かったらしい。


加えて元より竜も入れる程の巨大な施設なのだから、部屋数が多く控え室が多少豪華でも当然なのだった。


談話室のような造りになっているのは、演者にお客が来る事を想定しているのだろうか。

五人は向かい合って座り、片手で前髪を搔き上げた夏闇の竜の話を聞く事になった。



「ヴェルリア………というのが、ダーシャの祖国を侵略した国の名前なのか………」

「そうだね。正しくは僕の祖国の前に統合、制圧された他の二ヵ国も加わっているけれど、戦争を始めたのはヴェルリアだ」



アーサーにそう答えたダーシャが、静かな声でその国のことを教えてくれた。



ヴェルリアは、海の国なのだそうだ。



王政の国ではあるが、圧倒的な力を持つ優秀で残忍な王がいるだけではなく、尚且つ商人達の力も強い。


火竜や海竜達と契約を結んだヴェルリアの海軍は、古くから近海に敵なしと言われていたが、海には獰猛で残忍な人外者達も多い。

そのような環境で積み荷を守りながら遠く離れた他国に出かけて行く胆力を併せ持つ国民達は、戦いに長けた荒々しい気質の者が多いのだと言う。



「実はね、今回の侵略戦争で魔物に襲われ命を落とした、向こう側の騎士や魔術師達もここにはいるんだ」

「……………その方達も……」



そこまで考えが及んでいなかったサラは、はっと息を飲んだ。

となると、死者になってまで戦争を続けることはないにせよ、敵国の兵士達とあまりにも近くにいることになる。



「その、ヴェルリア兵達を辿る形で、ヴェルリアが敷いたウィーム王家の人間を最後の一人まで殲滅するという殲滅術式が、こちらに染み込み始めているようでな」

「成る程なぁ。ヴェルリアは、その術式までを敷いたか。余程、求愛を汲み取らなかったウィーム王家を許さなかったらしい」



そう笑ったのはグラフだ。


そこから先にあるのは、サラ達の知らない向こう側の国々の歴史と戦だ。

だが、ダーシャから聞いていた通りに、雪の国を滅ぼした国は苛烈で残忍であったらしい。


バンルが話してくれた事によると、その海の国は、国の兵士たちにもダーシャの祖国の王家の人間を一人残さず処刑するという魔法の誓約をかけており、彼等が死んで一度は途切れていたその魔術が、特赦日で動く魔術の濃さにじわじわと死者の国の中にまで染み込んで来ているのだとか。



「しかし、この死者のあわいでは、死者達の争いは禁じられているのではありませんか?」

「まぁな」


アーサーのその言葉に、バンルは一つ頷いた。


控え室の中にあったテーブルを囲んで座っている今、ダーシャはバンルの膝の上に移動している。

どこからどう見ても、もさもさした普通の猫に見えたが、目が合うと微笑むような表情になった。



「加えて、本来ならば死者の国では魔術の扱いはかなり制限されている。通常時であればさしたる懸念はないのだが、………唯一の例外が特赦日だ。今日ばかりは、この劇場内で仮面をかけた者達は、本来の姿や力を取り戻す事が出来る。…………俺のようにな」



(あ……………!)



だからなのだと得心し、サラは膝の上で組んだ手をぎゅっと握りしめる。


他の要素に考えが及ばないサラは、それはいい事ばかりだと考えていたが、こうして厄介な影響を及ぼすこともあるのだ。



「……………僕はバンルのお陰で、この通り山猫の使い魔に練り直されている。仮面を自分では身に着けず彼に預けているのは、僕が舞台に立った事で、そのヴェルリアの魔術が動いたからなんだ。……………すまない。それがなければ少し猶予はあったのかもしれないのだけれど、僕のせいで、ここにウィーム王家の血に連なる者がいると認識されてしまった……………」


もさもさの頭を下げて謝罪したダーシャに、アーサーは微笑んで首を振った。


「ダーシャ、それは君が謝ることじゃないよ。それに、本来は死者同士の争いが禁じられているのであれば、死者の王、もしくはその系譜の誰かがいる劇場で問題を起こすのは、彼等だって避けたいのではないかな?」

「いや、その術式は強制なんだ。……………今回の統一戦争の背景には、ヴェルリアの王の私怨のようなものもあったみたいでね。かの国は、少し前までは友好国だった。だからこそ、それ故に結ばれた関係でウィーム王家の人間が見逃される事がないよう、ヴェルリアの兵士たちも魔術で縛られているんだ」

「……………そのようなものだったのか」



頷き、僅かに困惑しているように呟いたアーサーに、山猫姿のダーシャは視線を彷徨わせた。


きっと、一つ屋根の下で家族として暮らした日々があったからこそ言い難かったであろう台詞を引き継いだのは、そんなダーシャの契約の竜だ。



「だから、お前は舞台には上がれない。俺が近くに居れば多少は気配を誤魔化してやれるが、特赦の舞台に上がれるのは演者一人だけだと決まっている。舞台にいるところを遠方から狙われればひとたまりもないからな」

「……………しかし!……………いや、………僕がここで駄々を捏ねても仕方ありませんね。確かに、僕の技量では兵士や本職の魔術師に敵うとは思えない……………」

「ごめん、アーサー。また今度も、僕の考えの甘さが君から選択肢を奪ってしまった…………」

「君のせいなものか。それに、………考えてみれば、僕の願いは特赦の舞台で叶えられるようなものではなかったのかもしれないから、これで良かったんだよ」



そう微笑んだアーサーは、不思議と落ち着いているように見えた。


椅子に深く座り直してこちらを見ると、サラの手を取ってくれる。

サラは、そんなアーサーの眼差しが静か過ぎる事が、怖くてならなかった。



「彼女が舞台に立つ時には、…………僕達から離れているからこそ、却って安心なのでしょうか?」

「ああ。観客席には死者の王がいる。ウィームの血族が目立って殲滅術式を刺激しなければ、ヴェルリアの人間達とてそのような事はしたくはあるまい。術式よりも恐怖が勝つだろうからな。………こちら側で暮らす死者達にとっては最も恐ろしいものらしい」

「死者の王が、……………来ているのですね」



その慎重な声に、サラは昨晩のアーサーとダーシャが、いざとなれば死者の王に嘆願するというような事を話していたのを思い出した。


けれどもそれは、サラの舞台が終わって、サラの歌がグラフに響かなかった場合のこと。



そちらはまだ危ぶむ必要はない。



握られていた手が離れ、アーサーが小さく息を吐いた。


ああこれは、アーサーが固めた決意の合図だと考え、サラはぐぐっと体に力を入れて涙が滲まないようにする。



「……………すみません、少し気持ちを落ち着けたい。浴室の洗面台で、顔を洗って来ても問題ありませんか?」

「ああ。この控え室の中くらいまでなら、俺の魔術でどうにか出来る。呪いや浸食を避けるのに向いた系譜のものだからな。好きなだけ泣いてこい」

「……………はは、泣きはしませんが。でも、…………意気込んでいただけに動揺はしています。サラの舞台の前に僕もしっかりしないとですから、その揺らいだ心を鎮めて来ます」

「アーサー……………」

「サラ、心配しなくていいよ。落ち込んでいるのではなくて、驚いているだけだから」



灰色の瞳は、クリスマスの朝のようにとても静かで優しかった。


サラの頭を撫でて立ち上がると、アーサーは控え室の中にある浴室の方へ歩いて行く。

心配になって腰を浮かせたサラに、僕が見てくるよと言って、ダーシャがバンルの膝の上から飛び降り、ててっと走って追いかけてくれた。



「ダーシャ……………」

「訂正しておくと、ドロシーな。使い魔の魔術に結んだ名前だから、出来ればそちらを優先してくれ。俺の庇護下にある者としての魔術がより強固になる」

「まぁ、ダーシャは、ドロシーという名前だったのですね。はい。そう呼ばせていただきます」

「……………人間として生きていた頃の名前は、俺が剥ぎ取って捨てなければならなかった。少しでも遅れたなら、あの殲滅魔術に捕まりかねなかったからな………」



バンルは口惜しそうにそう呟いたが、名前と魂から追いかけてくるその恐ろしいものを、この竜が追い払ってくれたのだ。


そう考えるとほっとして、サラは微笑んで頷いた。



「ドロシーから、何度もあなたのお話を聞いていました。私と、私の父は何度もドロシーの優しさに助けて貰って、…………私はずっとあなたにお会いしてみたかったです」



あらためてそう挨拶をすると、グラフのような美貌とはまた質の違う美しさを持つ夏闇の竜は、片手を振ってやめてくれと笑う。



「かしこまって話さなくていい。敬語もいらんぞ」

「…………は、はい!」

「おっと、余計に固くなったな………」

「ご、ごめんなさい………」

「で、………俺に話したい事があるようだが、ドロシーかあの青年がいない方がいいような事か?」

「…………っ、」



前置きもなく指摘され、サラはぐっと息を飲んだ。



目の前に座っている竜は、体の作りが人間とは元から違うのだろう。

ずば抜けて背が高くても細長く見えないくらいに肩や胸は厚いのだが、その肢体のずしりとした重さと同時に、虎や豹のようなしなやかな俊敏さがひしひしと伝わってくる。


頭に生えた巻き角も、どうやって生えているのか触ってみたいくらいだった。



そんな竜の、それも王子だという男性が、真っ直ぐに貫かれたら焼け焦げてしまいそうな鮮やかな赤い瞳でこちらを見ている。


サラはごくりと息を飲み、まずは立ち上がってから深々と頭を下げた。

竜の作法は知らないが、人間はこうして誠意を示すものだ。



「あなたにお願いがあります。……ダーシ……ドロシーと、アーサーが席を外している内に」

「…………俺に?ここにグラフィーツがいても、口に出しちまっていいことなのか?」

「はい。でも、グラフにはお願い出来ない事なのです」

「ほぉ、そりゃ随分な事だが…………うーん…………」

「…………取り敢えず、音の壁を作っておいてやる。だが、」



サラが意を決してそう言えば、グラフは肩を竦めて呆れたように笑う。


羽織っていた黒いコートを脱いだグラフは、まるで中世の貴族のような何とも華やかな盛装姿だった。


綺麗な葡萄酒色に青緑色の精緻な草花の模様が織り込まれた、宝石のついたフロックコートの装いや、嘆かわしいとでも言わんばかりに尊大に片手を振る仕草がこの上なく似合うのだから、やはり人間とは違う生き物なのだ。


人間にも息を飲むほどに美しい人はいるのだが、こちらの人ならざる者達が身に纏う布地や宝石の煌きは特別で、それはきっと、彼らの内側から光に照らされているような鮮やかな瞳や髪色に負けまいとしてそこまで美しくなったのだと思う。



「おおよその見当は付くが、あれとてこの状況下で無謀さに振り切る程に子供ではあるまいし、そこまでの事をすると思うか………?」

「…………アーサーなら」



サラはまだ何も言っていない。


だが、サラとグラフのやり取りを聞いたバンルは、あからさまに顔を歪めた。

ふーっと息を吐くと、どさりと音を立てて座り直す。



「おいおい、そうなってくると、俺に、あの青年がしでかすであろう行為の尻拭いをしろと言っているに等しいぞ。そもそも、グラフィーツですら懐疑的じゃないか。いらん心配じゃないのか?」



こんな時、人間ならまずは話を聞いてくれるだろう。

でもこの生き物達はそこまでの歩み寄りすら見せないのだと、サラは、共に暮らしさえしていた魔物の本当の名前が知れた事よりも、バンルの白けたような声音の冷たさに内心ひやりとしていた。



知るという事が知られる事でもある場所に生きている者達だからなのか、そもそも、彼等にとって人間などという生き物が取るに足らないものだからなのか。

こちらを見る瞳の酷薄さは、突き放す為の冷たさなのだろう。


好きなように交渉させようとしてはいるようだが、グラフの表情にも嘲りが強い。



(……………怖い)



サラのまだ本題にも触れていない前置きから話の内容を想定し、こちらの願いが言葉になる前にそれはないだろうと切り捨てようとしてしまう。


目の前の竜とは会ったばかりだが、ダーシャの竜だから力になってくれるのではと切り出した己の浅はかさを恥じなければならなかったが、それでももう、どれだけ怖くてもサラは引き下がれなかった。


ぐっと眼差しに力を込めて真っ直ぐに見上げれば、小さな子供の粗相を見るような目をしていた竜は、おやっと眉を持ち上げる。




(でも、どんなに偉い人だって、どんなに賢く優しい人だって、知らない事を理解出来る筈がないのだわ………)



それは、同じチケットを持っていなければ見えなかったターテイル夫人の棘のように。

どんなに優しく清廉なクラスメイトでも、どれだけ高名な聖職者でも、誰一人としてサラの抱えたアシュレイの呪いを理解は出来なかった。



あの日。



あの夜明けの葬列を見送った雨の日に、アーサーだけが、そんなサラと同じものを見ていた。




(…………だから、諦めないわ)




きちんと説明しても、断られるかもしれない。

不躾な依頼である事は理解しているし、バンルにそれを引き受ける義理などないのは当然だ。


それでもここで諦めて、アーサーを危険に晒すのは絶対に嫌だった。




「…………私は知っているんです。アーサーは、物語が幸せに終わらない事を知っていて、その悲しい最後のページから何をするのかを考えるに違いないって」



サラのその言葉に、宝石の目をした竜はひどく優しい微笑みを浮かべた。

それはまるで、小さな小さな子供を見るような、そんな眼差しだ。


優しいけれど、ふぅんと笑って線を引こうとしている。



「で、お前はそう予測し、あの青年が愚かな手を打たないように止めようとしている。まぁ、その程度ならば、ドロシー絡みで俺が聞き届けるかもしれないと考えるだけの理由もあるだろう」



勇気を膨らませる為に息を吸い、サラは、先程の彼の言葉に甘える形で、この竜には敬語を使うのをやめようと思った。


バンルは、グラフとはだいぶ気質が違うように見える。


敬語で話していたら、距離を詰めさせてくれないタイプの人物だと考えたのだ。



(苦手だし、勇気はいるけれど大丈夫。だって私は、アイリーン叔母様の姪で、オードリーの妹だもの。二人の言葉を思い浮かべればいいのだわ)




「………ええ。あなたは、アーサーの事は助けてくれるわ。だって、アーサーはダーシャの、………ドロシーの遠い親戚で、それはドロシーの願いを叶える事なのだもの」

「…………妙な言い方だな。救われたいのはお前もだろう」



その言葉は、とても高くから人間を睥睨しその矛盾を正す神様のようで、サラは、胸の底で怖さがざわざわと揺れるのを必死に宥めた。



魔物と竜の違いには、途方に暮れるばかりだ。

グラフだって人間とはだいぶ違う生き物だが、バンルの心の気配とでもいうべきものは、より人間離れしている。



「これからお願いする事は、アーサーが私を助けようとする事を止めて貰う為のお願いなんです。…………だから私は含まれていなくていいの」




ふっと、部屋の空気が揺れた。

バンルは僅かに体を揺らし、アーサー達が向かった浴室の扉の方を見る。


グラフは、静かに息を吐いたような気がした。



「……………だとしても、竜は小さな子供を大事にする生き物だ。……勿論種族的な嗜好があり、俺のような夏闇の竜は残忍で獰猛なものが多いが。………それでも、お前は俺の契約の子供の友人なのだから、手を貸してやろうと思うかもしれないぞ?」



ここで、こんな風に揺らしにくるのだとぞっとした。


まるで親しげに思えるくらいの口調で語りかけながらも、多分この竜は答えを決めているのだろう。

だからこの問いかけは、サラの覚悟を問う為の、長くを生きた偉大で不思議な生き物からの選定のようなものなのかもしれない。



「宝物は、沢山は持てないんです。…………全部が大切でも、全部は持ってゆけないの。あなたは、きっとそれを知っていると思ったから、あなたになら、アーサーを止めてくださいというお願いを託せると思いました」

「…………その理論で進めるつもりなら、俺は俺の宝を守るので精一杯かもしれないとは思わないのか?」

「だって、あなたはダーシャが大好きなのでしょう?」



微笑んだサラがそう言えば、バンルはルビーのような瞳を丸くし、小さく声を上げて笑った。



「……………それが敗因か。確かに、俺はあいつに弱い。…………もう、本当の名前すら呼んでやれなくなったあいつの為になら、多少の無理はするかもしれん」



歯を見せて笑う屈託のない笑顔を見せながらも、夏闇の竜の瞳は、完全には笑ってはいなかった。


情深く包容力のあるような言動から思い浮かべる人格よりずっと冷淡なその気配は、人間ではないものを人間の物差しで測ってはいけないのだということなのだろう。



「………だが、それも話による。今の俺にとっては、あいつの我が儘を叶えてやる事よりも、あいつを生かす事の方が優先なんでな。…………ドロシーは特赦で俺をここに呼んだ。俺が練り直して俺の使い魔になっている以上、主人の迎えがあったドロシーはもう人間の死者ではない。死者の王から直々に、連れて帰るなら好きにしろと言われたよ。俺達はもう、いつだってここから出ていけるんだ。それを忘れるな」



(ダーシャはもう、ここから帰れるのね………)



サラを戒める為の言葉だったのだろう。

けれども、そう聞いて嬉しくなる。

その小さな喜びを抱き締め、サラは背筋を伸ばした。



「…………アーサーを止めて欲しいの」



サラがそう言えば、バンルはすっと瞳を眇めたので、サラは慌てて言葉を重ねた。

お願いしようとしている事が、決して難しくはないのだと理解して貰わなければならない。



「私の舞台より前に、アーサーはきっとグラフを殺そうとするわ。…………多分、グラフがアーサーを殺そうとしてくれれば、ジョーンズワースの呪いが動くから、そんな風にして自分を犠牲にしようとしている気がして………、」

「……………さもありなん、か。助からないと知っているから、奇跡などは信じずに確実に殺しに行く。…………まぁ、確かに人間らしい狡猾さだ」

「あなたがアーサーを隠す為に隣にいると話した以上は、アーサーはダー…、ドロシーに迷惑をかけないように客席からあまり離れずにそれをしようとする。だから、その時にアーサーを止めて欲しいの」

「さも容易な事のように言うが、あの青年の切り札とするものが、高位の魔物を動かすという確信がある程のものであれば、俺とて触れたくはない」

「…………あなたにとっては簡単な事よ。ただ、アーサーに、大丈夫だよって言ってあげて欲しいの」



サラがそう言えば、バンルはふっと瞳を揺らした。


向かいに座って黙っていたグラフも、微かに瞳を瞠ってこちらを見る。



(橋の向こう側には、魔法があるから…………)



だから彼等は、魔法がなくて呪いしか知らないサラ達が、どれだけその言葉の魔法にかかりやすいのかを知らないのだろう。



そんな子供染みた稚拙な言葉を、どれだけ欲しくて、どれだけ会いたかったのかを知らないのだ。



「あなたは竜で、アーサーは竜がとても好きなの。男の子だからかもしれないし、アーサーのご先祖様が竜と友達だったと知ったからかもしれない。………でも、アーサーはあなたに会えるかもしれないと聞いた時、もの凄く嬉しそうだったわ。…………だからあなたが、アーサーにきっと大丈夫だよって、これから凄くいい事が起こるよって言ってあげるだけでいいの」



そう頼んだサラに、なぜかバンルは狼狽したようにグラフの方を見てしまったようだ。

またこちらに視線を戻し、困惑した様子で額に片手を当てる。



「…………いや、さすがにそこまで無垢には見えないぞ。と言うか、信じないだろ」

「あなたが本物の竜だから、それだけで魔法の言葉は本物になるのだわ。…………本当の魔法は少しも優しいものではなかったけれど、……………それでもアーサーが欲しかった魔法は、きっとそういうものだったと思うから」



サラは、アーサー程にこちら側への適性は高くはないのだそうだ。



だから、魔法の煌めきが家族を救ってくれる事を望み、妖精や竜に憧れはしても、その切望は自分を損ない苦しむような強さではなかった。



アーサーのように、どこかに帰りたくて帰りたくて、胸の奥のその願いを掻き毟るような思いをした事はない。



そんなサラにアーサーの苦しみや失望が想像出来る筈もないが、サラだけが共有する事の出来る呪いの暗さの中でなら、アーサーがどんな魔法を望んだのかくらい迄は想像が届く。



とても強く美しいものが現れて、その、行きたくて行きたくて堪らなかった橋の向こう側の不思議な世界の生き物に、もう大丈夫だよと言って貰えること。



それが、どれ程心を蕩かす救いであるのかを。




困惑したようにこちらを見ているバンルには理解出来ない程のそんな言葉が、たった一つだけの光なのだと。



「そんなものでいいのかと考えてくれるあなたは、アーサーがどれだけ怖くて苦しかったのかを知らないのでしょう。私達の暮らしていたところには、私達に見える魔法は一つもありませんでした。………だからこそ、それだけで充分なの」



ふっと視界が翳って視線を上げると、そこにはグラフが立っていた。

ふわりと頭に乗せられた手は、義手ではない方の手のようだ。



「先生…………?」

「…………お前も、向こう側をそんな風に思うのか?」

「……………いいえ。私は、お父様や、……オードリーや叔母様が大好きで、アシュレイの呪いが怖くて………、でも腹立たしくて堪らなかった。けれど、沢山の魔法や綺麗な生き物を見てこんなに素敵なものはないと思っても、アーサーのように息が出来ないほどにこちらを望むことはなかったと思います」



サラが心に浮かぶままにそう答えると、グラフは無言で頷いた。



「…………それくらいならやってやれ」

「…………あんたに言われる筋合いはないがな。………まぁ、その程度なら引き受けてやってもいいかもしれんな……」



ふぅと息を吐き、バンルがどこか困ったようにそう呟く。

サラがぱっと顔を輝かせて安堵の表情を浮かべると、なぜかバンルは首を傾げた。



「それだ。…………そう聞いていたんだがな」

「…………それ?」

「俺がドロシーから聞いていたあんたは、そういう感じだったんだが。…………さっきは少しばかりひやりとした。眼差しや言葉の選び方、その取捨選択は人間というよりは、…………そうだな、魔物に似ていたからな」

「…………先………グラフに、色々な事を教えて貰ったからでしょうか………」



気が抜けると、叔母やドロシーの真似をして敬語を外すだけの余力がなくなってしまったが、もうこちらのお願いは引き受けてくれるようなので構わないだろう。




「どうだかな。…………あんたは、白持ちなんだろう。であれば、その資質が花開き始めているのかもしれないな。…………人間にとっては、いい事とは言えないにしても」

「余計な口を挟むなよ。これは俺の獲物だぞ」

「それなら、負けたらくれてやる賞品ぐらい、自分で管理しろ」

「俺では効果をなさないからこそ、こいつは、お前に頼んだんだろう」

「はい。先生から自分を殺そうとしてはならないと話をしても、アーサーにはあまり響かなそうで…………」

「まぁ、そりゃそうだろうな。…………おっと、扉の向こうで泣いていた魔術師が戻って来るようだぞ。知らぬ間に騎士からお姫様に転属させられているとは、流石に予想外だろうな」



バンルの言う通り、すぐに扉が開き、アーサーとダーシャがこちらの部屋に戻って来た。

もしかすると、二人はその部屋で二人だけの密談を交わしたのかもしれない。



でもサラは、何とかしてその大切な二人が無理をしないように守りつつ、この死者の国の歌劇場の舞台で歌を歌わなければならないのだ。




まだ隣に立っていてくれたグラフと目が合ったので頑張りますという思いを込めて微笑んでみせると、砂糖の魔物は、どこか諦観に満ちた目をして淡く微笑んだ。




この部屋には外向きの窓はなかったが、天窓のステンドグラスから差し込む光が、いつの間にかその色を変えていた。




今は青緑色に色を変えて貰っているドレスの美しい刺繍を撫でると、そこには美しい薔薇の庭がある。


アーサーと出会った日の事を思い出せば、悲しかったはずのあの日が懐かしくて堪らなくて、胸が潰れそうな気がした。








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