死者の歌劇場と竜の王子
サラ達が死者の国で過ごした家を出たのは、グラフが提示した時間よりも少し早くなった。
昼食の後に姿を消していたグラフが戻るなり、こちらの用事が早く済んだので、もう出かけるぞと言うのだ。
なかなかのご機嫌なのだが、サラは、そんな魔物が、手に持った瓶の蓋をきゅっきゅっと閉めているのを見てしまった。
中に入っているのは砂糖に違いなく、瓶の素材は硝子に見えたが不思議な不純物があるので、鉱石なのかもしれない。
「…………先生、お野菜も食べていますか?」
「砂糖があるのに、なんで野菜なんぞ食わなきゃならんのだ」
「…………お年を召されてからの体が心配なので……」
「サラ、彼は魔物だよ。もう充分に年寄りだ」
「ほお、お前は魔術になりたくて仕方がないようだが、お強請りとは浅ましいな」
「け、喧嘩しちゃ駄目です!私の舞台を見てからにして下さい………!!」
出掛け際にどたばたしてしまったが、何とグラフは、とある死者の特赦を使って容れ物の体を捨てて本来の魔物の体に戻ったのだそうだ。
(その死者の人は、自分の意思でグラフの為に特赦を使ったのかしら…………?)
そう考えれば恐ろしくもあるし、こうして隣に立っている人が、その肉体へ魂を移し替えたのだという事がどこかピンと来ないところもある。
じっと見ても今朝までのグラフとの違いが分からないサラが首を傾げていると、人間への擬態くらいは人間の容れ物よりも完璧だという謎めいたお言葉をいただいた。
(でもそれなら…………)
これが砂糖の魔物の本当の体であるのなら、気になる事がある。
「…………腕は、義手なのですか?」
「いい砂糖を食えば、再構築も可能かもしれんな。だが、今は義手だ。銀色流星の祝福石と、夜明けから紡いだ紫水晶を錬成した妖精の技師の作品だ。…………ふむ、まずまずか。…………後は、緻密な魔術構築がどれ程かにもよるな」
白い手袋に包まれた左手の指先を動かしてみせているグラフは、サラが怖々と見守っていたからか、手袋を外して妖精の義手を見せてくれた。
「…………ひ、光ってます。…………内側で、光の色が泳いでいるみたい………!」
ずしりとした片手を手の上に乗せられ、サラは、両手で魔物の義手を抱えたまま、感動に声を上げる。
紫水晶で作られた精巧な義手は、義手という道具ではなく、魔法をかけられて片手を紫水晶にされてしまったと言った方がいいくらいのものであった。
その内側では、星屑のようなしゅわしゅわとした銀色の光が弾けており、さぁっと流れてゆく流星までもが見える。
紫水晶そのものの色合いも、ゆっくりゆらゆらと色を変え、艶やかな紫色の夜明けの光が揺らぎ流れてゆくようなのだ。
思わずその義手を抱き締めてしまったサラに、なぜか渋面のアーサーが慌てて駆け寄ってくる。
「サラ、どんなに綺麗に見えてもそれは、彼の腕なんだ。抱き締めるのはやめた方がいい」
「そ、そうだったわ。………ごめんなさい。痛くありませんでしたか?」
「何だ、もういいのか?」
慌てて手を離したサラに対し、グラフはそんな様子なので、これは自慢の義手なのだろうか。
美しい指先が手袋に包まれてしまうとがっかりしたが、その手を差し出されてはぐれないように握らされれば、まるで本物の肌のような柔らかさとぬくもりがあって、また驚いてしまう。
反対側の手はアーサーに繋いで貰い、サラは、少しだけ連行される悪人のようだと複雑な思いを噛み締めつつ、二日目の死者のあわいを歩いた。
大きな鐘楼には黄昏の結晶石の鐘がかかり、通り過ぎた商店の店先には書物から生えた花が売られている。
足元の石畳みの組み方も複雑で美しく、どこか夜を引き摺った色合いが独特な美しい町だ。
(ここが、橋の向こうの死者の町………)
昨日町を歩いた時にもあちこちに目を奪われたが、今日歩いている通りは、昨日の路地よりもずっと賑やかで目眩がしそうだ。
昨日の夕方からの特赦日の舞台が催されているからか、町の中は奇妙な仄暗さを残した活気に満ちていて、顔の見えない死者達はどこか楽しそうにすら見える。
昨日はぞっとした顔の見えないその姿には少し慣れたが、けれども彼等が死者だと知っているからこその怖さは抜けきれない。
「厳密には、ここはもうただの死者のあわいだ。国境域と呼ばれるのは、石畳みの歩道に切り替わる迄の外周の土地で、汽水域とも呼ばれている。橋の向こうとの時差がほぼないのもそこ迄だな」
簡単にそんなことを言われてしまい、サラとアーサーは呆然と魔物を見上げたが、グラフの目的は当初から特赦日の舞台だったようなので、最初から、国境の町に留まるつもりはなかったのだろう。
「だが、内陸部に住む者達からすれば、ここも立派な国境の町だ。歌劇場を含むこの十七区の全てが、魔物に殺された人間達の死者の国の最奥となる。こんな境界の土地に住み着くような死者は、変わり者か彷徨う者が殆どだ。……………だからこそ、特赦日を設けたのかもしれないな」
今更だが、死者の国はとても広いのだと目を丸くしたサラに、グラフはここはあくまでも魔物に殺された死者達のあわいに過ぎず、普通の死者の国は別にあるのだと教えてくれた。
本来の死者の国にはあまり魔術がないそうだが、ここは魔物達の出入りが多いので一定の魔術が残されているらしい。
よく考えれば、死者の数だけの広さが必要なのだろうが、このあわいを出た向こう側の世界はどうなっているのだろうと考えてしまう。
(多分、地続きかもしれないから、あちら側とこちら側という言い方をしているけれど、本当は独立した別の世界のようなものなのかもしれないわ……………)
そう考えるとまた、周囲の不思議な景色に魅入られてしまいそうになる。
ちょうど横を通りかかった小さな公園には、さわさわと風に揺れる花々が可憐な花壇があった。
こちら側では、真っ白な花はなかなかこのようなところでは見られないのだそうだ。
例外的に階位の低いものでない限りは、司る者達が高位である為にしっかりと管理されている。
(ダーシャの舞台は終わっている時間だから……………)
きっと今頃はもう、ダーシャの願いが叶ったかどうかの結果は出ているのだろう。
通りの向こうに外壁の彫刻が見えるあの歌劇場に、ダーシャの自慢の竜がいるのかと思えばわくわくしたが、舞台に上がる者の入退場は自由ではないので、ダーシャも一度こちらに来てくれるという訳にはいかない。
自分の舞台を終えてバンルという名前の夏闇の竜と再会出来た後は、二人で話さなければいけないことが沢山あるから歌劇場の中でのんびり君達を待っているよと言ってくれたので、サラは、出来ればもう一度大好きな友達になったダーシャに抱き締めて欲しかった。
いつだってお日様の匂いのした、けばけばのダーシャを抱き締める事はもう叶わないのだ。
どんな顛末が待っているにせよ、物語のあのページに戻る事はもう出来ない。
生きて帰れるかどうかよりも、その事が悲しく思えてしまって、サラは小さく息を吐く。
あのまま時間を止めてしまえたならなんて、そんな願い事を抱き締めていてはいけない。
心の奥の柔らかな部分がずたずたになってしまう願いではないか。
「劇場の隣にある衣装屋の控え室を借りてある。まずはそこで、お前を舞台用に作り直す必要があるな」
「………つ、作り直すのですか?」
「演説などの場合は構わないだろうが、お前が選んだのは歌劇場で歌を歌うことだ。貧相な装いで舞台に立てば、それだけで真面目に聞く観客が減りかねないだろう。…………多くの客たちは人間の死者で、人間は我が儘だからな」
(我が儘……………)
魔物はそのように考えるのだと、サラは眉を持ち上げた。
アーサーの方を見たが驚いている様子はないので、アーサーは五年の旅の間に、そんな魔物の価値観に慣れたのかもしれない。
相応しいものに相応しい装いを。
確かに人間にはそう考える傾向があるが、それは、人間が人ならざるもの達のように力を美貌としないからなのだ。
ちらりと隣を見たサラは、いつの間にか盛装姿な砂糖の魔物をこっそり観察する。
白紫の髪色の藍青の瞳はそのままに、けれども、こちら側でジャンパウロと入れ替わった直後に感じた、暗く輝くようなずしりと重たい気配はない。
そのあたりが、人間の容れ物よりも人間らしく出来ると宣言するところなのだろうか。
アーサーより頭一つ分背が高く、そんなグラフが羽織った漆黒の外套は貴族の夜会で見られるようなものだ。
色味を違えた地模様のある生地は、歩くたびにしゃりりと揺れる、天鵞絨と毛皮の良いとこ取りをしたような素材で、紫色の宝石を使った素晴らしい刺繍で立て襟の襟元を飾っている。
その襟元には、不思議な形をした黒い鳥の羽の襟飾りもあり、この魔物の嗜好が決して大人しいものではないことを示している。
トップハットまでを漆黒で統一した装いとはいえ、華やかで美しく酷薄でけばけばしい装いは、グラフにとてもよく似合った。
外套の合わせから覗く鮮やかな色を見るに、中の服装もかなり華やかなものなのだろう。
そして、サラを挟んで反対側を歩いているアーサーも、一切の無駄のない紳士らしい服装が、冴え冴えとした灰色の瞳と緩やかな曲線を描く黒髪にとてもよく似合っていた。
白いシャツに黒いパンツとお揃いのジレ、そこにカシミヤの濃灰色のロングコートを羽織っただけのアーサーは、昨日の朝に、もう一度王立図書館に行くつもりだったことでのこの服装なのだとか。
そんな二人から視線を戻し、サラは、最初はコートも持たずにこちら側に来かねなかった自分の服装を見下ろした。
グラフが鞄とコートを持って来てくれたので何とか体裁を整える事は出来たが、外出用の服装ではなく屋敷の中で過ごす為の簡素なワンピースではないか。
急に気恥ずかしくなり、サラは指先でスカートの皺を丁寧に伸ばした。
「でも、……………衣装として着られるようなドレスは持って来ていないんです。持っているものを売れば、借りられるでしょうか……?」
「それは心配ないな。何しろこいつが用意している」
グラフがそう言えば、なぜかアーサーがぐっと声を詰まらせた。
対するサラは、言われた事が理解出来ずに目を瞠った。
「アーサーが、…………私のドレスを持っているの?もしかして、こんな風に舞台に上がる事を最初から知っていて、家から持って来てくれたのかしら?」
「…………あ、………いや、そうじゃないんだ。実は、宝石の町に刺繍妖精の店があって、あまりにも素晴らしかったから、いつか君に贈ろうと思って、少しずつ祝福石の刺繍を増やして貰っていたのだけれど…………」
随分と歯切れ悪くそう話し、アーサーはがくりと項垂れてしまった。
(宝石の町で、私の為にドレスを買ってくれていたの…………?)
「気持ちの悪い男だろう。あの町で得た稼ぎの殆どをそのドレスに充てていたからな」
「…………アーサーは、その町でお金を稼いでいたのね……………」
「サラ、怖がらないでくれて嬉しいんだけど、君の驚くところはそこなんだね……」
苦笑してそう言われ、サラは眉を寄せて考えてみた。
音楽家として舞台に立つ家族を持っていたサラは、そのようなドレスがどれだけ高価なのかをよく知っている。
こちらでの価値は分からないにせよ、妖精の刺繍があるドレスはきっと高価だろう。
けれど、それだけのものを迷い込んだ五年間で注文してくれていたことに関しては、アーサーが自分の心をこちら側に繋ぐ為の行為だったのかもしれない。
「アーサーのご家族では、こちら側のことを話せないから、私のものを買ってくれたのね?」
「…………いや、……………そう、だね」
「その、高価なものだと思うから、私がアーサーから買い取らせて貰うわ。帰っても貯めていたお小遣いからでは足りないかもしれないけれど、少しずつでも…」
「サラ、これは僕が勝手にしたことだし、買い取られてしまうと寂しいから、贈り物にさせてくれるかい?」
「……………でも、お友達にそんな高価なものは貰えないわ」
「サラ、こういう場合は受け取ってくれるだけでいいんだよ」
それでいいのだろうかとサラが困惑したところで、三人は貸衣装屋に到着した。
瀟洒な石造りの建物には、黒い板に金色の字体で店名とおぼしきものが記された上品な看板がかかっていて、エッチングの美しい紅茶色の硝子戸を開けて店内に入ると、なかなかに賑わっているではないか。
グラフの姿を見てお客達がざわりと揺れたところで、店主らしき男性が慌ててこちらにやって来て、サラ達を奥にある控え室に案内してくれた。
「本日は、お嬢様のドレスを合わせられるということでしたが、針子もご入用でしょうか?」
「それはいらん。糸や布の祝福の調整が必要だからな。こちらでやる」
サラ達が通されたのは、ゼラニウムに似た赤い花が咲き乱れる美しい中庭に面した部屋で、着替えの為のカーテンのかかった更衣室や大きな鏡からすると、本来は衣装を借りたお客が使う部屋なのだろう。
(でも、アーサーはどこにそのドレスを持っているのかしら……………?)
部屋に着いてから、サラはそんな疑問に行き当たった。
アーサーは、橋の向こうから持ち込んだ鞄を持っているが、そこに収められているものは、サラと同様に換金出来そうな品物や、薬や小さなナイフなどである。
話してくれた、サラのドレスを持っている様子はない。
きょろきょろと部屋を見回したサラに気付いたのか、グラフがじろりとアーサーの方を見る。
「…………悍ましいぞ。男が恥じらうな」
「………っ、僕にも心の準備というものがあるんですよ」
「アーサー?……………ほわ、」
それは一瞬の事だった。
アーサーが小さな溜め息を吐き、手首にしていた小さな革のブレスレットのようなものに触れ、そこからばさりと見事なドレスを取り出したのだ。
何もないところから手品のように取り出された柔らかなシェルホワイト色のドレスに、サラは呆然と目を瞠る。
たっぷりと布地を使った美しいドレスは、肩を落としたようなデザインであるが、そのデザインでも何とも優雅で上品なものだった。
ノースリーブで胴回りはぴったりとしている代わりに、スカートはウェディングドレスのように大きく裾が広がる形になっていて、その襟元とスカートの部分には溜め息がこぼれそうな程の精緻な刺繍がある。
(なんて綺麗なのかしら……………)
「……………綺麗。雪の女王様のドレスみたいで、お姫様のウェディングドレスみたいだわ」
「…………っ、サラ、…………ごめん」
「アーサー?どうして顔を覆ってしまったの?」
「……………ああ、そうか。お前達の側では、花嫁が白いドレスを着る風習があったな……………」
なぜかアーサーは片手で目元を覆ってしまっていたが、こちら側では白いドレスはとても珍しいものなのだそうだ。
このドレスは、たまたま白い生地や糸を手に入れた妖精達が高位の生き物の注文が入らないかと考えて作ったものだったらしい。
それを仕事で店を訪れたアーサーが目に止め、一目でサラにぴったりだと思ってくれたのだとか。
「…………胸元からスカートの裾にかけて、薔薇の飾りがあるだろう?控えめだけれど、本物の薔薇が咲いているみたいで、あの薔薇のガゼボを思い出したんだ…………」
「ええ。私もこのドレスを見たら、オードリーや叔母様の好きだった薔薇が沢山咲いている、あのお庭を思い出したわ!」
昨日までサラ達がいたアシュレイの屋敷の庭は、きっと初夏に薔薇が咲いても、アーサーと出会った日とは違う風景なのだろう。
二人の思い出の中にあるのは、やはり、出会ったあの日の薔薇のガゼボなのだ。
「……………着てくれるかい?」
「ええ。…………こんなに素敵なドレスを用意してくれて有難う、アーサー」
渡されたドレスは羽のように軽くて、深い森の中の清廉な湖めいた澄んだ水の香りがした。
(……………ああ、不思議だわ。このドレスを持っていると、雪の降る静かな森が見えるよう。…………そこに、冬なのに真っ白な薔薇が沢山咲いているの……………)
幸いにも、そのドレスは一人で着脱可能なものであった。
コルセットなどが必要な場合は手助けがいるのだが、残念ながらサラは、同じ年頃の女性達よりまだ胴回りや腰回りの肉が薄い。
なので、美しいドレスがぴったりである事に喜びつつ一人で着付けてしまったサラだったが、最後に胸元を押さえてがくりと項垂れた。
「……………むぐ」
「……………サラ、背中のところは留められたかい?」
「………………留められたわ」
「…………サラ?」
閉めてあったカーテンの向こうから、アーサーの気遣わしげな声が聞こえてくる。
胸元を押さえたまま小さく無念の呻き声を上げ、サラはまず、カーテンを少しだけ開いて顔を出した。
「……………とても綺麗だ。サラ、よく似合っているよ」
僅かに目を瞠り、アーサーは嬉しそうに微笑んで褒めてくれた。
サラは、そんなアーサーに、まだ胸元から手を離していないと気付かれていないことに安堵しつつ、きっとこのようなお店にならある筈の、胸元を綺麗に見せてくれる魔法の品物をどう頼むべきか、何とか活路を見出そうとして部屋の中を見回す。
(パットみたいなものか、もうお裁縫道具でもいいわ。胸元を少しだけ…)
「胸が足りなかったか」
「ぎゃ!」
「お前は薄っぺらいからな。手を退けてみろ。少し手直ししてやる」
しかしここで、サラの儚い望みは魔物のデリカシーのない一言で儚くも砕け散ってしまった。
真っ赤になって羞恥に震えているサラの手をぞんざいにどかしてしまい、グラフは胸元の生地をするりと指先で撫でた。
するとどうだろう。
胸が足らずに僅かに浮いてしまっていた部分の生地が、しゅるしゅると音を立てて締まってゆき、ドレス自らが体に形を合わせてくれたではないか。
「……………ぴったりになりました」
「素材そのものにふんだんに魔術が織り込まれているからな。この程度の調整であれば簡単なものだ」
呆れた様子でそう言うグラフの影から、サラはそっとアーサーの方を窺う。
すると、サラの悲しい眼差しに気付いたものか、アーサーは困ったような優しい微笑みをこちらに向けた。
「ごめん、最初に説明しておかなかったから、君を困らせてしまったね。でも、君がいないところで作って貰ったドレスだから、僕の記憶だけで調整してあったんだ。朝靄の糸はこうして魔術を通せばぴったりの大きさに調整出来ると聞いて…………サラ?」
「……………アーサーの記憶だと、私はもっと素敵な女の子だったのね……………」
胸元を押さえてしょんぼりと呟くと、アーサーは狼狽えたように視線を彷徨わせる。
何かを言おうと狼狽しているアーサーにがしりと肩を掴まれたが、サラは、無事に帰れたらきっとオードリーのような大人の女性になるのだと、オードリーの好物だった食べ物を一生懸命に思い出しているところだった。
「…………やれやれだな。それと、舞台に立つまでは、ドレスの色を擬態させておくぞ。舞台に上がる時に擬態を剥いでやるが、俺の解術が届かなければ、舞台に立つ時にその仮面をかければいい」
「このドレスの色だと、目立ってしまうんですね?」
「白過ぎるからな。だが、特赦の資格である仮面をかけてあの舞台に立たなければいけない以上、どちらにせよ元の姿に戻る」
そう言ったグラフがサラのドレスに触れると、ドレスは深く艶やかな青緑色に染まった。
髪の毛もまだ淡い紫色のままなので、サラは、花の精になった気分で鏡を覗き込む。
グラフは、そんなサラの姿を鏡越しに眺め、控え室の鏡台の前にあった複雑な彫り物のある木の棒を持ってくると、手に取ったサラの髪の毛の幾筋かを巻きつけて、ゆるりとしたカールをつけてくれた。
そうして、しっかりとした華やかさではないものの、長い髪に上手に動きをつけてくれると、小さく頷く。
「結い上げても良かったが、お前の場合は下ろしておいてその白を見せた方がいいだろうな」
「…………まさかあなたが、髪結いの魔物のような事も出来るとは思いませんでした」
「言っておくが、これまでにも何度かこいつの髪は結ってやっているぞ?」
「…………あなたが、サラの?」
「クリスマスのお買い物に街に出た時の、アーサーが褒めてくれた髪型は、先…グラフがやってくれたの」
「……………そうだったんだね」
「アーサー…………?どうして落ち込んでしまうの?」
「放っておけ」
(この色のドレスも、とっても綺麗だわ………)
鏡の中の自分を見れば、先程の真っ白なドレスとはまた違う美しさの装いに、サラは、もう一度幸せな溜め息を吐いた。
元々のドレスの形が美しいのだろう。
ドレスの魅力を引き立てていた色が変わっても、やはり静かな森を思わせる優雅な美しさだ。
そこに用意されていた足元までのドレス用のコートを着せて貰えば、誰もサラのドレスが美しい白色だとは思わないだろう。
「少し、意外でした」
グラフが手配した衣装屋の控え室は、裏口から出ると劇場の目の前の通りに出る。
だから買った家から着替えてゆかずにあの場所を借りたのだと、グラフは教えてくれた。
あの後、劇場内での諸注意などがされ、少しだけお茶を飲んでから衣装屋を出た。
そして、思っていた以上に壮麗で美しかった歌劇場の外観にサラが呆然としているその横で、アーサーは複雑そうな表情でグラフに話しかけている。
「………何がだ?」
「あなたなら、もっと、…………自分のものでサラを飾ろうとするものだとばかり……」
「俺に歌うのに、それ以上がいるのか?」
「……………そうでしたか」
なぜかそんなやり取りをしている二人の横で、サラは、もう一度歌劇場を下から上まで眺め直していた。
(こんな劇場があるなんて………!!)
死者の国にある歌劇場は、澄んだラピスラズリの青色を帯びた黒曜石のような、えもいわれぬ色合いの石で建てられていた。
サラの知識では青みがかった透明な黒としか言いようがないが、見ていると深い深い夜を思わせる。
会場へのアプローチを真紅の絨毯が伸び、その絨毯の縁の部分はなんと、同じ色の花になって咲いてしまっていた。
サラの知る、世界各地にある有名な古い歌劇場と似た作りではあるものの、壁や柱の彫刻の素晴らしさは魔法のある世界らしい緻密さで、入り口の扉の上の薔薇のアーチを模した彫刻には息を飲むばかりだ。
開かれた扉の向こうに見えるきらきらと光るものは、星屑を集めたような淡い金色と銀色の光を発するシャンデリアだろうか。
(…………あ、絨毯が………!)
サラ達の前にも、真紅の絨毯を踏む者達がいる。
するとその靴下には、水面を歩くように波紋らしきものが広がるのだ。
しゃわんと、不思議な風が吹く。
満開の薔薇を添えた紅茶の茶葉のような馥郁たる香りが、こちらに届いた。
「転ぶなよ」
「こ、転ばないようにします」
「大丈夫、躓いても僕が手を握っているから」
「……………転びません!」
アーサーは優しさからそう言ってくれたのだろうが、この壮麗な歌劇場にドレスで入ろうとしている時に子供扱いされてしまったサラは、悲しく眉を寄せる。
ばさりとドレスを鳴らし、その道に足を踏み入れた。
爪先を乗せた絨毯には波紋が広がり、ふぁさりと魔法の風に揺れるのは着慣れない丈のコートとドレスの裾だろうか。
ゆっくりと絨毯の上を歩いて劇場の入り口に向かえば、受付に立った影のような男性が、グラフの姿を見て微かにたじろぐのが見えた。
けれどもグラフは気にした風もなく、先程回収したサラとアーサーの分のチケットもまとめて提示し、ぱちんとチケットの端を切って貰っていた。
ゆっくりと、ゆっくりと。
その最後の舞台に近付いてゆく。
目を閉じて開けば、瞼の裏に響く暗い劇場の喝采はまだ続いていた。
(大丈夫、…………私達はそこまで行けるわ)
だからサラは、カトリーナから貰った言葉とあの日に死神を連れて行ってくれた母から貰ったギフトで、これから先もアーサーと手を繋いでゆけると確信している。
それでも、初めて一人で戦場に立つような恐ろしさに胸が苦しくなった。
「サラ?」
込み上げてきた短い息を吐いたからか、心配そうにアーサーが振り返ってこちらを見てくれる。
「アーサー…………」
その灰色の瞳の澄明さに胸が潰れそうになって、サラは、握っていたアーサーの手をしっかり掴み直した。
(……………ううん。怖がってもいいのだわ。………、あまり不慣れなものを覗き込み過ぎて、違う怖さで窒息しないようにしよう…………)
「……………怖いよね?」
「…………ええ。でも、私はこんな風に歌うのは初めてなのだから、怖くても当然だったのだわ。頑張ろうとし過ぎて遠くを眺め過ぎて、足元がふらふらしちゃったみたい」
そう告白すれば、アーサーがどこかほっとしたように微笑み、サラは、あの雨の葬儀の日に薔薇のガゼボで見たのと同じ微笑みに嬉しくなった。
「………うん。君はまだ僕が見付けた君から一年も経っていないのだから、背伸びをし過ぎて足を痛めないようにね。届かないところのものが欲しければ、僕が膝でも肩でも貸してあげるよ」
「…………でも、オードリーみたいにもなるの。きっと、紅茶のシフォンケーキと、鶏肉を食べればいいのだと思う。いつかお直しのないドレスを着てみせるわ…………」
「…………おい、お前の無神経さで、歌う前に厄介なひび割れが出来たぞ。どうしてくれる」
「あれは、明らかにあなたの所為でしょう…………」
ふうっと息を吐き、サラは胸の内に凝ったものを自分なりに吐き捨ててみた。
(魔法………魔術のある知らない町で、アーサーを魔術にされない為に、それだけじゃなくて、失敗したらお砂糖にされてしまうかもしれない中で歌おうとしているのだもの。緊張していいのだわ。…………深呼吸もしておこうかしら…………)
あの真紅の絨毯に足を乗せた瞬間、そこはもうあの暗い劇場の入り口に続いているような気がした。
すうっと意識が吸い込まれてしまいそうだったので、サラが見ているものは、あまり頼り過ぎたり、魅入られてもいけないものなのかもしれない。
ふと視線を感じてグラフを見ると、どこか呆れたような藍青の瞳でこちらを見下ろしている。
「予兆や予言、託宣や道標の魔術は、こちら側の者達でも負荷を受けやすい領域だ。ましてや、お前が借りた目は、あの得体の知れない精神圧の白持ちのものだぞ。安易に覗き込み過ぎるな」
「…………はい」
「手に取るのは訪れたものだけにしておけ。手繰り寄せれば、その状態も呼び込むぞ」
「あ………、」
(……………だからだったのかしら………)
自分にも何か特別なものがあると、張り切り過ぎてしまったようだ。
冷え冷えとした不可思議な感覚は、サラが手繰り寄せた情景が、あの暗い世界の向こう側のものだからなのかもしれない。
あちら側とこちら側で違いはあれど、魔法や魔術に纏わるものとして、もっと早くグラフに相談しておけば良かったと、サラは強張った最後の息を吐き出した。
(危なかったわ。覗き込んだあの暗さに引き摺られて、そのまま、とても冷え冷えとした歌を歌ってしまうところだったもの………)
反省も込めてグラフの方を見れば、相変わらず呆れ顔ではあるが、どこか満足げな顔もしている。
その表情を見れば、あのままの状態で歌えば、聖女としても歌乞いとしても、どちらの正解でもなかったのだろう。
そう考えるとまたひやりとするが、サラは、ひとまずまだ経験の浅い歌い手としての緊張感を正しく受け止める事にして、思っていたよりもずっと壮麗な劇場の内部を鑑賞する事にした。
(素敵………………)
豪華絢爛と評するには、魔法寄りの内観だ。
星屑のシャンデリアに、彫刻から咲いた花。
美しいステンドグラスは、竜のような生き物を表現してあるように見える。
透明度の高い黒と青の石材に、天井画の鮮やかさ。
そんな劇場の中を、敷かれた絨毯が真紅の薔薇のように彩る。
「見たことがないくらいに素晴らしい劇場なだけではなくて、とても大きいのですね。………外から見たときには、普通の劇場に見えていました」
「空間併設の魔術だな。竜が出入りする事も珍しくはない土地で作られた劇場だからだろう」
そう答えたグラフに、アーサーが訝しげに目を瞠る。
「ここに入れる人外者は、魔物だけではないんですか?」
そう尋ねたアーサーへの返答は、思わぬ形で返される事になった。
「かつて、西南の大陸の端にカルザーウィルと呼ばれた大国があった。そこの王都の歌劇場を影絵として移設したものだからな。竜仕様になっているのはその為だろう」
朗々とした伸びやかな声は、サラが初めて聞く種の美しさだった。
アーサーが柔らかな夜でグラフが艶やかな闇の色であるとしたら、このひとの声は艶やかな夏の夜のようなのだ。
はっとして声がした方を向いたサラの目に飛び込んで来たのは、長身のアーサーよりも背の高いグラフよりも、更に背の高い男性の姿だった。
ほとんど黒に見える美しく長い髪は異国風に結い上げられ、それをしどけなく崩したようになっている。
エントランスホールの大きなシャンデリアの光りが当たるとルビーのような色が透けるので、実際には黒赤の髪色なのだろう。
大ぶりな耳飾りと、漆黒の軍服にも似た装いの組み合わせが、アンバランスな筈なのにぴたりとはまって華やかで凛々しい。
そしてそんな男性の頭には、白灰色に水色の斑らのある宝石のような巻き角があるではないか。
おまけに、こちらを見たぞくりとするような美貌を凄艶に彩る深紅の瞳の目元には、真紅の鱗が僅かに窺える。
(も、もしかして…………)
男性の頭の片側には、ルビーから彫り出したような仮面がかけられていた。
こちらを見てふっと微笑んだその男性に、サラは大きな期待をかけて目を輝かせる。
しかし、そんなサラよりも先に声を上げたのは、アーサーだった。
「ダーシャ、」
(……………え?)
どこにダーシャがと慌てて視線を彷徨わせたサラに、グラフが頭をがしりと掴んでとある一方に向けてくれる。
すると、目の前に立った巻き角の男性の肩の上に、サラの大好きだったけばけばの生き物が乗っているではないか。
「ダーシャ!」
「……………ええと、この姿で僕としては少しばかり不本意だけど、また会えて嬉しいよ」
「…………ダーシャ。彼が、君の…………?」
「うん。僕の大切な竜だ。バンル、彼等がサラとアーサーと、…………君が少しだけ知り合いだったと話してくれた魔物だよ」
そんなダーシャの紹介にぎくりとすれば、バンルと呼ばれた人間にしか見えない竜と、グラフは何やら無言で向かい合っている。
「…………よりにもよって、夏闇の竜の王子か」
「まさか、俺の契約の子供に砂糖の魔物が接触するとはな。あらためて事情を聞きたいところだが、それ以上に話しておかないとまずい事が発覚した。…………下手をすると、そのアーサーという青年は、お前が術式にするよりも前に厄介な事になりかねん。諦めの悪い追っ手が来ているようだからな」
「ほお、………」
開け放った扉から差し込む陽光が、夕暮れの最後の一欠片がゆっくりと暮れてゆく。
サラに渡されたチケットには、全ての演目の最後の番号から二番目の数字がふられていた。
つまり、ここにその追っ手とやらが来ているのなら、その時間までは何とか耐え忍ぶしかないという状況なのではなかろうか。
(まだ、私の歌で取り返してもいないのに………!)
邂逅早々に告げられた不穏な言葉に、サラは、慌ててアーサーの手をしっかりと握り締めた。




