魔法使いの面影と緑の手帳
「ああ、ここにいた。サラ、ミルクシュガーのビスケットを食べないかい?」
薔薇のガゼボで読書をしていると、ふいにその向こうからアーサーが顔を出した。
お気に入りの冒険物語を開いていたサラは、心臓が止まりそうになって慌てて本を閉じる。
「……………アーサー」
「おや、読書を邪魔してしまったかな。ああ、竜の翅と妖精の杖だね。僕もその本は好きだよ」
目元を染めて子供っぽい本を隠そうとすると、アーサーがそう微笑む。
手には焼きたてのクッキーの入った籠を持っていて、ふわりと甘くいい匂いがする。
その籠に丁寧に折り畳まれた紙ナプキンが入っていたので、これはエマの好意なのだと分かった。
サラの叔母と姉の葬儀からひと月が経ち、いつの間にか二人は友達になっていた。
アーサーは三日に一度は顔を出してくれたし、一昨日は森の探検に連れ出してくれた。
サラの父は、すっかりジョーンズワース家の人達を信頼していたし、それ以上にサラ自身が、寒い部屋の中で暖炉の前に丸まるようにして、ジョーンズワース家の人達との交流を求めていた。
(ジョーンズワース家の人達はみんな、春の日だまりのような温かな匂いがする)
彼等は皆、悲しみなど捨てて来いとは言わず、この日だまりで一緒にお茶を飲まないかと手を差し出してくれる、思慮深く優しい人達だ。
アーサーとアーサーの父親だけが少し気配を違え、穏やかな夜のようなまた違う安らぎの気配を持っていた。
ぱたんと窓を開いたように。
或いは、水道の蛇口を締めて、森の中を流れる清涼な小川で飲むことにした水のように。
彼等と過ごしていると息がしやすくなり、胸の中の酷い傷は一人の時ほどには痛まなくなる。
サラは少しずつ、以前していたように一人の時間も過ごせるようになってきていた。
(けれども、この本を読んでいるところを見られるなんて……………)
「…………子供の読み物だわ」
「そんな事はないよ。僕よりは君の方が胸を張って読めるのは確かだけど、自信満々に好きだと言い張ってしまえば、他人は趣味よりもその人の普段の振る舞いを見るものさ」
「……………アーサーはそうしているの?」
「僕は普段の振る舞いで失点になるから、眉を顰められる。兄さんは正々堂々その本を好きだと公言していて、するとみんなは、人気者のクリストファーには親しみが持てると言い出すんだ」
「まぁ、……………そうなのね」
アーサーの兄のクリストファーの事を、サラはよく知っていた。
先日、サラ達の屋敷を訪れて、生前のオードリーにとても助けられたのだと言ってくれた彼は、官僚の息子らしい生真面目さに、学生時代はさぞかし人気者だっただろうと思わせる、アーサーの母親譲りの魅力的な太陽のような微笑みを持つ人だ。
彼は、アーサーそっくりだという父親譲りの端正さに、あの不思議な美しさを持つ母親の微笑みが素敵に合わさった容貌を持ち、エマの影響もあるに違いない、陽だまりのような言葉を使う。
砂色や銀髪にも見える淡い金髪に鳶色の瞳をしていて、アーサーと並べば昼と夜のような兄弟だが、この二人がとても仲良しなのは教えられなくてもよく分かった。
(お兄様もアーサーも、あの素敵なジョーンズワース夫人の微笑みを受け継いだのだわ)
二人の微笑み方はとてもよく似ていた。
微笑む唇の形はまるで違うのに、そのどちらもが兄弟の愛する母親のものだと一目で伝わってくる。
それがとても羨ましくて、サラは自分のことを考えた。
(お姉様はお父様によく似ていたし、叔母様とお母様は同じように笑っていたわ。でも性格はお姉様と叔母様がそっくり。私には、一目でそれだと分かる遺産がない…………)
鏡の中を覗き込むと、真っ白な髪の少女が映る。
白髪が嫌だと言うには見飽きてしまったが、そこに誰かの面影を見出せないことが、サラは寂しかった。
母の死後に連れていかれた病院では、髪は伸びればまた元の髪色に戻ると言われたけれど、サラの髪の毛は白いままだ。
父は落ち込んでいるようだったが、サラは最近になって漸くこの自分を受け入れられるようになってきた。
「そのドレスだと、この庭の花々に色がぴったりだね。君のお姉様と叔母様の色だ」
その手助けをしてくれたアーサーが、今日もまたそう言ってくれたので、サラはふんすと胸を張る。
彼にそう言われた時、やっと自分にも家族の面影を持てるという微かな喜びが生まれた。
確かに、アシュレイ家の庭はとても特徴的な配色になっていて、姉の愛した白い薔薇と叔母の愛したクレマチスや菫の紫、母の愛した藤とラベンダーの薄紫、そしてアシュレイ家の色である青が多く取り入れられている。
そんなこの大好きな屋敷の庭の色を宿すのならと、老婆のようだった髪の毛が恥ずかしくなくなった。
「アーサーは、もしかして白い色が好きなのかしら?」
隣に座ったその体温を意識しつつ、整った横顔を見上げる。
お行儀悪くミルクシュガークッキーを咥えたままだが、そんな姿が不思議と絵になる人だ。
寧ろ、何も言わずに佇んでいると、ひやりとするような美貌は人ならざる者に思えてどこか遠くに行ってしまいそうな気がする。
「…………白は貴色だからね」
「きしょく…………?」
「階級の高い特等の色。普通の者達の多くが身に纏うことが許されない特別な色だよ。羨ましいなぁ」
アーサーにであれば、そういう言われ方をしても嫌ではなかった。
彼は最初に、自分の言動が不快だったら、力一杯足を踏んでいいと言ってくれた。
その上で、君が嫌いかもしれないその髪の色が、僕はとても綺麗だと思うと言ってくれたのだ。
その彼の独特な価値観や、あまり一般的ではなさそうな知識はどこから来るのだろう。
サラは時々、アーサーの向こうには自分が知らない不思議な世界があるような気がして、目を凝らしたくなる。
彼は白の中でも、白い花と雪や霧、そして老齢の白髪よりはサラの白髪を美しいと思ってくれているようだ。
そこには彼だけの明確な基準があるのだと、サラはぼんやりと理解していた。
「それが、アーサーの理由?」
「そう。前にも話した通り、僕は少しだけ嗜好が偏っている。白に対する執着はそこかな。でも、君の白い髪は一般的に見ても美しいと思うよ。気にしてしまう人達は、誰もが自由に持てない筈のその色が使われた理由が気になるだけなんだろう」
そう言われてみれば、とても明快なことなのだ。
この色が悲劇や苦痛の証だと思うからこそ人々は身構えてしまうけれど、白という色は決して醜い色ではない。
けれども、自分自身の執着の理由ではない説明については、どこか淡々と言ってのけるのがアーサーらしい。
彼はただ、貴色である白を好んでおり、サラの持つ白はそこに該当するものだから気に入っているのだ。
「アーサーは、綺麗だけど棘のある実のように見えて、皮を剥いたら普通の実に思えて安心して食べたら、何だか変な味がした果物みたいね」
「……………うーん、もの凄い例えをしてきたなぁ。でも、君に普通の果物だったと言われるよりはいいのかもしれない……………」
びっくりしたように目を瞠り、アーサーは小さく笑った。
気難しい顔をして首を傾げて見せたので、悪気のなかったサラは慌ててしまう。
慌てて立ち上がりかけ、爪先にお尻を乗せて寝そべっていたダーシャからブニャゴと叱られる。
「ごめんなさい、上手に例えられなかったわ…………」
「ああ、ほら、しょんぼりしないで、サラ。嫌な気はしなかったよ。それに、普通の果物だったら、君と友達になれなかったかもしれないからね。ただ、僕が変な味のする果物だっていうことは、みんなには秘密にしてくれるかい?僕は、とても賢いから、家族や親しい人以外にはそういう部分は見せないようにしているんだ」
「…………私には教えてくれるの?」
「それは君が、僕の個人的な趣味を吹聴して陥れない、優しい隣人だからだよ。それに、僕達は似た者同士だしね」
「………………ええ」
ばりんとクッキーを噛んでそう微笑んだアーサーに、サラはまた一つの祈りを重ねる。
(主よ、このような隣人を授けて下さって、有難うございます……………)
サラはずっと、オードリーや叔母のアイリーンの戦い方が怖くてならなかった。
二人は眩しく強く、そして不屈の精神で呪いに立ち向かい、女騎士のように清廉で、サラは、その凛々しさがあまりにも真っ直ぐでいつも怖くてならなかったのだ。
けれど、このアーサーは違う。
彼はどこか飄々としていて、時折心配になってしまうくらいに遠くを見ているけれど、呪いに真正面からはぶつからない人に思える。
真正面から呪いに挑み、そうして失われてしまったサラの大事な家族のようにはなるまいと、サラを不思議な安堵で包んでくれる頼もしい隣人だ。
(……………アーサーは呪いと同じ側、そういう目に見えない不思議で怖いものをこそ、愛せる人に思える……………)
サラの周囲でそう生きたのは、大往生した祖父であった。
祖父は、誰よりも音楽とバイオリンを愛し、老いたる獅子のような容貌も素敵で、その音楽だけを至高の相棒とする生き様はどこか巡礼者のよう。
ひたむきに、そして清廉で一心不乱に、幼少期から愛した音楽だけを追い求め、その音楽が自分の周囲から愛する人達を奪っても決してそれを憎まなかった。
『お爺様のようにはなれないわ……………』
いつだったか、オードリーが、苦笑してそう呟いていたことがある。
祖父は姉と同じバイオリニストだったが、練習が過ぎるあまりに手の神経を損なってしまい、バイオリンが弾けなくなった。
日常生活には何の支障がなくとも、繊細な弓の操作と素早く反応する技巧が必要となるバイオリニストとしては、仕事を続けてゆけなかったのだ。
けれどもそうと分かると今度は、大好きなバイオリンを作ることを生業とした。
すぐさま職人の元に弟子入りし、十五年から三十年と言われているその業界で、三年で見事なものを作れるようになったのだとか。
バイオリンが好きで好きで堪らなくて、演奏者としての人生を奪われてもその隅々までを愛し続けた祖父は、今も父の人生にその優しさを残している。
誰よりも近くでその生き様を見た父だからこそ、そうして愛してゆけばこの呪いが恩寵ともなると考えたのかもしれない。
サラの父もまた、祖父と同じように音楽に魅入られた人なのだった。
「お父様の公演は、明後日までだったね」
「ええ。今回は、沢山のところを回るの。父がとても感謝していたわ。家政婦さんを雇ったにせよ、あなた達がいなければ、私を家に置いて行けなかったって」
サラの父親の仕事は、とても多忙だった。
有名な指揮者として、そして経歴のある音楽家として。
そんな父にとって、幾つかの国を移動する今回の仕事は、サラを連れて歩こうにも、それはまず間違いなく仕事の妨げになってしまう。
不可能ではないことであるし、普通の父親であれば可能かもしれないその妨げの度合いが、アシュレイ家の人間にとっては命取りになり兼ねない。
そのことを、父もサラも痛い程に知っており、幸いなことに、父に近しい仕事仲間達も理解してくれていた。
だから、父が忙しい日には、父の仲間達が連絡をくれることもある。
(でも、ちっとも寂しくないの。昨日はアーサーとおばさまが、ダーシャを抱き枕に貸してくれたし…………)
もこもこの分厚い毛皮の塊は、とても暖かかった。
ダーシャの鼾を聞いていたら、サラはあの葬儀の後で一番ぐっすり眠れてしまったくらいなのだ。
「お父上の留守中に、仲良しのお隣さんを覗きにくるくらい、お安い御用だよ。それにしても、本当に我が家に泊まらなくてよかったのかい?」
「……………不思議でしょうけれど、私は、家は怖くないの。確かにここはお母様が亡くなった家で、あの事故の後で、お父様からも、この家が怖いのなら引っ越すかいと尋ねられたわ。…………でもね、ここには家族の大事な思い出があるし、何よりもお爺様のお部屋もあるから」
「ああ、君のお爺様は、君が知る限り唯一呪いに損なわれなかった人なのだよね」
「ええ。お父様は末子だし、私も両親の遅い子供だから、お爺様とあまり一緒にいられなかったわ。でも、いつも幸せそうで…………とてもキラキラしていた。お爺様のお部屋は、私達家族の聖域なのよ」
そう言えば、アーサーは興味を惹かれたようだ。
「強い人だったのかい?」
「お爺様は、音楽……というよりバイオリンをとても愛していらして、そこに携われることがただ幸せだったみたい。叔母様がよく話して聞かせてくれたけれど、お爺様にとってはアシュレイ家の呪いは、愛するものに携われるという得難い才能を与えてくれた恩寵だったの。よく話していたそうよ。聖書の中の物語の、時には理不尽な要求もなされる神様と同じだって。決して人智で測らず、人ならざるものを恐れるばかりではならないと仰っていたみたい」
「……………君のお爺様の考え方は好きだな。僕もね、…………自分にかけられた呪いは嫌いじゃない」
「……………自分にかけられた?」
それはとても大切な言葉に思えて、サラはそう尋ねた。
ピチチと鳥の声がして、薔薇の茂みのどこからか青い小鳥が飛び立つ。
そんな風景を視界の端に捉え、こちらを見たアーサーの瞳を覗き込み、静かに答えを待った。
するとアーサーは灰色の瞳を揺らして、またどこか遠くに憧れるような不思議な微笑みを浮かべるのだ。
「僕は我が儘だから、自分がどう思うにせよこれはやはり、家族にはあって欲しくない呪いだと考えるからね。愛する人達が悲しい思いをするのは辛い。…………喪われてしまうのもね。でも、…………そうだね、君のお爺様の言葉を借りるけれど、呪いがそこにあると言うことは、即ち恩寵も存在すると言うことだ。…………僕だけの問題で済むのであれば、何だかそれがとても大切なことに思えるんだよ」
ふわりと、頭の上にアーサーの大きな手が乗せられる。
指が長くて綺麗な手は、見ていると魔法の手のようで惹きつけられた。
見慣れた父の無骨な手ではなく、魔法使いの手のような美しさがある。
(ああ、そうだ………………)
サラはここで腑に落ちた。
今迄、アーサーをどのように表現していいのかよく分からなかった。
でも漸く、彼にぴったりの言葉が見付かったのだ。
(アーサーは、魔法使いのような人なのだわ……………)
サラの読んでいる冒険物語に出てくる、有名な魔法使いがいる。
彼は、植物の魔法を使う緑の手を持つ人で、聡明だがどこか浮世離れした透明さと、包み込んでくれるような懐の深さがあって、サラの一番大好きな登場人物だ。
でも、その魔法使いは少しだけ謎めいている。
主人公たちに大切な助言をくれる一方で、決して人間の側だけにも立たないのだろうなという雰囲気を言動に滲ませ、読み終わった後に、果たしてあの人は本当に人間だったのだろうかという疑問を残すのだ。
「アーサーは、その恩寵が確かなものであって欲しい…………ううん、あなたは、そのような形のないものに存在して欲しいのね?」
その問いかけに、すっと灰色の瞳が細められる。
先程の寄る辺なさとは違う、どこかこちらを窺う野生の獣の瞳にも似た静かな色だ。
その深さを怖いと思うような気持もあったが、どんな色をしていても彼の瞳はやはり魅力的であった。
「…………君は探し物が得意なのかもしれないね。それが僕の願いだとして、こんな身の上でありながら、それを望む僕を不謹慎だと思うかい?」
「…………………分らないわ。私はいつか、……………家族が欲しいと思っているの。お父様が大好きだし、もういないお母様もお姉様も叔母様も、いつだって大好きだった。それぞれの考え方や笑い方があって、時にはぶつかることもあったけれど、そういう賑やかさを、私は生活に欲しいのだと思う。…………でも、私はアシュレイの娘だから、それを不謹慎だと思う人もいるでしょう」
「そこは、呪いが殺してしまうかもしれない場所だから?」
「………………ええ。普通の人達は、そんな暮らし方をしないもの」
そう呟いたサラに、アーサーが少しだけ考えるような素振りをみせる。
けれどもそれはいつもの彼で、先程一瞬見せた、どこか危うい鋭さのような煌めきは消えていた。
ざわりと、心が揺れる。
あの鋭さはまるで、カーテンを剥いだ向こう側に隠れていた夜の森のようだった。
そんな暗さと危うさをとても綺麗だと思い、それと同時に、いつか彼がどこか遠くに行ってしまいそうで怖くなる。
「普通の人達だって、もっと危うい暮らしを好む者達はいると思うよ。仕事や学び舎に通う人達は、いつ何時、暴走した車や列車に轢かれてしまうか分らない訳だし、通りの上の窓から何が降ってくるのかも分らない。船乗りたちは日々より大きな危険に瀕しているし、鉱山の採掘をしたり未知の病を紐解く人たちは、更にその危険さを増す仕事に就いている。…………それを考えると、君達の家の呪いにはまだ手綱がついているからね」
アーサーの言葉は決して間違ってはいなかったけれど、一般的な意見ではないのだろう。
どんな危険と日々隣り合わせであれ、多くの人達の選択肢は、失敗という選択の向こうに、更に分岐した生存や再起を許す道がある。
選択を誤った段階で死が決定付けられるという意味において、アシュレイ家の呪いはやはり極端なものだ。
サラにだってそれくらいのことは分る。
であればどうして、アーサーはそんなことを言うのだろうと考え、首を傾げた。
「……………それとも、私が悲観的過ぎるのかしら?」
「はは、君はやっぱり深読みしてしまうんだね。今の話は、僕は割と大真面目に信じている持論なんだ。でも、呪われる側からすれば、所詮綺麗事なのも承知しているよ」
「考えようによっては、呪いにもいいところがあるということ?………私のお爺様の言葉のように」
「いい部分を認識出来るかどうかも、個人の資質があるだろう。……………ただね、何をより大事に思うかどうかで、見えるものは随分と変わってきてしまうだろう?」
その考えは、アーサーの一族の呪いの体質によるものかもしれず、サラは、少し前から気になっていたことを尋ねるかどうかで少し迷った。
今聞くとしても、この質問にはそれなりの勇気が必要だけれども、こうして隣に座っている間に聞いておかないと、もう二度と聞けないかもしれないのだ。
(アーサーは、少し前までは、この家に住んでいなかったのだもの。またいつ、どこか遠くへ行ってしまうか分らないし……………)
それを考えると心細くなった。
時々とても遠くを見るその眼差しの向こうにあるものが動いた時、彼はきっと、誰が引き止めても止まらないくらいには頑固だろう。
「アーサー、あなたのお家の呪いについて聞いてもいいかしら?」
一枚の美味しいクッキーを食べる間に勇気を育て、頑張ってサラがそう尋ねると、アーサーは、おやっと眉を持ち上げた。
こちらは三枚目のクッキーを手に取っているので、案外甘いものが好きなのかもしれない。
余談だが、サラはお肉が大好きなのだが、個人的な考察により、この外見でお肉が好きだと怖いかなと思い、あまり表には出さないようにしている。
勿論、父はよく知っているので、アシュレイ家のご馳走と言えばローストビーフだ。
「勿論構わないよ。でも、どうして急に知りたくなったんだい?」
「今聞いておかないと、アーサーは、夏が終わったら大学に戻ってしまうのかなと思ったの」
「ああ、サラには話していなかったかな。僕は休学中なんだよ。今の大学は少し肌に合わなくてね。本当は大学を変えたいのだけれど、僕が進んだ道は随分とレールが堅いんだ。辞めてすぐに大学を変えると、父の仕事上の付き合いでも大学の派閥で色々と支障が出るから、一年間休学してからということになった。だから、来年の夏前くらいまでは自由の身さ。もっとも、新しい環境の為に勉強はしておかないとだけれどね」
そう教えてくれたアーサーが通っていたのは、この国に住む上では誰もが知っているような名門校だった。
おまけに彼は奨学金まで出ていた上位生だと知り、サラは驚いてしまう。
「意外そうだね」
「アーサーは、………万遍なくではなく、偏る人だと思っていたから」
素直にそう答えたサラに、アーサーは低く喉を鳴らして笑った。
何だか嬉しそうに笑うので、サラは少しだけ胸の中がほこほこしてくる。
サラの最近のお気に入りは、アーサーの楽しそうな顔と、時折庭で行き倒れのモップのように寝ているダーシャを撫でることだった。
ダーシャはあの日以降、すっかりサラに懐いてくれていて、目が合うと尻尾をふさふささせてジョーンズワースの庭からこちらに走って来てくれる。
ただし、ダーシャは足が短い猫なので、雨の後の庭だとお腹が汚れてしまう。
そんな日に遊びに来てくれた時には、サラは、タオルを持って迎えにいかなければならなかった。
「こう見えて僕は、そつなく装うことはとても得意なんだ。勉強もね、あまり苦ではないかな。ただ模範生として下級生達に囲まれるのはあまり得意ではなくて、そこから伸びるレールで走る今の大学はあまり愉快ではないことが多い。そこから外れることを許してくれた両親には、とても感謝しているよ」
下級生があまり得意ではないと話した彼を、悲しくなったサラが何とも言えない目で見上げると、アーサーはくすりと微笑む。
大きな手で頭をわしわしと撫でられて、サラは気恥ずかしいやら悲しいやら、複雑な気持ちになった。
つい昨日気付いたばかりなのだが、アーサーは、サラのことをダーシャと同じように撫でるのだ。
「君は僕のお気に入りのお隣さんで、同じ資質を持つ得難い友人だ。誰が監督生たちの一番のお気に入りかを競う、困った下級生達とは違うよ」
「…………まぁ、何だか王様や貴族に群がる家臣のようなのね」
「…………ああ、言われてみればそんな感じなのかもしれないね。それは息が詰まるわけだ……………」
「王様でいることだけなら、嫌いではなかったの?」
「監督生は僕一人ではなかったから、王様のような権限はなかったけれど、恩恵も多い立場だからね。ただ、僕が未熟で、責務として以上に密な人間関係が求められるのだとは想像出来ていなかった」
そう微笑んで、アーサーは教えてくれた。
自習室や専門書架の閲覧などの特権を求めたら、やんごとなき家柄の下級生達の、容赦のない派閥争いに巻き込まれてしまったと告白し、そういう問題には自分は巻き込まれないと思っていたのだと呟く。
アーサー自身もある程度はやんごとなき血筋ではあるものの、アーサーの父親は三男なので、伯爵家の称号は引き継いでいない。
「でもまぁ、爵位なき官僚の息子というくらいの役割の伝手も、彼等には使い勝手がいいピースだったのかもしれないね。社会に出た時に自分達が上に立つつもりなら、実に利用しやすい」
「……………そういうものばかりではなくて、実際にアーサーに憧れていたのかもしれないわ」
「さてどうだろう。僕は自分を取り繕うのが得意だと話しただろう?あまり魅力的な人間ではなかったと思うよ」
サラは、人望がなくては監督生にはなれないような気がしたが、実際に知っていることではないので言及せずに留めた。
(それに、アーサーはこういう話があまり好きではないみたい…………?)
その頃の話をすればする程、灰色の瞳は酷薄になり、微笑みは貼り付けたようになっている。
彼の言う取り繕われた表情というものがどんなものなのか、この横顔から少し想像出来てしまいそうだ。
「それでも人は、そんな誰かに惹かれたりするものだと思うけれど、アーサーには、呪いの話を聞いた方が良さそうだわ」
サラが話を変えれば、アーサーはにっこり微笑んだ。
それで正解だよというように怜悧な美貌を緩め灰色の瞳を細められれば、下級生などこの微笑み一つで籠絡出来たに違いないという気もする。
何の利害関係もない筈のサラも、彼の前では、不正解の返答をしたくないと考えてしまうくらいではないか。
「僕の家の呪いはね、何の決まり事もないんだ」
「何かをしてはいけないとか、何かをしなければいけないということではないの?」
「何もないよ。僕達の代か、その次の代でジョーンズワース家を断絶させる。それだけのことだ。せめて理由を教えてくれると良かったのだけどね」
「……………っ、」
(それ、だけ……………?)
それは、自身も一族の呪いを背負っているサラが聞いても、あまりにも理不尽なものに思えた。
とは言え、物語や伝承に残されている呪いというのは、どちらかと言えばその理不尽さの方が一般的ではあるような気がするものの、それでもせめて、呪いの発端となった事件や事故くらいは記されている。
「僕達の家に伝わったものではなかったけれど、ジョーンズワース家には一枚の紙が残されていたそうだ。そこには燃える馬車の絵が描かれていて、ジョーンズワースは孫の代でその血筋を絶やすだろうと記されていた。………………その原本は、誰かが勝手に教会に持ち込んでしまって、もう既に燃やされてしまったらしい。結局誰が呪われてしまったのかも不明だし、どうしてそんなものを貰うことになったのかの解明については、もはや打つ手なしだね」
「ご家族の中に、思い当たるようなことがある方もいらっしゃらないの?」
「残念ながら。僕達の親世代は、その時はまだ幼い子供達だった。呪われるには幼いような気もするし、その年代で呪われたのだとしたら、思い当たる理由はいっそ多いくらいだろう。ほら、子供ってものは悪戯をするからね」
「子供の悪戯で呪われてしまった可能性もあるのね……………」
それもまた酷い話だと思わずにはいられなかったが、呪いをかけるような生き物がいたとしたら、相手が子供達であってもお構いなしかもしれない。
そう考えかけたサラは、自分の思考がいとも容易く人ならざる者達へ転がったことに眉を顰めた。
それはなぜだか、とても危うく、そしてとても大事なことのような気がする。
そもそも、一族に厄介な呪いをかけられているアシュレイ家とジョーンズワース家が、たまたま隣に住んでいるのは偶然なのだろうか。
(ジョーンズワース家は元々は北部の方の出の一族で、このお屋敷はアーサーのお父様がご自身のお兄様の所有しているお屋敷をいただいただけだそうだし、私の家も、お爺様がここに越してきて住むようになったから、お互いに偶然と言えばそうなのだけれど…………)
「それに、従兄弟達もまだ、誰も子供がいないからね。今のところはどの代が呪いの標的なのかを確かめようがない。とは言え、その次の世代を残せないとは明言されていないから、僕達の代で途絶えるというだけであれば、子供を持つことは出来ても成人出来るのは僕達の世代までだという考え方もある。ややこしいだろう?」
「他のご家族の養子になってしまえば、解決はつくものなのかしら?」
「多分ね。いざとなればやってみようかと言い出すくらいには、大らかな一族だとは思うよ。ただ、僕達の家にある呪いはまだ、あまり姿を現さないんだ」
そう呟きアーサーが触れた薔薇は、淡いピンク色が中央に滲むように広がる、上品な薔薇の一つだった。
白い薔薇だけでは寒々しいのではと庭師が植えた品種で、可憐であたたかな色合いがとても美しい。
かつて、この薔薇を愛した女性がアーサーの兄の恋人だったそうで、その女性は、恋人と二人で乗ってゆく筈だった迎えの車に一人で乗り、そのまま帰らぬ人となった。
また、アーサーの従兄弟達は、休暇中の遺跡めぐりで乗っていた車が対向車との接触事故で谷底に落ちてしまい、そのまま亡くなってしまったそうだ。
「…………単なる事故が重なっただけなのか、車が燃えてしまったからにはもう、ジョーンズワース家の呪いなのか、それすらも分らないのですって。…………あなたのご主人様のお家の呪いも、困った呪いなのね……………」
アーサーはその後、エマに頼まれていた家の用事があったことを思い出して帰ってゆき、サラの膝の上にダーシャを残していった。
ずしりと重いがその温もりが嬉しい年寄り猫は、くしゃりとした顔でサラを見上げ、今日も変わらず悲しげな目をしている。
「ブニャ」
「私のお家の呪いはね、……………もしかすると、叔母様は何かを知っていたのかもしれないわ」
「ブニャゴ?」
「本当は、アーサーにも相談してみようと思ったの。……………でもほら、今はお父様が公演中でしょう?お留守番の時に何かがあって、お父様が帰って来なければいけなくなったら大変だから、お父様のお仕事がない日に、アーサーに話してみようかなと思い直したところ」
「……………ブニャ」
ダーシャは賛成なのか反対なのか分らない声で短く鳴き、サラが喉を掻いてやるとごろごろと喉を鳴らした。
穏やかなばかりの猫なのかなと思ったが、時折足が短くてむしゃくしゃするのか、段差が乗り越えられなくてじたばたしていることもあるので、なかなかの情熱も秘めているのかもしれない。
傍らのテーブルの上に置いた、緑の革の装丁の手帳を見つめる。
それは、世間的には突発的な心中だと言われている凄惨な事件を起こしたサラの叔母が、散々調べ尽くされた叔母自身の部屋ではなく祖父の部屋の書架に残していた、彼女の手帳だ。
スケジュールの管理をしているような手帳ではなく、何かを調べその内容をひたすらに書き込んでいたものであるらしい。
そんなものをなぜ祖父の部屋に隠したのか、見付けてしまったサラは不思議でならなかった。
そっとその最初の頁を開き、叔母の気に入っていた葡萄色のインクのペンで書かれた、見間違う筈もない端正な文字にそっと触れる。
“私達の呪いは、アレッシオとカテリーナから始まった”
そんな一文で、叔母の手帳は始まっていた。