二人の願い事と窓辺の魔物
からんころんと、夜の向こう側で鐘の音が響いた。
今夜の特赦日の舞台では、七十六の公演があり、十三の願い事が叶ったのだそうだ。
ただ、一人だけ辞退を申し出た参加者がいたと聞けば、サラはそれがカトリーナのような気がして、赤いタフタのドレスの歌姫を思った。
(きっと、アレッシオさんに会えたのなら、カトリーナさんはもう歌劇場では歌わない気がするから…………)
探しに行かなくても会えたのなら、カトリーナはきっと、これからはもうアレッシオの為だけに歌うのだろう。
そう考えると何だか胸がほこほこして、サラは、愛する人の為にだけ歌えるカトリーナは、どんな歌を歌うのだろうかと考えた。
(きっと、ああして姿を変えてもずっと近くにいてくれたのなら、あの二人はもう大丈夫だと思うの……………)
殺した者と殺された者がそんな風に寄り添ってゆくのは不思議な事だが、それが成り立つのがこちら側の世界なのだろう。
「…………サラ。今夜は疲れただろう。ゆっくり眠った方がいい」
夜になってもグラフは戻らず、サラ達は今夜ばかりは死者の国で売られていた豆のスープとベーコンの入ったパンを食べたが、聞いた通りの味の薄さに辟易とし、サラが持ち込んだ塩の小瓶が大活躍した。
これは、橋の向こうに行く準備をしていたグラフがいるだろうなと呟き、サラがそれを聞き逃さずに持ってきたのだ。
「………そう考えると、先生は、初めからこちらに滞在する可能性を示唆していたのね」
「特赦日の何日か前にこちらに来ていたみたいだから、僕達が橋を渡った日からであれば、三日は必要だったってことだからね」
そう言ったダーシャは、死者はあまり眠らないんだよと微笑む。
サラ達のところで眠っていたのは、あちら側がやはり死者の領域ではなかったからなのだろう。
さて僕は入浴してくるよとダーシャが部屋を出ると、部屋にはサラとアーサーだけになった。
「……………こんなところでは、眠れないか」
「…………ううん、眠るわ。でも、アーサー……………あのね、」
窓の外は賑やかだ。
だが、影のような人影が行き交うものの、それは亡霊のような影でどこか怖い夢めいた不思議な感じがする。
遠くには教会の尖塔が見え、歌劇場の円形の屋根も少しだけ見えた。
ゴーンと鐘の音が聞こえ、どこかからバイオリンの音色も聞こえてくる。
この賑わいはそら恐ろしく、やはり人間の領域には思えない。
でもここは、人ならざる者達が紛れ込んだ人間の領域には違わないのだ。
ただ、魔物に殺された人間達のという前提が付くだけで。
そんな町並みを窓から見下ろしているアーサーの横顔には夜の影が落ち、はっとするほどに美しく見えた。
これは、アーサーが魔術師になった翳りで、向こう側のものとして魔術に成る契約を魔物と交わしてしまったからこその儚さなのだろうか。
ただの仄暗い美しさを求めるなら、それはグラフに敵うものなどない筈なのに、なぜこのアーサーの瞳の影に惹かれるのだろうと考え、サラはぎくりとした。
それは、滅びゆくものの儚さだ。
グラフには勿論なく、死者としてここにいるダーシャにもない、あの幻のように訪れる暗い暗い劇場と喝采の向こう側で、明るい舞台に立つ誰かを見ていた、その中でどこにも行けずに隣に座っていた愛おしいひと。
“ああ、私達はここからずっとあなたを見ている。……………愛しい子”
そう微笑んだのは誰なのだろう。
けれど、それは間違いなく、サラ自身の声なのだ。
真っ白な花びらの降りしきるその劇場の暗い座席で、隣に座った愛おしい誰かと手を繋ぎ、目の前の舞台に立つ誰かの物語がハッピーエンドになる事を夢見て。
「………………サラ?」
そっと名前を呼ばれて夢から覚めるように、サラは目を開いた。
心配そうにこちらを見ているアーサーがそこにいて、頬に手のひらが当てられている。
「………………アーサー、あなたはどこかへ行ってしまったりはしないわ。ずっと最後まで手を繋いでいたもの」
「…………夢を見たのかい?」
「カトリーナさんから、アシュレイ家の音楽の神様には、予兆や予言のようなものがあるのかもしれないと言われたの。だから私は、…………時々、不思議なものを見るのかしら」
「……………ほら、また僕の知らない不思議なものを見ているんだ。…………目を離すと、誰かに連れ去られてしまいそうなのは君の方なのに」
吐息混じりの静かな声に、サラは目を瞬いた。
こちらを見て淡く微笑んだアーサーは、すりりっとサラの頬を撫でた手を離し、その微笑みを僅かに歪める。
「……………けれど、君は必ず家に帰してあげるから」
「…………アーサー、私達はもう、…………もしかしたら、迷い込んでしまったところから、帰ることは出来ないのかもしれない」
少しだけ悩んだがそう告げたサラに、アーサーは静かに目を瞠った。
傷付いたようなその表情には胸が痛んだが、それでも言わなければいけないと思った。
あの屋敷でアーサーやグラフと過ごし、そこからいなくなってしまった、オードリーや叔母の思い出を何とか辿りながら、サラは心のどこかでずっとそう考えてきたのだ。
大好きな家族を取り戻すことを諦められる筈もなくても、それでももう、結ばれて閉じられてしまったものは取り戻しが効かないのだと。
(ここにある魔法は、そんな風に都合が良くなくて、美しいけれど優しいものではないのだから………………)
「…………サラ」
「だけど、きっと幸せにはなれると思うの。私とアーサーは、はぐれてしまわないように…………どこかで手が離れても、きっとまた会えるわ。だから、明日の舞台で怖い事があっても、一人でどこかへ行ってしまわないでね……………」
「…………それは、君が見た予言なのかい?」
「…………ええ」
そこがとても暗く、多分もうどこにも行けない場所であるとは言わなかった。
いずれそこに向かうのだとしても、あんな風に手を繋いでいたのなら、それまではきっと幸せだったのだ。
(あの橋を渡る日までの私は、物語はちゃんと幸せにならないといけないのだと思っていた…………。でも、オードリーや叔母様との思い出を失って初めて、…………それでもそちらの方が幸福だったのだと、そんなものがあるのだと知ったのだわ……………)
それなら、アーサーと手を繋いでいられるそこは、サラにとっての悲しい顛末ではないのかもしれない。
それに、サラ達の視線の先でまだ舞台には誰かが立っていた。
アーサーそっくりの目をした、とても大切なひとがそこにいたのだ。
「私はね、ここに来て怖い事を沢山知ってしまってから、お母様は不幸なばかりではなかったのだと思えるようになったの。………だって、最後に私を守ってくれたのだもの。………完璧ではなくても、大切なものが幸せになってくれれば、それは願い事が一つ叶うという事なのだわ」
ふ、と視界が翳った。
小さく息を飲み、サラは目を瞬いた。
アーサーに抱き締められていると気付いたのは、それからの事だ。
「……………アーサー?」
「頼むから、………そんな風に、どこか遠くへ行ってしまうような事を言わないでくれ。僕は、…………君には、あのピクニックに行った日のように、………あの日のように笑っていて欲しいんだ」
それは、なんて我が儘な願い事だろう。
そう考えたら、サラはくすりと微笑んでしまっていた。
アーサーはとても大人で、魔法使いで、知らない間に妖精にプロポーズされて呪われてしまっていたりするけれど、それでも、胸が痛むくらいにとても繊細で優しいのだ。
「手を繋いでどこにも行かないでねって言ったのは、私の方なのに…………」
「…………だとしてもだよ。今の僕は、心臓が止まりそうになった」
「そうなの?」
首を傾げて微笑むと、ふっと頬に微かな温もりが触れた。
頬に口付けられたのだと気付き目を丸くしたサラに、吐息が触れそうな程の距離で微笑んだアーサーは美しかった。
「…………言っただろう。君は僕の恩寵なんだ。だから君は、僕の愛するものの未来を、大切にしてくれないと」
そうやって微笑むアーサーこそ、明日の先のこれからを微塵も考えていないくせに。
(…………私の歌が、グラフを納得させられないと思っている訳ではなくても、アーサーはもう奇跡を願ったりはしないのだわ………)
彼はきっと、宝石の町で過ごした五年間で、願い事が叶わないことを知っている。
もしかしたら、サラだけを逃がせるような危うい方法も身に着けているのかもしれない。
だから、代わりにサラが願うのだろうか。
そんなサラが願うものは、アーサーが思うよりずっと暗く、救いのないものなのかもしれない。
でも、その先に行く意味はいつだってある筈だ。
完璧な終わり方だけが、幸福の全てではないのだから。
「……………私は、アーサーが好き」
「…………っ、サラ、」
短く息を詰め、それでいて嗜めるように狡く微笑んだアーサーに、サラはそれでも幼いと自覚している思いの丈を伝えてしまおうとした。
「これは他の大好きではなくて、本当の大好きなのよ。だから、私は明日、とびきりの歌を歌うわ」
そう伝えて微笑めば、アーサーは灰色の瞳を揺らし、ただこちらを見ていた。
もっと大人の女性だったなら、きっとこの場でアーサーを捕まえてしまうような言葉が選べたのだろう。
でもサラはやっぱりまだ幼くて無知で、選べる言葉はとても少ない。
それが悔しくて堪らなかった。
また遠くで鐘の音が聞こえる。
でも、いつの間にかその音は怖いものには聞こえなくなった。
薄っすらと目を開き瞬きすれば、少しだけ寝入っていたようだ。
「でも、私の歌は明日、先生をぺしゃんこにするわ」
「…………先生はやめろと言っただろう。…………うん、やはり砂糖は美味いな!なぜこの味覚なしにあれだけの期間を生き延びたのか、さっぱり分からん………」
「…………グラフは、お砂糖を食べるとご機嫌になってしまうのね…………」
「おい、妙な目で俺を見るな。それとお前、寝惚けているだろう…………」
「かりかりの猫の餌じゃなくて、焼いた鱈を貰った時のダーシャも床の上で弾むのよ」
「おい、それは猫の時の描写だな…………」
「だって、先……グラフも弾んでしまうでしょう?」
真夜中の寝室で目を覚ますと、開いた窓のところに腰掛けて、魔物がお皿に山盛りにした砂糖の山を、サラが贈った銀のスプーンでじゃりじゃりと食べていた。
それは、もしかしたら聖女だった誰かなのかなとも考えたが、サラはあまり気にしない事にした。
そして、今夜に考えた事を話していたのだ。
明日になれば、この魔物ともお別れだ。
砂糖にされてしまうにせよ、打ち負かしてアーサーを連れて帰るにせよ、グラフと一緒にいるのは明日の舞台までなのだから。
それを寂しく感じてしまうのは、おかしな事なのだろうか。
「……………レッスンをつけてやるには、お前はもう芽吹き始めているからな。ここで歌わせると危ない」
「もしかして、褒めてくれているのですか……………?」
少しだけ驚いて瞬きをすると、握り締めて眠った小さな宝石が手のひらからこぼれ落ちそうになり、サラは慌ててその宝物をシーツの上から拾い上げた。
これはダーシャから貰ったのだ。
三人だけで過ごせた最後の夜に、向こう側に戻った時のサラ達の宝物になるようにと、アーサーとそれぞれ、ダーシャの見事な服の上着に縫い込まれていた祝福石を一つずつ。
「……………あ!」
しかし、サラがなくしてしまったらどうしようと顔を歪めていたそれを、グラフがひょいと取り上げてしまうではないか。
慌ててじたばたしたサラに間を空けずに戻された小さな水色の宝石は、いつの間にか華奢な鎖が付いたネックレスになっていた。
宝石の部分は爪で留めてあるだけなので、穴が開いてしまっていたりもしない。
落とさないように装飾品にしてくれたのだと気付き、サラはますます驚いて窓枠に腰かけた魔物を見上げた。
「………褒めているかどうかはさておき、お前は俺をたいそう失望させるが、同時に満足もさせる。妙な人間なのは間違いない。明日もどうせ、そんな感じだろう」
「…………先生、」
「先生はやめろ。この砂糖を食う喜びの邪魔をするな」
「……………グラフ、……………こちら側にいる死者の王は、死んでしまった人に会わせてくれたりはするのですか?」
ネックレスのお礼を言おうとしたが、また選ぶ言葉を間違えてしまうのが怖くて、サラはそんな質問を選んだ。
グラフも触れないのだから、これはこのままでいいのだ。
なくさないように首にかけてしまえば、綺麗な祝福石がきらりと光った。
「あれは王だ。死者たちを管理はするが、その願いを叶えることはない。そもそもお前は、向こう側の人間だろう。こちらで死なない限りは、死者の国に迎え入れられることなどないんだぞ」
「私の生まれた側には、死者の国はないのでしょうか?」
「墓場のあの様子を見ている限りは、行き来出来るようなものはないだろうな。変質して残るか、洗い流されてどこかに収束されるかだ」
それは不公平だというような気分になったが、思えば、死者達が変質しない限り残らないのであれば、サラや父に幽霊が見えなくても、亡くなった家族達は寂しい思いをせずに済むだろう。
そう考えると少し安堵し、サラは思っていたより寝心地の良かった寝台でむぐぐっとつま先を伸ばした。
「でも、私の御先祖様の奥様は、こちらで亡くなって消えてしまったって…………」
「本来なら弾かれる筈の、適正のない生き物はそうなる。お前の家に巣食ったものは向こう側の存在だが、お前の血のどこかにはこちら側の繋がりがある筈だ。でなければ、とっくに体調に異変をきたしている」
「まぁ……………」
こんな風に半分眠りながら、窓辺に座った魔物と話をするのは不思議な感じだ。
背後にあるもう一つの寝台ではアーサーとダーシャが眠っているのか、それとも二人は居間の方にある長椅子で今も議論をしているのかは分からない。
「……………それにしても、ウィーム陥落の後とはな。俺の戻るべき場所も、少々ずれ込んだらしい」
「グラフも、……………戻る場所が違っていたのですか?」
これも新しい驚きであった。
当然と言えば当然なのだが、やはり向こう側とこちら側の時間の繋がりはとても複雑なようだ。
どうやら、グラフがこの魔物に殺された死者達の国に入ったのは、ダーシャの祖国であるウィーム陥落の少し前のことだったようだ。
その話を単純に戻り路の話として聞き流すには胸が痛んだが、グラフは、他の魔物の狂乱で腕を失い、その後の事後処理に奔走した数年後、ウィームが近くにあった別の国と関係を崩し始めたくらいの頃にここを訪れた筈だったと教えてくれる。
「ダーシャとかいうあの人間の言動に違和感を覚えて調べたら、多少の誤差が出たようだ。ここでは、家は、持ち主が存在しており売りに出さない限りは、不動産が接収されることはない。アレッシオが管理していたのかもしれないが、あいつもウィームに籍を置く魔物だ。こちらを手薄にされるといささか危ういところだった」
「じゃあ、もう一度橋を渡って、戻り直したり……」
「再調整も面倒だ。数年の誤差くらい放っておくさ。どちらにせよ、こちら側と向こう側の時間の流れは、蛇行する川が交わるよりも難解で複雑に入り組んでいる。その全てを計算して辻褄を合わせるのは、……………やめだ。やめ。砂糖がまずくなる」
魔物がそんなことを話してくれたのは、他に同じような迷子仲間がいないからだろうか。
サラ達が戻った場所は書き換えられてしまっていたが、幸いにも時間がずれ込んだりはしていなかった。
グラフの話しぶりからすると、それはかなり幸運なことだったのかもしれない。
「……………私が向こうに戻る時に、お父様がお爺さんになってしまっていたら……」
「戻る前提で話すのか…………」
「何百年も経ってしまっていたらどうしよう…………」
眠りの淵でその小さな不安を零せば、ふわりと頭を撫でられたような気がした。
そしてその手の持ち主は、自分がそんなことをしたのが意外だと言わんばかりに、どこか憮然とした気配を纏うのだ。
「向こうの変化の方が少ないのは確かだ。余計なことで悩まず、さっさと寝るといい」
「……………ふぁぎゅ」
しょんぼりして目を閉じると、夢の向こう側でサラは森でピクニックをしていた。
ジョーンズワース家のキルトの敷物を敷いて、森でアーサーのお手製の卵サンドを食べている。
なぜかサラの髪の毛は、淡い金髪になっていたがそれはとても幸せな夢だったような気がする。
翌朝目が覚めると、昨晩は開いていた窓は閉まっていて、グラフの姿はなかった。
起き上がって隣のベッドを見れば誰かが眠った形跡があったものの、こちらも既に起き出してしまったものかアーサー達もいないようだ。
一瞬僅かな不安に背筋が寒くなったが、続き間の居間の方で人の気配がする。
慌ててそちらに行こうとしてから、寝間着代わりになるアンダードレスで寝ていたのだと思い出した。
これは見られても支障のないものを着ていたのでそのまま起き上がり、枕元に置いておいた鞄から取り出したブラシを手に鏡台の前に座って手早く髪を梳かしてしまう。
魔物からの持ち物の指示により、どこかで休むようなことがあった場合に寝間着代わりになり、尚且つそのまま逃げ出すような騒ぎがあってもどうにかなるものを一枚持つようにということだったので、サラが散々悩んで荷物に入れておいた一枚なのだが、やはり予め宿泊の可能性を示唆しておいてくれればと思わざるを得ない。
(ラベンダーの化粧水とか、顔を洗う時に前髪を上げるものとか……………)
男性とは違い大変なのだと小さく唸り、サラは素早く身支度を整えた。
扉を開いて階段を下りてゆけば、食事などをする大きなテーブルに、アーサーとダーシャが座っている。
昨晩とは違う砂糖の山を食べている、グラフの姿もあった。
「おはよう、サラ」
「少しは眠れたようで良かった。朝食もあまり味がないから、君が持って来てくれた塩が生かせるようなものを作ったよ」
「まぁ、ダーシャが作ってくれたの?」
「うん。食材は近くの市場で買えたからね。作られたものを買うよりはいいだろう。アーサーの指示に従ってだけれど、こちらの調理器具は僕の方が扱い易いから」
こちらの厨房は全てが魔法仕掛けになっており、扱うには魔法が使えないといけないのだ。
サラには勿論のこと、アーサーにもその扱いはなかなか難しいのだとか。
(でも、凄く美味しそうだわ………!)
白いお皿に乗せられたのは、まだほかほか湯気を立てているチーズ入りのスクランブルエッグと、塗ったバターが蕩けて黄金色になった美味しそうなトーストだが、バターの味わいはさしてなく雰囲気だけで塗ったよと告白された。
残念ながら口に入れてみるとどれも塩の小瓶が必須であったが、そんなダーシャの手作りの朝食の時間を終えると、そのまま、本日の予定についておさらいが行われた。
まず、舞台に上がる時間が早いダーシャがここを出て、一人で歌劇場に向かう。
ダーシャは、正式なこの死者の国の住人であるので、一人で歌劇場に入っていてもさしたる危険などはない。
死者同士の争いごとは厳しく禁じられており、もし揉め事を起こすと墓犬や掃除婦と呼ばれるこの土地の管理者に処罰されることになる。
特定の魔物との間に魔術の繋ぎがない死者などは、騒ぎを起こすとその場でばっさりと処分されてしまうこともあるのだとか。
「特定の魔物の獲物である場合、こいつやアレッシオのところのように、魔物が、殺した人間を使い魔にするつもりでいることもある。知らぬ間に獲物が廃棄されていてみろ。場合によっては狂乱するぞ」
「その、…………狂乱をされると、大変なことなのですか?」
「その魔物の階位によって変わるが、高階位のものが狂乱すれば、大国一つが滅ぶことも珍しくない。狂乱の地は魔術が腐り落ち、その後の周辺諸国の戦乱に繋がることもある。終焉の魔物………死者の王にとっては、余計な仕事を増やす厄介ごとだ」
グラフは、その死者の王とも面識があるらしい。
どこか遠い目をして、あいつも最近は荒んでるからなと呟いているので、あまりご機嫌が宜しくないようだ。
首を傾げたサラに、グラフは自分の腕を捥いだ狂乱した魔物は、そんな終焉の魔物の友人だったのだと教えてくれる。
(お友達を…………、)
伴侶を殺されて狂乱したその魔物は、自分の伴侶を殺した者を求めて多くの高位の魔物を滅ぼし、追い詰めたのだそうだ。
そうして多くの生き物達を震撼させた後、とある一人の公爵の魔物に殺されたのだという。
自分の友人がそのような最期を迎えたことで、死者の王が胸を痛めているのだと知れば、サラはまた魔物について考える。
魔物は死者にはならず、灰や塵になって消えてしまうだけなのだそうだ。
そして、司るものに後継者が必要であれば、またそっくりの魔物が派生する。
けれども、もうその魔物は、どれだけ失われたひとに酷似していても全くの別人なのだ。
そんな話を聞いてしまえば、気の遠くなるような時間を生き、大きな力を持つこの生き物達が、人間とはまるで違う心の動かし方をすることが腑に落ちるような気がした。
「では、僕はそろそろ出かけてくるよ」
ダーシャがそう言って立ち上がったのは、お昼より少し前のことだった。
ダーシャの舞台は、昼食休憩の時間を挟んだ午後の三番手なのだそうだ。
舞台に上がる前のダーシャが弱ってしまわないように、サラは、持っていた焼き菓子を一つ渡してある。
ダーシャは、これは君達の為のものなのではと慌てていたが、どちらにせよ、明日以降をここで過ごすことはないのだからとダーシャの手に握らせておいた。
小瓶の塩も渡してしまおうとしたのだが、ダーシャは、受け取るとしてもそれは君達の舞台が終わってからにすると言い張り、それまでは受け取ろうとはしなかった。
(もう、行ってしまうのね…………)
前々から出立の時間は決まっていた筈なのに、急に置いていかれるような頼りない気持ちになる。
サラがぎゅっと自分の手を握り締めれば、その手を、アーサーが伸ばした手でそっと包んでくれた。
「昨晩は僕まで泊めていただき、有難うございました。僕はそろそろ自分の特赦の舞台に備えまして、一足先に失礼させていただきます」
グラフに向かって深々と頭を下げる姿には、魔法に馴染み育った国の人間としての敬意が窺える。
それがどのような気質のものであれ、雪の国の人間は、相手が祟りや穢れではなければ、人ならざる者を敬い礼を欠かないようにするのだそうだ。
そうして生きてきた国の人々が人間の国に侵略されてゆく様を、雪の国を愛した人ならざる者達はどんな思いで眺めたのだろうか。
それもまた、橋の向こうで生まれ育ったサラには想像し難いものなのかもしれない。
「何を願うにせよ、せいぜい欲をかかないようにするといい。使い魔のお前はもう、取られる部分が残っていないからな」
「………っ、肝に銘じておきましょう」
グラフから忠告めいた言葉を貰うのは、想定外だったのだろう。
鳶色の瞳を瞬き、元王子らしい優雅さで一礼し、ダーシャはサラ達に向かい合った。
まるでさようならの前のような悲し気な微笑みに、立ち上がったサラは眉を下げる。
「きっと少し余裕を持って入るだろうから、また、歌劇場で会おうか。僕の特赦の結果がどうなるにせよ、君たちの舞台を観る為に客席に移動するつもりだ。応援しているよ、サラ。………アーサーも」
昨日と同じように、サラとアーサーの二人をそれぞれ抱き締め、ダーシャは昨晩の贈り物を示したものか、その祝福石を刺繍から外した胸のあたりに手を当ててから、こちらにも優雅なお辞儀をしてくれた。
「会場まで送りたいところだけれど………」
「いいんだ。君は、サラについていてあげてくれ。それに、また向こうで会う予定なのに最後のお別れみたいにされると悲しいよ?」
「………ああ。ダーシャ、また会おう」
しっかりとした握手を交わしたアーサーとダーシャにだって、わかっている。
もう一度会える保証は、どこにもないのだ。
自分の舞台を終えた後のダーシャは、それどころではなくなってしまうかもしれないし、舞台を控えて舞台裏などに押し込まれてしまったら、サラは、自分の舞台を終えるまでは客席の方には行けない可能性もある。
だからサラは、最後かもしれないという思いを込めて、ダーシャをじっと見上げる。
悲しい時にはいつも、ダーシャがけばけばの温かな体で慰めてくれた。
部屋に泊まってくれたり、体当たりで和ませてくれたり、最初に魔法の事を教えてくれたのもダーシャだった。
もしこのまま舞台に上がる時間になってしまうのだとしたら、もう会えないなんて考えられないけれど、こうして出会えたことこそが、奇跡だったのだと思おう。
そうして、大事な友達を送り出すのだ。
「ダーシャは、私の大事な親友よ。きっとまた歌劇場で会えるけれど、もし会えなくてもずっと友達でいてくれる………?」
そう言ったサラに、ダーシャはにっこり微笑んだ。
幸せなばかりの微笑みではないけれど、こうやって微笑むことの出来る人なのだと思えば、彼は全てを失った亡国の王子なのである。
(沢山を喪ったあなたに、もう一度私達を失わせたりなんてしないように、頑張るから………!)
きっと、彼の自慢の竜は迎えに来てくれる筈なのだ。
歌劇場でその竜が見られたなら、どれだけ素敵だろう。
そう考えてダーシャを見送ったサラ達には一つだけとっておきの秘密が出来た。
ダーシャを迎えに来るのが元夏闇の竜だという秘密までは、さすがの砂糖の魔物も知らないようだ。
使い魔の契約に敷かれた魔術が弱いので、きっと弱い魔物だと思っているよと悪戯っぽく微笑んだ昨晩のダーシャの微笑みを思い出し、サラはその素敵な秘密を胸の中で抱き締める。
出会った頃のようにずっと傍にいて欲しいけれど、ダーシャには彼の、これから取り戻さなければいけない物語があるのだ。
(きっとダーシャは、大好きな竜に会える筈だから………、私はここで、雪の国の王子様とその王子様の大切な竜の幸せなお話の顛末を見られるのだわ…………)
どこかにいってしまったあの絵本とは違い、悲しみを乗り越えたハッピーエンドが描かれると信じている。
黒くて大きな竜が大事な山猫の王子を迎えに来るのだと思えば、そこに優しい魔法の物語を思い浮かべたサラは、幸せな気持ちになったのだった。
明日の更新はお休みとなります。
次回の更新も、ジョーンズワースのお話を予定していますので、楽しみにしていて下さいね。




