お茶会の作戦と一本の剣
それは、不思議なお茶会だった。
サラはグラフに言われて紙に包んで持ち込んでいた紅茶の茶葉を取り出し、ダーシャがお湯を沸かしてくれる。
その間に、少しだけ周囲を見てくると言い残してアーサーが姿を消してしまったのでやきもきしたが、お茶が入る頃には無事に戻ってきてくれた。
「何だろう、二人とも………だいぶ雰囲気が変わったね」
苦笑してそう呟いたのはダーシャで、どこか悲しげな瞳をして、サラとアーサーを一人ずつ抱き締めてくれる。
その優しさに胸がいっぱいになって、サラは、泣いてしまいそうになった。
「僕はそれなりに年月が経っているからだろうけれど、…………確かに、サラは随分と変わったかな」
アーサーにまでそう言われ、サラは首を傾げた。
「先生に、鍛えられたから………なのかしら………」
「………何だろうな、複雑な気持ちになった」
「…………うん。僕も複雑だけれど、良い方向に考えれば、人外者の………、それもあそこまで高位の魔物の教えをそれだけの期間得られる事はない。たった一人であの魔物と契約をしてしまった事はやはり賛成出来ないけれど、………サラの勇気のお陰で、アーサーにも帰り道が残されているんだろう」
「ダーシャ…………私、………」
しょんぼりしたサラに、責めている訳じゃないよ、とダーシャはサラの頭を撫でてくれる。
「でも、優しいばかりの事を言って済む段階ではないから正直に言うけれど、………僕は、人ならざる者達の多く住む土地の王族として、それで破滅した者達を沢山見てきた。君達の側にいたのにそれを防げず、君達をこちら側に招き入れてしまった自分の浅はかさが悔やまれるんだ………」
「君のせいではないよ。僕もあの橋を渡るしかないと意気込んでいた」
「それは!…………私がそこに行けばきっと助かるのだわと話してしまったから…」
「いや、僕達だけじゃない。その場にいたジャンパウロや、サラのお父上もここ迄のことは想定出来なかっただろう。あの魔物ですら想定外だったんだから、きっと、誰にも想像しえなかった悲劇が起こってしまったのだと思う。それに僕は、きっとサラが止めてもいつかはあの橋を渡っただろう。………手がかりさえあれば、一人きりでだって………」
淡く微笑んでそう言うと、アーサーは話題を変えた。
先程外に出た時に貰ってきたんだよと、特赦日の舞台を知らせるチラシのようなものを見せてくれたアーサーに、サラは色鮮やかなその紙を興味津々で覗き込む。
折り畳んだチラシをポケットから取り出しているアーサーに、ダーシャが呆れたような顔をして肩を竦めた。
「………いつの間にか、君は僕より逞しくなってしまったなぁ…………」
「あわいに落とされてから、ジャン………あの魔物とは、比較的早い段階で契約を交わしたんだ。見たこともない生き物たちが沢山暮らしている土地で、すぐに自分一人では生きて帰れないと理解出来たし、…………」
ここで一度言葉を切り、アーサーは少しだけ躊躇った。
「………サラが、一人で同じようなところに迷い込んでいたらと思うと、気が気じゃなかった。ダーシャとは違って、サラはこちら側の世界のことを殆ど何も知らない訳だからね。けれど、契約が早かったお陰で、彼の庇護下でこちらの暮らしを覚える事が出来たのは幸いだった」
「……………私は、ほんの少しだけ、お母様と会う夢を見たの。それだけでもう、目を覚ますと車の中にいたわ」
「…………もしかすると、その母君の残したアシュレイ家の呪いこそが、君の事を守ったのかもしれないね」
アーサーが過ごした日々の過酷さを思い申し訳ない気持ちでサラが告白すると、ダーシャにそんなことを言われた。
「音楽の神様が……………?」
「うん。それは、向こう側のものなのだろう?橋の上では、………僕には見えなかったけれど、ああして君の呼び声に応えられたのだから、その繋がりこそが、君を向こう側に引き止めたのかもしれない。アーサーの場合は元々こちら側の血筋でもあるし、ジョーンズワースの呪いもこちら側のものだからね………」
「……………お母様は、何度も私を守ってくれたのね」
ふわりと立ち昇る湯気に、懐かしい紅茶の香りが漂った。
サラは、カトリーナとの会話を二人に伝え、アシュレイの一族は、橋のこちら側で子供が産まれてはいるものの、アーサーのように元々こちら側の人間だったという事はなさそうだと話した。
しかし、その見解については、アーサーには思うところがあるようだ。
「けれど、二人は橋を渡れたのだろう?であれば、それより以前のどこかで、その青年はこちら側のものに交わっているのかもしれないよ」
「そうかしら。…………そうだといいなと、今はそう思うの………」
部屋の中は気持ちの良い室温で、時折天井から吊るされたシャンデリアの炎が揺れる。
窓の外は少しだけ風があるようで、この部屋の窓向きだと、反対側の通りの並木道がよく見えた。
奇妙な穏やかさの中で、アーサーがぽつりと語ってくれたのは、砂糖の魔物と彷徨ったあわいでの日々の事だ。
「無力さを知られて生き残れる場所ではなかったから、僕は異国の魔術師という肩書きを名乗っていたんだ。………ジャン曰く、ジョーンズワースの呪いは、橋を渡ろうとした僕に付いて来ていたそうで、僕の傍に常にあったよ」
「……………アーサー!」
「サラ、落ち着いて。そのお陰で向こう側で生き延びる事が出来たんだ」
「そうなの…………?」
たった一人であの馬車と向き合っていたのかと思わず立ち上がってしまったサラは、苦笑したアーサーに宥められ、渋々と椅子に座り直した。
「この部分においては、僕も、あの魔物と旅を出来たからこそ知り得たものだ。その機会を得られた事に感謝している………」
そんな前置きから語られたのは、アーサーの過ごした、森と宝石の町での日々だった。
そこは深い森に囲まれた豊かな宝石と商人の町で、とある妖精の王が治めている。
森の外側には砂漠が続いていたそうだが、グラフがその砂漠に出るのは危険だと判断し、二人は町に留まったのだそうだ。
「…………ジョーンズワースの呪いは、恐らく僕の代で死を齎すものではないのだろう。けれど、その呪いは以前にダーシャも話してくれたように、獲物であるジョーンズワースの人間を損なおうとする者を許さないんだ」
「…………人外者の残す可動式の呪いには、そのようなものが多いんだ。特に、魂はなくても意思を持つような呪いはね…………」
「うん。…………だから向こうでは、僕を殺そうとする者達は、ことごとくあの馬車に排除された。名の知られた魔術師達や、妖精や精霊という人ではないものも、あの馬車には勝てなかったからね………」
「……………そこまでのものか。……いや、それも何となく、感じてはいたんだ。高位の人外者が、大国の脅威となる程の悪食の竜を殺す為に作った呪いであれば、相当の力を有してはいるだろうと考えていたけれど……………」
「ジャンにも言われたよ。この呪いを壊す事が出来るのは、製作者である白夜の魔物と、標的にされた悪食の白い竜だけだって」
けれど、呪いを作ったという白夜の魔物はもう代替わりしてしまったそうなので、ジョーンズワースの呪いを滅ぼせるのは、狙われたという悪食の竜だけなのだとか。
サラは少しだけ、雪の国の王妃が心を寄せた食いしん坊の竜が、あの黒い馬車をくしゃりと壊してしまうことを思い描いてしまう。
けれどもその竜もまた、人間がそう容易く会えるような生き物ではないのだそうだ。
「……………その、馬車が悪い人達を食べてしまっている時に、アーサーは危なくなかったの?」
「幸いにもね。…………けれど、ジョーンズワースの者の命を脅かす者があまりにも近くにいると、諸共殺されてしまう可能性が高いからと、ジャンには何度も立ち位置を注意された。…………一度、僕達が招かれて滞在していた屋敷が、屋敷の魔物の亜種という厄介な生き物だった事があるんだ」
「屋敷の魔物…………」
それは、一軒の立派なお屋敷が、丸ごと一匹の魔物になっているというとても厄介なものだったらしい。
知らずに中に入ってしまうと、獲物が全員口の中に入ったところで元の姿に戻り、そのままぱくりと食べてしまうのだとか。
「それに飲み込まれそうになった時は、屋敷ごと僕も馬車に連れ去られそうになったけれど、…………あの魔物のお陰で難を逃れたよ」
「……………えっく」
「サラ…………?!…………ご、ごめん、泣かないで……………」
「……………っく、アーサーが無事で良かったわ」
サラは、アーサーがそんな目に遭ったと知るだけで震え上がってしまい、ここにいるのが、大好きな二人だからなのか、堪えきれずにめそめそしてしまう。
橋の上で出会った時のグラフも恐ろしかったし、そこでサラ達を覗き込んだアシュレイ家の呪いも怖かった。
けれどやはり、あの雨の日に見た黒い馬車の気配に感じた恐怖は、鮮明に記憶に残っている。
涙を落としてはいけないからと、ハンカチで涙を拭いつつ、サラはアーサーに尋ねてみる。
「…………つまり、アーサーは、逃げられないような状態で命を狙われないようにしないといけないのね…………?」
「そのようだね。…………恐らく父は、……あの日の同じ車に乗った誰かが命を狙われていた事で、その呪いに触れたのだろう。あの呪いは、自分の獲物を狙うものだけでなく、その脅威に晒されたジョーンズワースの人間に助かる見込みがないと判断すると、そちらも連れ去ろうとするらしい…………」
アーサーがその結論に至れたのは、やはり高位の魔物であるグラフという同行者がいたからなのだそうだ。
アーサーの周囲でジョーンズワースの呪いが動くたびに、それを観察しどのようなものなのかを見極めていたようだと話してくれる。
「彼が、僕を魔術にすることに価値を見出したのは、あわいに落ちた直後に、僕達を狙った魔物が呪いに食われたせいだろう。それなりの階位の者を捕食する自立型の魔術だと知り、実際に動いたものを見て気に入ってくれたらしい」
そんなアーサーの説明に、サラは複雑な思いで頷く。
グラフは、サラの大事なアーサーを魔術にしようとしているが、けれどもそこで、グラフがそうする価値を見出されなければ、そもそもアーサーは、生きてこちらに戻れなかったのかもしれないのだ。
「そこでは、ジョーンズワースの呪いに触れなかったのだね?」
「命を奪うものではなく、置き換えや編み変えに近いものは認識しないらしい。これもジャンに言われた事だ。………多分だけれど、彼もこの手の呪いを扱った事はあるのかもしれないね」
「…………そうか。それはあり得るな。彼は、………本来はあまり人間に好意的なものではなさそうだから…………」
「魔術になると、どうなってしまうの?」
「肉体や魂を、術式に置き換えられてしまうらしい。こちら側で言えば、数式にされてしまうようなものかな」
「…………………絶対に、先生に勝つわ」
ぞっとして、そう宣言したサラに、アーサーがここで首を傾げた。
「ねぇ、サラ。こちら側に来てから、君はジャンの事を前以上に先生と呼ぶようになったね。どうしてだい?」
「……………き、聞いても笑わない?」
「…………うん?………そういう理由なのかい?」
アーサーとダーシャが顔を見合わせて不思議そうにする中、サラは、ぽそぽそとその理由を説明した。
「…………アシュレイ家の呪いを退ける為に、向こう側の人ならざる者の名前を借りる事も考えたでしょう?その時に先生が、その生き物の領域の中で本当の名前を呼ぶ事は、名前に侵食される可能性もあると教えてくれたの。…………だから、私の教えて貰った名前が先生の本当の名前だったら、…………沢山呼ぶと、お砂糖になってしまうかもしれないと思って……………」
サラは、かなりの勇気を振り絞ってその悩みを告げたのだが、アーサーとダーシャは一瞬ぽかんとした後、二人揃って肩を震わせて笑い出したではないか。
笑い事ではなかったサラはしょんぼりしたが、お腹を押さえて笑いを噛み殺しているダーシャから、名前に響く魔術が少ないので、まず間違いなく本当の名前ではないと教えて貰って漸く安心した。
「わ、笑うなんて酷いわ…………。こっちに来てしまってから、凄く心配だったのに…………!」
「ごめんよ、サラ。あまりにも可愛い悩みだったからつい………。でも、ここは死者の国であって、砂糖の魔物の城や領地ではないから、安心していいよ。………それと、僕は、砂糖の魔物については殆ど知らないけれど、君が呼んでいる名前は彼の真名ではないだろう。………ただ、彼の名前の一部ではあるかもしれないね。その場合、あの魔物はかなり君の事を気に入ってはいるらしい」
「…………そうかしら?勿論、私との契約で私を畑のように育てる事を楽しんではいると思うの。でも、それはあくまでも素材としてのような気がして…………、二人ともどうしたの?」
サラがそう説明していると、なぜかアーサーとダーシャは、暗い顔で何かを囁き合っているではないか。
妙に落ち込んだ様子であることに困惑して、首を傾げたサラに、アーサーは悲しげに呟くのだ。
「…………君が、そんな風に魔物の会話を分析している姿を見ると、何だろう、大切なものを魔物に奪われたような気がして………」
「え、…………」
「僕もだ。可愛かったサラが、あの魔物のせいで熟練の魔術師みたいな考え方をするようになってしまったなんて…………。いや、今もとても可愛いけれど、知らない間に大人になってゆくようで、寂しくなってしまったよ」
「……………二人とも、不思議な事で落ち込んでしまうのね…………」
おかしなところで繊細だった二人の様子にまた首を傾げていると、アーサーがこんなことを教えてくれた。
「それに、君と過ごしている時のジャンも、僕の知っている彼とは雰囲気が違うようだ。何と言えばいいのかな、………僕と共にいた時の彼は、変た……………得体の知れない魔物らしさが全面に出ていたけれど、………君に対しては、本物の教師のようで、………落ち着いた大人の男性みたいに……………不愉快になってきたな…………」
「…………アーサー?」
なぜこの話でアーサーが不愉快になるのか、サラには分からなかった。
そして、聞き間違いでなければ、最初はグラフの事を変態と言おうとしていた気がする。
その事を指摘すると、アーサーはとても儚い目をして、砂糖を食べる時の彼は絶対に見ない方がいいと教えてくれた。
「そんなに、変わっているの?…………私の家で、お気に入りの砂糖菓子を食べていた時は、時々踊っていたりもしたけれど………」
「…………それには気付いていなかった。側に居られなくてごめん。怖かっただろう」
「怖くはなかったけれど、………魔物は変わった生き物なのかなと思ったかしら………」
「い、いや、僕の大事な竜は魔物に転属したけれど、そんなおかしな癖はなかったからね?!」
サラは、魔物は好物を目の前にすると興奮して踊ってしまうのかなと考えていたが、どうやらそれはグラフだけの癖だったようだ。
山猫の時のダーシャもサラの家のおやつでは弾んでいたが、それについては触れずにいておいてあげようと思う。
「…………そう言えば、前に祖父から聞いた事があるよ。高位の人外者は、老獪だけれど、己の心の動きに対して鈍感な事もあるらしい。名前の一部とは言えそれを呼ぶ事を許して、サラにだけ態度が変わるのなら、それはあの魔物自身が気付いていない執着なのかもしれないね。…………サラ、君はあの歌劇場で歌う事で魔物を屈服させようとしているのかい?」
そう尋ねられ、アーサーとダーシャには、歌で魔物を打ち負かそうとしている事をきちんと伝えていなかった事を思い出した。
サラはカップを置いて座り直し、あらためて二人に明日の特赦日の舞台でやろうとしている事を伝える事にする。
サラは、ほこり橋を渡り損ねて家に帰った日に、魔物と交わした約束のその輪郭だけをアーサーとダーシャに伝えた。
この契約が最後に無効にする事が可能だという事は伏せ、全てを話してしまわなかったのは、確かにサラが大人になったからかもしれない。
何となくだが、そこまでを話してしまったら、この二人は何としても早々に試合放棄をさせ、サラを帰らせようとするだろう。
けれどサラは、このチャンスを手放すつもりなどないのだ。
「多分、先生…………グラフも、私にそうさせたいのだと思うの」
てっきり、カトリーナのように最初は反対されるかと思っていたが、ダーシャは考え込む様子を見せた。
「……………魔物はね、生涯にただ一度だけ、自身の歌乞いという恩寵を得るそうだ。元々、音楽の中でも歌声に傾倒しやすい人外者でもあるけれど、一人の魔物に対して、その運命の歌声を持つのはたった一人だけだと言われているよ。だからこそ彼等は、自分にとってのその一人と出会うと、それが運命の歌だと気付くのだと」
それが、カトリーナとアレッシオだったのだろうか。
であれば、戦場で幼い子供を保護した魔物は、そのたった一人の運命の子供をどのような気持ちで育て、そして己の手で殺したのだろう。
その苛烈さはサラには理解出来ないが、手のかからない畑などと言ったグラフの言葉からは、魔物達がそこまでの執着を倦厭していない様子が窺えた。
「……………でも、私がそうだとは、到底思えないわ。だって、レッスンでも沢山歌っているもの…………」
「それならば、君の歌声は、限りなく彼の運命の歌声に近いのかもしれない。そう考えると、…………それこそが勝機なのかもしれないね……………」
アーサーはまだ何も言わなかったが、ダーシャは心配で堪らずじっと見つめたサラに、微笑んでくれた。
「僕が反対すると思ったのかい?」
「………ええ。カトリーナさんには、最初は反対されてしまったから」
「僕が反対しないのは、魔物が自分の歌乞いというものにどれだけ甘いのかを知っているからかな。………前に、僕の足が兄上より短いと言った友達がいたと話しただろう?」
「ええ。騎士さんと結婚した方よね?」
「うん。その彼女は歌乞いだった。彼女の魔物はね、彼女が自分ではない別の相手と恋に落ちた時、倒れて寝込んでしまったんだ。…………でもね、彼女は自分の魔物のこともとても大切にしていたから、彼は結局、自分の唯一の恩寵が他の男に嫁ぐ事を許してくれた。…………契約の魔物は狭量だと言われているけれど、きちんと向き合えば彼等はとても慈悲深くもなる。………ただしそれは、気に入った相手にのみだ」
「……………ええ」
「けれど、その契約の魔物も、気に入って手入れをしていた芍薬の茎を手折った他の騎士を、許さずに殺してしまった事がある。彼等は、本来はそうして考える生き物だからね…………」
そんな話を聞けば、背筋がしゃんとした。
サラが気持ちを引き締め直して頷いたところで、隣に座ってひどく重たい溜め息を吐いたアーサーがいた。
「…………僕は、ダーシャと一緒に、君の歌声を聴いた事がある」
「ええ。お庭で歌っていて、アーサーは森にいたのよね………」
「…………素晴らしかったよ。…………だからきっと、君が歌えば、あの魔物のことだって満足させられるかもしれない」
「アーサー…………!」
サラは、アーサーがそう言ってくれた事が嬉しくて笑顔になったが、アーサーの表情は決して明るくはなかった。
「……………けれどもそれは、君が無事に帰れるという保障にはならない。どうして、君がそんな危険に晒されなければならなかったんだろう。…………彼は、僕にも仮面を渡した。…………であれば、僕にも何らかの役割があるんじゃないのか…………」
低く呻くようにそう自問したアーサーに、サラは心の内側が小さく震えた。
なぜ、アーサーはアーサーでなければならなかったのか。
(それはきっと、……………)
「それはきっと、サラが君の為に歌うからだろう」
きっぱりとそう告げたのは、サラ自身ではなくダーシャであった。
目を瞠って顔を上げたアーサーに、ダーシャは困ったような優しい微笑みを浮かべる。
「だから君は、まだ君のままでそこに踏み止まってくれ。でもそれは、サラが歌い終える迄だ。サラが歌い終えて、それでもあの魔物が納得しなかったら、僕達はその時の為の事も考えておかなければならない」
「…………ダーシャ」
「…………僕は明日、君達よりも先に特赦日の舞台に上がる事になる。そこで僕が願うのは、まだ死者の日ではないその日に、僕の竜に会わせて欲しいという願いだ」
「……………君の、竜にかい?」
ダーシャは、一口カップから紅茶を飲み、味がしっかりある紅茶は素晴らしいよねと幸せそうに呟く。
ここでは紅茶にもさしたる味がなく、死者たちはそれを好むのだとか。
「でも僕は、使い魔の山猫にされてしまっているから、ここでの食事は苦行なんだ」
「…………それを知っていたら、我が家でももっと美味しいものを用意したのにな」
「はは、でもあのパイは、君達もみんな食べていたじゃないか。森にピクニックに行った日のチキンは美味しかったなぁ………」
夢見るようにそう言ったダーシャの為に、サラは斜めがけの鞄から、さっとレーズンのクッキーを取り出した。
「……………どうしよう。僕は奇跡に出会ったのかな」
「僕達と船旅をした時にも、散々好きな物を食べていただろう」
「いや、死者の国で美味しいものが食べられるというのが奇跡なんだよ」
「…………それで、君の竜を呼び寄せてどうするんだい?」
「簡単な話さ。僕の仮面を彼にかければ、今は船火の魔物になってしまったバンルは、元の夏闇の竜の姿に戻れるって訳だ」
「…………私、まだ竜を見た事がないの」
「それなら、バンルは凄いよ。何しろ、元々は災厄としても恐れられた程の竜で、その結果壺に封印されて僕の国にやって来たくらいだからね」
「…………竜は、壺に封印出来るのね…………」
「………あ、彼に壺って言葉は禁句だから、それだけは注意しておくようにね」
ダーシャの作戦はこうだった。
舞台での承認が上手くいけば、ダーシャはこの上ない強力な味方を得る。
勿論、サラはグラフとの契約を交わしてしまっているので、それを阻害して取り交わした魔術を損なう事は最初からはしないが、もしもの時は、そのバンルという名前のダーシャの竜に頼んで、サラ達をあの橋まで連れて行ってくれると言うのだ。
「サラとあの魔物との契約自体をなかった事には出来ないのは、ジョーンズワースの魔術師として五年の間過ごした僕ももう理解しているつもりだ………」
「ジョーンズワースの魔術師?」
思わずアーサーの言葉を遮ってしまったサラに、こちらを見たアーサーがふわりと微笑んで教えてくれる。
「名前を取られるのは厄介だとされるけれど、僕の場合はあの呪いを盾代わりにしていたから、あえてジョーンズワースの名前を表に出していたんだ。そうする事で、良くないものが僕を狙えば、馬車の呪いが動くからね」
「………………アーサーは、その宝石の町では本当の魔術師だったのね」
語られるのは、本物の魔術師として過ごしたアーサーの日々だ。
だからこそ、サラはそう呟いてしまったのだが、それを聞いたアーサーはなぜか、どきりとするような無防備な目をして言葉を失ってしまう。
「…………アーサー?」
「……………そうか、僕は魔術師になったんだね」
ほろりとこぼれた微笑みには、泣き出しそうな喜びの煌めきがきらきらと光るよう。
それは、ジョーンズワースの呪いがなければ生きていなかったかもしれないと話したアーサーにとって、叶えていた夢を拾い上げるような言葉だったのかもしれない。
「生まれてすぐに守護の竜を得た僕だって、魔術師としてあわいで暮らした事なんてなかったよ。僕の遠い家族は、いつの間にかそんな事をしているんだからなぁ…………。おまけにその指の爪は、妖精の呪いで宝石化している。どんな魔術洗浄で呪いを剥がしたんだい?」
「ああ、これは、六枚羽の妖精に求婚されたのだけれど、断ったら血をかけられて呪われてしまったんだ。彼女の兄である妖精と交渉をして、この世にはない筈の国の歴史を本一冊分書く事で許して貰えたよ。…………あの時ほど、学校で勉強を怠らずにいた事に感謝した事はなかったかな…………」
アーサーは、自国の歴史を本一冊分書き起こし、特に大陸航路の発見などについて力を入れて執筆したらしい。
海のないその町の妖精達には、海の記述がとても受けたからなのだとか。
「でも、僕もまだ、竜は見ていないんだ。宝石の町の近くの森には竜と呼ばれるものもいたけれど、竜と言うよりは毛皮のある蛇だったかな………」
「それなら、バンルは君の期待に応えられると思うよ。漆黒の大きな体と鱗に、鬣と瞳は黒に近い艶やかな赤色なんだ。角は白みがかった灰色に、少しだけ水色のまだらがある。とびきり美しくて威厳のある竜だよ」
その説明を聞き、サラはアーサーと顔を見合わせた。
わくわくしてしまい唇の端を持ち上げたサラに、アーサーも無防備な憧れに瞳を輝かせている。
「……………そうか。そんな素晴らしい竜に会えるのなら、僕は自分で思っていた以上に、幸せ者なのかもしれないな…………」
「それならば、明日は無茶な事はしないようにして、僕の竜を頼ってくれるかい?……それと、さっき君が言いかけたのは、バンルに、契約の前にサラを助けられないかどうかだろう?」
「ああ。…………それも難しいのかい?」
「一度結ばれた契約は、それ自体が正しい法則として魔術が敷かれるんだ。今回、サラが契約を交わしたのは、僕達の側では伯爵位以上にあたる白に準じる色を持つ魔物だ。加えて、サラ自身も白持ちとして認識されてしまう。バンルは竜としてはかなりの階位だったと聞いているけれど、二つの白で結ばれた約定を歪められる程の力はないだろう」
「……………そうか。やはりジャンは、かなり階位の高い魔物なんだね…………」
どうやらアーサーは、グラフが療養中である事を計算に入れ、力技でどうにかならないかと考えていたようだが、魔術上の両者合意の誓約はそのようなものでは損なえないと説明され、落胆していたようだ。
「もしかして、いざとなれば自分が彼を抑えている間に、何とかしてサラを逃がそうとしていたのかい?」
「ダーシャ、それをサラの前で言うのはやめて欲しかったな。………っ、………ごめん、危ないことはしないから、…………サラ」
じわっと涙目になったサラに慌ててしまい、アーサーはおろおろしながら慰めてくれる。
ダーシャは、だからわざと言ったんだよと微笑み、服の内側のポケットから取り出したルビーから彫り出したような美しい仮面を指先で撫でた。
それがダーシャの仮面で、ダーシャはこれは僕の竜の瞳の色だよと微笑む。
「…………ただ、あまりお勧めは出来ないけれど、…………もし、どの方法でもあの魔物を出し抜けなさそうであれば、最後の手段がなくもないかもしれない」
夜が深まった頃、ダーシャがそんな事を言った。
ゆっくりと振り返ったアーサーが、瞳を細め唇を引き結ぶ。
「……………それは?」
「特赦日は、人間贔屓の死者の王が作ったものだと言われている。実際に、特赦日には必ず死者の王自身か、その系譜の部下の誰かが参加しているらしいと聞いたよ」
「…………この土地の管理者に、直訴するという事かい?」
「死者の王や系譜の者達が舞台を観に来るのは、鑑賞そのものが目的ではなくて、この死者の土地を損なうような願い事が採決されないように見張る為だと言われている。…………君達は、こちら側に迷い込んだ、本来は存在しない筈の橋の向こうの人間だ。舞台の上で敢えてそれを主張し、管理者たる死者の王に、異物としてここから出して貰う事が出来るかもしれない…………」
「その死者の王は、あの魔物より力があるのかい?」
「それは間違いない」
「…………ダーシャ、可能ならそれ以上にいい案はないよね。けれど、君は最後に付け加えるように教えてくれた。この提案を躊躇った理由があるのかな?」
サラは、こちらの訴えに耳を貸してくれるような偉い人がいるならと喜びかけてしまったが、アーサーは流石に冷静だった。
その部分を指摘されたダーシャも、そこなんだよねと溜め息を吐いている。
「死者の王と呼ばれる魔物は、魔物の中でも王に次ぐ階位だと言い伝えられている。であれば、確実に砂糖の魔物よりは階位が上の筈なんだ。それに、人間贔屓だという噂は何度か祖父や父から聞いた事がある。…………けれど、実際に生きた人間が死者の王に対面して、無事でいられるかどうかは分からない。視線を向けられたり、触れられただけで死んでしまうとも言われている、恐ろしい人外者でもあるんだよ………」
死を齎し司るものは、どんな姿をしているのだろう。
悍ましく恐ろしいのか、それとも優しく美しいものなのか。
サラは見たことのないその魔物について考えてみたが、どうしても骸骨姿の死神のような生き物が思い浮かんでしまったのでぶんぶんと首を振った。
隣で繰り広げられるアーサーとダーシャの熱を帯びた議論を聞きながら、サラは、ひっそりと決意していた。
(私は、アーサーを助ける為に砂糖の魔物と賭けをした…………)
それは魔術誓約として結ばれ、グラフは魔物らしい誠実さで今日までサラを指導してきてくれた。
だから、それ以上は望むまいと思ったのだ。
望み過ぎて沢山の魔法に手を出してしまえば、きっと優しくない魔法が色を濁らせる。
あの魔物はきっと濁らない色を好み、それはもう無垢なくらいに、剥き出しの歌声だけを拾い上げて、その可否を下すだろう。
だからサラは、これ以上は何も足さないのだと心に決めた。
歌って、歌って、ただその一本の剣で、愛するものを取り戻してみせると誓えば、瞼の裏にまた、あの花びらの降る美しい歌劇場の光景が見えたような気がした。




